短篇集R:八尺さんの見上げた少女

目次

1:中途半端
2:一期一会
3:お嬢様
4:好意のチカラ
5:見上げる先に
6:とある兄妹の日常
1:中途半端
 目の前に準備された身長計と体重計を見て、私は憂鬱な気分で自分の番が来るのを待っていた。
「――――さん」
「はい!」
 隣に座っていた女の子は、名前を呼ばれると同時に元気よく返事をし、支柱に背中をくっつける。そして1ミリでも背を高く見せようと、息を大きく吸って背筋をピンと伸ばした。・・・・・・大きくなってもいいことないのにと、私は心のなかで呟きながら、身長の測定を終えて体重計に乗り、液晶に移る数字を凝視する彼女をぼんやりと見ていた。ああ、やだなあ、身体測定。私はハァと、小さくため息をついた。
「次、村田綾子さん、どうぞ」
 重い腰を持ち上げ、無駄にデカイ上履きを脱いでから身長計の上に乗り、私は静かに目を閉じる。身長を知った時の皆の表情を見たくなかった。入学直後からありとあらゆる人から受けた質問を、私は今まで適当にスルーしてきたけれど、そのしわ寄せがこんなところで出てくるなんて。今の身長を知らないのは本当だけど、適当に165cmとか言っておけば良かったなと、今になって後悔している。そんなことをしているから、さっきからクラス中の皆が皆、私の方をじーっと見てくるのだろう。中には何センチだろうと予想を立てるクラスメートもいた。クラスの純粋な好奇心が、私の胸を締め付けていくのを感じた。
「170.3センチ」
 担当の先生が数字を言うと同時に、私の顔が熱くなった。まさかとは思っていたけれど、170cmを超えてしまっていたなんて・・・・・・。クラスの皆もなんかざわついているし、目をつむっているからわからないけれど、なんだか妙に熱い視線を向けられている気がして、私の顔が更に熱くなっていくのを感じた――――

 ただ身長が高いだけなのに・・・・・・。スポーツが得意なわけでも、頭が良いわけでも、家がお金持ちなわけでも、特別大人びているわけでも・・・・・・まあ、電車に乗るときに、小学生と信じてもらえないことはよくあったけれど。とにかく、私はただ、身長が高いだけなのに。ただそれだけなのに、なぜかスゴイ人のように見られてしまう。実力以上に人から評価されてしまう。そんな自分の身長が、私は嫌いだ。おまけに、周りにそういう風に見られてしまうから、中には私に嫉妬してくる人もいて、あらゆるところで悪口を言われて、面倒くさい。本当に面倒くさい。男子にはからかわれるし、先輩には目をつけられるし、女子にはデカすぎるとモテないとか勝手な心配されるし・・・・・・もう、イヤ。別に好きでデカくなったわけじゃないのに・・・・・・。
 背が高いってだけで、こんなにたくさんの不自由を抱える羽目になる。正直、小学4年生くらいまでは、自分の長身に誇りを持っていた。平均身長が133cmなのに対して、当時の私はすでに153cm。2番目に背の高い子でも140cmくらいで、文字通り、飛び抜けて大きかった。運動会ではどこにいても見つけられると、お母さんが言っていた。一番後ろでも、何の問題もなく前の方が見えた。後ろの小さい上級生から、前が見えないと言われることもあった。そんな時でも私は、上級生よりもずっと大きい自分を誇りに思っていた。もしかしたら、そんな性悪だからバチが当たったのかもしれない。私の成長はその後も止まることなく、中学1年生にして170cmを突破してしまったのだから――――

 伸びてしまったものは仕方がない。縮みたいと願ったところで、実際に縮むわけはない。縮む方法があったら、こんなことで悩んでいない。だから私は、これ以上成長しないよう努力することに決めた。運動部の誘いを全力で拒否してホームメイド部に入った。睡眠時間を削り、食べる量を減らそうと努力した。しかしそれでも、眠いものは眠いし、お腹は空く。そんな時は自分に甘えて、たくさん眠り、たくさん食べた・・・・・・
 中途半端な努力を続けて3ヶ月、夏休みまでもう少しという時期に、私は友達から恐ろしい告白を受けることになる。
「――ねえ、アヤちゃん身長伸びたよね?」
 私は背筋が凍りつくのを感じた。友達もその空気を感じたようで、その後すぐに、小さな声で謝ってくれた。正直、自分でも分かっていた。日に日に小さくなっていく制服、近づいていく身長175cmの兄の背丈、小さくなっていくクラスメートや先輩の背中。気が付いてはいたけれど、感情がそれを認めなかった。でも友達に指摘されて、そんなヒビだらけの守りの石垣はガラガラと音を立てて崩壊してしまった――
 その後は重くなった空気を払うべく友達と一緒に校内をぶらつき、気がつけば保健室の前まで来ていて、その場のノリで、保健室で身長を測った。175.4cm、数字を聞いた瞬間、私は目眩がした。3ヶ月で5cmも伸びてしまった。小学生時代に1年かけて伸びていた5cmという長さを、私はたったの3ヶ月で伸ばしてしまった――――

 伸びてしまったものは仕方がない。これ以上伸びないよう努めるしかない。自分にそう言い聞かせ、クラスメートから言われる励まし賞賛という名の罵詈雑言をオトナとして受け流しながら、夏休みまでの時間を過ごした。今年の夏休みは、お父さんの実家で過ごす予定になっている。3才年下の、小4の従姉妹と初めて会うというので、どんな子なのか今から楽しみだ。噂では、すごく背の高い女の子だと聞いている。どれくらいなのだろう、私と同じくらいだったりするのだろうか。今から気になって仕方がない。
 夏休み前最後の登校日。終業式に背の順で並び、列から飛び抜ける私をニヤニヤしながら見てくる上級生、他のクラスの生徒を私は全力で無視する。なんとなく皆がこの数週間でさらに小さくなった気がするけれど、気にし過ぎだと自分に無理やり言い聞かせて、辛い終業式を耐えぬいた。

***

 喉元すぎれば暑さを忘れるーーーーそんなコトワザを聞いたことがある。どんなに辛いことでも、乗り越えてしまえば忘れてしまうという意味だった気がする。
 人生っていうものはそういうものなのかもしれないと私は思う。悩みというものは未熟だから抱くものであって、一度乗り越えてオトナになってしまえば、もう抱かなくなるのではと、私は思う。
 私は夏休みを通して、『成長』することができた。夏休み前は、こんな日が来るなんて夢にも思っていなかった。今から思えば、随分と『ちっぽけ』な悩み事に翻弄されていたのだ。1ヶ月前の自分が妙に『可愛らしく』思えてくる。ああ、オコチャマだったなあ、って――――
 新品の制服に身を包み、玄関のドアをくぐってから、私は空に向かって背伸びをする。ああ、こんなことが自分の部屋でできた1ヶ月前が懐かしい。あーだこーだ悩んでいたものの、ただ被害妄想だけで語っていたあの頃が――
 道を歩けば誰もが私を見て、ぎょっとする。少し傷つくけれど、仕方のないことだと思う。1ヶ月前の私が今の私を見たら、きっと同じ反応をすることだろう。そう思うと、失敬にも舐めるようにレディの体を見てくる人に対して、優しくなることができた。
 学校に向かう途中、クラスの友達を見かけた。人目を避けようと、朝早い、しかし運動部の人よりは遅いくらいの時間に家を出たのだけれど、この子はいつもこんな時間に登校しているんだろうか。150cmくらいの平均的な身長の女の子。私の前では、胸くらいの位置に頭のてっぺんがくるくらいの、小さな女の子。そんな彼女の肩を、私は優しくトントンと叩いた。手首くらいの高さに肩があって、叩きやすかった。
 彼女はそのまま後ろを振り返り、私のお腹を見ると恐る恐る、目をまん丸に見開きながらゆっくりを首を持ち上げて、私の顔を見る。そして左手を口元に添え、丸くなった目をさらに見開きながら、口を開いた。
「え・・・・・・アヤちゃん・・・・・・え?」
 私達はしばらく、その場でお互いの顔を見つめ合っていた――
 
 興奮した友達と一緒に保健室に向かい、上限210cmの身長計よりもさらに2cmほど大きいという事実が発覚し、さらに興奮した彼女はどこかから巻き尺を持ってきて、教室の壁で私の身長を正確に測定しはじめた。教室のドアは190cmらしく、家のものよりもさらにひとまわり小さい。ドア枠は私のアゴくらいの高さにあって、教室の中を覗くには中腰になるか、背伸びして上の窓から覗くかする必要があった。
「すごーい! 世界一じゃない?」
「うーん、そうかも」
「だよねー。あー、そう言えば従姉妹が身長高いって言ってたけど、どれくらいだったの?」
「あー。小4で170cmだって。すごい大きいと思うけど、夏休みの間は、どんどん小さくなるなって、思ってた」
「でしょー! だって1日に1センチくらい伸びてたんでしょ」
「うん、そうだと思う。自分でもびっくり、成長痛はあったけどそこまで酷くなくて、ぐんぐん伸びてったもん」
「すごいねー。最初見た時、もうなんかよく分からなかったもん!」

 他の生徒も登校し、教室で私が視界に入ると1人の例外もなく、私のことを凝視する。そして、身長について尋ねてくるか、あまり話さない子だと、私のことを怪訝な表情で見ながら席につくかだった。
 始業式では、周りの皆よりも頭1つ以上飛び出ていた。次に背の高い男子の先輩でも、肩くらいの背丈だった。校長先生が話している間も私は皆の注目の的で、余所見する生徒を先生たちはそんな生徒を注意するけれど、その先生たちも、私が気になって仕方がないようだった。
 1ヶ月前の私だったら、こんな飛び抜けた長身が嫌で仕方がなくって、学校に来られなかったかも知れない。でも、今は違う。舐めるようにじろじろと見られても、私は背筋をすっと伸ばして前を見つめる。長身はコンプレックスじゃない、かけがえのない、私の個性。これがなかったら私じゃない。今、私は心の底からそう思うことができる。
「プッ、でっけー」
「おいやめろよ、かわいそうだろ!」
 馬鹿な男子の先輩が私を指さしてそう言った。私は彼らを静かに見つめ、優しく微笑みかけた。2人は小さく会釈をしてから、私をからかうのをやめて、前を向いた。そんな2人の背中に、私はもう一度、優しく微笑みかけた。
-FIN
2:一期一会
 電車が到着した。いつもの通り人は少ないが、電車の中に足を踏み入れようとする僕を拒む空気がそこにはあった。異様な風貌の人がそこにいた。直立して、首をやや曲げてうつむきがちになり、手元の本に顔を近づけて読んでいた。
「プルルルルルル――」
 発射のベルが鳴り、僕は急いで電車に飛び乗る。目の前に、先の異様な人が立っていた。うつむきがちに本を読みながら、彼の頭は天井に接触していた。その長身もさることながら、マスクで顔の半分を隠し、厳ついヘッドホンで耳を覆い、髪は肩よりも長く、大きな手で文庫本を持って顔をこれでもかと近づけて読んでいた。
 車内に人はほとんどいない。音も、電車が線路の隙間を通過する時に発する音くらいしか、聞こえない。静かな社内には僕とその人しかいなかった。僕は座席に座り、彼と同じように本を読み始めたが、彼のことが気になって仕方がなかった。本を読みながらも彼の方をチラチラと見てしまった。・・・・・・何か、妙だと感じた。背は高いが、線が異様に細い。それが、その人の異様さに磨きをかけていた。まるで子供をそのまま引き伸ばしたかのように細やかなのだ。
 ・・・・・・女の子なのではないか、僕の脳裏にふとそんな疑問が浮かんできた。一度そう思ってしまうと、その人の仕草すべてが僕の仮説を物語っているように思えた。髪の長さ、線の細さ、指の細さ、顔の小ささ、などなど。
 チラ、と僕に目線が注がれた。僕は反射的に目をそらしたが、僕の網膜が一瞬捉えた彼女の大きな澄んだ目は僕の心を掴んだ。それ以降気まずくなって彼女を見ることはやめたものの、僕は読書に全く集中することができなかった。常に彼女のことばかりを考えていた。

 職場の最寄り駅に到着し、僕はさっと席を立って電車の外に出た。最後に一瞬だけでも彼女の姿を見ようと振り返ったが、目線をそちらに向けた時にはすでに彼女は僕のところからは見えなくなっていた。僕が振り返るのが遅すぎたのだ、それくらい、僕は足早になっていた。
 人生一期一会とは言うけれど、次の機会を心の底から求めている自分がそこにいた。彼女にもう一度会いたいと思った。
 うつむきながら暗い夜道を早歩きで職場に向かう。これから仕事だ、煩悩を払わなくてはと目の前で手のひらを二三度揺らしてみたが、全く効果はない。彼女に会いたい、もう一度会えたら、その時は恥も外聞も捨てて彼女にメールアドレスを渡そうと思う。
 いつもより10分ほど早く職場についた。普段からシフトの10分前には到着することを心がけているので、仕事まであと20分はある。僕は建物に足を踏み入れた。所長がそこに立っていた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
 所長はいつものごとく、丁寧語で返事をする。自分よりも5歳年上の大卒の新人、僕は今年で2年目。こんなことはよくあることだし、僕も気にしていない。しかし所長は、腰を低くして、低い背をさらに低くして僕ら部下に接してくる。僕も165cmと低いほうだが、所長はもっと低い。僕はそんな所長が少し苦手だ。
「・・・・・・今は、何をされているんですか?」
 落ち着きなく玄関付近でうろうろする所長に、僕は声をかける。所長はビクリとしてから返事をする。
「あ、えーと・・・・・・今日は、新人さんが来る日だから。あれ、早川くんに言ってなかったっけ?」
「あ、思い出しました。すこし特殊な新人と」
「そうそう。高校行ったのに人間関係で中退しちゃって、ひきこもりになっちゃって。で、職を求めてうちに」
「はあ、続くんですか、そんな人?」
 僕はむっとしながら答えた。2年前の出来事が瞬時に思い出されてきて、黒い感情が僕の脳を侵食する。恵まれた環境にありながら、それを当たり前と思う、そんな奴がどうしても嫌いだ。巷に溢れていることはわかっているが、嫌いだ。
 ――キー・・・・・・
 ドアがゆっくりと開く、目を泳がせていた所長ははっと振り返り、『その人』を確認して声を張り上げた。
「あー、田中育美さん! お久しぶりです、遠いところをわざわざ」
 その育美という人を見た時、さっきまでの黒ずんだ頭が白い霜を帯びながら凍結していった。長い髪、マスク、ヘッドホンはつけていないが、最大の特徴であったその長身が、彼女その人であることを証明した。
「あ、早川くん。こちらが今言った新人の、田中育美さんです。今日からアルバイトで夜勤に入ってもらいます。田中さん、私も指導しますが、先輩の早川くんが主に面倒を見てくれると思います」
 彼女は僕を見下ろしながら小さく会釈する。
「・・・・・・よろしくおねがいします」
 とても小さな声だった、しかし僕の耳にはきちんと彼女の声が聞こえた。車内での一瞥と同様に、田中さんは大きな目で僕のことをじっと見てきた。
「シフトは10時半からなので、それまでは控え室でゆっくりしていてください。早川くん、案内してもらえる?」
「は、はい。もちろん・・・・・・」
 僕はドアを全開にして育美さんを誘導する。背伸びすれば天井に付きそうなほどの長身を大きく曲げて、トンネルでもくぐるようにして、彼女は小さなドアを通過した。
 人生一期一会。そんな熟語が僕の脳裏に浮かんでくる。つい数分前まで僕の頭を占領していたものだ。僕はとっさにポケットからペンとメモ帳を取り出し、震える手でメールアドレスを書きはじめた。
-FIN
3:お嬢様
 優雅な立ち振る舞い、上品な微笑み、落ち着いた物腰――――。平凡な公立中学校に通う思春期真っ盛りの少女宮本春香は、そんな『お嬢様』に憧れている。箸が転がる度に自分も笑い転げ、好きな人を見つける度に犬のように駆け寄っては顔色を伺う。そんなはしたない自分を変えたいと春香は思った。それは、そんな自分のはしたなさのせいで、好きな人に嫌われかねない大きなミスをし、春香は今でもそれを後悔しているからであった。
 目覚まし時計のベルが鳴り、春香はそれを優しく止める。そして布団から立ち上がり、中腰になった状態でパジャマから中学校の制服に着替える。そして中腰のまま家の中を歩き、しゃがんでドアをくぐり、正座した状態で洗顔をし、リビングに入ってはにこやかに微笑んで家族に「御機嫌よう、皆様」と挨拶する。家族はそんな春香に対して優しく微笑んだ。家の中ですっと背筋をキレイに伸ばせないのが最近の春香の悩みの種であるが、それに関しては仕方がないと、春香は割り切っていた。
 いくら春香であっても、椅子に座った状態では背筋を伸ばせる。椅子が低いために脚が窮屈となるが、春香は上手く脚を斜めにして、背筋をすっと伸ばす。机が低くなるが他に比べれば些細な問題である。春香は落ち着いた様子で朝食を食べ終え、ティッシュペーパーで口元を上品に拭い、胸の前で手を合わせて「ごちそうさま」と言った。
 それから春香は椅子から立ち上がり、カバンを手にして玄関へと向かう。階段上部にある障害物を避け、狭い玄関で器用に、そして優雅に靴を履き、ドアを開けて外に出る。煩わしい障害物がなくなり、春香は背筋をすっと伸ばして道を歩き始める。しかし春香の場合、常に前を見て姿勢を良くしているわけにはいかない。小学1、2年生くらいの背丈は春香の股よりも小さいくらいであり、前を見ていれば視界から外れ、不本意ながら彼らを蹴り飛ばしてしまう。そのため、姿勢が崩れることを惜しく思いながらも、春香は常時足元を気にして、軽い猫背とならざるを得ないのである。
「あー、巨人のおねえちゃんだー!」
「でっかいおねえちゃんおはよー!」
 登校途中の小学生の集団に出会い、無邪気で悪意のない侮辱を受けた春香は顔をしかめそうになったが、『お嬢様』としてそれをぐっとこらえてにこやかに笑い、手を振った。小学生たちは男女を問わず春香の柔らかい笑顔に胸をときめかせた。一方で中高生以上の人々は、あまりに規格外な春香を見ては毎朝怪訝な表情を浮かべるのであった。
 特別にロッカーの上に置かれた特注の上履きを手に取り、代わりに外履きを置く。300cmある校内は自宅に比べたら伸び伸びできる造りにはなっているが、平均身長に合わせて作られた施設であることに変わりはなく、春香は体を縮めながら校内を歩いた。
 250cm、その人間離れした巨体を周囲の生徒は、同期も先輩も後輩も、春香の巨体に畏怖し、嘲笑した。陰口を言う者は数知れず、罵倒する者も珍しくなかった。しかし春香は一度たりともそんな負の感情に腹を立てたことはない。どんなものに対しても、春香は『お嬢様』として接した。それが相手の感情を逆撫でするものであっても、春香は気にしなかった。過去の前科を忘れた日はなかった。『お嬢様』になった目的を忘れたことはなかった。



 ルーティンワークを済ませて帰路につく。春香は小さくため息をついた。愛するものを失い、友人もいない。可愛い後輩はいるが、部活動で忙しい。進路の問題もある。就職すべきなのか、進学すべきなのか。勉強が嫌いなのでもなく、働きたくないわけではない。春香の場合にはもっと切実な、働けるか、施設を使えるかという問題があった。春香は苦悩していた。これからどうやって生きていこう。恋人の家内となることを夢にしていた彼女であったが、その気持ちだけで生きていけるわけではない。友一郎の今後が不定である以上、春香は学ぶか働くかを選択しなくてはならなかった。しかしそのためには先のような根源的な問題が生じるのだ。
 ドアをくぐって家に入り、中腰で移動する。リビングで電話が鳴った。冷静に、慎重に、慌てて巨体で物を壊すことのないように家の中を移動し、春香は受話器を手にする。
「もしもし、宮本です」
「もしもし、鶴田ですけど、もしかしてハルちゃん?」
 春香は小さく驚いた、一瞬頭が恋情に侵食されたが、すぐに『お嬢様』に戻った。数カ月前まで共に過ごしていた愛する人からの電話に、春香は胸を踊らせながらも冷静に対応することを心がけた。
「はい、春香です。友一郎さん、ご無沙汰しております」
「え? あ、う、うん。久しぶり」
 お転婆娘だった頃の春香しか知らない友一郎は、春香の言動に戸惑いを隠せない様子だった。しかしすぐに目的を思い出して、春香に問いかける。
「ハルちゃん、すごく急なことだと思うんだけど・・・・・・うちに、来ないかな?」
「はい?」
 春香は集中して、一語一句聞き逃すまいと、友一郎の話す事情を真剣に聞いていた。春香にとって、夢にも思っていなかった選択肢だった。春香は即断した。自分一人で決定できることでないが、即断した。
「行きたいです。ママ、あ、お母様に許可を得なければなりませんが、行きたいです」
 友一郎は、春香が何かに感化されているだけだと思い、昔の春香らしさを思い出して受話機の奥で小さく笑った。
 通話を終えて、春香は幸せに浸っていた。恋人の声を聞けたこと、悩みがいくつか解消したこと。春香は踊る胸を手で押さえながら、落ちつきはらって自室へと戻った。
-FIN
4:好意のチカラ
 やっと帰ってきた、1年ぶりの我が家、僕の実家。妹のサヤを残して去年の4月に旅立ち、1年が過ぎた。サヤはどうなったのか、どうしているのか、それだけが僕の脳内を占領していた。見慣れた街並みを見ながら早歩きで実家を目指す。消えた建物、新しい建物が数個あることに気がつく。1年でこれだけ変わったのかと感傷にひたるのもつかの間、実家を目にした途端にそれまでの感動は吹き飛び、そこに足を踏み入れることを想像しては体を熱くさせた。
 ・・・・・・ついに、帰ってきたのだ。この時を何度夢見たことか。僕は震える足を動かして前進し、『宮本』と書かれた表札を確認してインターホンを鳴らした。数秒後、ドタドタという足音がして僕は鼓動を速めた。
「お兄ちゃん?」
 サヤの声が聞こえた。ドアの上部、ドア枠の下、地面から190cmくらいの位置から音を発しているようだった。205cmくらいかと、僕は思った。・・・・・・非常に自然なことであることはわかっているが、普通以上を求める自分がいた。
「ただいま、帰ってきたよ」
「久しぶり―! お部屋で待ってるから、絶対来てね!」
 そう言ってサヤは再び階段を上がっていった。不思議なことをするなと思った。僕はドアを開けて、ゆっくりと階段を上る。1年ぶりの我が家、懐かしさは感じるが、街並みに感じた以上のものは案外感じないものらしい。サヤの家に行く前に自分の部屋に寄った。置いていったことを惜しんでいた本を何冊かカバンにいれ、しばらく呆然として部屋を見渡した。
 ・・・・・・我慢できない、僕はそう思うと同時に立ち上がった。去年と同じサヤが向こうにいると思うと、居ても立ってもいられなくなった。200cm超の美少女、世界広しといってもこれほどまでに魅力的な長身女性はサヤを除いて他にいないと思う。僕はサヤの部屋のドアをノックした。
「入っていいよ!」
 僕はゆっくりとドアを開けた。サヤは床で正座して、ニコニコとこちらを見上げていた。肩よりも低い位置にサヤの頭があった。僕は下半身を熱くした、普通じゃない状況であった。パジャマは小さく、袖が短くなっていた。それが去年のパジャマであることに気が付き、僕は汗が吹き出てくるのを感じた。
 サヤはニコニコしながら立ち上がる、ぐぐぐぐっと、頭が上昇していく・・・・・・大きかった、天井にぶつかる前に上昇は終わったものの、去年よりは明らかに大きくなっていた。股間が圧迫されるのを感じた。さっきまで、そんなに成長していないだろうと高をくくっていたからこその衝撃だった。
「サヤ・・・・・・身長、伸びたのか?」
「うん、何センチだと思う?」
「・・・・・・わからない。去年よりは、高い」
 サヤはふふっと笑いながら、ドアの前に立った。顎の位置にドアの枠がきていた。つまり去年の身長は、今のサヤの顎ということになる。推定、20cm。
「220cm?」
「うん、近い! 昨日メジャーで家で測ったら、221.3cmだったの。去年は202.6cmだったから、19.7cm伸びたの! もう少しで20cmだった!」
 僕はめまいがしそうになった。一昨年は186.3cmであったから、16.3cm伸ばしていたらしい。高校生に入ってからさらに伸ばすことになるとは、誰が予想し得ようか。
「お兄ちゃん、玄関で私の声聞いた時、ちょっとがっかりしたでしょ。去年から成長してないなって」
「あー・・・・・・」
 ふいに図星を突かれて、僕は何も言えずにただコクリと頷いた。
「あれね、ちょっとしゃがんで返事してみたんだよ。あと、私がお兄ちゃんのメールに内緒って返事して、辛かったでしょ」
 僕はまた、コクリと頷いた。それしかできなかった、兄としてのプライドとかはとっくに捨てていた。僕は半分、夢の世界に旅立っていた。
「全部、今日のための準備だったの!」
 そう言うとサヤは僕を持ち上げたまま、布団の上に寝転んだ。2つの布団を縫い合わせて作ったかのような、そんな特大サイズの敷き布団の上に、僕らは一緒に寝転んだ。さっき、サヤが正座していた時には、直立していた時には感じなかった巨大さをいま僕は全身で感じている。
「ねえお兄ちゃん、知ってる?」
「ん?」
「・・・・・・お兄ちゃんと私、血がつながってないんだって」
「・・・・・・そう」
 曖昧になった脳で僕はサヤの衝撃的な発言を聞いた。それが衝撃的であることは理解できたが、今はそれ以上は何も感じなかった。唯一、僕は心の奥底で密かな開放感だけを感じた。なんとなく、前々から気がついていたことだった。
 サヤはどこから取り出したのか、半透明のゴム袋を手にしている。ああ、こんなことも知るようになったのか、とても自然なことだ。僕はサヤに言われる前にベルトに手をかけ、着々と準備を進めるのだった――

 腹違いか種違いか、全くの赤の他人なのかは知らないが、幼少の頃から一緒に過ごしてきた妹とこんなことをする日が来るなんて思いもしなかった。サヤ、紗也、口にするたびに甘美で不吉な響きを覚えていた彼女の名前も、今では何の抵抗もなく発することができる。
「・・・・・・紗也」
「うん?」
「さっき言っていたことは、本当?」
「うん! 受験の時にお母さんと色々話してたら、なんか聞いちゃった」
 紗也はなんとも思っていないようだった。僕も同じだった、何かが違うという事に、お互い薄々気がついていたらしい。それに、他人だからこそできることもあるのだから。
「あ、そうだ! ねえお兄ちゃん、ちょっと旅行しない? 学校の先輩に誘われてるんだけど」
「行きたいけど、それって僕も一緒に行っていいの?」
「うん、大丈夫だと思う。先輩のお兄さんが連れて行ってくれるんだし。ちょっと遠い、田舎町なんだけど」
「いつまで?」
「明後日から5日くらいだって・・・・・・ふふ、なんか、新婚旅行みたい」
 新婚旅行・・・・・・家族旅行すら行ったことのない僕らが、旅行をするというのはなんとなく不思議な気持ちだ。
「・・・・・・楽しみ」
「うん、楽しみだね」
 そう言いながら紗也は仰向けからうつ伏せへと体制を変えて、僕の方を向いた。2回目の始まりらしい――

**

「宮本淳(あつし)と申します、今回はお世話になります」
「紗也ちゃんのお兄さんの、淳くんか。初めまして、綾子の兄の、昇(のぼる)です」
 僕は昇さんと握手を交わす。大きくゴツい手が僕の手を包み込んだ。220cm超の女の子と普段接してはいるものの、190cmの巨漢を目の前にするのは初めてのことだ。手の大きさは、紗也とあまり変わらないようだが、とにかくゴツかった。
「お兄ちゃん、こっちが手芸部の綾子先輩!」
 紗也は綾子さんに後ろから抱きつきながら紹介する。綾子さんは怪訝な表情で小さく会釈した。紗也の話では、綾子さんは紗也よりも少しだけ背の高い女性らしかった。僕はそれを楽しみにしていたのだが、実際の綾子さんは、紗也よりも数センチ低いようだった。さっきまでの2人のやり取りを思い出せば、綾子さんもそれに驚き、サヤの方はそれを楽しんでいるようだったし、そのための先の抱擁であった。
「はじめまして、紗也の兄の淳と申します。お気づきかもしれませんが、紗也とは血縁関係はありません」
「あ、そうなんですね」
 昇さんも、それを聞いて色々と納得したようだった。今の僕と紗也はまるで、近所の子どもとお姉さんのようなそれだった。見た目もさながら、僕らの間に漂う雰囲気も、そんな感じなんだと思う。
「それじゃあ、行きましょうか!」
 昇さんが号令をかけて、僕らは大きなボックスカーに乗り込む。僕は助手席に、女性2人は後ろに座った。エンジンがかかり、車が動き出す。後ろの手芸部はすぐさまおしゃべりを始めた。昇さんは運転に集中しており、僕はぼんやりと外を眺めている他なかった。
 見慣れた景色が知らない風景に変わり、やがて人工物と自然が同じくらいの比率になって現れてくる。遠いところに来たと思った。気がつけば紗也は夢の世界に旅立ち、綾子さんはその隣で読書をしている。昇さんは、黙々と運転をしている。不気味なほどに静かな車内だった。
「・・・・・・そういえば、従姉妹さんのところに、こんな大人数で行ってしまっても大丈夫なんでしょうか? もう、今更ですが」
「まあ、大丈夫でしょう。リオちゃんとこ、八尺(やたけ)家っていう地元じゃかなりでかい家なんです。ハチにシャクと書いて、ヤタケです」
「シャク。尺貫法の、尺ですか?」
「そうですそうです、ハハッ! 八尺だと尺貫法でおよそ242.4cmになりますね」
 昇さんは笑いながら、真っ直ぐ前を見て運転する。ルームミラーを覗くと、綾子さんも本を読みながら小さく笑っていた。
「まあ、続きは着いてからのお楽しみとしましょう」
「は、はあ・・・・・・」
 僕は訳がわからず、ただ相槌を打つことしかできなかった。

 窓ガラスの外に目を向ければ、緑に囲まれて穏やかな空気が漂う。どんな旅行になるのか、息抜きがてらと適当に参加した旅行だったが、今になって少年のようにわくわくしてきた。これから5日間、僕はできれば三大欲求を抜きにして純粋にこの旅行を楽しみたいと思った。
-FIN
5:見上げる先に
「智子さん、着きましたよ」
 後部座席で寝ている智子さんをさする。彼女は目を小さく開け、眠たい目をこすりはじめた。たまに忘れてしまうことだが、智子さんはまだ15歳、中学校をさっき卒業したばかりの少女だ。僕はそれを思い出して、優しく体を揺すった。
「よう、優希! 帰ってきたのか!」
 その声を聞いて、僕の顔が自然と歪む。思い出した、そういえばこんな人もいた。途端に智子さんがここでうまくやっていけるのかという不安が出てきた。寝ぼけ眼の智子さんをそこに置いて、僕は車の外に出る。
「お兄さん、久しぶり」
「ははは! 相変わらず小さいなあ!」
 兄は僕の肩を掴んで前後に揺らし始める。この仕草は昔からの兄のお気に入りだ。兄は身長160cmと小柄だが、僕のほうがさらに小さい。それを実感するのに最も効果的なのが、この動作らしい。僕は兄が満足するまで、じっとした。猿に言葉は通じない。努力は虚しく、耐えるが勝ちだ。
 車の方からガタガタと音がする。振り返ると、智子さんの脚がにょきっと車内から飛び出てきた。
「智子さん、大丈夫ですか?」
「うんー、大丈夫」
 眠そうな表情で、智子さんは長い体を器用に動かして狭いドアから外に出て、車の隣で思い切り伸びをした。大きなボックスカーを借りたものの、智子さんの肩までしか届いていない。広大な果樹園をバックにして伸びをする智子さんは、どこか神々しく見えた。
「うわー、すっごーい! 優希さん家、大きいね」
 智子さんは後ろの果樹園よりも、家の方に先に目がいったらしい。年季の入った屋敷を目を輝かせながら見ている。
「あら優希、帰っていたのね! で、そちらがお嫁の智子ちゃん?」
「あ、お母さん。お嫁じゃなくて、スタッフね、給料出すよ。智子さん、こちら僕の母の、高野真里さん」
「は、初めまして! 今後ともお世話になります、真里さん!」
「まー、本当に大きい。八尺(やたけ)さんよりも大きいんじゃないかしら。智子ちゃん、別にお義母さんって呼んでいいのよ」
「お、お母さん? 私はここの娘になるんですか?」
「ええ、今日から家の子よ、智子ちゃん」
「は、はい! よ、よろしくおねがいします!」
 微妙に噛み合わない会話を、僕はほのぼのとした気持ちで聞いていた。そう言えば、母はこんな感じの人だ。我が家で智子さんがうまくやっていけるかどうかという僕の不安はこの瞬間に霧散した。母とうまくやっていけるのなら、おそらく大丈夫だろう。
「智子ちゃんのお部屋はこっちよ! お部屋と言っても、もう使ってない物置を綺麗にしただけだけど」
「いえ! お母さんがくれるものなら何でも嬉しいです!」
「まあ、嬉しいこと言うのね」
「母さん、自分、さきに着替えて待っているから。智子さん、果樹園を案内するので、終わったら車のところに来てください。ゆっくりで大丈夫です」
「あ、はーい」
「智子ちゃん、こっちこっち!」
 僕は智子さん達とは反対方向に、僕らの方を呆然と見ながら突っ立つ兄を横切り事務所へと向かう。久々の農作業だ、これからこの土地をどう利用していこうかと考えるだけで、胸が高鳴るのを感じる。



「こちらが桃です。ピンク色のが蕾です、もう少しで花が咲きますね」
「うわー、かわいい!」
 智子さんは腰を曲げて下の方の蕾を観察し、また背筋を伸ばして背伸びして上の方の蕾を観察する。彼女のそんな様子を見ながら、僕は智子さんを連れてきてよかったと思った。脚立を使っての作業は時間と労力を浪費する、立ったまま流れるように作業出来れば理想であり、そのように剪定するもののどうしても高いところにも実はついてしまう。智子さんとペアを組み、下の方は僕らが、高いところを智子さんがやればかなりの効率化につながることが期待できる。そのためのスカウトだった。
「ちょうど今の時期に摘蕾(てきらい)と言って、不要な蕾を摘むんです」
「えー、せっかくできたのに摘んじゃうの?」
「はい、甘い実を作るためです。養分は有限なので」
 近くの枝を手に取って、指で蕾を落としていく。智子さんは中腰になって枝に顔を近づけて、じっと見ていた。その真面目さ、純粋さに、僕は自然と目を細めた。
「智子さんも良ければ。高いところをやってもらえると助かります」
 慎重に枝を手に取り、ゆっくりと蕾を積んでいく。
「あ、緑のは取らないで! 葉芽(はめ)といって、葉っぱの赤ちゃんです」
「は、はい!」
 智子さんが枝一本分の作業を終えたところで、再び果樹園を案内する。今日は一日かけて果樹園の案内し、明日から僕と一緒に作業して果樹の細かい取り扱いを覚えてもらおうと思っている。
「智子さん、次は栗の方を案内します」
「・・・・・・」
 返事が聞こえず振り返ると、智子さんは栗とは逆方向の、山の方を見つめていた。
「・・・・・・智子さん?」
「はっ! あ、ごめんなさい。ぼうっとしてました」
「いえ。どうかしましたか?」
「えーと・・・・・・」
 智子さんが指差す先には、木々の間からこちらを覗く1人の女の子がいる。それを見て僕は納得した、そう言えば智子さんと歳が近いかもしれない。
「あー、八尺さんとこのお嬢さんですね」
「八尺って、さっきお母さんが言ってた」
「そうですそうです、梨緒さーん!」
 僕が大きく手を振ると、梨緒さんは山の斜面を下って小走りでこちらに向かってくる。僕よりも8つ下だから、次で中3か。
 梨緒さんは僕ではなく、智子さんに向かってきた。数年ぶりに会った梨緒さんは一段と成長していたが、お母さんよりはいくらか小柄に見える。梨緒さんは何も言わずにじっと智子さんを見上げた。智子さんも、頭2つほど小柄な梨緒さんを何も言わずにただ見下ろしていた。
「は、初めまして、前山智子って言います。15歳です」
「・・・・・・初めまして、八尺梨緒です。14歳です」
「梨緒ちゃんっていうんだ。身長、高いね」
「智子さんも。私、自分より高い人って、お母さん以外で初めて見ました・・・・・・」
 しばらく頭上で繰り広げられる淡々とした雑談を聞いてから、僕は栗の方に向かって歩みを進める。
「あ、優希さんごめんなさい」
「いえ、ごゆっくりどうぞ。別に明日でも問題はありませんから」
 梨緒さんに軽く会釈してから、僕は再び歩みを進めた。やることはいっぱいあるし、それは智子さんも同じだろう。異国に単身でやってきた彼女にとって一番大切なのは、仕事よりも人間関係の構築かもしれない。仕事はいつだって僕が教えてみせるが、人付き合いはそうはいかない。なら、そのためであれば1日くらい消費したところで別に問題ではない。
「あ、あの、初対面なのに恐縮ですけれども、身長っておくつですか?」
「えーと、270cmくらいです。多分、さすがに止まったと思います」
「270! あ、ごめんなさい、大げさに驚いてしまって」
「ううん、全然気にしてないよ! 梨緒ちゃんはいくつあるの?」
「私は220cmくらいです。毎年10cmくらいずつ伸びているので、どこまで伸びるのか不安で。お母さんが242cmあるので、それくらいで止まるといいのですけれども」
「220cmかー、私も去年の最初はそれくらいで、すごく伸びたなー」
「え! そ、そうなんですか?」
 女3人で姦しとは言うが、2人でも十分に盛り上がっている。似た境遇を持つ貴重な仲間に出会えた喜びがその声量に表れているようだった。そんな少女のお喋りを聞きながら、僕は僕なりに実家の今後についてあれこれと考えていた。
-FIN
6:とある兄妹の日常
 兄離れとは悲しいことであるけれども成長のためには必要な過程だと、僕は最近まで思っていた。ブラザーコンプレクスなんてものは漫画の中の話だと思っていた。
 事実は小説よりも奇なり、と。まさかあんなことになるなんて、予想だにしていなかった。

 去年の7月頃、当時中学1年生の妹はすでに身長220cmの巨人だった。バレー部だった妹はネットよりも背が高くなり、エースとして活躍していた。
 しかし、飛び抜けて巨大な妹はスポーツの場において周りから疎んじられるようになった。成長痛で膝を痛めていたこともあって夏休みに入る前にバレー部を自主的に退部してしまった。
 その代わりに、妹が自分の長身を活かそうをして始めたのがフードファイトだった。ファイターが命がけで食べるようなギガ盛りをおかわりする妹の食欲は見ているだけで引き込まれ、今では地元では有名なアマチュアフードファイターとなった。
 そして、その過剰に摂取した膨大な栄養素は、妹を縦方向に益々巨大化させるのだった――



 ――ピシャーン
 「キャー!」
 雷が落ちると同時に、隣の部屋から叫び声が聞こえる。・・・・・・この後の妹の行動を予想してみせよう。僕の部屋に来て一緒に寝ろという。兄離れ、反抗期、そんなワードは我が家には無縁だ。
 ――ミシ・・・・・・ミシ・・・・・・
 床材の軋む音、妹の足音が聞こえてくる。そろそろ引越し時かもしれないと思いながら、僕はノック音を待ち構えた。

 ――コンコン
「・・・・・・お、お兄ちゃん」
「今行く、待ってろ」
「うん、ありがとう・・・・・・」
 ゆっくりとドアが閉められ、ミシミシと音を立てながら隣の部屋に入った。今年もこの季節がやってきた、もはや雷雨の時期の風物詩ともなった妹への添い寝。僕は作業を適当に切り上げて、部屋に向かう。たらたらしていると、機嫌を損ねてしまう。

 ノックして部屋に入ると妹はすでに横になっていた。敷き布団、掛け布団ともに2つを使って寝ている。僕は自室から持ってきた布団を妹の横に敷き、横になる。10頭身ある妹は遠目に見れば電柱のようだが、近くで見ると巨木のようだ。寝ていても同じだ、僕の目の前には妹の巨大な顔と肩がある。自分が小人なんじゃないかという気分に自ずとなっていく。
「お兄ちゃんが、去年よりも小さい」
「お前も、去年よりでかい。2倍くらいでかくなったか?」
「そ、そんなわけないじゃん!」
 叫びながら妹は僕の顔に手を添える。巨大な手が、僕の顔を半分包みこむ。去年まではこんなことをされるたびに男としてのプライドから暴言を吐いたものだが、ここまで差が開いてしまうとそんな気も起きなくなるらしい。
「制服は、まだ大丈夫か?」
「うん。袖がちょっときてるけど、まだ大丈夫かなって。パジャマは、もうこのままでいいや」
 パジャマの袖は手首から20cmほど短くなっている。金を惜しんで巨漢向けのシャツを着て、丈の足りない部分を腹巻で補ってパジャマにしているのだから仕方がない。
「靴は、大丈夫か?」
「今38cmだけど、もう少しできつくなるかなって感じ」
 38cm、妹の身長を考えれば案外小さい方なのかもしれない。しかしその絶対値は、おおよそ僕の膝の高さに相当するのだ。始めてその光景を目にした時の衝撃といったら・・・・・・
「おやすみ、お兄ちゃん」
「ああ、おやすみ」
 妹はリモコンで電気を消した。去年までならだらだらと雑談をしていたものだが、今日はお疲れらしい。僕は妹の大きな頭を、それには触れずに撫でた。



 もぞもぞと低い音が僕の背後で鳴り響く。嫌な予感がした、しかし睡魔が勝ってしまう。
 ――ズズズズ
 ――メリメリメリ
 体が悲鳴をあげる、防衛本能が逃げよと命令したが、物理的な障害がそれを妨げた。ロードローラーが僕を下敷きにして発進しだした――

「ねーお兄ちゃんごめんってー。わざとじゃないから・・・・・・」
「いや、もうお前とは寝たくない。中学生だろうが」
 今日、僕の朝は背骨の軋みとともに始まった。妹が寝返りと打つと、ちょうどそこに僕がいた。体重が僕の2.5倍ほどある巨体に、危うく圧死しそうになったわけだ。
「ねーねー、ちゃんと気をつけるからさー。もー、待ってよ―」
 慎重に玄関から脱出する妹を、僕は少し離れた所で見ていた。しゃがみながらドアを通過し、立ち上がる。障害だったドア枠が胸のあたりにある。僕の目の前には妹の手首がある。並んで歩いていて、何度無意識に殴られたことか。
「お前、今何センチあるんだ?」
「えーと、260cmくらいかな?」
「まだ伸びてるんだろ?」
「うん! 伸びてるよ!」
 妹は胸を張って答える。体がどれだけでかくなっても、こういうところは昔と同じらしい。僕はこの前の測定で160cmになっていて喜んでいたが、妹との差はついに1メートルになってしまった。
 天井を突破してもなお成長を続ける常識はずれな巨体を前にして様々な感情がこみ上げてくる。恐れとか、憐れみとかいったもの以外に、妹と同じようにこの状況を楽しんでいる自分がいる。
「お前、今日も競技だっけ?」
「あ、そうそう! いっぱい食べて、食費浮かすからね!」
「いつも思うけど、よく食うよなー。胃袋破裂しそうなくらい」
「えへ、成長期かな? ・・・・・・ねえ、あのね」
「ん?」
 妹はしゃがみこんで僕に耳打ちした。
「お兄ちゃんだから言うけどね、本当はあんまり食べてないの」
「ん? どういうことだ?」
「だから・・・・・・腹八分目って、感じなの。本気出すと、引かれるかなって」
「・・・・・・」
 事実は小説よりも奇なり。常に自分の想像を越えていく妹はいつ見ても飽きない。
-FIN

創作メモ

今まで張ってきた伏線を回収するために、まとめて書いてしまったのがこの短篇集です。私には自分のキャラは最後まで描きたいという願望があるので、この調子で話を広げていければと思っています。フェチ要素は弱くなってしまいましたが、私は書いていて楽しかったです。