言葉遊び

 ガッチリとした巨漢の男が悠々と道を歩いている。身長190cm、体重120kg、巨漢で健康的な男子大学生であり、ラグビー部のエースである。彼はドアを前にして軽く屈み、ドアノブを掴み、ドアを開けた。ドアに備わった鈴がリンリンと音を鳴らすと、家の奥の方からパタパタと軽い足音を立てて誰かが玄関に向かってきた。
「おにいちゃんおかえり!」
「ああ、ただいま」
 兄はしゃがんで妹の頭をワシャワシャと撫でる。妹は顔をほころばせて、嬉しそうに撫でられた。
「今日もちっちゃくてかわいいなあ」
 兄はそう言いながら、妹を撫でる。それは兄にとって本心からの言葉であったが、妹は途端に顔をしかめ、そして頭にかざされている兄の手を除けようとした。
「ちっちゃくないもん!」
「あ、そうか、すまん。ところで今日は身体測定だったんだろ、健康カードを見せてくれ」
 兄に言われて妹はしぶしぶと、自分の部屋から健康カードを持ってくる。身長の欄には108cmと記載されており、小学2年生であるにしてもかなりの小柄である。去年は104cmであり同様に小柄であったが、1年で4cmしか伸びず、同級生との身長差はさらに開き、小さい体をさらに小さくさせていた。
「108センチか、相変わらず小さいな」
 兄は、純粋な慈しみからそんなことをつぶやいた。あまりに小柄な妹を不憫に思い、病的なものではないかと心配していた。しかし妹はその言葉を侮辱として捉えて兄に反抗した。
「小さくないもん! これから大きくなるんだもん!」
「あ、そうか。うん、お前はこれからでっかくなるさ。俺がこんなにでっかいんだからな」
 そう言って、兄は妹の頭を撫でた。しかし妹はそんな兄の情すら侮辱に思えた。それほど妹にとって、自分の低身長というのは切実な問題であったのだ。大柄な兄を睨みつけてから部屋へと戻り、妹はその日の夜、満月に向かって手を合わせた。
「どうか、私を大きくしてください。でっかくしてください。背を伸ばしてください。もう小さいのは嫌です。かわいいとか言われても嫌です。お願いします」
 目をつぶって必死に心の中で祈り、気がつけば妹は眠りについていた。明日は土曜日である。これは、とある休日に起こった、世にも不思議なお話である。

*

 朝日が窓から差し込み、鳥がさえずり、涼しげな風が部屋をゆっくりと流れる。妹は体を起こして、霞む目をこする。そしてしばらくぼーっとした後、妹ははっとして壁に向かった。昨夜、身長が伸びますようにと月に向かって必死に祈ったことを思い出したのだ。ここまで全身全霊を込めて必死に祈ったことは、彼女にとっては人生で初めてのことであり、それだけに、何らかの効果があるのではないかと期待していた。
 妹は普段から、壁に背を付けては頭の位置に鉛筆で印を付け、自分の成長を毎日のように記録していた。そして今日も、それと同じことをする。たった今付けた印を見て妹は目を皿のようにし、驚愕し、リビングにいる兄の元へと走っていった。壁に付けられた印は、以前に付けたものよりも5cmほど高く、誤差の範囲では到底済まされないものである。妹は願いが叶ったことを喜び、兄に抱きついた。
「お兄ちゃん! 見てみて!」
 兄はぎょっとし、妹を見た。顔中を輝かせて、彼女は兄を見上げている。
「ど、どうした?」
「ねーねー、あたまにお手手のせてみて」
 兄は言われた通り、妹の頭に手を乗せる。しかし、妹の身長が5cm伸びたところで、その差は兄にとっては小さすぎて、感じることができなかった。
「うーん・・・・・・すまん、よくわからない」
「えー、わたし大きくなったでしょ!」
 その瞬間、妹の身長がググっと伸びる。兄も、その変化を目の当たりにして戸惑った。妹自身も、目線の急激な変化に首を傾げた。
「あれ・・・・・・なんか、大きくなった?」
 そう言うとまたぐぐっと伸びた。現在の身長は123cm、7歳の女の子としては平均的である。
「お、お前、大丈夫か? 何か変なものでも食べたのか?」
「え? ううん、全然。それより、わたし大きくなったよ!」
 妹が無邪気に喜ぶ間にもまた背が伸びる。先程よりも伸びは大きくなり、10cm伸びて133cmになった。ただ拡大していくのではなく、頭身も上がり、若干お姉さんぽくなったのだが、妹自身はそのスタイルの変化には気がついていない。そして、別のこと、この急成長の原因に気がつこうとしていた。
「あれ、また・・・・・・もしかして、『大きく』って言ったら、大きくなるのかな?」
 言っている側から成長は始まり、22cm伸びて155cmになった。小柄な成人女性程度の身長であり、さっきまで113cmという小柄だった妹の面影はすでに消え、中学生くらいの大人びた雰囲気を醸し出していた。
「お、おい。もうやめとけよ」
 兄は妹の急成長を何か病的なものではないかと疑い、制止をかけたが妹の方はそんなことお構いなしである。彼女はキョトンとして、兄を見上げている。兄のヘソよりも小さかった妹は、今では肩ほどの高さにまで成長していた。もっとも、本当の成長はこれからなのだが――
「どうして? お兄ちゃん言ってたじゃん。俺がでっかいんだから、私もそうなれるって」
 また成長していき、妹は170cmになった。女性としてはかなりの高身長であり、兄は戸惑った。
「あれ? 今『大きく』って言ってないのに」
 また伸びて190cmになり、兄と肩を並べた。さっきまでヘソくらいの背しかない妹が短時間の内にここまで大きくなったことに、兄は初期に感じていた妹への憐れみといったものは感じなくなり、妹の巨大化に恐怖を抱き始めていた。そんな兄の心境を、妹が知るはずはない。妹は無邪気に、兄と肩を並べたことに喜んでいる。
「えへへ、お兄ちゃん小さくなったねー」
 その瞬間、今度は兄の背がシュルシュルと縮んでいく。兄は自分の変化に驚き、妹はそれを、自分の背が伸びたからだと錯覚する。
「あれ? 『小さく』って言っても、大きくなるの?」
 また、兄の背が縮む。190cmあった身長はすでに150cmまで縮んでおり、しかし外見は元の巨漢のまま、縮尺を変更したように縮んでいった。おまけに妹の背も更に伸びて210cmになっていた。
「俺が小さくなってるんだ! お前、もうしゃべるな!」
 兄は顔を赤くしてそう叫んだが、それは妹にいくらかのの苛立ちを与えることになった。自分の肩よりも小さい相手に説教をされることに、妹は歳相応の幼く動物的な怒りを感じたのだ。そして妹は兄を上から睨みつけた。
「ふーん、お姉ちゃんにそんなこと言うんだ」
「お姉ちゃんって、お前・・・・・・」
 図に乗った妹に呆れて声も出なかった兄だが、妹が目を瞑って上を向き、兄は妹が次に取る行動を察して背筋が凍るのを感じた。
「でっかくなりたい、でっかくなりたい、でっかくなりたい、でっかくなりたい、でっかくなりたい」
 ギギギ、と体から鈍い音が響き、妹の体がどんどん巨大化していく。妹はその様子を楽しんでおり、やがて天井に頭をぶつけて床に正座し、それでもなお成長は続き、310cmまで伸びた。妹から見た身長150cmの兄は、190cmの兄が見る108cmの妹よりもさらに小さくか弱いものである。もっとも、兄は見た目だけなら巨漢のガッチリ体型なのであるが。
「えへへ、『でっかく』でもいいんだね」
「ば、バケモノめ!」
 兄は顔を青くし、恐怖心をむき出しにしてそう叫んだ。しかし妹はさらに背を伸ばして330cmになり、そして満面の笑みを浮かべて兄の頭を大きな手のひらで包むようにして撫でた。侮辱されても、以前のような怒りは感じなかった。兄が小さく、妹が大きくなりすぎたために、妹は兄という小さくか弱い存在に本気の怒りを抱くことができなくなったのだ。そして妹は兄を玩具であると認識し始めた。
「えへへー、次はお兄ちゃんの番だよ」
「え?」
 兄は一瞬、目の前が明るくなるのを感じた。元に戻れるのではないかと期待した。しかし次の瞬間には、過去最高の絶望が兄を襲うのであった。
「小さくなあれ、小さくなあれ、小さくなあれ、小さくなあれ、小さくなあれ、小さくなあれ」
 兄の体がシュルシュルと小さくなっていく。あっという間に、かつての妹と同じくらいの背丈になったかと思えばさらに縮んでいき、乳児よりも小さくなり、手のひらサイズのぬいぐるみのような大きさになり、妹はそんな兄に目を輝かせた。
「きゃー、お兄ちゃんかわいい」
 兄はまたぐぐっと小さくなる。妹は一瞬首をかしげ、すぐに状況を理解してニヤリと微笑む。
「へー、『かわいい』でも小さくなるんだ」
 兄はまた小さくなり、豆粒サイズにまで縮小していた。兄自身は、あまりに急激な変化に混乱すると同時に、目の前の光景を、あたかもビデオをカメラを通してみているような現実離れした感じを抱き、どこか他人事のように捉えていた。心のスイッチがオフになり、網膜に飛び込む信号を感情のフィルターを通さずに横流しするようになっていた。
「あっ、そうだ、いいこと考えた。ちょっと待ってね」
 妹はハイハイで自室へと戻っていく。その間、兄はただ呆然と妹の帰りを待っていた。待っている間に混乱状態であった頭の中が整理されてきて、じわじわと妹への期待のようなものが湧いてきた。もしかしたら、自分は元に戻れるのではないだろうか。いや、形勢逆転して妹をおもちゃにできるのではないだろうか。そんな都合の良い事を、心の底でゆっくりと考えていた。妹が戻ってきて、手に持っているものが何であるかを知って兄は再び地獄の底へと突き落とされるのであった。
「じゃーん、ミクロスコープ! 学校でもらったんだよー」
 それは数日前、妹が兄に自慢していたものであった。妹は生活科の授業で公園に行って、ミクロスコープをもらい、微生物を見て楽しんだ。兄は当時、最近の学校は進んでいるなあと感心した。それがまさか、こんなふうに使われるとは、夢にも思っていなかった。
 妹は無邪気な笑顔をこれでもかと輝かせて、すでに豆粒サイズとなっている兄を見る。兄の目にはそんな幼い少女の笑顔が、どこかの世界を牛耳った巨大な魔王の浮かべる邪悪な笑みに映り、無意識に背筋を震わせた。
「小さくなあれ!」
 シュルシュルと縮んでいき、豆粒サイズが米粒サイズになる。妹は嬉しそうにミクロスコープで兄を観察するが、ミクロの世界にとって兄はまだ大きすぎる。
「もっとちっちゃくなって!」
 米粒サイズがさらに小さくなり、砂粒サイズになる。まだ大きいが、ミクロスコープでも観察できる大きさだ。妹はキャッキャと騒いだ。
「おにーちゃーん、こっち見てー」
 兄は言われるがままに、レンズの方を見た。兄にはすでに逆らう意志がなくなっていた。妹はダイヤルを回して倍率を上げ、再び呪文を唱える。
「もっとちいさくなあれ!」
 兄はさらに縮んでいく。微生物サイズにまで小さくなり、妹は微生物のような兄を見て無邪気に喜ぶ。
「ねーねー、踊ってみてよー」
 妹に言われて、兄は適当に踊りだす。その表情はまるで能面のように堅いものだが、妹はそれを見て喜んだ。
 兄が休むことなく色々な踊りをするものの、妹の方は段々と飽きてきた。兄はそんな妹の心情の変化を察し、元に戻れるという希望を抱き始めた。
「うーん、飽きちゃった、もうやめよう。私もそろそろ小さくなりたいし」
 その瞬間、兄はさらに小さくなり、ミクロスコープを最大倍率にしても見つけるのに苦労するほどにまで小さくなってしまった。妹はそれに気が付き、焦リ出す。
「あっ、そうか。小さくって。えーと・・・・・・」
 そう言う間にもまた小さくなり、ミクロスコープをもってしても見ることすらできなくなってしまった。
「えーと。お、お兄ちゃん大きくなれ!」
 今度は妹の体がぐぐっと大きくなる。350cmになり、正座をしていても天井が目の前に迫る。
「あ、そうか。えーと、えーと・・・・・・」
 妹は悩み、手を宙でぶらつかせて、頭に手を乗せた。その際、妹は手を天井にゴンとぶつけた。
「あ。もー、大きすぎるるのも嫌だなあ・・・・・・そうだ! お兄ちゃん、でっかくなって!」
 『大きく』はダメでも『でっかく』なら良いのではと思った妹だが、結果はそのとおりにはならなかった。妹はさらにさらに巨大化していき、400cmまで大きくなり、家は益々窮屈となり背中を曲げる。妹はさらに焦った。
「ど、どうしよう。大きくもダメで、でっかくもダメで。えーと、えーと」
 悩んでいる間にも、言った分だけ体は大きくなり、狭い部屋を更に狭くし、その度に焦燥感を増して頭を混乱させた。
「えーと・・・・・・あーもう、お兄ちゃんをもとに戻したいだけなのに!」
 ドカン! という音が、妹の背後からした。同時にミクロスコープが倒れ、中から人影がムクムクと大きくなり始めた。

*

 妹は巨大な体を丸くして正座する。兄はそんな妹の前で腕を組み、足を肩幅程度に開き、立っている。
「反省したか?」
「・・・・・・はい、ごめんなさい」
「俺がどれだけ怖かったのか、分かっているか?」
「・・・・・・はい」
 兄は大きなため息をつく。妹は曲がった背中を更に丸めて、ごめんなさいと謝る。その様子を見て、兄は小さく笑った。
「わかったならもういい。お前も早く元に戻れよ」
 そう言って兄は、自分の部屋へと戻っていく。兄が見えなくなったのを見計らい、妹は自分の尻を見た。そこには、大きな凹みとヒビが入り、無残な様子であった。妹はそれを見るなり、ため息をついて途方に暮れた。
「うー・・・・・・朝は背が伸びたらなあとか思ってたけど、なんかなあ」
 その途端、妹の体がまた大きくなった。ひょんなことから最後の呪文『伸びる』を知り、予想外の事態焦った妹は天井に頭をぶつけて天井を凹ませた。妹は青ざめ、階段の方からは兄の荒々しい足音が聞こえてくるのだった。
-FIN

創作メモ