大きな私と小さな博士

 キーンコーンカーンコーン――
 終業のベルが鳴り、帰りのホームルームが始まる。そしてそれが終わると私はカバンを持って教室を後にする。掃除する人、帰る人、部活に行く人などなど、人で溢れる廊下を縫うように歩き、私は部室に向かう。こういう時は、このムダに大きな身長も少しは便利だなあと思う。
「うわデカッ」
 ・・・・・・前言撤回。やっぱり、辛いことばかり。もしもあと10cm低かったらなあ、もっとも、それでも中1女子としてかなり大きめなのだけど。そんなことを考えながら、私は1階の隅にある理科実験室を目指す。
 あまりに人が通らないために、他に比べて滑りにくい廊下。そこを抜けたところにあるのが、私の所属する理科学研究会の部室、理科実験室だ。正確には、旧理科実験室。新しいのは2階にある。詳しいことは知らないけれど、この放置された実験室を先輩が先生と交渉して無理やり部室にしたらしい。
 部室に着いたら、私はいつも通りドアを開けて、中に入る。いつも通り、先輩が中央のテーブルでノートパソコンのキーをカチャカチャと叩いていた。
「・・・こんにちは」
 私が挨拶すると、その先輩、山野先輩はニコリと微笑んで、こんにちはと返してくれた。そしてまた、パソコンをいじり出す。私はカバンを床に置いて、壁際のテーブルに行く。ビーカーに水道水を入れてアルコールランプで沸騰させてお茶を淹れるの。私の部室での日課だ。
「あっ! 佐藤さん、お茶なら僕がもう淹れました」
 先輩はあわてて立ち上がりテーブルの方に来て、隅に置かれたビーカーとマグカップを手に取った。私は先輩の後頭部を見上げながら、席に戻った。
「ちょっとした気まぐれです。飲んでみてください」
 先輩の入れた緑茶を、口に含む。先輩がその様子をじーっと見てくるので、少し恥ずかしい。
「・・・どうですか?」
「・・・なんか、甘いです」
「あはは、僕も失敗したなと思いました。ごめんなさい」
 どんな淹れ方をしたらこうなるのかと思いながら、私はお茶を飲み干した。先輩は相変わらずカチャカチャとキーを叩き、私はそれをバックミュージックにして本を読んでいる。・・・・・・いつもと変わらない光景。これが、理科学研究会の活動風景だ。先輩はいつも何かをしていて、私はただそれを横目で見ながら読書にふける。
 平和な時間をここで過ごして、時間になったら私は帰る。帰るときは、いつも私1人。先輩は残るか、走って帰ってしまうかのどちらかだ。つまり、私は特に科学らしいことをせずに、本でも読みながらここで時間を過ごすんだ。でもそんな時間が、不思議と心地よい。騒がしい学校生活の中で、この時だけは、穏やかで平和な時間が過ごせるんだ――

***

 家で1人で過ごすことの好きな私にとって、部活動が強制というのはとても嫌なに思えた。配られた部活リストを憂鬱な気持ちで眺め、ふと目に止まった部活がこの理科学研究会だった。私は理科が好きだったし、他がナニナニ部、なのに対して研究会というのがとても格好良く見えた。理科系の部活なら他にも化学部と生物部もあったけれど、理科学研究会ほど魅力的には思えなかった。
 ただ・・・・・・部活に入るのは、少し抵抗があった。理科が好きなのは本心だけれど・・・・・・女の子らしくないように思えた。ただでさえこのムダにでかい身長なのに、理系なんて・・・・・・そう思って私は、その部活に入ることを躊躇していた。
「美穂ちゃん何してんの?」
 ある日、お昼休みに本を読んでいたら、クラスの女の子に話しかけられた。読んでいる本を見せるのは恥ずかしいけれど、唆されて私は中表紙を見せた。その時読んでいたのは、ハリーポッターシリーズの1巻だった。普通は小学4年生くらいで読むと思うけれど、私は最近になってハマりだした。本に興味を持ったのはここ1年くらいだ。
 背はデカいのに、読む本は小学生というのが、私はとても恥ずかしかった。本にはブックカバーを付けて目立たないようにしていたけれど、聞かれてしまったらそんな対策に意味はない。
「ああ、面白いよね〜。あ、ねえねえ! 部活って何にするか決めた?」
「うーん・・・・・・」
 女の子は本のことは何も気にせず、部活に話題を移す。面白そうな部活はあるけれど、言いたくない。でも、それ以外よく知らないし、出会ったばかりのクラスメートに嘘をつくのも少し後ろめく思えた。
「・・・・・・まだ、決めてない?」
「いや・・・・・・あの、理科学研究会に・・・・・・」
 ああ、言っちゃった・・・・・・。他にうまい言い方はなかったかなと反省していると、女の子の目が私の目の前でまん丸になった。
「えっ! ダメだよその部活、怖い噂があるし! 体験入部は行ったの?」
「いや、まだ・・・今度行こうかなって」
「ホントにヤバイって話だから! 去年できたばかりの部活で、部員は2年生の先輩1人だけ。で、その先輩が本当にヤバイ人だって、みんな言ってるよ!」
 女の子の大声で、周りの女の子が集まってきた。そして皆、口々に部と先輩の悪い噂を話し始めた。学校の裏番長、人の心をなくした天才、ロリコン変態、もみ消された犯罪など、現実なのかファンタジーなのかよくわからない噂がたくさん出てきた。
「あ、ねえねえ美穂ちゃん、テニス部ってどう? 美穂ちゃん身長高いし! 何センチあるの?」
「・・・ひゃ、170cmくらい・・・・・・」
「おっきー! 絶対に運動部に入ったほうがいいって!」
「いや、ぜひバスケ部に!」
「いやいやテニス部で!」
 ああ、またこれだ。身長が高いだけで、運動が得意と思われるやつ。運動は大の苦手だし、楽しいと思ったこともないのに・・・・・・。多くの勧誘に翻弄されて、私は、少し考えさせて、とだけいって逃げ切った。そして理系としてこの目で真偽を確かめるべく、私はその後、理科学研究会の体験入部に参加した。
 薄暗く埃臭い廊下を歩き、部室に向かう。多分、3年生でも来ることが少ないような、寂れたところ。理科実験室と書かれた汚れたドアをノックして、恐る恐る中に入った。
「・・・・・・失礼します」
 壁際の棚やテーブルに理科室らしいガラス製品がところどころに見えるが、数は少ない。中央に椅子と4人用くらいの机がぽつんと置かれていて、そこに男性が1人、こちらを向いて座って、パソコンをいじっていた。例の先輩かなと、思った。
「ご用件はなんですか?」
 その人はパソコンから目を話すことなくそう言う。なんだか、話しにくそうな人だなと、思った。噂の通り、怖そうな人だなと、思った。
「あの・・・理科学研究会、ですよね?」
「はい、そうです」
「・・・・・・体験入部って、やっていますか?」
「やっています」
「・・・・・・」
「体験入部をしに来たのですか?」
「あ・・・はい! 体験入部しにきました」
 私がそう言うと、その無愛想な先輩はニコリと微笑んでパソコンを閉じ、立ち上がった。先輩の顔が、私よりも10cmくらい高くなった。とても、背の高い人だなと、私は少し見とれてしまった・・・・・・
「はじめまして。理科学研究会の部長、2年生の山野透と申します。理科学研究会の活動は、個々人が好きなことをする、というものです。部室の機材は自由に使ってください。紹介します」
 山野先輩は部室を歩き回りながら、私に機材の紹介をしてくれた。基本は真顔で冷静だけれど、たまにすごくニコやかになって、色々なことを教えてくれる。難しい話も混ざっていたけれど、なんだか聞いているだけで面白かった。
「・・・・・・以上です。何か、質問はありますか?」
「・・・・・・いいえ」
 そう言うと、先輩はニコリと微笑み、机に戻ってパソコンをいじり始める。私は少し、寂しい気持ちになった。
「・・・先輩は今、何をしているんですか?」
「仮想世界を創っています」
 パソコンを見たまま、そう言った。画面を覗くと、背景が真っ黒の画面で、何かをやっていた。やっていることは意味不明だけど、すごい人だなと思った。将来科学者とかになりそうな人だと、なんとなく思った。
 私はその時、この人のことをもっとよく知りたいと思った。
「・・・・・・私、ここに入部したいのですが、どのようにすれば良いですか?」
「入部届を顧問の先生に届けてください。英語の北村先生です」
「・・・・・・わかりました。ありがとうございます」
 理科学研究会なのに、英語の先生が顧問というのを不思議に思いつつ、私は部室から出ていく。後ろから「さようなら」と言われ、私は振り返る。振り返ると、先輩はさっきと同じく、パソコンをカチャカチャといじっていた。
 そんな感じで私は晴れてこの理科学研究会に入部し、結果として誘ってくれたクラスメートの期待を裏切ってしまった。黒い噂を持つ先輩の部活に入った私は入学早々、学校で浮いた存在となってしまい、現在に至る。

*****

 蛍光灯の光を感じてゆっくりと目を開けて辺りを見渡すと、そこはいつもの部室。わたしはいつの間にか、眠っていたらしい。はっとして時計を見る。まもなく4時になろうとするところ。部活が終わる時間だ。
「佐藤さん、おはようございます」
「ひゃっ!」
 急に隣から声をかけられて、私は大げさに驚いてしまった。先輩も少し驚いたように見えた。
「あ、おはようございます。もう下校時間ですよね」
「はい、一応。ただ、少し実験に付き合って頂きたいのですが、ご承諾いただけますか?」
 先輩はじっと、真剣に私の顔を見て見てきた。私は恥ずかしくなって、目を逸らす。どんな実験だろう。でも、なんだか研究会らしくて、楽しそう。山野先輩との共同実験というのは、少し不安があるのだけれど。
「・・・はい、大丈夫です! どんな実験ですか?」
「ご協力ありがとうございます。仮想空間でのスケール限界を調べたいのです」
 仮想空間でのスケール限界・・・・・・そういえば以前、先輩は仮想空間を作っていると聞いたことがある。それのスケール限界とは・・・・・・私はパソコンが全くわからないけれど、大丈夫でしょうか?
「それでは、開始します」
先輩はパソコンのキーをタンッと叩いた。

3m

 目線がググッと上がっていき、天井に頭をぶつけそうになる。私は反射的に膝を曲げて手を床についた。変化が終了した時、私は床に正座した状態で先輩よりも10cmくらい大きくなっていた。
「・・・・・・」
 私はしばらく、声を出すことができなかった。自分の身に何が起きたのかさっぱり分からなかった。頭の中をグルグルと何かが回っていて、なかなか混乱から抜け出せなかった。
「現在3mです。とりあえず外に出ましょうか」
 先輩に促されるままに、私はハイハイでドアを通り、軽く中腰になって廊下を通る。3mとは、今の私の身長のことだろう。私はそれ以上の追求をやめにした。部室には窓がないので気が付かなかったが、外は5時とは思えないほど明るい。太陽サンサンというよりも、曇った日のお昼という感じで、空全体が明るくなっている。
 廊下を歩いていると、段々と自分の頭が混乱から抜けだしていく。先輩の言っていた仮想空間が、決してパソコン上のものではないということ。そして先輩が色々な意味で危ない人だということを肌身で感じながら、私は学校の外に出る。ドアの幅は通れるが、ギリギリだ。
 外に出て、私は恐る恐る背筋を伸ばす。私達がいつも通る1階の屋根は頭のあたりにきて、今までそうだったように校内に入るには屈まなくてはならない。先輩の頭は私のおへその辺りに来ている。身長差を見れば保育園児と保母さんのようで、さらに先輩は私から見れば幼稚園児よりも細長いので一層小さく見えた。
 先輩いわく私の今の身長は3mで、先輩は180cmくらい。大体2倍くらいの身長差。
「佐藤さん、いかがですか?」
 下の方で先輩がニコニコしながら、私の方を見上げている。真上を見上げてニコニコしている先輩は、ちょっと可愛く見えた。いつも見上げているものを見下ろすというのは、とても不思議な気分だ。普通なら気づかないものが、見下ろすことで見えてくる。
 壁の劣化具合とか、天井の埃っぽさとか。また、背伸びすれば2階の窓にも手が届きそうだ。
「・・・少し、楽しいです」
「それは良かったです。まだまだ大きくなりますよ、耐久試験なので」
 私は先輩に向かって、コクリと頷いた。先輩はニコリと微笑んだ。これ以上大きくなれば、先輩と話しにくくなるなと思った。
「どうぞ、自由に歩いてみてください」
 先輩に促されるままに、私はこの3mの体で学校を適当に歩きまわってみる。まず、2階の窓ガラスに触ってみようと思った。私は壁に近づき、背伸びし、手を伸ばした・・・・・・窓ガラスの下のアルミサッシに、全く手が届かなかった。ああ、こんなに大きくなっても、まだまだ学校に比べればずっとずっと小さいんだな。当たり前のことだけど、なんとなく、思っていたのとは違う気がした。
 校庭には何もないので、私は学校の壁を眺めながら壁伝いに歩いていく。蛇口を見つけた。私はしゃがんで、指で蛇口をひねり、水を飲む。しゃがみと中腰の間くらいの体制はとても辛い。しかし、それも新鮮に思えた。
 やることがなくなり。私は適当にふらつく。ふと、先輩の方を見る。先輩は右脇にパソコンを抱えながら、じっと、腕時計を見つめていた。先輩、腕時計なんて、普段つけていたっけ? ああ、ここは仮想空間か・・・・・・全く実感がわかないけれど・・・・・・これは夢なのかな?
 学校の壁時計を見ると、カチリと針が動いて4時15分を指した。

5m

 私の目線がさらに上がっていく。関節の痛みなどは全く感じず、スムーズにググッと大きくなっていく。背伸びしても届かなかった2階の窓は、今は目の前にある。私はそこから中を覗いてみた・・・このアニメの巨人らしい仕草に、私は少し恥ずかしくなった。
 中は普通の教室で、椅子・机があるだけで誰もいない。まあ、居たら嫌なんだけど・・・・・・いつの間にか先輩は私の近くまで来ていて、いつもの笑顔で私の方を見上げていた。
「5mです」
 先輩は手でメガホンを作り、私に今の大きさを教えてくれた。先輩の頭はモモの辺りにあり、大きめの人形と言う感じでかわいい。私は先輩の方に近づき、しゃがみ、先輩を見下ろした。今の私には、しゃがんでも1階の屋根は顔の辺りにくる。
「・・・・・・私はどこまで大きくなりますか?」
「それを調べるのが、今回の実験です」
 知っていた回答が返ってきた。私は立ち上がり、校庭の方に向かった。振り返ると、先輩は相変わらずニコニコしながら私の方を見ていた。・・・・・・本当に、先輩は変わった人だなと思った。よくわからない人だなと思った。
 こんな仮想空間なんて作っちゃうし、急に私を巨大化させるし・・・・・・というか、試験だったら先輩自身でやったほうが都合が良いように思う。操作の都合とかあるのかな? 先輩なら、そんなのうまくやりそうな気もするけど・・・・・・よくわからない。
 やることも特にないので、校庭の方に向かった。心なしか、校庭が小さくなったように思えた。振り返って校舎を方を見ると、私がどれくらい大きいかがよく分かる。2階が1階になったような、そんな感じがする。いつもの私は大体モモの辺りだから、今の私は普段の3倍くらいの身長。3倍というと大したことないように聞こえるけれど、結構大きい。
 ・・・・・・退屈だなあ。この景色にも飽きてきた。次はどれくらい大きくなるんだろう。時計を見ると、あと1分で4時25分を指す。先輩を見ると、腕時計をじっと見ていた。

10m

 目の前にあるものが、2階の窓から3階の窓になって止まる。見えているもので言えば1階分大きくなっただけだけれど、景色は全く違う。窓ガラスは私の手のひらと同じくらいの大きさだ。そしてさっきの私はだいたい腰くらいの位置。2倍くらい大きくなったらしい。
「10mです!」
 下の方から、先輩の声が聞こえた。手でメガホンを作って叫んでいるけれど、私にとっては小さい声。先輩は膝よりも小さくて、ちょうど人形サイズ。私はお絵かきに使うデッサン人形を頭に思い浮かべた。世界一リアルなデッサン人形だ。
 私は校舎をよく観察してみることにした。腰を少し曲げて、3階を覗きこむ。普通の教室があった。好奇心から、私は指で窓ガラスを開けてみた。窓を全開にして手をすぼめれば、中に入れる。そして、机や椅子を指で軽くいじってみる。まるで、大きめの模型をいじっているような気持ちだ。
 一つ、机を掴んでみた。鷲掴みする感じで、机を掴む。冷蔵庫でジャムのビンを掴んでいるような、そんな感じがした。
 教室から手を出し、少し後ろに下がって学校を見上げる。校舎のそばに生えている木は、私の鳩尾の辺りにきている。普段は見上げる木を、今は上から見下ろして、触ることができる。背伸びして手を伸ばせば普通に4階の窓に手が触れる。もう少しで、私は学校よりも大きくなる。そう思うと、少しわくわくしてきた。
 現実世界ではこのムダな長身をコンプレックスに感じていたけれど、巨大化したら、もっと大きくなりたくなる。変な話だけれど、この巨大化を楽しんでいる自分がいる。
「楽しそうですね?」
「ひゃっ!」
 目の前から急に声がした。3階の窓から先輩がニコニコしながら、こちらを覗いていた。私は驚いて、変な声を出してしまった。うるさかったのか、先輩は一瞬、目を瞑って苦そうな顔をした。
「・・・はい、最初はびっくりしましたが、慣れてくると楽しいです」
「楽しんでいただけたようで、嬉しいです」
 私は小声で、先輩に囁く。先輩は相変わらずニコニコしながら、私の方を見てくる。・・・・・・妙に嬉しそうな先輩に、私は段々不安になってきた。普段は真顔でひたすらパソコンに向かっている人なのに。先輩はハッとして、腕時計を見る。学校の壁時計を見ると、もう、そんな時間になっていた。

50m

 目線がさらに高くなっていき、あっという間に学校よりも大きくなり、一気に見晴らしが良くなった。そして、さらに大きくなっていく。学校の屋根が、胸にきて、お腹にきて、そして膝上あたりまで小さくなって、私の巨大化は止まった。・・・・・・少し、大きすぎるように思えた。
 屋上を触るにはしゃがんでも小さすぎるくらいで、ぼうっとしていたら誤って蹴ってしまいそうなくらい小さい。私はその場で正座して、窓を覗く。気をつけているつもりだけど、もしものために、先輩の居場所を確認したかったのだ。
 正座すると、下半身の高さはだいたい2階くらいので、屋根は私の胸の辺りにきている。本当に、模型を見ているような気分になる。校庭を背中に向けて、背中を曲げて校舎の中を覗く。さっきの3階には、先輩はすでにいなかった。他のクラスを一つ一つ覗きこむ。
「佐藤さーん! どうかなさいましたか?」
 3階を覗いていたら、少し上の方から声がした。探すと、先輩は屋上で私の方を見ていた。
「50mです。まだまだ余裕ですよ」
 50m・・・小学生のときによく走ったけど、縦になるだけでこんなに大きくなるんだ・・・学校でさえこんなに小さいのに、屋上の先輩はキーホルダーみたいに小さくなっている。自分の不注意で踏んづけてしまわないか、不安になってきた。かといって、私がここから離れるくらいしか、思い当たる策がない。
 でも、それも心配だ。先輩はいつも神出鬼没。どこにいるかわからない。
 あるアニメのワンシーンを思い出した。妖精を肩に乗せて歩くシーンだ。でも実際にやると結構座りにくそうに思える。さあ、どうしよう。色々考えていたら、制服の胸ポケットが目に入った・・・・・・私は先輩に向かって、小声で話しかけた。
「・・・・・・あの、先輩。私、学校を壊してしまわないか不安なので・・・・・・もし良ければ、私のポケットに入りませんか?」
 言ったそばから、顔が赤くなっていくのを感じる。普通に生きていれば絶対に言わないような台詞だし、男性を胸ポケットに入れるというのも、あまり良くないことだと思う。けれども、先輩の安全のことを考えたら、これに勝る策は私には思いつかなかった。安全第一だ。
 私の発言には、普段は冷静無関心な先輩も、一瞬、きょとんとして私の方を見ていた。しかしすぐに、いつもの笑顔に戻った。
「・・・・・・はい、では失礼します」
 私は屋上の上に手の甲を乗せる。先輩は右腕に抱えていたパソコンをリュックにしまい、私の手のひらに乗った。・・・・・・まさに、ファンタジーの世界。恥ずかしさと楽しさと、先輩への愛しさのような、そんな感情が混ざって心臓がバクバクと音を立てている。
 私は先輩を落とさないように軽く手を握って、胸ポケットの位置まで右手を移動させる。先輩が自分から、ポケットの中に入っていった。先輩は180cmくらいの長身だが、ポケットに頭まで入ってしまった。本当に、ポケットにキーホルダーを入れたみたいで、潰さないか逆に不安になってきた。
 私はポケットの中を覗いてみた。先輩はリュックを降ろし、横向きの体育座りでちょうどポケットに収まっている。そして、腕時計をじっと見つめていた。

100m

 正座した状態で、私は再び巨大化していく。膝で校舎を破壊しそうになり、私は慌てて立ち上がった。そして、校庭の手洗い場の一部を破壊してしまった。やってしまったと反省する間にも、私の体はドンドン大きくなっていき、膝上サイズの校舎は踏み台サイズにまで小さくなった。
 ここまでくれば、私にも大体の大きさの検討はつく。さっきは50m。今はその2倍で、100mだ。
 今まで校舎ばかりを気にしていたけれど、周りを見てみると、私よりも大きい建物はない。それどころか、腰に届く建物すらない。10階建てくらいのマンションがいくつかあるけれど、どれも私のモモくらいの高さ。普通の民家は、ふくらはぎにも届かない。
 ・・・・・・そろそろ、校庭が狭くなってきた。今までの流れからいって、次は5倍の500m・・・・・・学校とその周辺を壊してしまう。今ならギリギリ、車道を通って平和に移動できる大きさだと思う。どこか、広い場所はないだろうか・・・・・・
「・・・・・・先輩」
「はい」
 ポケットの中から、先輩の小さな声が聞こえる。そろそろ、先輩とは話せなくなるだろう。イヤホンとかあればなと思った。
「広い所に移動したいのですが、どこか良い場所は知りませんか?」
「うーん・・・広い場所なら、川沿いの土手がありますが、そこもすぐに小さくなるでしょう。このままとどまって、この周辺を更地にしたほうが良いと思いますよ。あくまで仮想空間ですし」
「・・・・・・物を壊すのは、ちょっと抵抗があります」
「一定の割合まで破壊されれば、消滅するようになっています。校庭の手洗い場を見てください。何もなくなっているでしょう」
 目をこらして、足元を見る。さっき壊してしまった校庭の手洗い場が、そこだけまっさら平らになっている。
「そこら辺の家も少し壊せば、消滅します。それを繰り返せば広場ができます。安心してください、これは仮想空間です」
 先輩に言われて、民家を壊してみようとしたが、やはり抵抗がある。辺りを見渡せば、少し先に川があり、土手がある。私はそこを目指すことにした。できる限り物を壊さぬよう、慎重に、道路に足を置いて進んでいく。足の幅は道路よりも広く、一歩進むと周りのガードレールは消えていく。
 私はゆっくり、土手の方を目指した。まっすぐ行けばあっという間の距離だが、歩く場所を選びながらの歩行はそれなりに時間がかかる。
 ・・・・・・段々と不安になってきた。もうそろそろ、10分経過するのではないだろうか。胸ポケットを覗くと、ポケットの奥の暗闇で先輩はじっとしていた。

500m

 道路に足を置いた状態で、私の体が大きくなっていく。当然、足も大きくなり、周囲の家を消していく。仕方のないこととは言え、怪獣映画の怪獣のように、町を破壊するのは見ていて辛い。しかし、破壊されるのは最初の方だけで、ある程度壊れたらその家の敷地はまるごと土色の更地になるのだ。
 物を壊すことに抵抗を感じてここまで慎重に歩いてきたが、家がフッフッと消えていく様子を見るのは、結構面白い。五感のきく世界だけれど、ここはあくまで仮想空間なんだと、私はこの光景を見て、実感した。そうでなきゃ、私の身にこんなことが起きるはずがない。そう思うと、一気に気楽になった。
 巨大化が終わる。周りの建物は全て、私のくるぶしよりも下にある。多分、ミニカーの世界よりも小さいと思う。さっきまで目指していた土手も、一歩踏み出せば着くし、片足を乗せられるくらいの大きさしかない。
 ・・・・・・見晴らしが良すぎて、窮屈に感じる。今の身長は500m。日本国内で私よりも大きいものは山と電波塔くらいだ。私の足元には、元々数十個の建物があったはずだ。それらが、足をそこに置いただけで消滅してしまう。
 私は足を上げ、一歩進む。フッと、その周辺が土色の更地になった。私はもう、足元を気にすることなく、地面を歩く。そして、山を目指す。私と同じくらいの大きさの物のそばにいたいと思った。ここらへんで一番高い山は、確か1000mくらいの山があったはずだ。視界の中で私の目線よりも高い高い物は限られている。私はひたすらそれを目指す。
 ひとまたぎ何メートルくらいだろう。身長が500mだから、100mくらいかな? 1歩で100m、10歩で1km。1時間で1万歩というから、私の歩行は時速1000kmの超特急。進め、進め、山を目指して一直線。
 体感では、もうそろそろで10分が経過する。山まで走ろうと思ったけれど、胸ポッケに先輩がいるのを思い出して、落ち着いて、歩く。
 歩くごとに、目の前の緑が高くなっていく。ああ、物を見上げるのは久しぶりだなあ・・・・・・

1km

 ググッと、山が低くなっていく。そして、若干見下ろすような感じで、変化が終わる。
 現在の身長は1km。とうとうここまで大きくなった。普通に歩いて、さっきの倍の速さで山の方に向かう。少し下に見えた緑色の山は、近づけば自分よりもいくらか背の高い山だった。周りにも、自分より高い山はいくつかある。私は山肌を撫でる。山の木は私の指の2、3倍くらいの高さで、触るとチクチクしていて痛い。針山地獄という単語が、頭に浮かんだ。登ってみようと、私は山肌に足をかける。パリパリという音がして、足元の木が折れた。足をよけると、靴の形に荒らされていて凄く悲しくなった。
 私は山の周りを適当にふらつく。足元の建物は消えていくけれど、本当なら、全て壊されて瓦礫まみれになっていくんだ。その様子を想像すると、心が沈んでいく。私が通った後には瓦礫しか残らない。しかし、それはもう仕方のないことなんだ。この世界が、今の私にとってあまりに小さすぎるんだから・・・・・・
 私は山から離れて、海の方に向かう。海は広くて深い。そこで、水遊びをしたいと思った。軽く早足で、海の方に向かう。スカイツリーよりも高い位置からの眺め、地平線が、地球の丸みが見える。早足の最中、ポケットの中を覗いたが、もう小さすぎて何も見えなかった。仮想空間だし、多分大丈夫でしょう。そもそも作ったのは先輩だし。
 海辺に着いたらまず、しゃがんで表面を撫でた。手が濡れ、匂いを嗅ぐと、海の臭みがツンときた。さあ、水遊びをしよう。靴は・・・・・・脱ごうかどうしようか。周りの建物は私の靴よりもずっとずっと小さく、資料館にあるジオラマよりもさらに小さい。指で地面を撫でてみる。デコボコしていて、パソコンのキーボードの凹凸を触っているような感じがした。

10km

 指先の建物が益々小さくなる。ああ、もうそんな時間なんだ。私は立ち上がって、自分の大きさを確認する。世界が益々小さくなっていく。地平線は丸く、そして青白く輝いていた。足元を見ると、すでに海に浸っていることに気づく。そして、これは5倍ではなく、10倍くらいになったのかなと、私は思った。
 陸地の方を見れば、私よりも高いものはもうない。さっきのトゲ山も、今ではただの緑の凹凸に過ぎない。私は靴をはいたまま、沖の方に歩き出した。陸は平坦でも、海の凹凸はかなり激しい。下手に動けばあっという間に胸くらいまで浸かってしまう。
 私は慎重に、足元で地形を探りながら、一歩一歩進んでいく。目的地は特にない。探索だ。澄んでキレイだった海が、私が歩いたせいで、泥で濁っていく。心が痛むが、仕方のないことだ。
 ・・・・・・先輩は大丈夫かなあ、今の身長を10kmとして、先輩を2mとして、5000分の1の大きさ・・・どれくらいだろう、想像もつかないや。胸ポケットを濡らさないように細心の注意を払いながら、私は海を歩く。陸地ではあんなに小さく感じた地球が、今の私には、それほど小さくは感じない。
 海は広い。そう感じながら私は海を徘徊した。ああ、もう少し大きくなりたいな。

100km

 お腹の辺りまであった界面が、徐々に下がっていく。そして同時に海が狭くなっていく。あれだけ広く深かった海が、今の私には足湯程度のものになった。そして動けば、陸地を泥水で汚してしまう。
 私は海を横断して、別大陸へ進出するが、感じは全く変わらない。水たまりと凹凸があるだけにすぎない。青くキレイな惑星も、私が歩けば茶色く汚れてしまう。その汚れは、布巾で拭って取れるものではない。
 長い年月をかけて作られてきたこの美しい自然。それを、私という巨人がものの数秒で台無しにしてしまうんだ。元の美しさを取り戻すためには、また自然に長い年月頑張ってもらう他はない。・・・・・・仮想空間の出来事とはいえ、あまりにも酷い。私の罪だ・・・・・・
 私の頬を、ほろりと一筋の涙が伝った――


*****


 ・・・・・・まぶたで明るさを感じ、頬に触れる繊維のトゲを感じて、私はゆっくり目を開ける。
 顔を上げると、目の前では先輩がパソコンをいじっていた。壁の時計を見ると、時計の針は5時40分を指していた。普段の活動は4時で終了する。6時で全ての部活は終わり、それ以上残っていると見回りの先生に怒られる。
 私は椅子に座ったまま、ぼうっとしていた。先輩は相変わらずパソコンをいじっているし、私はただ座っているだけだ。・・・・・・全ては夢だったらしい。なんとも、奇妙で、後味の悪い夢だ。私はカバンを持って、立ち上がる。寝起きで体が少しだるいが、あまりに遅すぎる下校だ。親に怒られるかもしれない。
「先輩、さようなら」
「さようなら」
 先輩はいつも通り、ニコリと微笑んで、私を見送ってくれた。部室を後にして、校舎から出て帰路につく。夢の中で見た風景を、私は今、普通の大きさで歩いている。
手を伸ばしても2階はもちろん、1階の天井にも届かないし、歩いて家を踏み潰すこともないし、海に入れば普通に溺れてしまう。
 ああ、今の私はなんて、小さいんだろう。
「あ、1年のデカいのじゃん」
「あ、本当だ」
 帰り道に、バスケ部の人と会ってしまった。私は俯いて、足早にそこを去る。後ろで何かを言っているけれど、私は聞かないようにする。・・・・・・ああ、身長高いの、嫌だなあ。何度繰り返したかわからない愚痴を、また言う。
 私は顔を上げて、空を見た。・・・・・・赤い夕焼けに照らされた団地がとてもキレイだった。夢の中での私にとっては、あの団地も足くらいの高さしかなかった。この民家も、地面の小石くらいの大きさだった。
 ・・・・・・そう思うと、不思議と、肩の重みがとれていく。大きいといったって、別に2メートルあるわけじゃない。仮に2メートルあっても、私が人間であることには変わりない。巨人とアダ名をつけられても、決して巨人ではない。
 私は人間、そして女の子。この現実世界では、これは何があっても変わらないことなんだ。
 すっと気が楽になった私は俯くのをやめて、背筋を伸ばして、胸を張って道を歩いた。たいていの人は私よりも背が低い。でも、建物はもっともっと大きいし、今の私は、普通の女の子なんだ。
-FIN