遺伝子とドーピング

 5歳の美緒は大きな母親が自慢だった。295cmという人類史上最高身長の母親が自慢だった。お母さんと同じくらい大きくなりたい、物心がついた頃にはそんな願望を抱くようになっていた。
 しかし、美緒は年長にして身長95cm、来年には小学生になるというにも関わらず100cmに満たない低身長であった。周りの人々は、まだ年長だからと、小学校に上がったら伸びると口を揃えて言うものの、美緒はその日が待ち遠しくて仕方がなかった。どうせ伸びるのなら、今のうちに伸びてほしいと思っていた。しかも最近、兄の身長が母親には遠く及ばず父親くらいの背丈で止まっていることに気が付き、自分もそうなってしまうのではないかと不安を覚えるようになっていた。
 勇太郎は自分の低身長に悩んでいた。中学1年生にして155cmと標準的であった。これは成長期が遅いのではなく、むしろ早すぎたからこその低身長であった。その事実は勇太郎の悩みを一段と深刻なものにしていた。小学2年生の頃には彼は現在の身長に達し、父親の翔太を超えた自分を誇りに思っていた。そして将来は母親を超えるほどの巨人になることを当たり前と思っていた勇太郎であった。しかしその後彼の身長は1センチも伸びることはなく、今に至るのであった。

 勇太郎の母の兄、つまり伯父にあたるハルキが家にやってきた。身長185cmという高身長のハルキを勇太郎は苦手に思っていた。やがてはこんな伯父なんかよりも巨大になるとかつては思っていたが、遠く及ばず成長期を終えようとしている彼をハルキは無意識に刺激した。
「おー勇太郎、元気だったかー?」
 ハルキは数年ぶりに出会った勇太郎の頭をワシャワシャと撫でる。小学校低学年までは喜ばれたこの動作も、今の勇太郎には侮辱に感じられた。勇太郎はムッとした。それに気がついたハルキは昔の自分を思い出して、自分の経験に沿ってこんなアドバイスをした。
「勇太郎はいま中1か。きっとこれからでっかくなるぞ!」
 それを聞いて勇太郎はさらにムッとして、どこかに行ってしまった。ハルキがまずいことをしたなと思っていると、後ろから翔太が姿を現した。
「お義兄さん、勇太郎の前で身長の話は禁句です」
「ああ、すみません。昔のノリで接してしまって」
 翔太は申し訳なさそうな微笑をハルキに向ける。小柄な体躯に丸々膨らんだ腹部、ビール腹をハルキに向けながら、翔太は小さく会釈する。
「あいつ、小3くらいから身長が伸びていないんですよ。だから今後も伸びないんだろうって、ふてくされていて」
「ああ、そうだったんですね・・・・・・」
 翔太は小さな体をさらに小さくして、お辞儀をした。ハルキはいじける勇太郎のことを思い出しながら、もう一度過去の自分を思い出す。妹に抜かされ、長身の従兄弟に嫉妬していた少年時代。
 従兄弟・・・・・・その単語を思い出すなりハルキはニヤリと笑って、勇太郎を探した。勇太郎はすぐに見つかった。
「勇太郎くん、さっきはすまなかった」
「・・・・・・」
 勇太郎は伯父の言葉を無視して、つまらなそうにゲームをしていた。
「いい話があるんだ。僕の従兄弟が成長の研究をしていてね、背を伸ばす薬を開発したらしい。よければ、従兄弟のところにラボ見学に行ってみないか? もしかしたら、薬をもらえるかもしれないぞ」
 勇太郎はぱっと目を輝かせた。そして無表情で伯父の顔を見上げた。
「・・・・・・本当?」
「ああ、嘘は言っていない。薬がもらえるかはわからないが、きっと何かの役には立つさ」
 実はお母さんもその薬で大きくなれた・・・・・・というところまでは、ハルキは言わなかった。母に効果が表れたからといって、息子も同様かはハルキにはわからなかった。万一関係がないとわかった時、さらに勇太郎を失望させてしまうとハルキは思った。
 それから勇太郎とハルキはチャットアプリのIDを交換した。勇太郎はそれからは上機嫌で伯父と遊んだ。



「ここが研究所・・・・・・」
 勇太郎は妹と手をつないで、伯父の言っていた研究所の前で立っている。警備員の立っているドアを白衣が何度も出入りする。そんな絵に描いたような研究所の風貌に、勇太郎の心拍数は徐々に増していった。
「ねーねー、ここなーに?」
「伯父さんの従兄弟の研究所。お前、おとなしくしてろよ!」
 美緒は兄の声が聞こえないと言った様子で、そわそわしながら周りを見渡す。父母が不在であり、自分が連れていかざるを得なかったことに苛立ちを覚えながら勇太郎は美緒の肩を揺らした。研究員が怪訝な表情で勇太郎を見ては、彼はビクリとした。
「あら、もしかしてトシくんの言っていた、勇太郎くんかな?」
 女性の声がした。勇太郎が振り向くと背の高い綺麗な女性が、腰を曲げて勇太郎を見下ろしていた。
「初めまして、坂本勇太郎って言います!」
「初めまして。今研究室に案内するね。広くて大変だったでしょー」
 女性は腰を伸ばし、勇太郎の手を取って研究所の中に入った。エレベータに乗っている間、勇太郎は女性のことを下から上まで見回した。巨大な母の息子ではあるが、ヒール込みで身長180cmの女性というのは普通に珍しい。また、その美貌は思春期の少年を惚れさせるには十分な刺激であった。
 エレベータが到着し、研究室に入る。壁一面に本棚が立てられており、机には書類が散乱し、実験装置も多かった。
「トシくん、自分の部屋でも実験しちゃう人だから。触ったりしないようにね。私は隣の実験室にいるから、何かあったら来てね」
「は、はい! ありがとうございました」
 女性は勇太郎に向かって柔らかく微笑み、ドアの向こうへと消えていった。勇太郎はその笑顔で、彼女の美貌に完全にやられてしまった。女性がいなくなってからも勇太郎の頭には彼女の3Dモデルが動いていた。美緒があちこち動いていることにすら気が付かず、己の煩悩に夢中になっていた。
 綺麗な実験装置、古びたビーカー、ピペットマン。小さなマウスや大きなマウスをひと通り見終わったあと、美緒は引き出しを開け閉めしだした。中には様々な瓶詰めの薬品が入っており、ラベルには英数字が書いてあった。幼稚園児の美緒は英数字を見ると興味無さげに引き出しに戻したが、一つ、かな漢字のラベルがあり、美緒はそれに目を引かれた。
 成長補助剤(仮名)(試作品)(最終調整済)(注、原液、10倍以上に希釈せよ!)、デカクナール(製品名)(仮名)
 美緒はそのカタカナに目を引かれた。兄のやっていたゲームに飲むと巨大化する薬が出てくるのを美緒はよく覚えていたが、それと同じ名前の薬が目の前にあることに気が付き目を輝かせた。そして美緒は、ビンの蓋を開けて薬を飲み干してしまった。空になったビンを引き出しに戻し、再び引き出しを物色しようとしたところで1人の男性が部屋にやって来た。
「おまたせ、待たせたね勇太郎くん。それと・・・・・・ああ、そこにいた、美緒ちゃん。えーと、何の用だったっけ?」
 妄想にふけっていた勇太郎ははっと驚き、彼に向かって慌てて挨拶をする。そして2人は研究室で例の薬についての話を目の前の博士から聞いた。
 薬をもらえることを期待してここまでやってきた勇太郎だったが、商品化したために企業秘密として外部に漏らせないことを知ってはわかりやすく肩を落とした。
「まあまあ、そんなに落ち込まないでくれ。これがパッケージの草案らしい。サプリメントにして売る予定だ。これが試供品だ、できたてほやほやだぞ。飲んだら正直な感想を送ってほしい。じゃあ、そろそろ遅いな。気をつけて帰るんだぞ」
 勇太郎にサプリメントのチラシを押し付け、博士は2人を研究室から追い出す。兄はがっかりした調子で、妹は上機嫌で元きた道を帰っていった。
 一方博士はしばらくぼうっとしてから、引き出しを開けて例の薬を確認した。
「ああ、いけない。実験に使ったきり補充してなかったか。これは保存用だから、金庫に入れておこう」
 彼はマジックを手に取り、数字の10の隣に0を一つ書き加えて100にしてから、ビンを持って実験室に向かった。



 勇太郎は研究室に行って以来、毎日欠かさず貰ったサプリメントを飲んでいた。試供品がなくなったら、通販で手に入れて毎日飲んでいた。しかし一向に効果は表れなかった。パッケージには『最初だけじゃない! 一度飲めば無理のない持続的なアップグレード』という文句が書かれているが、勇太郎には最初の効果すら表れなかった。博士に相談しても、生物実験に個体差はつきものだと一蹴されてしまうのみだった。
 一方で美緒は急成長を遂げた。母親似の美緒は身長も母譲りで、何もせずとも300cmを突破する運命にあったもののその成長力は薬で更に強化された。
 小学校に入学する頃には160cmと兄の身長を超え、学校の児童で美緒よりも大きいのは高学年に5人といなかった。担任の女先生よりも大きかった。そして年々40cm以上背を伸ばしていき、2年生で200cmを超え、4年生で300cmを突破し母よりも、学校の天井よりも大きくなった。しかし中身は子どものままであった。幼児向け魔法少女アニメを高学年になっても鑑賞し、魔法のステッキで巨大化する様子を見てステッキを欲しがるような、そんな少女だった。

「お兄ちゃんいくつー?」
「えーと・・・・・・400cmジャストだ」
「やったね!」
 セーラ服姿の少女が横になり、兄が巻尺で彼女の身長を測る。今日は小学校の卒業式。新品の制服に身を包みながら、卒業生の少女はそんなことをしていた。
「シワには・・・・・・なっていないみたいだな。ったく、世話が焼ける」
「お兄ちゃんありがとうねー。だって、小学校最後の身長、気になるじゃん」
「どうせいつ測っても、馬鹿みたいに伸びてるんだろ?」
「うーん、女子の成長期は小学生で終わりって言ってたから、もう止まっちゃうかも・・・・・・お兄ちゃんのサプリ、飲んでもいい?」
「やめろ! ってか、まだでかくなりたいのかよ・・・・・・」
 2倍以上の体格差のある妹を見上げる勇太郎の横を、巨大な太ももが通過する。
「美緒ちゃーん、行きましょー」
「あ、ママ行くー!」
 勇太郎の2倍ある母も、美緒と並ぶとまるで母娘が逆転したような体格差となる。美緒の胸くらいの位置に母の頭があるのだが、そんな身長差以上に美緒の肩幅は母のそれの1.5倍ほどあり、美緒のほうが数回り巨大に見える。そんな体格逆転母娘は仲良く玄関をあとにして、小学校へと向かった。気持ちが高まり、背伸びして電線を触る美緒を微笑みましく眺めながら、母はカーブミラーで化粧落ちを確認した。そんな巨人母娘を周囲は微笑ましく思いながら見ていた。



 シホは机の上に置かれたビンをじっと見ていた。つい最近、シホの従兄弟から送られてきたものだ。その中身は、6年前に美緒が誤飲したものと全く同じものであった。
「ま、まずはちょっとだけ・・・・・・」
 シホは小さなスプーンで一杯分だけすくい、それを口に含む。齢40になったシホにはひとつ悩みがあった。体が大きくても老化は進む。化粧で隠そうにも、巨大な肌面積を覆う化粧は普通の人よりも目立ってしまう。美緒には敵わないとはいえ身長295cmの巨躯を持つシホは町を歩けば目立ち注目される。そんな周囲の視線をシホはかつて好んでいたが、最近目尻の小皺に気がついて以来、人目に敏感になってしまっていた。
 そんな時、従兄弟の開発した薬にアンチエイジング効果があるとの話を耳にした。美緒の急成長が従兄弟の薬のせいというのは勘付いていたものの、シホはなんとなくそれを公言したくなかった。しかしその副作用を知ってより直ちに従兄弟に連絡し、無理を言い、時に脅すようなことを言って薬の原液を送ってもらった。しかしいざ薬を服用するとなると、途端に気が引けてしまった。目的が切実であるがゆえに、シホは昔のような豪傑さを発揮できなかった。
 シホは水を飲んで口内の薬物を洗い流し、ふうと小さくため息をついた。
「ただいま―!」
 ドアが開き、ゴンという鈍い音がしてから中腰の美緒がリビングに姿を現す。シホのために立てられたこの家は天井500cmと非常に開放的なつくりであったが、すでに500cmを突破した美緒にしてみれば窮屈だ。少し離れた所で新築を建てようという話が出ているが、完成はまだまだ先のことである。
「おかえり、美緒ちゃん」
「ただいまー! あ・・・・・・」
 美緒はテーブルの上のビンを見るや、目を輝かせながら手を伸ばしてそれを飲み干した。あまりに急なことにシホは一瞬何が起こったのかわからなかったが、やがて事の大きさを実感した。
「え・・・・・・美緒ちゃん、何してるのかな?」
 シホはゆっくりと立ち上がる。目の前には美緒の腰がある。
「これ、デカクナールでしょ? ママは飲んじゃダメ!」
 そう言ってシホの額に巨大な指をちょんと当ててから、美緒は自分の部屋に向かった。シホはしばらくの間、その場で呆然としていた。
 1年で美緒は110cm身長を伸ばして510cmになり、ついに家の天井よりも巨大になった。美緒はその成長を大いに喜んだ。しかしその反面この急激な成長期を不安にも思っていた。保健体育の教科書で、ある一年に急激に伸びてそれで止まってしまうタイプの成長期を過ごす人もいるのだと知り、美緒は自分がそうではないかと不安を覚えていた。来年からは1ミリも伸びなくなるのではないかと思った。そんな不安を抱えた美緒の目に入った、母親と成長薬の存在は美緒に不安と希望を与えた。美緒にできる最良の行動が先のものであった。

 美緒の成長期は薬の効果でいくらか延長されていたが、さらなる薬の効果でそれは益々激しいものとなった。1年で240cm伸ばし、750cmとなった。美緒は普段は屋外から教室の中を覗いて授業を受けているのだが、750cmともなれば2階の教室でも中腰にならないと中が見えない。また、式典のあるときは他の生徒と同様に体育館に入っていたのだが、正座でも360cmと天井よりも高くなった。無理に入るには匍匐前進をする必要があるのだが、肩幅140cmの巨体がする匍匐前進は学校を破壊してしまうため、それ以来美緒が校内に入ることはなかった。

「――って言われてさ、落ちちゃったの! ひどくなーい?」
「いや、お前が馬鹿なだけだろ!」
 美緒は正座をして、それでも半分に満たない兄を見下ろしながら口調を荒くしていた。今日は美緒の高校受験の日であるが、美緒は試験を受けることすらできなかった。
「案内のお姉さんがいて、中にどうぞって言われたの。で、言われた通り中入ったけど狭いから色々壊しちゃって、すごく怒られた。で、今度は入らないでって言われて」
「そもそも入れないってわかってんだから入るなよ」
「だって、やってみないとわからないじゃん! もー、むかつくー。もっと大きくなって、踏みつぶしてやりたい!」
「やめろ、冗談に聞こえないから。てか、まだでかくなりたいのかよ・・・・・・はあ。お前、中学卒業したらどうするんだ?」
「先生にお仕事紹介してもらったから、大丈夫かなって。働くんだったら、町の外がいいなー。電線邪魔だもん」
「まあ、そうだな」
 4月、900cmになった美緒は腰くらい、もしくは頭ほどの高さに張り巡らされた電線を交わしながら、町の外に向かった。勇太郎も一緒についていった。SOHOを使って自宅から仕事をこなす勇太郎にとって、場所は関係ない。妹を心配して、彼もついていくことにした。



「美緒ちゃーん、こっちもよろしくー」
「はーい」
 美緒は地面を足で軽く均してから、膝を曲げて思い切り真上に向かって跳躍する。数秒後、あたりを小さな地震が襲った。土は美緒の体重によって固められ、小人にとって歩きやすくなった。そんな工事の様子を横目で見ながら勇太郎は広い自宅で仕事をこなしていた。
 町の外に出てから美緒は活発になった。正確には、今までは環境のせいで持ち前の活発さを発揮できていなかった。人里離れた僻地で思う存分に動き回れる現在、美緒は健全な成長に必須の適度な運動習慣を持つことが可能となった。美緒は巨体を活かせる仕事なら何でもやった。成長期も手伝い、美緒の身長は5月現在1000cmとなっていた。1ヶ月で100cmも背を伸ばした。この調子で行けば来年には20mを突破するなあと頭の片隅で想像しながら、今日も勇太郎は淡々とデスクワークをこなす。
 
――キキーッ!
 土でできた地面をタイヤが滑る音が聞こえたかと思えば、甲高いブレーキの音が勇太郎の耳を刺す。インターホンも鳴らさずに1人の長身な男が、足音を荒くして家に上がり込んできた。博士がやってきた。
「勇太郎くん! ちょっといいかな?」
「トシさん。インターホンくらい鳴らしてください」
「ああ、すまない」
 博士はもう一度玄関の外に出て、インターホンを鳴らす。勇太郎は首をかしげながら玄関に向かった。
「・・・・・・はい」
「ああ、勇太郎くん、急に済まない。今大丈夫か?」
「はい、まあ」
「君の妹さんの、美緒ちゃんのことで話があるんだが――」

 ――砂ぼこりを立てながら車が去っていく。勇太郎の手には一本の注射器が握られていた。1.5リットルペットボトルくらいの長さと太さを備えた、巨大な注射器だった。妹を説得してこれを注射せよ、博士の言ったことを端的にまとめればそうなった。
『美緒ちゃん、シホちゃんにのみ共通する特殊な遺伝子が見つかった。彼女たちの応答性の高さはここにあるんじゃないかと僕は睨んでいる。僕の仮説が正しければ、この薬を注射すれば遺伝子が活性化する。これは世紀の大発見だ。遺伝子操作と薬物で、ここまで安定した過剰成長を実現できるなんてな! 将来は細胞成長のコントロール及び人工臓器への応用が――』
 博士の興奮した口調が、勇太郎の脳裏に焼き付いて離れなかった。この研究に意義があるのは素人の勇太郎にもなんとなくわかった。しかしそのために妹を、ただでさえあんなに巨大化した妹を犠牲にするのはどうなのかと、兄としての倫理が伯父への協力を妨げていた。10m、これは美緒の現在の身長であり、同時にこの家の天井の高さでもある。急成長を予想できる以前に立てられたこの特注の家はすでに美緒には窮屈なものとなっていた。立て直しの計画が現在進行形で進んでおりすでに最終段階なのだが、さっき計画の変更が必要になり、勇太郎は頭を痛めた。
 ガチャン――
「ただいまー! あれー、それなーに?」
 勇太郎ははっとした。空が赤くなっていた。何時間経ったのか、仕事はどこまで進めていたか、さっきまでの悩みに加えたあらゆる心配事が一気に勇太郎の脳内を占拠した。
「あートシさんがさっき来てな」
「トシさん! で、それ新しいお薬? 今回のは注射なんだね!」
「あ、ああ。お腹とかに刺すらしいぞ」
「それ知ってる、お父さんがやってたやつでしょ! 任せて!」
「あ、いや。ちょっと!」
 勇太郎が止めようとしたつかの間、美緒は巨大な注射を躊躇なく腹部に刺した。勇太郎は頭が真っ白になった。美緒はそんな兄に向かって、無邪気な笑みを浮かべた。
「これで、もっと大きくなれるかな?」
 勇太郎は呆然としながら、目の前に立つ、自分の肩幅以上に太く巨大な足首を見つめるしかなかった。



・・・・・・ミシミシ、ミシミシと家が悲鳴をあげる。見た目は3階建て、実際は1階建ての美緒専用の家が悲鳴をあげていた。勇太郎はそんな不気味な軋みで目を覚ました。
「ん? なんだ?」
 隣に寝ているはずの美緒の方を振り返り、勇太郎はぎょっとした。美緒の足が家の壁を圧迫していた。昨夜までは美緒が横になってもまだいくらか遊びが残る設計になっていた。しかし今、美緒は膝を曲げた状態で横になり、頭と足で壁を圧迫し今にも家を破壊してようとしていた。
 勇太郎は飛び上がり、パジャマ姿で車のキーを手にして外に出た。エンジンをかけ、車を走らせた瞬間に後ろの方で爆音がした。500mほど走ったところで車を止め、家の方に小走りで戻った。
 現在の家の有様を見て、勇太郎は呆然と突っ立っていた。巨大だった家がまるでドールハウスのように小さくなり、下半分は破壊されており、あたかも美緒の恥部を隠すかのごとくちょこんと股間に添えられていた。目の前には太さだけで勇太郎の4倍はありそうな巨木が横たわっていた。これが動いたらと思うと勇太郎はぞっと背筋を震わせたがそれは直ちに現実となった。
「ん、うーん・・・・・・」
 重低音が周りの木々を震わし、巨木動き始めた。勇太郎は巻き込まれないようにと車を目指して走りだした。
「あれ? お兄ちゃん?」
 美緒が反射的に勇太郎に手を伸ばす。勇太郎の3倍ほどの壁が猛スピードで勇太郎を襲った。壁は優しく彼を包み込み、今度は上昇を開始し勇太郎の体にGをかけた。
「お兄ちゃん、どうしてそんなに小さいの? あれ? ここどこ、おうちじゃない」
「お前がでかくなったんだ!」
「ん? ・・・・・・あー、そう言えばお注射したね。えへへ、また成長しちゃったー」
 目測10倍ほどに巨大化しても呑気な妹に、勇太郎は小さくため息をついた。これからどうするのか、どうやって暮らしていきのか、また家を建てるのか、自分の仕事はどうしようか。勇太郎は次々と湧き上がる不安に頭痛を覚えた。
「あ、見て! 朝日だよー」
 そう言いながら美緒は手のひらを上昇させて、兄に朝日を見せる。規則正しい生活をしているとこの時期には中々見られない朝日、オレンジ色があたりを鮮やかに照らした。
「ねえねえ、町に出てみない?」
 相変わらず呑気な妹に、勇太郎はただ首を縦に振ることしかできなかった。その途端、妹は立ち上がり、足元を気をつけながら町へと向かった。

「がおー、怪獣だぞ―」
町に身長に足を踏み入れながら、美緒は小さな声でそう言った。
「おい、シャレにならないからやめろ」
「えへへ、みんな小さいなー」
 足元には高校の校舎があった。4階建てで15mほど、町では1番大きいが、身長100mの美緒と比べると膝にも届いていない。
「ちょっと前に踏み潰してやるーとか言ってたけど、本当に潰せちゃうね」
 美緒は足を軽く浮かせて、校舎の真上で足を浮かせた。美緒の15mの足は足にしてはとてつもなく巨大だが、高校の屋上に備え付けられた20mプールにすっぽり入るくらいには小さかった。兄は小さくため息をついた。
「・・・・・・遊ぶのは勝手だが、慎重にな」
「わかってるって! ・・・・・・あれ?」
 突如、勇太郎の下に引かれていたカーペットが揺れだす。そして次の瞬間にはその面積をグイグイと増していった。美緒は変化していく周囲の状況に酔いを覚えながらもなんとかして平衡感覚を保ち続けた。美緒の足は、校舎を丸々覆えるくらいに巨大化していた。
「うわ、なんかまた大きくなった」
「あっぶねー。まだでかくなんのか・・・・・・」
 指の太さだけでも勇太郎の2倍はある。500mの少女は宙ぶらりんの75mの大足を校庭に置いた。その時フェンスやらサッカーゴールやらをいくつか破壊した。
「おい! なんか色々壊したぞ」
「だ、だって。他に置くとこないし・・・・・・」
「く・・・・・・これ以上被害を出す前に、山の方に戻ろう」
「う、うん」
 少女は来た時以上に慎重な、そして巨大な一歩を踏み出しつつ、山に戻っていく。朝日が上り、家から顔を出す人もちらほらいる。誰もが上空を移動する全裸の少女をぽかんと見上げ、空気の重い振動を感じ取った。
「うー、さすがにちょっと恥ずかしい・・・・・・」
「我慢しろ、もうすぐだ」
 町の人々に見送られながら、少女は山の向こうへと姿を消した。少女が見えなくなり、町には日常が戻り、止まっていた時間が動き出した。

 少女は山の後ろに隠れるようにしゃがみこんでいた。彼女は今後、どこでどのようにして暮らしていけばいいのか。遺伝子とドーピングによって巨人と化した少女が人ならざる生涯を人並みに全うしていくのは、また別の話である。
-FIN