ミミちゃん

 学校に向かう途中、私は頭をガシッと鷲掴みされた。
「よ、今川。今日も小さいなー」
 頭をわしゃわしゃと撫でられて、胸がイラッとする。せっかく大人っぽくセットした髪なのに、こんなことをされちゃ敵わない。
「ちょっとー、ヘアが乱れちゃうからやめてよ」
「はは、悪い悪い」
 やめてと言ってもやり続ける。西村均、私の天敵。私の次に背の低い、130cmのチビ男子。チビだから、もっとチビな私を馬鹿にすることしかできない残念なやつ。本当はもっと怒りたいけど、私はこいつにそんなことはできない。
「・・・昨日、プリントありがとう」
「どうも。体調、大丈夫なの?」
「うん、薬飲んだら治ったよ。ありがとう」
 また、わしゃわしゃと、さっきよりも激しく頭を撫でてきた。学校に戻ったら、化粧室で髪型を直さないと。ああ、怒りたい。でも怒れない。それなら、私は大人になって耐えるしかないと自分に言い聞かせて、我慢して撫でられてみる。でも、やっぱり撫でられるたびに嫌になってくる。
 ああ、どうして私だけがこんな目にあるんだろう。それはきっと、私の背が低いからだ。背が低いからみんなに馬鹿にされる。ああ、大きくなりたい。私は小学5年生なのに120cmしかない。1年生でも、私より高い子がいるくらいだし、ショック。
 学校では、黒板の上の方に手が届かないし、体育だと馬鹿にされるし。私は本が好きだけど、図書室の本棚の上の方には手が届かない。台を探していると、隣に小さな男子がいるのに気がついた。
「どれ? 僕が取るよ」
 嫌々ながら、私は本を指差す。均くんは背伸びをして思い切り腕を伸ばして、取ってくれた。
「はい」
「・・・ありがとう」
 悔しいけど、少し嬉しい。意地悪なのにたまに優しいのが逆にムカつく。人の感情を弄んでいるようで、気に入らない。でも、そんな優しさも嬉しいと感じてしまう自分がいる。私に友達なんて言える人はいない。均くんは、ただの近所付き合い、それでも嬉しい。私はお礼だけは言って、図書室から出て家に帰った。
 学校からの帰り道、道のど真ん中で中学生がたむろしていた。他の子だと避けてくれるのに、私が小さすぎて見えないみたいで、むかつく。
「どいてください!」
 勇気を出して叫ぶと、私に気がついたお兄さんが道を開けてくれた。私はお兄さん達の間を通って前に進む。どきどきしながら通り切ると、後ろでお兄さんがこそこそと何かを話している。きっと、私を馬鹿にしているんだ。ああ、本当に嫌になる。嫌になるけど、黙って耐えるしかできない自分がもっと嫌になる。
 学校から帰ったらミミちゃんに話しかけるのが私の日課。机の上で、ミミちゃんはいつも私の帰りを待っていてくれる。とても優しい子。
「ねえ、どうして私はこんなに弱いのかな?」
「弱くないよ。さっきだって中学生のお兄さんに向かって大声出したじゃん」
「あれは、中学生が小学生に手を出したら周りの大人が来るから、安心してできているだけ。そうじゃなかったらできない、私は卑怯者なの」
 ・・・ミミちゃんは答えてくれない。私が1番お話ししたい時、ミミちゃんは黙り込む。だって、ミミちゃんは人形だから。私の悩みを聞くことなんて最初からできない。それでもミミちゃんは私の唯一の相談相手。
 私はミミちゃんを元の位置に戻した。早く買い物に行かないと混んじゃう。私はお財布と鍵とエコバッグを手にして玄関に向かった。

「ただいまー、ヒナ。いいものができたんだぞー」
 お父さんが笑顔をぶら下げて帰ってきた。どうせまた、変なくだらない発明でも作ったんだと思う。はっきり言って、時間の無駄。
「何作ったの?」
 でも、私は大人だから我慢して聞いてあげる。わざわざ私の部屋から玄関まで足を運んで、お父さんの話を聞いてあげる。馬鹿なことで騒いでいる人に馬鹿なふりをして乗って楽しませてあげるのが大人なんだって、私は思うから。
「成長期を伸ばす薬だよ。ヒナ、欲しいって言ってただろ?」
「成長期を、伸ばす?」
「そう。ヒナもやがて成長期を迎えて背が伸びて女性の体になって、やがて止まる。その期間を長くするんだ。そうすれば、トータルではより大きく成長するわけだ」
 成長する、という単語に私の胸がどきっとした。お父さんも、たまには役に立つものを作るじゃない。
「それ、どこにあるの?」
「ここにあるよ。さあ、飲んで感想を聞かせてくれ」
 白衣の内ポケットからスクリューボトルを取り出して、私に渡した。普通の人なら、こんな怪しい薬は飲まないと思うけど、私は飲んじゃう。お父さんは馬鹿だけど、お父さんの作るものはどれもすごい。変なものばかり作るけど、どれもすごいんだから。私はもらった薬を勢いで一気に飲み干した。
「まずい」
「そうかあ、頑張って飲みやすくしてみたけど、まずいかあ」
「まずいけど、効きそう」
「はは、効くぞー、大きくなれよー」
「うん!」
 私はお父さんに向かって満面の笑みを作ってみせた。その瞬間ピンポーンとインターホンが鳴って、お父さんが靴を履いたままドアを開けた。
「ああ、均くんか。入って入って」
 ペコリとお辞儀をして入ってくる彼。そして家に上がるなり、真っ先に私の頭を撫で始めた。今は髪を下ろしているから別に怒る理由はないはずなのに、なんとなくムカつく。
「・・・今日は、八宝菜の作り方を教えます!」
「お願いします。ヒナ先生」
 見るからに不自然な作り笑顔を貼り付けて、手を合わせる均くん。なんとなくムカつくけど、怒ることはできない。私よりも辛い経験をしてきた人だから、怒ろうとすると胸がチクチクと痛んでくる。私は彼のムカつく行動も、先生として耐えてみせるんだ。
 それに、今は機嫌がいい。今に見てろ、私はあんたよりも大きくなってみせるから。そしたら毎日頭を撫でて、人形みたいに扱ってやる。それまでせいぜい、私のことを馬鹿にしていなさい!



 薬を飲んで3年が経った。小学5年生だった私は中学2年生になり、学校指定のセーラー服を着て学校に向かう。私のために作られた、特注の大きなセーラー服。昔は小さいせいで同級生と同じサイズのものが切られなくて嫌だったけれど、今は大きすぎて既製品が着られなくなった。
 私は今の自分の身長がとても嫌いだ。
「うわー! 巨人がやってきたぞー!」
 私を見かけるなり、ガキな男子はそんなことを言って私から逃げていく。本当に、朝から人をイラつかせる。これだから男子は嫌いだ。中学生になってガタイは良くなっても、心は本当に幼い。
 今の私は身長180cm、私より高い男子はまだいるけど、この調子で伸び続けたら来年には200cmになっちゃうかもしれない。
「おはよう」
 胸の辺りから声がした。均くんだ、今の私が1番会いたくない人の声。私はその人と目を合わせずに、挨拶だけをする。140cmの彼は小さすぎて、普通にしていれば視界にも入らない。こういう時はこの身長も、少しは役に立つ。
「おはよう」
「お前、本当に身長伸びたよなー」
 こんなことを言ってくるから、嫌い。他の男子に巨人って言われるよりも、この人に身長伸びたって言われる方が胸がチクチクする。ああ、身長縮めたい。縮んで、普通の私になりたいと毎日願っている。
 背の順で並んでも、私も次の背の高い女の子は165cmだから、私のところからでも、彼女の頭の上を飛び越えて前が見えてしまう。運動会のムカデ競走では、私だけわかりやすく飛び抜けてて恥ずかしかった。
 身長が高いと手足も大きくなって、みんなによく比べようって言われる。足は27cmあって女子だとダントツで大きいから、下駄箱とかで靴が並んでいるとすぐに私のだってわかる。手は、指が細長いからぱっと見た感じだと大きく見えないのに、比べると関節1つ違うし、その関節1つ分は他の女子よりも長いから、実質関節2つ分に見える。
 こんな私をモデルみたいで綺麗だって言ってくれる人もいるけど、そんな言い方が1番嫌い。褒めてくれているのだと思うけど、私は別にモデルに興味はないし、そんな優しさがとても辛くなる。ああ、これも全部、あの薬のせいだ。あんな薬を飲んだ自分を殴りたい。
 
 私は今、お父さんと向かい合って座っている。私よりも大きかったお父さん、今ではすっかり抜かしてしまった。
「お父さん、私は3年前、お父さんの作った薬を飲みました」
「3年。そうかあ、もうそんなに経つのかあ」
「これは伸びすぎでしょ!」
 成長期を伸ばす薬と聞いていた。なのに私は飲んだ時から年に20cm伸ばすようになり、6年生で140cm、中学生になって、160cm。この頃は良かった、クラスの女子では1番背が高くて、気持ちよかった。でもそれからの成長はあまりに行き過ぎ。中学生になっても止まることなく、2年生で180cm、そして今も伸び続けている。
「ねえ、止める薬ってないの?」
「まあ、最初の1年で異常を感じてから作ってはいるんだけど、早くも2年経った・・・て感じ」
「もう・・・これから私、どうしよう・・・学校では巨人って言われるし、洋服とか男子より大きいし、体重も60台だし」
「180で60台は普通っていうか、痩せすぎだぞヒナ」
「うるさい! お父さんにはわからないの、この乙女の気持ちが」
 私の頭にふっとある人の顔が浮かんだ。こんな時に思い出したくなかった。お父さんのお茶のペットボトルを奪って飲み干す。
「あー、それは!」
「え?」
「そのー、阻害剤を作ろうと思ったんだけど、逆に効果が強まっちゃって」
「・・・なんでそんなものを、ここに置いといたの?」
「いやー、せっかくできたんだから見せようって思って・・・」
 いま飲んだペットボトルに目を落とす。中はすでに半分くらい空っぽ、今後どうなるのかという恐怖が私を襲うかと思いきや、急に全てがどうでも良くなってしまった。ああ、私は不幸だ。チビに生まれて好きな人に馬鹿にされて、大きくなろうとして大きくなりすぎて、みんなに馬鹿にされる。最悪、こんな人生、いらない。
「お、おいヒナ! 泣くなよ、お父さん頑張るからさ」
「・・・ぐすん。お父さんにはわからないよ。私の気持ちが」
「ヒナ・・・」
 私の後ろにそっときて肩を撫でてくれる。そんな気遣いに少しでも心が救われている自分が情けなくなってくる。
「大丈夫だよヒナ、人生は長いから、大きくなってよかったって思える日が来るって」
「・・・無責任」
「はは、確かにそうだな。俺に言う資格はない。俺にできるのは薬を作ることだけだ。2年経ったが希望は見えてきた。ヒナ、もう少し待っていてくれ」
 机に伏せて、涙でくしゃくしゃになった顔を隠しながら私は頷いてやった。
「笑顔でいいのかい?」
 ペットボトルの後ろから、ミミちゃんがひょこっと顔を覗かせる。そう、言われなくてもわかっている。笑顔になっても、問題は何も解決していない。解決するかもわからない。
「うん、いいよ」
「これからヒナちゃんはますます大きくなっていくよ、200cmなんて時間の問題、300cmも夢じゃないんだよ」
「・・・」
 300cm、高すぎて想像もできない。とりあえず、天井にはつかえていると思う。家の中をハイハイで移動するのかもしれない。そう考えると、とても怖い。
「まあでも、嘆いても何もない。ヒナちゃんみたいに笑顔を作るのが、1番いいのかもしれないね」
「うん、私もそう思う。辛くても笑ってみる。この機会に、私はもっと強くなってみせる」
 そして私はミミちゃんにも笑顔を向けた。ミミちゃんは少し意地悪そうに、私のことを見つめている。

 朝、私は成長痛で起床した。関節がミシミシといっている、初めてのことで戸惑っている。これまで年に20cm伸ばしてきて、たまに膝が痛く感じる時はあったけど、ここまで酷かったことは1度もなかった。体を起こすと激痛が走って思わず声が出た。
 しばらく脚をさすっているとだいぶ落ち着いてきて、頑張って立ち上がって制服に着替える。そしてリビングまで行ってご飯を食べて、頑張って玄関まで向かう。
「ヒナ、大丈夫か? 体調悪そうだが」
 フラフラしている私を見て、お父さんが心配そうに尋ねてくる。そもそもの原因はお前だと言いたくなったけど、そんな気力も出てこない。こくこくと頷くだけして私は学校に向かった。
 家での一歩と街の一歩が全く違うことに、家を出てから気がついた。こんなことなら休めばよかったと後悔している。他の子はスタスタと歩いているのに、私だけのろのろと歩いている。デカイくせして足は遅い、そんな風に見られていそうで嫌になる。
「今川、大丈夫か?」
 均の声が背中から聞こえたけど、私は振り返らずにこくこくと頷くだけにする。やばい、マジで辛くなってきた。脚が折れそうなほど痛い。
「おい、今川ヒナ!」
 ひょいと私の前に飛び出てきた。私は止まって均くんを見下ろす。心配してくれる表情は昔と変わらない。私の背が伸びてから、均くん以外の男子は私をからかってくるのに、彼だけはどうしてかそんなことをしてこない。
「お前、本当に大丈夫? 顔色悪いよ」
「・・・」
「脚が痛いのか?」
 こくっと頷いてしまった。均は小さな手で、私の太腿をさすってくれた。全然痛みを感じない部位だけど、どうしてか少し痛みが和らいだ気がする。
「とりあえず、保健室に行こう」
 手を引かれて、私は登校早々保健室に向かう。小さい男子に手を引かれて大きい女子がよたよた歩くのはさぞ滑稽に見えるだろうけど、今の私にはどうでもいいことだった。
 保健室に入り、湿布をもらって脚を伸ばして椅子に座っている。先生は教員会議に行って、今は私と均の2人しかいない。
「お前、身長いくつだっけ?」
「・・・180cm」
「高いなー」
 座ったまま、均は私の頭の高さに手を持ってくる。立っていると頭2つくらい違っていたけど、座っていると頭半分くらいしか違わないということに今気がついた。
「膝の痛みって、もしかして成長痛とか?」
「・・・たぶん」
「すげー」
 そして、沈黙。あと10分で授業が始まっちゃう。それなのに、均くんは私のそばにいてくれた。そして3分前になって、保健室から出て行った。こんな優しい彼が、私は嫌い。私は何も優しくすることができないのに、一方的に優しくしてくれて、ずるいって思っちゃう。

「ヒナー、この制服を着ていくといい! 体の大きさに合わせて伸び縮み可能な生地で作った制服さ!」
 無言でお父さんからそれを取って着替える。薬を飲んだ1週間後、私は190cmに到達していた。制服は小さくなって、男女含めて学年でダントツで1番の長身になっていた。私の目線は1週間前とはまったくちがう。みんなの頭の上を常に見下ろしているから、本当に巨人になった感じがする。
 それなのに、みんなはそんな私の異常について何も言ってこない。気がついてはいるとは思うけど、意識的に避けている感じがする。私の前では何も言わないのに、私のいないところでは隠れて何かを言っている。実際にそれを聞いた訳ではないけど、なんとなく空気が変に思えた。
 今の私に話しかけてくれるのは、1人くらいしかいない。
「今川、保健室行こう」
「え?」
 唐突なお誘いに、私の頭にハテナが浮かんだ。保健室? 今は別に、成長痛が痛かったり、具合が悪かったりしていないのに。
「どうして?」
「今川の成長、なんかおかしいよ。成長期って言っても、明らかに普通じゃない」
 ぎくりとした。他の子からも身長について恐る恐る尋ねられることはあったけど、適当なことを言って流していた。実際に測ろうって言われたのは、今が初めて。
「もしかして、嫌だった?」
「う、ううん。別にいいけど」
 私たちは保健室に向かう。家でメジャーで測っているから数字は知っているけど、専用の機器を使ってきちんと測るとなると、普段よりも緊張しちゃう。靴を脱いで、身長計に乗る。均くんは背伸びをしてバーを下ろそうとしてくれたけど、ギリギリ届かなかった。仕方ないから、私はじぶんで下ろした。
「いくつ?」
「えーと、191.3cm。今川、春っていくつだった?」
「確か、180.0cm」
「2ヶ月足らずで11cmも。ねえ、病院とか行ってないの」
「い、行ってないけど・・・」
「絶対行った方が良いって。巨人症っていう身長がすごく伸びる病気があるみたいだし」
「い、いや大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよ!」
 均くんの声が保健室に響いた。静かだったはずの保健室が、さらにしんと静まったように思えた。これ以上均くんに隠し通すのは難しいと思う。
「・・・はあ、均くんならいいか、話してあげる。私がどうしてこんなに大きくなったのか。他の人には言わないでね」
 私は諦めて薬のことを均くんに話した。3年間隠していたこと、お父さんも失敗を恥じて何も言わないから、結局均くんは今の今まで知らなかった私たちの秘密。でも、これで良かった。一緒に暮らしているようなものなのに、隠し事をしているというのは心苦しかったし、心配させたくないから言わなかったのにこれでは本末転倒だ。
 彼に話して、私は胸が軽くなった気がした。

 1週間に一度、私たちは一緒に保健室で身長を測る。私は自分がどうなろうが、人に迷惑をかけなければそれでいいんだけど、均くんが心配してくれるから付き合っている。均くんが椅子の上に立って、バーを下ろしてくれて、背伸びしてメモリを読んでくれる。椅子の上に立っても、私の方が10cmくらい高い。
「195.6cm」
「うん、伸びたね」
 それだけ言って、身長計から降りる。均くんも椅子から降りる。立って並んでみると、すごい身長差だと改めて思った。私の腰が、彼の肩。恐ろしい。
「ねえ、均くんって身長いくつ?」
「えーと、140cm。もう少しあるかもしれないけど」
「測ってみようよ」
 均くんは黙って身長計に乗った。ゆっくりバーを下げて、中腰になってメモリを読む。
「141.4cm、伸びてるよ」
「・・・ありがとう」
 黙って身長計から降りて、上履きを履いた。やってから、私のやったことは均くんへの侮辱ではないかと気がついた。週に5cm伸びる女に、2ヶ月で1cm伸びたことを指摘されるのは侮辱的だ。
「なんかごめん」
 謝っても、彼はただ頷くだけでそれ以上の言葉はかけてくれない。私は胸がちくちくと痛むのを感じた。彼とはその後微妙な空気のまま別れる羽目になった。
 休み時間はたいてい図書室で1人で過ごす。本の中なら、私は何にだってなれる。かわいい女の子になって、かっこいい男の子と両思いになることだってできる。今の私にそんなことをする時間はないけれど、本の中ならできてしまう。
「ねえねえ、悲しくないの?」
 筆箱に繋がったミミちゃんが話しかけてきて、夢から覚めてしまった。悲しいかと聞かれると、よくわからない。だって恋する楽しみなんて知らないんだから。案外、本の中で好き勝手に物思いにふける方が楽しいかもしれないじゃない。
 そんな花咲く青春を頭の中で描いていたら、王子様が・・・いや、均くんがそこにいた。本棚の最上段の本を取ろうと、背伸びしているけれど、ギリギリ届かないらしい。座っている私と同じくらいの彼、小さな彼のために私は腰をあげることにした。本棚は私よりも少しだけ背が高い、目の前にある本を取って均くんに手渡す。料理の本。私が近くにいながらこんなものを読むなんてと思ったけど、黙って手渡す。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 本を受け取った彼は、私の真正面に座る。人が目の前にいると、想像に集中できない。かと言って席を移るのも、均くんに申し訳ない。仕方なく私は均くんの前で黙って本を読む。全く集中できない。私と均くんが向かい合って座っていることに、悪口を言われている気がする。
「ねえ、今川」
「なに?」
 本から目を離さずに、返事をした。
「誕生日っていつだっけ?」
「3月9日」
「そうか・・・」
 微妙な沈黙が苦しい。こんな沈黙よりかは、何かを話していた方が楽だ。
「均くんは?」
「え? えーと・・・6月9日」
「9日って、今日じゃん」
「そう」
 ぶっきらぼうに返事をする彼を見て私はイラッとした。せっかくの誕生日なのに、何もしないなんてダメだよと言おうと思ったけど、彼の事情を思い出して声が喉に引っ込む。
「ねえ、今日うちに来なよ。祝ってあげる」
「いいよそんなの。僕はもう自分で料理もできるようになったし、お金も毎月送られてきているから」
「いや、ダメ。誕生日っていうのは祝わなきゃダメなの。今日まで生きてこれたことに感謝しないと。いいから、うちに来て。来ないと私がそっち行くから」
「う、うん。その・・・ありがとう」
 照れ臭くなってきたところで、時計を見ればちょうどよい時間だから私は本を閉じた。均くんも本を閉じて、私たちはなんとなく一緒に教室に戻る。学校で1番背の高い女子と、少なくとも学年では1番背の低い男子が並んで歩いている。周りは私たちを見るなりヒソヒソと隠れていない陰口を言い始めるけど、今はどうでもよいという気持ちになれる。

 スーパーでショートケーキを買ってきて、均くんに渡した。普通はホールケーキに蝋燭を挿すんだろうけど、この辺りのケーキ屋さんなんて知らないから、スーパーので祝う。均くんはしばらく戸惑ってから、ちびちびとケーキを食べ始めた。
「もしかして、誕生日祝われるのって、初めてだった?」
 小さく頷く均くん。彼の事情の重さを再確認して、私ははっとした。私と同じ父子家庭でありながら、お父さんはどこかに行ってほとんど帰ってこない。私が小学4年生の時、休んだ均くんにプリントを届けた時、パジャマ姿で死にそうに玄関に立っている均くんを見て以来、私とお父さんは均くんを家族のように出迎えた。
 私たちは4年間も一緒にいるのに、まだまだ知らないことがある。うちも父子家庭で、お父さんは困った人で色々大変だけど、均くんはもっと大変だ。だから私は、いくら均くんが私に嫌がらせをしてきても許した。
「よければ、夕飯も食べてく? 今日、唐揚げ作るの。食べてかない?」
 唐揚げなんて、滅多に作らない。油がもったいないって思っちゃうから。でも、せっかくの誕生日なんだから、これくらいしてあげたい。もしかしたらあのプリントを届けた日に均くんは死んじゃっていたかもしれない。今生きているのは奇跡かもしれないんだから、祝いたい。
「・・・お父さんっていつ帰ってくるの?」
「え? うーん、どうだろう。お父さん、帰ってきたいときに帰ってくるから。本当、夕飯の準備する人のことも考えて欲しい」
「そう・・・あの、ちょっといい?」
「何が?」
「僕、今川のことが好き」
「・・・え?」
 深刻そうな表情で私を見上げる均くん。椅子に座っていても、頭1つくらい小さい彼の真剣な表情を見下ろしながら私は頭を混乱させた。
「え、なんで?」
 最初に出てきたのがそれ。均くんは、意地悪で、自分勝手で、たまに気が向いたときだけ優しくしてくれる、そんな人。好きな人に対してだったら、もっと優しくしてくれるものだと思うのに、どうして。
 でもその答えはすぐに出てきた。小学生の頃の均くんは確かにそんな感じだったけど、中学生になってからそんなことはしてこなくなった。嫌だと思う時はあったけど、私に優しくしてくれた。中学生になって1年以上も経つのに、今になって気がついた。
「理由は色々あるけど、優しくて、なんていうか芯があるところが、好き」
「芯がある?」
「うん。自分がこうだと思うことは貫くところが、普通に尊敬できるし、普段から冷静で大人っぽくて、尊敬できて、だから好きで・・・」
 冷静だ大人だ芯があるだ・・・そんなことを言われて私の心がみるみる沈んでいくのがわかる。そんなの虚勢だ、見かけはそう見えたのかもしれないけど、頭の中ではずっと愚痴ばかり言っている。
「・・・ありがとう」
 でも、お礼は言う。こんな私でも褒めてくれる人がいるんだから、感謝しないといけない。そのうち、「思っていたのと違う」なんて言われちゃうかもしれないけど、今だけは感謝をしたい。
「ううん。それで、今川さんは、どう?」
「・・・」
 頭がぐちゃぐちゃになって何も言えない。色々な感情が混ぜこぜになって訳がわからない。こう言う時、私はなんて言えばいいんだろう。ああ、もっと冷静さが欲しかった、大人になりたかった。
「ねえ、好きな人同士って、何をするの?」
「え? それは・・・お互いの本心をさらけ出して、お互いの幸せに向かって一緒に生きていく、みたいな」
 思ったよりもかっこいいことを均くんが言っている。本心をさらけ出す。それなら、私の本心はどこにあるの?
「急にこんなことを言ってごめん。でも、僕は今川さんのことが好き。小学生の時から好きだった。今川さんが望むことだったら、なんだってできちゃうって思えるくらい、好きなんだ」
 さっきまでのことを消化し切れていないのに、情報がさらに流れ込んでくる。私のためならなんだってしてくれる、なんてすごいことを言っている。私は何がしたいんだろう。考えても、言っちゃいけないことばかりが浮かんでくる。
「美味しいもの食べたいって言えばいいじゃん。目の前のケーキ、美味しそうだよ食べかけだけどね」
 ミミちゃんの声。カバンのチャックが開いて、ミミちゃんがこっちを見ていた。
「あと、人形が欲しいって言ってたじゃん。私じゃ悩みに答えられないから、私よりももっと高性能な人形が欲しいって」
 ミミちゃんの寂しそうな顔、と同時に、私を応援してくれているのは私でもよくわかる、強い表情。ミミちゃんが糸を切って、カバンから外に出て、私に手を振って、いなくなっていった。
「ミミちゃん!」
 席から立って、彼女を追う。あまり話してくれなくても、私の大切な友達、大切な相談相手。ミミちゃんがいなくなったら、私は誰に相談すればいいの? 相談できなくなってしまったら、もう私は生きていけない。
「今川、どうしたの?」
「ミミちゃんが出て行っちゃう」
「ミミちゃん、なにそれ?」
「そこにいるじゃん。ピンクのウサギさん」
「え、なに、何の話? そんなのいないし、第一そんなのは動かないでしょ」
 プツン――



「ヒナはな、小学校に入った頃から人に甘えたことがないんだよ」
 今川をベッドまで運んでから、僕は今リビングで今川のお父さんと向かい合っている。
「母親が急にいなくなって、俺は家事なんて全然できない。ヒナが家事をやってくれることになったんだけど、お手伝いでやるのと毎日やるのは違う。俺も手伝おうとしたけど、ヒナは意地でも自分1人でやろうとするんだ。手伝うと、逆に怒る」
 お父さんは顔を上げて遠くを見つめた。見つめる先は、キッチン。きちんと片付いていて、夕飯に使うための鳥もも肉が常温に戻されている。
「甘える対象だった母親を失って、早く大人になろうって思っていたのかもしれない。本当のことはわからない。そして、生活が落ち着いてきた頃からヒナはミミちゃんと話すようになった。ピンクのウサギと聞いて、ヒナの部屋にある古いぬいぐるみだと気がついたが、ぬいぐるみがいなくても、ミミちゃんと話すようになった。そして、ミミちゃんなんていないというと、ヒナは癇癪を起こすか、さっきみたいに急に倒れるようになった」
「僕、初めて聞きました。ミミちゃんと話しているのも、見たことないですし」
「ああ、君がいるときはどうしてか話さないんだ。ミミちゃんよりも、君を優先しているのかわからないが。だから今まで知らなかったんだろう」
 今川の秘密を知って色々な気持ちが湧いてきたけど、1番強かったのは情けないという気持ちだった。家が近いから何かと仲良くしていたけど、彼女の秘めていたそんな闇すらも、僕は気がつけなかったのだから。
 好きだとか、共に幸せに向かおうとか、なんでもできるとか格好つけておきながら、実際にはなにができるのか。なにも彼女のことを知らない僕に。
「彼女を喜ばせてやろうと、俺は背の伸びる薬を開発した。でも・・・そこから先の話は、君も知っているんだろう」
 お父さんの質問に、僕は自身なく曖昧に頷いた。
 その日、僕は今川家に泊まることにした。お父さんは歓迎してくれたし、24時頃までお父さんとお話もできて、今川のことについて色々と知ることができた。慣れない布団で寝たせいで、いつもより早く、6時に目が覚めてしまう。しかしお父さんもそれくらいに起きていて、僕は意外だと思った。
 料理は、今川に比べたらまだまだだけど、最低限の料理はできる。僕は目玉焼きとトーストを3人前用意した。僕らは2枚、今川は6枚。
「あ、ヒナが起きてきたかな?」
 お父さんがそう言ったのを受けて耳をすませば、廊下が軋む音が聞こえる。僕はお父さんと一緒に、リビングの入り口に注目した。のそのそという音が近づいてきて、入口の前にパジャマ姿の彼女が姿を現した。
「おはようヒナ、具合は大丈夫か?」
 黙ったまま、彼女は頷く。僕は立ち上がって彼女のそばに寄る。正式に決まったわけではないけれど、今は男としてこうしなきゃいけない。
「今川さん、大丈夫?」
 時計の針は6時、たっぷり13時間ほど睡眠を取ったらしい。寝すぎのせいか、今川はぼーっとしながら僕を見下ろしていた。目の前にあるのは鳩尾で、彼女の腰は僕の肩よりも高い。昨日も見た彼女の巨大さが、今ではとても恋しく懐かしく思える。
「・・・今川さん!」
 返事のない彼女に向かってもう一度尋ねようとしたら、つい大きな声が出てしまった。僕は謝ったが、それでも今川はぼーっとしていて、ボーッとしたまま僕の頭上に手を置いてからにこりと笑った。
「こんにちは、今川ヒナって言います。これからよろしくね」
 腰を直角近くまで曲げて笑顔で発した彼女の最初の一言を、僕はしばらくの間受け入れることはできなかった。

「204.4cm」
 週に1度の身体測定、先週までは週に5cm程度だったのに、今週は8.8cmも伸びた。上履きを履いたまま測ってしまったとか、先週は測り忘れていたとか、何かを間違えたかと疑ったが結局その成長は事実だったのだ。僕らは淡々と測定を終えた。
「ねえ、今川。別に僕にことを忘れたわけじゃないんだよね?」
「うん、覚えてるよ。プリント届けに行った時のことも、告白された時のことも。あんなこと言ったのは、ただの出来心」
「なら、いいんだけど・・・」
「うん、心配させてごめんね」
 そう言いながら笑顔で顔を撫でてくる彼女は明らかに異常で、僕は今だに慣れることができない。嬉しいとか恥ずかしいとかそんな感情はなくて、ただ、不安になる。
「・・・どうしたの?」
「うん、べつに、撫でてみたくなったから、撫でているだけ。だって均くん、なんでもしていって、言ったよね」
「ああ、うん。言ったけど・・・」
 されるがままにする。大きな手でわしゃわしゃと撫でられていたら、そういえば昔は逆の立場だったなと不意に思い出した。僕はあの時どうして今川を撫でていたのかと考えてみると、それは正直なところ今川が自分よりも背が低かったからだと思った。親を失った当時の僕にとっての心の拠り所が、自分よりも小さい人を可愛がることだったのかもしれないと僕は思った。
「そろそろチャイムなっちゃうから、行こうか」
「うん」
 肩まで手を上げて、手を繋ぐ。大きくて柔らかい手が僕の手を包み込む。こんなこと、少し前までは信じられなかったのに、今は平然とやってしまう。恋愛は人を成長させる、みたいなことを聞いたことがあるけれど、こんなにも急激に変わってしまうものなのか。それとも・・・
「さっきも言ったけど、均くんには私の人形になってほしいの。ミミちゃんはもういなくなっちゃったから、その代わりにいてほしいの。言っておくけど人形っていうのは私にとってもお友達、みたいなもので、別に私がキミの気持ちを考えずに好き勝手するわけじゃないよ。適度に刺激しあえる、素敵な関係を築けた人。それが私にとってのお人形」
「・・・うん」
 そう返事をすると、今川はとても嬉しそうに、目をキラキラさせながら喜んでくれた。正直、彼女の言っていることをどこまで理解できたかはわからないけど、こんな笑顔を見られただけで良かったと思ってしまう自分がいる。
 昨日の今日で今川は変わってしまった。しかしどんなに変わっても僕は彼女を受け入れることができる気がする。それは、僕が惚れたのは彼女の真ん中にある核みたいなところであって、外側ではないからだと思った。
 僕は彼女に随分とお世話になってきた。彼女がいなかったら、僕はすでに死んでいたのかもしれない。でも、僕は今川に何一つ良いことをした覚えがない。彼女の行為にいつも甘えてきた。今度は僕が人形になって彼女に恩返しをする番だ。

 朝の6時頃、今川の家に向かうと彼女は上は半袖、下はジャージ姿で朝ごはんを作っていた。椅子に座った状態で背筋をピンと伸ばして、キッチンで料理している。座っていても僕よりも5cmくらい背が高い。
「あ、おはよう」
 にこっと爽やかに挨拶をしてくれる。僕は会釈で返事をした。僕の知っている今川は、僕が何かを言うといつも嫌そうにする。僕だけじゃない、基本的に他人に厳しい。そんなだった今川のこんなに爽やかな笑顔を見るのは最近になって初めてで、中々慣れない。
「その格好、どうしたの?」
「ん? あー、これ。さっき、ジョギングと縄跳びしてきた」
「そう。運動不足とか、そんな理由?」
「ううん、そうじゃなくてね」
 スクランブルエッグを作り終えて皿に乗せ終えた彼女は、椅子から立ち上がって僕の目の前に立つ。今川の肘が目線よりも高い位置でフラフラしている。そして今川は僕の後ろに手を回した。腕を曲げなくても、今川は手の位置をすっと僕の後ろに持ってくるだけでハグをする格好になってしまう。
「均くん、小さい。小さいけど、人形にしては大きい」
 それから今川は僕の頭の上に腕を乗せた。頭がずしりと重くなり、また嫌な気持ちになった。
「うん、大きい。だから私、もっと身長伸ばそうって思ったの」
「は?」
「私が大きくなれば、均くんは小さくなってもっと人形みたいになる」
 平凡な表情で淡々と語る今川に、僕は思わず苦い顔を浮かべてしまう。
「どうしてそんなに僕を、人形にしたいの?」
 思い切って、素朴な疑問をぶつけてみた。
「私、人間が嫌いなの。時に優しくて時に冷たくて、気まぐれで意味がわからない。でも人形は、ちゃんと私のことを冷静に批判してくれる。難しいことは黙り込んじゃうけど、適当なこと言われるよりはマシ」
「・・・僕は、人形じゃないよ」
 言ってしまって良いかわからなかったこの言葉。倒れたり、ヒステリーを起こしたりしないことを祈りながら僕は慎重に発した。
「うん、わかっているよ。それに、そんな気まぐれな人ともちゃんと付き合わなきゃっていうのもわかる。でも、私は弱いから、急にそこまではいけない。だからまずは、均くんで慣れていきたいの」
「・・・わかった。今川がそうしたいっていうなら」
「ヒナって読んで。せっかく関係を作れたのに、苗字で呼ばれるのは嫌」
「あ、ごめん。・・・ヒナさんが、そうしたいなら、僕は付き合うよ」
 ヒナは満足そうににこっと笑って、また僕の背中に手を持ってきて僕を包み込む。正直なところ、利用されているみたいで気分が悪い。せっかく告白したのに、思い描いていたのと何か違う。
 でも、ヒナを嫌いになったかと聞かれたら僕は即座に首を振る。どこかおかしくなってしまったヒナだけど、僕はやっぱりヒナのことが好きらしい。こんな諺が僕の頭に浮かぶ、痘痕も笑窪。確かにそうかもしれないけど、僕は、今はとにかくヒナの喜ぶことをしようと思った。

 身長計にコツンと頭をぶつけるヒナ。とうとう、身長計よりも大きくなってしまったらしい。
「あー、どうしようか。測れないよね」
 しかし、心配はいらない。予想できていたことであり、僕はポケットからメジャーを取り出した。
「これで測ろう」
 ヒナを壁を背に立たせて、セロテープで一端を留めてメジャーを引き伸ばしていく。椅子の上に立って背伸びをして、やっとヒナの身長が測れるくらいの長さを引き出すことができた。そろそろ、椅子に乗るだけじゃ不十分になる。脚立とかを用意して、家の中で測る方が良さそうだ。
 そんなことを考えながら僕はメモリを読んで目が点になった。
「いくつ?」
「・・・218.8cm」
「あー、結構伸びた!」
 小さくガッツポーズをする彼女。先週からの伸び、14.4cm。1日に2cm以上も伸びていることになる。
「ジョギングと縄跳びが、効いたのかなー?」
 僕の心配をよそに、ヒナは呑気にしていた。そうだ、ヒナは1週間くらい前に背を伸ばそうとか言っていたっけ。それを思い出して、僕は瞬間的に脱力と安堵の両方を味わった。ヒナが喜んでいるのに、僕が心配する理由なんてない。
「身長伸びて、良かったね」
「うん、これからも、もっと大きくなれるといいなー」
 セーラー服のスカートが、僕の頭のあたりにある。この学校の校則ではスカートは膝下と決まっているので、僕の頭から股よりも下までスカートがある。ヒナのスカートを身につけようとしたら、おそらくプール用のバスタオルを羽織った時みたいになるんじゃないかと思った。いや、もしかしたらヒナのスカートの方がもっと大きいかもしれない。
「じゃあ、教室戻ろうか」
「うん」
 僕らは手を繋いで一緒に教室へと向かう。側から見れば、まるで親子のように見えると思う。でも、こんなことをしていても不思議と照れ臭くならない。周りにどんな目で見られようが、それよりはヒナがふっと僕から離れてしまうことの方が恐ろしく感じる。
 校内のドアの枠はヒナにとってはちょうど目線の高さらしい。もっとも、来週にはもっと低くなっているのかもしれないけど。背中を大きく曲げてドアをくぐっていく様子はとても迫力があり、ヒナが教室に入るとザワザワしていた教室がしんとする。少し前まで、ヒナは陰口の標的だった。それが今ではこの有様。そんな周囲の変化が僕は少し気持ちよく思えた。

 ヒナの膝の上に座って、僕はさっきからずっと頭を撫でられている。何も喋らずに黙ったままヒナはもう10分くらいそうしていた。人形というよりも、幼稚園児になった気分だ。
「ねえ、均くん」
「なに?」
「友達と恋人って、何が違うのかな?」
 胸がどきんとする。まさかこのタイミングでヒナからそんな話を振られるなんて、思ってもいなかったから。しかしそんな戸惑いと一緒に、僕の中の邪悪な心が目を覚まし始めるのを感じた。
「男女の交際って、どんなことをしているかはわかってる?」
「え? まあ、なんとなくはわかってるよ」
「本当に? ハグしたり、キスしたり」
「ちょっと待って!」
 目を閉じて手のひらをこちらに向けるヒナ。まさかとは思ったけど、ヒナの性の知識は保健体育の授業が全てなんじゃないか。
「ねえ、子供の作り方って知ってる?」
「うん、知ってるよ。種と卵がくっついて」
「そうじゃなくて、そのための行為」
 ぱっとヒナの顔が赤くなった。僕の心がどんどん黒くなっていく。正直、ここ最近で1番楽しいかもしれない。
「そりゃあ、私だって中学生だもん。図書室のそういう本とか読んだことあるし、知ってるよ」
「じゃあ、やってみる? まずはキスから」
 体を捻ってヒナと向かい合って正座する。真正面にはヒナの赤くなった顔。ヒナにはいつも子供扱いされているから、形勢逆転した今の僕の黒い感情を止められる者はいない。
「ねえ、こういうのって好きな人同士でやるものじゃん」
「うん、そうだね。そういえば、まだ返事聞いてなかった。ヒナ、僕のこと、好き?」
「え、えーと・・・」
 目をあちらこちらに移動させながら戸惑うヒナ。そんなヒナの返事を待つことなく、僕は唇に触れてみせる。しばらく何が起こったのかわからなかったようでキョトンとしていたけど、事態を察するなりヒナは僕を両手で掴んで、床に下ろしてから立ち上がった。
「ちょっと、縄跳びしてくる」
 長い縄跳びを手にしてドアに向かう。ドアを通る時に背中を曲げなかったため、顔全体を壁に衝突させてからヒナは何事もなかったかのように部屋から出て行った。1人になった部屋で、僕はさっきまでの自分の行動を振り返って恥ずかしくなって机に伏せた。

 ムスッとした表情で、僕と目を合わせずに壁に背を向けて立つヒナを、机の上に立って見上げている。今週はずっとこんな感じだ。優しさは変わらないけど、無愛想に対応された。前と同じようにメジャーで身長を測る、なんとなく今週は今まで以上に急激に成長をした気がする。正直、どこまで大きくなるのか楽しんでいる自分がいる。
「240.1cm」
「え?」
 ヒナも目盛りを確認するが、確かに僕が行った通りの値だ。21.3cmの成長、1日に3cm以上。加速する成長を心配する自分と、無邪気に楽しんでいる自分がその成長に驚愕した。
「もー、均くんのせいじゃん!」
「僕は何もしてないよ」
「いや、した。変なことしてきたせいで、ずっとソワソワしていて。ご飯をいっぱい食べたり縄跳びしたりして気を紛らわせていたら、こんなことになっちゃったんじゃん。もうどうしよう、責任とってよ!」
「責任って?」
 素朴な疑問だった。しかし直後にそれが指し示す意味に気がついて、一方ヒナは自分の発言で恥ずかしくなったようで僕の頬を細長い大きな指で摘んできた。
「痛い痛い!」
 痛いと言ってもヒナはやめない。摘んだまま頬の皮を引っ張ってから、机の上に立ってヒナより頭1つ背が低くなった僕をそのまま持ち上げる。足場がなくなり、急に不安定になった。
「均くんはお人形です。私の命令には従ってもらいます」
「急に、何それ。人形は冷静に批判してくれる存在だって言ってたじゃん。人間は気まぐれで嫌いだけど、人形は信頼できるとかなんとか」
「うるさい! とにかく、均くんは今から私の人形だから。私の側にずっといてね。学校でも、部屋でも。そうだ、そういえばまだ一緒にお風呂は入ったことなかったよね。じゃあ、今日入ろうか?」
「え? なんか、急すぎない?」
「命令ですよ、お人形さん」
 にこりと微笑む彼女の変わり映えしない笑顔は、普段よりも意地悪な笑みだった。あの、優しくて芯がしっかりした彼女はどこに言ってしまったんだろう。今のヒナは自分勝手で、言っていることは意味不明で理不尽で。
「あれ、均くんお人形にしては大きいね。私の腰くらいあるじゃん」
 でも、そんなヒナが嫌いかと聞かれたら僕は即座に首を振るだろう。むしろ、今の彼女の方が接し易くて、一緒にいて楽しい。これからずっと、彼女と一緒にいられれば幸せだと、僕をからかってくる少し意地悪な、逆身長差1メートルの大きな彼女を見上げながら僕はしみじみと思った。
-FIN