外は貴く内は暖かく

「先輩!」
 人通りのない放課後の廊下を一人で歩いていたら、後ろから女子に声をかけられた。振り返ると俺の目には彼女の首筋が映った。
「一目惚れでした。付き合ってください!」
 生まれて初めての告白、普通なら胸をときめかせるはずのこの状況で、俺はどうしてか何も言えずにその子のことを見上げていた。
「ごめんなさい!」
 とってつけたようなセリフで別れて俺はその場を走って去っていく。もっと言い方があったはずなのに、俺はそれだけを言ってその場から逃げ出してしまった。理由は単純、俺の目の前に立った彼女が、ただ怖かったから――

「それって1年C組14番、市原香織じゃないか?」
 この前のことを一郎に相談したら、すぐに彼女の情報が返ってきた。その情報が合っているのかは知らないが、ただ驚いた。
「お前、なんで知ってんだ?」
「なんでって、そりゃあ有名だから。異常に背が高い1年の女子って言ったら、市原さんしかいない。具体的な身長は知らないが、185cmの男よりも背が高いから190あるんじゃないかって噂だ」
 聞いてもいない情報が次々に流れてくる。190cm、という数字に俺は思わず眉をしかめてしまう。190cmの男も見たことないのに、190cmの女を目にするなんて。190cm、俺よりも15cmデカい女はあんなにも巨大に見えるのだと、この間ことを思い出して背筋がぞっとした。
「で、お前は受けたのか? 市原さんの告白」
「いや、断った」即答する。一郎は声を上げて笑った。
「ははは! まあ、そうだよな。お前ロリコンだもんな」
「ロリコンっていうな。小柄な子がタイプなだけだ、当然小学生は対象外」
「相変わらず、見ため重視か」
「見た目が1番。理性よりも感性の声の方が、たいてい正しい。見た目が良ければ悪い面も許せて」
「なるほどね。まあ俺は性格重視だが、どんなに美人でもかわいくてもビッチはごめんだ。そして詰まるところお前は合法ロリコンというわけか」
「あのなあ・・・・・・」
 呆れて、話すのやめて昼飯に集中するが、一郎のにやにやした表情が気になって集中できない。
「・・・・・・なに笑ってんだよ」
「いや別に・・・・・・涼太、彼女はいいぞ、贅沢言ってないで付き合ったらどうだ?」
「は?」藪から棒になんだと思ったが、相変わらず一郎はにやにやと俺のことを見てくるのでそれで察した。
「・・・・・・もしかしてお前、彼女できたのか?」
「その通り! かわいい彼女と付き合えて、俺は今世界で1番幸せなんだ」
 うっとりとした目で天井に向かって手を広げる一郎、まるでそこに奴の彼女の亡霊でもいて今にも抱擁しようとしているかの如く。俺はそんな一郎を無視して昼飯を貪り食う。いつになく、飯がまずく感じた。
「誰だ」
「答えない。なぜなら彼女との約束だから」
 ポーズを崩さず、目を閉じたまま穏やかに淡々と答える。そんな一郎を見てさらにイライラが募る。
「一郎、何してんの?」
 ユニフォーム姿の敬仁が横から突っ込んできた。サッカー部の副部長で、昼休みは部の友人と共に過ごす奴が教室にいるということは、昼休みの終わりが迫っているということだ。俺は一郎とのくだらないやりとりはやめて昼飯を口にかきこむことにした。
「彼女と愛を確かめ合っている」
「おー一郎、彼女できたのか」
 敬仁は一郎の耳に唇を移動させて、俺にも聞こえるくらいの小さな声で「俺もだ」と言った。一郎は驚きで目を皿のようにして敬仁を見上げていたが、一方で俺は箸を落としそうになった。
「え、お前サッカー部」
「他言無用だぞ。言ったら殺す」
 物騒なことを口にしながら敬仁の目は優しい。サッカー部は顧問の土屋という体育教師が古風な人で、恋愛は選手を腐らせると本気で信じている。そんなサッカー部で副部長をやっている敬仁にも、お隠れで彼女がいる。
 視線を感じて前を向くと、にやにやといやらしい顔つきで一郎は俺のことを見てきた。そんな一郎のことを俺は殴りたくなったが、一郎の目もどこか優しい。そんな優しい2人を見て俺は妙な寂しさを覚えた。
「・・・俺も、彼女が欲しい」
 難しいのはわかっている。俺のタイプは小さくてかわいい女の子。しかしそんなかわいい子にはすでに男がいるし、俺の理想に合う女の子なんて学年に3人くらいしかいない。そんな子が俺に振り向いてくれるとは思わない。それでも俺は心から、小さくてかわいい女の子と付き合いたいと願わずにはいられないのだ。

 俺は文芸部の部室で怠惰な時間を過ごしていた。部員は俺を含めて5人、3年生はすでに引退したようなものだから実質俺が部長みたいなもの。俺は小説なんてものにそれほど強く惹かれているわけではない。中学生の時に暇つぶしでなんとなく書いてみたことはあるが、それ以来創作活動なんてものに熱を上げたことはない。俺の目的はただ一つ。
「1年生、来るかなー?」
 声を聞くだけで胸がときめく。この子のために俺は文芸部に入部して、副部長までやっているんだと言っても、それは過言どころか俺の目的全てだ。
「来るといいよねー」俺が相槌を打つと、石田さんは俺の方を見てにこりと笑って「ねー!」と返してくれた。こんな他愛もないやり取りに、胸がはじけそうになる。そんな俺を見て、恨めしそうにするその他の部員A、Bの寂しそうな表情もまた趣深い。
 今日は部活紹介の日だ、3年生を除く4人の部員が集まっている。全員が揃う時なんて今日くらいしかないんじゃないかと思えるくらい、こんな日は珍しい。しかし、肝心の1年生が一向に来ない。まあ、来ないなら来ないで俺は石田さんの隣にずっといられるから幸せだが。
 ドアに人影が映り、ゆっくりとドアが開いた。心の中で舌打ちをしながら俺は立ち上がってそいつを歓迎してやることにした。が、そいつの正体が露わになるなり、俺は汗が噴き出るのを感じた。
「こんにちは、1年の市原です・・・・・・あ」
 俺を見下ろしながら、目をきらっと輝かせて会釈してくる。せっかくの俺の癒しの場所が壊されそうで恐ろしくなる。頼むから、変なことをしないでくれ。大人しい新入生になっていてくれと俺はひたすらに願った。
「うわあ! 身長高いねー!」
 俺を押しのけて、市原という1年の隣に並ぶ石田さん。石田さんの身長は143cm、多分学校で1番小さい。そんな石田さんと、190cmあるという噂の市原。立ったまま市原の腰に抱き着く石田さんを見て、とてつもなく市原が恨めしく思えた。
「ねーねーすごいよ! うち、おっぱいより小さい!」
 元気な石田さんの周りには男女問わず人が集まる。さっきまで、1年生向けに用意していたおやつを貪り食っていた奴らはひょいと立ち上がってはニコニコしながら俺らの周りに、石田さんと市原の周りに集まってきた。
「本当、おっきーね。身長何センチ?」
「え、えーと、さあ? 忘れちゃいましたー」
 目を泳がせながら見え見えの嘘をつく市原。改めて奴を目の前にしての感想、やっぱりこいつはデカすぎる。背伸びすれば教室のドアに頭が付くんじゃないかと思えるくらいの長身。175cmの俺は男子の中でもまあまあ高い方だと思っていたが、そんな俺よりも市原の方が、頭1つまではいかないだろうがそれくらいデカい。
「さあさあ、まあとりあえず座ってよ」
 副部長の俺を押しのけて、一郎が市原を椅子に案内する。市原は石田さんから離れて猫背で部室に入ってきた。
「じゃあ、あとは副部長、よろしく」
 一郎は笑顔で俺にバトンを渡してきた。とりあえず頷いたものの、教室で見る市原は一段とデカく見えて、後輩として接するのに躊躇してしまう。しかし、これは仕事だ。石田さんに嫌われないためにも仕事を遂行しなくては。
「えーと、副部長の鷹野です。えー、文芸部では主に個人で小説を書くんだけど、そういうの好き?」
「はい。小学4年生くらいから書いています。新人賞にも、何度か応募しました!」
 周りから、感嘆の声が漏れてきた。俺も少し驚いた、まさか本当に小説が好きで入ってきたとは。俺を追いかけて来たものと勝手に思っていた俺は、少しだけショックを受けた。
「えー、じゃあどんな感じの話を書く?」
「最初はファンタジーを書いていましたが、最近は公募のために恋愛小説に挑戦しています」
 そう言ってから、市原はにこっと笑う。女の子の笑顔、しかし背丈は巨人。俺はそれを目にして坂道に突っ立っているような妙なめまいを覚えた。
「先輩は、どんなのを書くんですか?」
「え、えーと・・・・・・」
「涼太は書かないよ」
 不意に質問されて戸惑っていると、横から一郎が首を突っ込んできた。市原が首を傾げるのを見て俺は顔がぱっと熱くなった。さっきまで真面目な副部長を演じていたのに、これではあんまりじゃないか。
「涼太だけじゃない。文芸部は小説なんて書かない。みんなで、週に1回集まって好きなことをする、それがこの文芸部。とはいっても、なんだかんだ集まらない時のほうが多いけど。もちろん、恋愛小説を書くのも自由だし、別に小説じゃなくて本当に恋愛をしてもいい」
 にやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべ、赤面しながら語り終える一郎。場所が場所ならセクシャルハラスメントとして訴えられかねない恥ずかしいセリフにこっちまで恥ずかしくなってくる。他の部員も、市原もむずかゆそうな表情で頬を若干赤らめていた。そして何より、石田さんが真っ赤になっていた。俺はそれに気が付いてしまったことを猛烈に後悔した。これが意味することはつまり・・・・・・
「まあそういうわけで、市原さん。入部して損はないから、ぜひご検討を」
「はい!」
 元気に言い切る市原の大きな声が、どうしてか遠くに聞こえる。一目見たその日から石田さんに近づこうと努力してきて早1年、だらだらしている間に誰かに取られてしまったというのか。後悔先に立たず、しかし後悔してもしきれない。せめて最後に、俺は彼女に自分の気持ちを伝えないと気が済まなかった。

 気が付けば昼飯を1人で食べるぼっちになっていた。一郎は昼休みになると知らないうちにどこかに行ってしまう。多分、彼女と会っているんだろうと思うが、聞いても何も答えてくれない。1人飯は辛い、周りが友人と食事を楽しんでいるのに、俺だけ1人で寂しく食事しているのだ。周りはどうせ俺のことなんて見ていないだろうとは思うものの気になるものは気になる。
 そこで俺は部室で昼休みを潰すことにした。ノーパソを持っていれば便所飯とは思われないだろう。そして部室でネットサーフィンでもして時間を潰す、完璧だ。昼休みの部室なんて誰もいないに決まっている。そう確信して、鍵を取りに国語科教員室にお邪魔すると、そこにあるはずのものがなかった。鍵のかけ忘れだろうと思い、相変わらず人気のない廊下を通って部室に入ると、そこには例の女がメロンパンを口に含みながら小さなパソコンを背中を丸めてタイプしていた。
「あ」
 俺に気が付くなり会釈をしてから、また黙々とタイプを始める。市原から1番遠いところに座り、パソコンを開いて自分も何かを書いてみようとテキストエディタを開いてみたが、何も浮かばない。ほとんど3年ぶり創作活動、何でもいいから書いてみようと頭をひねらせているうちに俺の意識は段々と曖昧になっていくのだった――
「先輩、もうお昼休み終わりますよ」
 遠くから聞こえる声、揺れる自分の体。肩に触れる細長い指に背筋がぞわっとして目が覚めた。
「先輩、もうすぐ5時間目始まっちゃいますよ」
 机に伏した状態から、顔を思い切り上げてようやく奴の顔が見える。その後すぐ時計を確認する。始業5分前、慌てて起き上がりドアに向かうとそこには市原が待機していた。
「私が鍵かけるんで、先輩はお先にどうぞ」
「ああ、悪い」
 次は体育、さっさと着替えないと遅刻してしまう。今年の体育教師の土屋は少しでも遅れると気が緩んでいると30分くらい説教されるから絶対に遅れたくない。から俺は廊下をできる限りのハイスピードで駆け抜ける。途中、一郎に会ったので話しかける。
「よ、一郎」
 一瞬ビクッと驚いてから、俺を見て一郎は安堵したようだった。俺は思わず眉をしかめる。
「お前、なんでこんなところにいるんだ」
「はは、まあ何でもいいじゃん。それより、早くしないと、やばいな」
「ああ、マジでヤバイ」
 俺らはダッシュで教室まで向かう。人気のない校舎の端を抜けると、始業数分前ということもあり人であふれていた。俺たちは人混みを抜けながらダッシュして、ギリギリ体育の授業に間に合うことができた。
 笛の甲高い音が校庭に響き、土屋の「集合!」というドスの効いた声で生徒一同整列する。整列して、ようやく俺の緊張はほぐれた。そして、さっきまでの出来事が走馬灯のようにゆっくりと思い出されてくる。部室の近くで一郎とばったり会って、部室の鍵を市原に閉めてもらって。その前は・・・・・・そうだ、小説を書いていたんだ。小説、さほどの興味はないが嫌いではないし、書けるのなら書いてみたい。しかし、何を書こうか。やはりどうせ書くのなら王道の恋愛小説で書いて公募に出してみようか。恋愛小説、そんなものが恋愛未経験の僕に書けるのだろうか。
 ふっと――石田さんの顔が浮かんできた。ようやく熱が引いてきた俺の身体が再び熱くなってきた。石田さん・・・・・・彼女に彼氏がいるのか、確かなことはわからないけれど、仮にいたとしても諦めきれない自分がいる。石田さんはかわいくて優しくて、男なら誰だって惹かれてしまうような素敵な女性だから、彼氏がいない方が不思議だ。しかし、それでも諦めきれない。やらずに後悔よりも、やって後悔。
 決めた、勇気を出して石田さんに告白しよう。結果はどうだっていい、俺でない方が彼女が幸せになるのなら、そっちの方が良い。ただ俺は、石田さんの気持ちを知りたいだけだ。右端の一郎の背中を一瞥してから、俺は石田さんに告白する手順を脳内でシミュレートした。

「ねえ、お話って何?」
 こくっと首を傾げる石田さん、かわいい。32cm低いところから上目遣いで俺のことを見上げてくる石田さんはとてもかわいい。メッセージで部室に呼び出して、2人きりで俺らは今向かい合っている。雰囲気からして、彼女は気づいているのだろう。そして答えはすでに決まっているのだろう。あとはただ、自分の持てる言語能力を駆使して彼女に想いを伝えるのみ。
「石田さん。俺、石田さんのことが好きだ」
 まっすぐ彼女の目を見て、俺は言い切る。反応なし、赤面したり、嬉しそうに目を大きくしたり、何もない。そして石田さんは少し申し訳なさそうに俯いた。
「ごめん、彼氏いるから」
 そう、一言言ってから彼女は会釈して、カバンを持って部室から出て行く。バタン、ドアの閉まる音が反響して部室に響いた。それから外の音が室内に充満した。振られた、最初からなんとなくわかっていたことではあったけれど、実際にそれを目の当たりにすると自分でも驚くほどに、心が空っぽになる。
 ギイ、とドアの開く音がした。そちらも見ると、例の女が会釈をしている。そうだ、ここは文芸部室だ、小説を書こうと思いパソコンの電源を入れたが、何も浮かんでこない。心が血液を吸い取り、頭に1滴も流れてない。そしてとうとう、涙が出てきた。
「先輩、どうぞ」
 知らず知らずのうちに目の前に立っていた後輩、手にはピンク色のハンカチが握られている。後輩に涙なんて見せたくなかった、最後の意地で涙を止めてみようとしたものの、涙が溢れて止まらない。俺は手でNOサインを作り、ポケットから自分のハンカチを取り出すと今度は目の前にティッシュがぽんと置かれた。
「あげますから、遠慮なく」
 それだけ言って市原はどこかに行ったらしい。しばらくはハンカチだけで凌ごうとしたが、涙の次は鼻水が溢れて止まらず、俺はついに折れてティッシュペーパーを取り出して思い切り鼻をかんだ。涙を流し鼻をかんでを俺は何度も繰り返した、1度収まったかと思うとふっとしたきっかけで再燃して顔をくしゃくしゃにしてしまう。そして、大泣きしていたら早くも夕方18時になり、部活終了の時間になった。前に座っている市原が片づけを始める。俺もパソコンをカバンにしまい、市原と一緒に部室から出て行き、一緒に下駄箱まで行き一緒に道路を歩いていた。特に話すことなく、沈黙のまま俺らは並んで歩いていた。
「先輩、大丈夫ですか?」
 久しぶりに感じた市原の声、それを聞いた途端にどうしてか心が少しだけ軽くなる。相変わらず胸は痛いし未だに多少は涙も出てくるが、少しだけましになった。
「いや、ダメだ。自分でもびっくりした、俺ってこんなに泣くんだって」
「先輩、2時間ずっと泣いていましたもんね。本当に、石田先輩のこと、好きだったんですね」
「ああ、好きだ。はっきり言って、今でも好き」
 ちらっと、市原の顔を見る。無表情で真横をじっと見つめている市原。俺は思わず、市原の見ている方に顔を向ける
「なんか、あるのか?」
「えーと・・・・・・あそこに」
 市原の指さす先を、目を凝らして見た。ベンチに座っている人影が石田さんであると気が付いて胸が痛くなった。そして、その隣にいる男は・・・・・・
「敬仁?」
「あ、知ってるんですか?」
 心臓が止まりかけた、しかもただ座っているだけでなく、寄りかかっているではないか。
 しかし、俺の心臓はすぐに動き始める。そうか、敬仁だったのか。サッカー部の副部長、エース、女子の憧れ。そりゃあ敵、俺にはわない。むしろ、そんな男と付きあっている石田さんの恋を応援したくなってきた。悔しい思いは多少はあるものの、同時に俺の胸はどんどん軽くなってくる。
「先輩」
 市原によって目の前に何かがが差し出され、俺は何も考えずにそれを手に取った。
「おごりです。あんなに泣いたんだから、脱水症状で倒れちゃいますよ」
 受け取ったものがスポーツドリンクであるとわかった途端に忘れていた喉の渇きが俺を襲う。我慢できなくなり、俺はフタを開けて一気に半分ほど飲み干す。
「ぷはー、サンキュー」
「いえいえ。あ、私こっちなので、ここでお別れです。また、部活で」
 手を振って、小走りで俺から離れていく。夕日が辺りを赤く染めている。さっきまでの荒んだ俺はもうどこにもいない。ただ、好きな人の幸せを願う一人前の男に慣れた気分だ。そうか、そうだったのか。サッカー部の敬仁は放課後に公園で彼女と会い、暗くなるまでおしゃべりをして帰る。随分とロマンチックなことをやっていたわけか、土屋に隠れて。頑張れよ敬仁! あと、石田さんも。
 愛する人を幸福行き電車まで見送ったかのような充実感を覚えながら、俺は夕日に照らされた道路を普段通りの独りぼっちでとぼとぼと歩いて帰った。

 週に1度の活動日で、文芸部の部員全員が揃うことはめったにない。しかし全員が揃わずとも、何人かは集まるものだった。一人は去年からの幽霊部員で、去年も年度初めの入部届を出しに来て以降来ることはなかったのでいいとして、一郎か石田さんのどちらかは月1くらいの頻度で来るものだった。なのに、最近の部室には俺と市原しかいない。事実上、部員は2人だけになってしまった。
「・・・・・・石田さん、こないな」
 アイデアが浮かばず、天井を見上げて考えながら俺はぼそりと呟く。市原は相変わらず、もくもくと小説を書いている。
「一郎も来なくなったしな」
 最近は一郎と話すことがめったになくなってしまった。見かけたら声はかけるが、以前のように一緒に昼飯を食べたり、一緒に下校したりといったことはもう何か月もしていない。ということは言い換えれば、市原に唐突に告白されてからもう3か月くらい経ったわけだ。時間の流れが妙に速く感じる。
 市原とは最初こそ例の奇行のせいでギクシャクしていたが、週1でも一緒にいれば自然と距離は近くなっていくもの。あの日以来俺に変なこともしてこないし、今ではすっかり、ただの部活友達のようになっていた。
「先輩」
 考え事をしていると、唐突に視界に入ってくる市原。俺は背もたれに寄りかかって傾けていた椅子を前に体重をかけて戻してから、市原を見上げる。相変わらずデカいが、慣れたのか前よりはデカいとは思わなくなった。
「もしよければ、今から一緒に帰りませんか?」
「今から?」
 時計の針はまだ17時。普通はあと1時間活動する。まあ、この部活にそんな常識は当てはめる方がバカだが。
「まあ、いいけど」
「先輩に、教えたいことがあるんです」
「はあ」
 訳が分からないまま、俺は市原の後ろをついていく。文芸部室があるのは校舎の端の倉庫のようなところで、人はめったに来ない。ましてや放課後のこんな時間には、本当に人っ子一人見当たらない。
「そこです」
 小声で指さした先には、ただの空き教室。位置から言って、ちょうど部室の真上にある。
「ここが、どうした?」
 不気味なほどに静かな廊下、俺まで小声になってしまう。俺を見下ろしながら唇にそっと人差し指を当てる市原。保育士を見上げた幼少時代がふっと俺の脳裏にかすった。
 ――人の声がした。女子の、高い声。その後で男の声が。思わず顔に血が上る。なんだ、これは覗きか。市原を見上げると、そいつは顔を青くして教室のドアをただ凝視していた。
「きゃ!」
 ひと際響いた、女子の大きな小声。その声が俺の記憶を荒らし始めた。そして続いて聞こえた男の声が、いっそう俺の記憶と感情を荒らし出す。
「・・・・・・一郎と、石田さん」
 市原がこくりと無音で頷くのを俺は横目で確認した。ぐちゃぐちゃに絡み合った感情の中で、最初に頭にぽんと落ちてきたのは、一郎の彼女の正体が石田さんだったという羨望だった――
 早めに部活を終わらせて、今は市原と一緒に下校している。俺が振られてからだから、こいつとこうするのは2回目だ。今、それに気が付いて心の古傷がえぐられた。
「お前、知っていたのか?」
「・・・・・・どっちですか?」
 どっち、その言葉に頭から煙が出そうなほどに迷う。両方聞けばよいのだが、俺は両方聞きたくない。しかし気になってしまう。
「・・・・・・石田さん」
 声がすっと出てきた。その時初めて、俺はショックを受けていることに気が付いた。小さくてかわいい子と付き合いたいというのが俺の夢だった。でも、これはあんまりじゃないか!
 こくりという市原の肯定を横目で確認してから、俺は市原を見上げた。市原は気まずそうに目を逸らした。多分、今の俺の顔はとてつもなく面白いものになっているんだと思う。
「女子の間では有名な垂らしなんです。誰からも愛されている子なので、そんな事実はあまり言われませんが。あの子を悲しませちゃうので」
 市原の言っていることは一瞬意味がわからなかったが、すぐに理解した。そう、かわいいというのは貴いのだ。誰も、貴いものを汚したくない。どんなに性格がダメでも、かわいい子はかわいいというだけで責める気力を失ってしまう。そんなものなんだ。
「それで、一郎の方は?」
「速水先輩、まあ最初は予想でした。私が初めて部室に来た時、速水先輩が恋愛もしていいみたいなことを言ったじゃないですか」
「ああ、あったな」
「その時、石田先輩と速水先輩が見つめあって、それから石田先輩が顔を赤くして。そこで、この2人付き合ってるのかなって。まあ、当時は石田先輩がそういう人だっていうのは知らなかったので、文芸部にカップルがいるんだなくらいにしか思っていなかったんですが」
 石田さんの顔が赤かったのだけは覚えているが、それ以外は知らない。これが女子の観察眼というものかと、俺は純粋に感心した。そうか、あの段階でわかる人はわかるのか、一郎の彼女が。
「そしてある日、部室の周りの探検みたいなことをやってみたんですけど、そしたらさっきの部屋で何かしているのを見つけて。その後、公園でサッカー部の人と一緒にいるのを見つけて、噂は本当だったのかなって思いました」
 一緒にいるから恋人同士、というのも安直かもしれないが、そうだとすれば全ての謎が解けてしまう。恋愛禁止のサッカー部とお隠れで付き合い、一郎とお隠れで付き合い、俺のことは彼氏がいるからとすぐに振った。もしかしたら、全ての部活の男とつきあっているんじゃないかと思ってぞっとした。
 しかし、もうどうでもいい。興味が失せてしまった。石田さんにも、俺の友人2人の恋愛事情にも。浮気がバレたところで石田さんは許されると思うし、友人は優しいから許すと思う。そしてハッピーエンド。それでいいじゃないか。
「あの・・・・・・なんか、ごめんなさい」
 突然市原の頭が高速で降りてきてビビる。手を腰に当てて一礼、敬礼の姿勢。
「なんで、謝るの?」
「なんか、先輩の好きな人の悪口を言ったみたいで。でも私、先輩に知ってほしかったんです。可愛い石田先輩の本性を知ったうえで、好きになってほしかったんです。自分勝手でごめんなさい」
 激しく謝罪をしてくれる市原の隣で、俺はいまいち状況がつかめていなかった。ただわかったこと、彼女はきっと真面目な人なんだ。俺は自分の目線よりも下がった市原の肩に手を触れる。
「大丈夫、もうなんとも思っていないから」
「でも私、卑怯ですよね」
 そう言ってゆっくりと顔を上げた市原はまるで別人のように見えた。
「好きな人の好きな人を悪く言うなんて、卑怯ですよね」
 好き、という言葉を久々に聞いた。久々と言ってもたったの3か月前だが、とても久しぶりに聞こえた。瞳をきらきらと輝かせて好きと発する彼女は、さっきまで俺が片思いをしていた彼女よりもずっと貴く、そして暖かく見えた。
「いや、卑怯じゃないと思う。俺のためにやってくれたのなら、ありがとう」
「・・・・・・そう言ってくれてありがとうございます。先輩は優しいんですね」
 涙目の彼女の背中を叩きながら、並んで途中まで一緒に帰る。傍から見たら、こんな俺たちもカップルに見えるのだろうか。抵抗はあるもののそこまで強くないらしい。
「なあ、市原」
「はい?」
「なんか、身長伸びたか?」
 背中を叩いていたら、何となく気が付いたこと。3か月前よりも少しデカくなった気がする。足元を見ても普通のローファーだし、靴のせいではないと思う。市原の顔がぱっと赤くなった。
「の、伸びてないですよ! ・・・・・・たぶん」
「そうか。なんとなくだけど、背中の位置が上がった気がして」
「背中の位置って・・・・・・先輩、どこに注目してるんですか」
 目を細くして、軽い嫌悪を帯びた表情で俺を見下ろす。その表情に、俺は恐怖を覚えた。
「別に、やらしい意味じゃないぞ! ただ、気が付いただけで」
「l気が付いただけ。それなら、私は先輩の方が縮んだんじゃないかって、思いますけど」
「まあ、それもあるかもしれない」
 目を泳がせる俺をしばらくじっと見下ろしてから、市原はぷっと噴き出して笑い始めた。
「あははは! 先輩、なに私相手に深刻そうにしているんですか。なんか、変ですよ」
「へ、変なのはお前こそ。急に泣き出して、あー、今日は何なんだ!」
「あ、先輩。私こっちなんで。あはは、また部室でよろしくお願いします」
 手を振って俺らは別れる。この光景も2回目。2回目なのに初めてのように感じるし、たった2回なのに彼女とはいつもこうしているような気持になった。
 その日、少し早い部活帰りを俺たちは一緒に過ごした。それが夏休み前の最後の部活であったことに気が付いたのはその直後だった。

 夏休み、始まる前は色々と計画を立てるもののたいていは何もできず、ただ宿題を終わらすだけで終わってしまう。俺は今年、夏休み中にとにかく何か1つ小説を書いてみようと思った。夏休み中に2度、部室にまで足を運んだ。しかし何も書けなかった。アイデアがないわけではないが、全く話が膨らまないのだ。
 1ヶ月ぶりの学校といっても何かが劇的に変わるわけではなく、淡々と日常を過ごして昼休みを迎えると、一郎が俺の前の空いた席に座り、購買のパンをかじりはじめる。
「久しぶりだな」
「・・・・・・ああ」
 むすっとしながら昼飯を食う一郎を見ながら、俺は俺の昼飯を食う。暗い表情で昼飯を食う一郎に何度か話しかけてみたが、怒った調子で「別に」というだけだったし、食べ終わるなり少しの間スマホをいじり、やがてどこかに行ってしまった。
 夏休み明けの友人との交流は一郎の件で終了し、あっという間に放課後になった。今日は火曜日、部活はない。部活はないけれど俺はなんとなく部室に向かった。部室には案の定、そいつがいた。
「あ、先輩。お久しぶりです」
 小さな椅子に座って猫背なってタイプする市原、見慣れていたはずの光景がとても懐かしく思える。ここだ、俺は心の中でそう叫んだ。ここが俺の居場所なんだ。俺の日常はここにしかないんだと妙に感傷的になって俺は席についた。
 席についてパソコンを開いて、まっさらなテキストエディタを開いた。プロットはメモ帳に書いてある、しかしやっぱり何も浮かばない。俺がこうやって天井をぼんやりと眺めている間に、カタカタと部室にキーをタイプする音が響く。前は気にならないこんな雑音も、スランプの時に聞くと変に気になってしまう。俺はこっそりと、後ろから市原の書いている小説をチラッと見てみたいと思ったが、彼女の大きな背中が邪魔してよく見えない。
 ガタン、と音を立てると、市原が後ろを振り向いてその途端に敵対的な顔を俺に向けてきた。
「先輩! 勝手に見ないでくださいよ!」
「わ、悪かった!」予想の10倍くらい怒られて、こちらもつい声を張り上げて謝罪をした。「俺もいま、久々に小説を書いてみようとしているんだが、いかんせん何も浮かばなくてな。それで、市原のを参考にって」
「だからって、勝手に後ろから見るのは良くないかと」
「いや、それは本当に謝る。悪かった」
 顔の前で両手を合わせて謝罪する。久々に恐怖を感じた、慣れたとはいえ、やっぱり近くで見ると迫力がある。しばらくそのままの姿勢でいて、薄目を開けると顔を赤くして椅子に座った彼女は俺のことを見上げていた。見慣れない彼女の上目遣いに、こんな状況でありながら思わず胸をときめかせてしまう。
「・・・・・・見ました、小説?」
「いや、見えなかった」
「なら、よかったです。恋愛ものの公募に出す予定なんで、結構恥ずかしい描写も書いているもので、熱くなってしまいました。すみません」
 市原はウインドウを閉じて、パソコンの電源を落としてカバンの中にしまう。そして椅子を引いて立ち上がった。1ヶ月ぶりに見た市原の高身長、周りに彼女ほど背の高い人はいないので、とても大きく見えた。
「私、12月〆切の公募に出す予定で。部室だと伸び伸び書けないので、しばらく部活には来ません」
 会釈をして俺の元を離れてドアに向かい、俺に向き直って「では、また!」と言って手を振りながらドアを通過しようとしたら市原はドアのフレームに頭を鈍い音を立てて思い切りぶつけた。
「いったー・・・・・・」
 棍棒でドアを叩いたような鈍い音、思い出すだけで痛そうだった。俺は市原の元へと早歩きで向かい、彼女のそばでしゃがむ。
「だ、大丈夫か?」
「こ、来ないでください!」
 顔を両手で隠して俯く市原。俺は意味が分からず彼女をじっとみつめる。
「あの先輩、小説っているのはハングリー精神なんです。飢えた人が良いものを書けるんです、特に恋愛小説なんてそうだと思います。だから、来ないでください」
「はあ、意味がわからん」
 思ったよりも大きな声が出てきて、言った後で俺の方が驚いた。俺はどうしてこんなに怒っているのか。そりゃあ、後輩に突然近づくななんて言われたが嫌な気持ちになる。でも、普段の俺はこんなことで一々声を上げるほど感情的に怒っていただろうか。市原は顔を赤くして、目を瞑っていた。
「先輩・・・・・・何も言わずにただ聞いていてください」
「・・・・・・なんだよ?」
「私、先輩のことが今でも好きです。でも、今はそういうことは考えたくないんです。このドキドキした気持ちのまま書いていきたい。私、決めたんです。今度の公募は、全力でやろうって。だから・・・・・・失礼します!」
 立ち上がって、小走りで去っていく彼女の背中を、俺はしゃがんだまま見えなくなるまで見ていた。誰もいなくなった部室、去年までは特に珍しくない光景だったが、今はそれがとてつもなく寂しいものに思えた。
 それから、市原は本当に部室に姿を現さなくなった。俺は毎週欠かさず部活に現れ、暇な時は活動日以外でも部室に顔を出した。しかしそこに部員の姿はなく、俺だけがそこにいた。市原とは度々校内で見かけた、あの長身だ、嫌でも目に付く。市原は俺を見かけるなり会釈をしてくれたし、俺も返した。普通の、部活の先輩後輩の関係だと思うが、その普通の関係がたまらなく寂しいものに思えた。
 文化祭の時も、特に文芸部で何をするかとかは市原から聞かれなかったし、俺の方もやる気がないから誘わなかった。市原のことは何度か見かけたが、マイペースに文化祭を楽しんでいたようで、友達と楽しくお喋りをする姿を見かけて俺の胸がきゅっと鳴るのを感じた。忘れていたことだが、市原は有名人だ。あの馬鹿でかい身長もあるが、人としてとても暖かい。基本的に誰にでも親切だし、唐突なところはあるが自分の感情を押し付けるようなことはしない。そう、いい奴なんだ。いい奴だから、友達もいっぱいいいる。俺とは違う、そんな市原の別の面を知ってから俺は彼女がどこか遠い存在に思えた。遠くなって初めて、以前の日常が特別なものだったということに気がついた。同じ部室に2人きりでいながら、市原とほとんど何も話さなかった自分がとても愚かに思え、もう戻ってくる保証のない過去を俺は悔しく思った。

 10月の文化祭が終わってすぐの頃、一郎が五分刈りにして現れた。元々髪は短めだったが、野球部でも今時珍しい五分刈りを文芸部幽霊部員の一郎がしてきたことにクラスメート一同が衝撃を受けた。そして昼休み、俺は一郎に誘われて部室に向かった。市原がいるかもしれないと忠告したが、その時は近くの空き教室を使うと言った。
 部室には誰もおらず、鍵を閉めて一郎と向かい合う。変な空気が漂う。まるで、俺の知っている部室ではないようだった。
「涼太・・・・・・お前の言う通りだったよ」
 坊主頭を抱えながら、一郎は声を絞り出した。俺は何のことを言っているのかさっぱりわからなかった。
「悪い、意味がわからない」
「女の子は見た目が全てだ。見た目が好みなら性格なんてどうでもいいんだって、思った」
「・・・・・・お前の彼女のことか?」
 あえて、事情を知らないフリをして彼女という単語を使う。
「ああ、言ってなかったが俺は石田さんと付き合っている」
「え?」
 驚いて見せる。初見ならおそらく、声が出なかったと思う。
「あの、小さくてかわいい石田さんだ。そして、石田さんは敬仁とも付き合っていた」
「・・・・・・」
「浮気を知った時、俺は石田さんのことをクズだビッチだと心の中で何度も罵倒した。でも、本人に言う気には到底なれなかったし、心の中で悪口を言うのも辛かった。むしろ、石田さんを浮気させるほど魅力に乏しい自分を責めるようになった。そして衝動的に頭を刈ってきた。俺は今でも姫ちゃん・・・・・・石田さんのことが好きだし、今でも付き合っている」
「つまり、石田さんは敬仁とお前と、今も付き合っていると」
「ああ、そうだよ。俺らの姫ちゃんだ。どっちも彼女を失いたくないからな」
 開いた口が塞がらない。どうしてそこまで見た目にこだわって石田さんと付き合うのか、訳がわからなかった。俺はかつて石田さんの見た目が好きだったが、浮気を知って以来驚くほどに興味を失った。そして今は、その正反対とも言える女性に心を動かされている。
 それからは、お互いが黙り込んだまま時が過ぎていき、制限時間が近づくなり自然とバラバラに教室に戻った。そんな退屈な時間で俺が自覚したこと。自分でも驚くことだが、俺は石田さんが好きだと言うことだ。内面に惚れたというのも1つだが、俺は何より彼女の見た目に惚れていたらしい。石田さんの見た目が好きだったのは事実だが、別に「小さくてかわいい」だけが俺のタイプではなく、市原みたいな行き過ぎたモデル体型というのも悪くないと思ってしまった。ただ、市原みたいな女性は今までも、そして今後も恐らく出会えないから気がつかなかっただけで。
 かつて俺は見た目が全てだと豪語していた。理性の声よりも感性の声の方がたいていは正しいと。しかし、当たり前のことだが見た目だけが全てではない。離れていてもわかるものが見た目である一方で、近くにいないと出てこない感情もある。俺は市原の隣がとても心地よかったし、今、猛烈に彼女のそばにいたいと思っている。

 高校生でありながら、正月が来るのをこんなにも待ち遠しく思う日が来るとは。俺はカレンダーに斜線を引きながら、1月を待っている。12月の新人賞が終われば、多分戻ってくる。そんな約束を交わした覚えがないが、戻ってくると信じている。もしもこの瞬間に市原が他の男に告白していたらと思うと夜も眠れなくなったが、俺は自分に言い聞かせた。あいつはそんな奴じゃないと。公募に専念するために休むと言っているのだから、そうしているのだろう。
 俺は毎日部室に通った。いつ、市原が帰ってきてもいいように、俺はそうした。毎日通っていると、全く進まなかった小説も多少は書けてくる。そして実際に小説を書くようになると、市原の言っていた事の意味がわかった。小説とはハングリー精神、何か熱中しているものがないと書けない。今の俺はそんなものを持っている。その情熱を小説にぶつけてみることにした。
 12月下旬、世間では聖夜だクリスマスだと浮かれている、そして俺らにとっては終業式。今日を乗り越えれば2週間の連休が待っている。しかしそんなことは関係なく、俺は今日も部室で小説を書く。我ながら、甘いものが出来上がってしまったが、とりあえず形はできてきた。この調子でどんどん、できれば年内に書き終えることができれば最高だ。
 執筆に夢中になっていた時、ふっと視界の端で何かが動く。執筆を終えてからそちらに目を向けると、市原がドアに前に立っていて俺は頭の中が真っ白になった。期待はしていたことだった、しかし本当に来るという心構えは全くしていなかった。俺らは普通に、会釈をし合った。ドアよりも背の高い彼女、そういえばこんなに大きかったな。昔は大きな彼女を恐れていたが、今はそんな大きな彼女を見て心の底から安堵した自分がいた。
「・・・・・・久しぶり。公募は終わったのか?」
「えーと、それなんですけど」
 市原は椅子に横向きに座り、俺に横顔を見せて俯いた。
「スランプか?」俺はそう直感して、尋ねてみる。市原は少しの間考えてから、首を縦に振った。
「なんか、疲れちゃって。一応書き終えたんですけど、校正しているとどんどん嫌になっちゃって。あと1週間なのに、なんか燃え尽きちゃったんです」
 落ち込む市原、そんな彼女に俺は何も声をかけてやれない。さっきまで、自分勝手に小説を書いては傲慢になっていた人間だ。そんな俺に、もう何年も小説を書いてきたという彼女に慰めの声なんてかけられない。俺は自分の無能さを呪うことしかできなかった。
「先輩は、何してたんですか? なんか、すごく熱中していましたけど」
「俺も、小説を書いてみた。小説なんて言える代物かはわからないけど、とりあえず書いてみた」
「そうなんですね。ちなみに、どんなお話ですか?」
 体を俺の方に向けて、興味津々に尋ねてくる。しかし目に光はない、疲れ切っているようだった。
「待ち続ける話だ。幼なじみの男女がいて、男は女を鬱陶しいと思っている。ある日、女が仕事で遠くに行き、男は一人ぼっちになる。女がいなくなってから、男は女の有り難みに気がついて彼女をもう一度手に入れようと頑張る」
「へー。なんていうか、ベタですけど、面白そうです」
 ベタ、と言われて汗が出てきた。小説家の卵の前で素人の安っぽい草案を堂々と言っている自分が恥ずかしく、また情けなくなった。
「・・・・・・市原のも聞きたい」
「いいですよ。もう、書くかわかりませんけど」
 座り直して、軽く深呼吸をしてから彼女は目を瞑って話し始めた。
「昔読んだ絵本のパロディですけど。森の中にすごく背の高い女の子が住んでいました。本当に背が高いんです、250cmくらいあるんです。人を驚かせないように森の中に住んでいるんですけど、ある日森の中で倒れている狩人の男を見つけて、手当てして町まで運んでくるんです。そしたら化け物が来たって町は大騒ぎ、女の子は何も言わずに森に帰っていきます。一方狩人は、自分を解放して無言で去ったという化け物を探しに森に来るんです。そして実際に見つけて仲良くなろうって言うんですけど、女の子は自分と一緒にいたら町にいられなくなるからと断ります。でも男は諦めきれず、女の子もとうとう折れてハッピーエンド。そのご色々の困難があるんですけど、2人で力を合わせて乗り越えて、最後には子供を授かるんです」
 早口で話し終えてから、市原は徐々に頬を紅潮させて机に伏せた。
「もう、恋愛小説なんて大嫌いです。ご都合主義って感じがして。書いているときは楽しかったけど、出来上がってみたら、私なにしているんだろうって冷静になっちゃって」
「面白いかったよ」
 俺は考えるよりも先にそんな声が出てきた。
「嘘じゃない、俺はいま心からそんな小説を読んでみたいと思っている」
 また、反射的に声が出てきた。そして体が勝手に動き出し、席を立って市原の方へと近寄った。たぶん今の俺は狩人なんだと思う。俺じゃない俺が俺を操っていた。
「市原、俺はお前が好きだ」
「え? でも先輩は石田先輩みたいな人が好きで・・・・・・」
「それは過去の話だ。今の俺は、お前に夢中なんだ」
 自分とは思えないほどに、直接的な台詞。俺にこんな台詞が言えたのか、ここは演劇の舞台か。しかし俺は本心を市原に吐露している。
「い、いいんですか? 私と一緒にいると、大変ですよ。まあ話のネタにはなりますけど」
「違う。お前が部室に来なかった4ヶ月の間、俺はひたすらにお前が来るのを待っていた。だから今日もここにいた。お前がいるときに気持ちを伝えなかった自分を何度も呪った。もう一度言う、俺は市原が好きだ」
 まるで、絵本の主人公のような、流れる台詞。それを聞いた市原は戸惑いながら恥ずかしそうに俺を見上げていた。俺らはしばらく向かい合って、とうとう市原が口を開く。
「あのー、ここだけの話ですけど、私今年に入って身長すごく伸びたんですよ。春は191.4cmで、ちょっと前に病院で測ったら205.6cmでしたよ。小学校卒業の時に180cmあって、中学校で10cm伸びて190cmになって、そろそろ止まると思ったらぐんって伸びたんです。まだまだ伸びるって、お医者さんが言ってました。本当に、いいんですか? さっきも言いましたけど、私と一緒にいても私のネタが作れるくらいのメリットしかないですよ」
「構わない。なぜなら俺は、お前のそんな身長に惚れたんだ。お前のそばにいるのは本当に気持ちよかった」
「な、なんですかその変態な理由は! 先輩、何かおかしいです。帰って休んだほうが良いですよ」
「まだお前の返事を聞いていない。市原、俺と付き合うのはどうだ?」
「わ、私は・・・・・・」
 顔を真っ赤にして目を泳がせる市原を、俺は冷静に見つめていた。長い沈黙が流れる間、俺に取り付いた狩人はいつの間にどこかに行ってしまい、さっきまでのことを夢の中の出来事のように捉える凡人の鷹野涼太がそこにいた。
「私も好きです。前も言いましたけど、一目惚れでした。これからよろしくお願いします」
 乙女の顔になった市原の上目遣いを見て俺の意識はそこでプツンと切れた――

 告白したからと言ってすぐに彼氏彼女の関係になれるわけでもなく、自分が彼氏であると意識するのにやや時間がかかった。その準備時間を経て俺は彼氏になることができた。彼女の身長はあれからもすくすくと伸びていったようで、進級してすぐの身体測定では207.2cmだったと自己申告された。俺は相変わらず175cmで、俺の俺よりも32cmも背が高い。ついこの間までは自分よりも32cm背の低い子に惚れていたのにその半年後に自分よりも32cm背の高い女子と交際をしたというわけだ。
 彼女とはうまくやっている。それは交際相手という意味でも、友人という意味でも。たった2人になってしまった文芸部で、俺たちは1人前に活動している。たまに、2人で小説を書くこともある。俺にはアイデアも文才もないけれど、2人が揃うというだけで何かと刺激しあって1人で書くよりもいくらか洗練された作りになるらしい。市原の公募用の小説もそうだった。スランプに陥っていた彼女だったが、俺のアドバイスで何かヒントを得ることができたらしく、その後無地完成させて市原は小説を新人賞に応募した。タイトルは、『外は貴く内は暖かく』。タイトルの意味は教えてはくれなかったが、おそらく、人間は外面よりは内面という意味なんだろうと、勝手に思っている。
 もっとも、そろそろ俺は部活動ができなくなってしまうのだが。
「先輩は、大学に行くんですか?」
「まあ、そのつもり。市原は、もう決めてる?」
「私は従兄のカフェを手伝おうかなって。働きながら、小説を書いていきたいなって」
「そうか。まあ、頑張れよ」
「はい! 頑張ります」
 市原の笑顔が空で輝いていた。俺は彼女に笑顔で返事をする。俺の目の前には彼女のブレザーの蝶ネクタイがある。俺から見た石田さんがそうであったように、俺は市原の肩くらいの背丈しかない。たまに自分よりもそんなに背の高い彼女に驚くときもあるが、同時にそんな彼女と付き合えて俺は幸せなのだと自覚する。彼女が嫌がるから、身長の話はめったに振らないが、俺は市原の長身が大好きだし、もっと伸びても構わないと思っている。
 女性は見た目が1番だ。見た目が良ければ全てを許せてしまう。石田さんがそのよい例で、あれからも色々な男と同時に付き合って数人分の愛情を得ている。俺もその男たちの一員だったら、きっと一郎のように最初は怒りながらも結局は彼女を手放さなかったのだと思う。
 その考えは今も変わっていない。その代わり、俺の趣向は変わった、俺はいま市原の異常ともいえる高身長の虜になっている。立って横に並ぶ瞬間が、彼女の顔を見上げる瞬間が大好きだ。
「先輩、どうしましたか?」
 市原を見上げて、俺は手を伸ばして彼女の頭頂部に触れてみる。腕を伸ばせる限り伸ばさないと、俺の身長ではそんなことができない。男が女の頭を背伸びして撫でる様子は傍から見たらさぞ不格好に思えるだろうこの格好。もう少し市原の背が伸びたらこんなこともできなくなってしまうのだろう。頭頂部に触れると市原は乙女相応の反応を示してくれて、俺はかわいいという感情を胸に抱いた。小さくてかわいいがあれば大きくてかわいいがあっても良いという当然のことを俺は気づいていなかった。市原が持つそのかわいらしさは、市原の高身長によって引き出されている。俺はそんなかわいさに夢中になっているのだ。
-FIN