物好き少女の引力相互作用

《1》
 桜までもが、私の門出を祝ってくれているみたいです。
どーもこんにちは! 新高校一年生の自称アイドル、私の名前は川越舞衣。チャームポイントはベビーフェイス、自他ともに認めるかわいい系女子。ちょっと前にSNSで自撮りを載せたら「えっ、小学生?」なんてリプライが二桁のフォロワーさんから送られてくらいの現役童顔女子高生、華の15歳。まあ、そのアカウント、その後すぐ飽きて一週間くらいで消しちゃったけどね。ちなみに誕生日は3月31日の超遅生まれ。昔から背が高いからか、よく早生まれだって誤解されていたけど、遅生まれなんです。みんな、仲良くしてねー。
 さて、今日は待ちに待った入学式。遅れちゃいけないと思って早めに出発、始業1時間前にやってきたら教室には誰もいなくてガラーンガラーン。暇だからスマホいじって待っていたら、新しいクラスメートか、別のクラスの新高校一年生か、はたまた先輩か、とにかく初めて会う少し背の高い男の子がやってきて、ニコニコしながらで椅子に座った私を見下ろしながらこんなことを言ってきました。
「初めまして。キミ、かわいいね!」
 はあ・・・・・・これだからアイドルは辛いのね。入学早々、私の可愛さがばれちゃった。
 私は微笑を浮かべながら、スマホの電源オフにして、机の上にコトンと置いて、それから立ち上がります。
「ありがとう、一緒のクラスかな? これからよろしくね!」
 立ち上がった私を見上げる彼の表情から見る見るうちに、笑顔が消えていきました。
うふふ、男の子って、面白い!

 どもどもどーも! 自他ともに認めるかわいい系女子、私の名前は川越舞衣、チャームポイントはベビーフェイス。
 これから始まるのは入学式。クラスのみんなで出席番号順に並んで体育館まで移動中。ああ、これから始まる高校生活、どんな人と一緒に過ごすんだろう。どんなことが起きるんだろう。楽しみだなあ。
 そういえばさっきの男の子、同じクラスではなかったみたい。別のクラスかな? それとも先輩だったのかな? まあ、どっちでもいいか。そういえば、私のことを、口をぽかんと開けて見上げる彼の間抜けな表情。面白かったなあ。
 あ、私はですね、人のこんな変貌を見るのが大好きなんです。最初は隠していた感情がある時うわって出てくる、そんな決定的瞬間を見るのが大好きなんです。
 特に、男の子って面白いですよねー。ちょっと優しくすればすぐにその気になって、ちょっときつくしたら露骨にしゅんとして。口では良い感じのことを言っていても、実際にそれを貫く気はない。そしてそれを指摘すると、怒りだしたり、悲しんだり。
 女の子の言葉一つで簡単に感情をラジコンみたいに操作できる、そんな、面白い生き物なんです。
それにしても、さっきの人は、ちょっとひどかったですね。私のかわいいお顔に惹かれてやってきて、立ち上がるなり何か違うと察してどこかへ行ってしまう。最初は笑顔でかわいいって言ってくれたのに、その直後には奇妙なものを見る目で私のことを怪訝な表情で見つめる。見た目だけで人を判断して、勝手な妄想をして、何か違うと思っては一方的に去っていく。そんな、猫みたいに自分勝手な生き物なんです。
 クラスのみんなで並んでぞろぞろぞろぞろ、体育館に入場します。椅子があるのに座れません。新入生が全員入るまでは着席はお預けみたい。
 みんな立ちっぱなし、早く座りたいよー。そういえば、私の学年にはどんな人がいるのでしょう。もう高校生だから、この場できょろきょろと周りを見渡すようなことはしませんが、横目でなんとなくわかりました。
 とりあえず、私に肩を並べるのは二百人中、五人くらい。女子は多分いない、全員男子。クラスに一人はいる、背の高い男子。ちなみにさっきのナンパしてきた男子は173㎝くらいだったかな? まあ、ちょっと高めだよね。私ほどじゃないけれど。
 私の名前は川越舞衣、自称身長179㎝高身長ロリ顔アイドル。チャームポイントは自他ともに認めるベビーフェイスと、アンバランスな高身長。
 こういう体型、「なんか変」ってよく言われるけど、知りませんよそんなこと。これが私の持ち味ですから。
こういうギャップ、皆さんはお嫌い?私は大好き! だって、ありきたりなものじゃつまらないじゃない。
 私はアイドル川越舞衣。好きなものはイレギュラーとギャップ、嫌いなものは、ありきたり。
さあ皆のもの、私のギャップに驚きひれ伏しなさい!



 チュンチュンチュンチュン、ホーホーホケキョー。今日も朝の始まりです。目覚ましなんてなくたって、日差しでお目目パッチパチ。仮にその日が曇りか雨で、お日様差してこなくても、心が勝手にパッチパチ。
 よし、今日も1日がんばるぞー!
布団をばさりと剥いでから、床に両足付けてから、両手を伸ばしてぐぐっと背伸び。
あれれー、また成長しちゃったかなー? なんだか今日は、昨日よりも目線が高くなった気がするの。
 そう、私は成長期。もっともっと、伸びろ伸びろー!
 洗面台に向かいます。鏡の前に立ちました。鏡に映ったのは・・・・・・小学生の女の子! って、違います。
 自称身長179㎝高身長ロリ顔アイドル、川越舞衣です。ちょっと前にSNSで自撮りを晒したら・・・・・・って、この話はもうしましたね。失礼失礼。
 まあともかく、その小学生が蛇口をひねり、お皿を作ってバシャンバシャン。はい、上手にできました。タオルで顔を、拭きましょう。ふう、すっきり。今日も1日の始まり始まりー。
 両手を腰に当てまして、ぐぐっと体を反らします。んんー、いい気持ち。身長高いと、洗面台が低くて低くて・・・・・・膝と腰を曲げてから、お皿を作って水くんで、背中を曲げて顔を近づけバシャンバシャン。ほら、曲げる工程が三段階もあるの。膝、腰、背中。これ、腰に結構来るんです。だから洗顔した後はいつも、体を逸らして歪んだ骨を治します。
 さて、今日の朝の献立は? いつもと同じ、パンかご飯を二人前。調子が良けれ三人前。でも最近はずっと二人前。だって、太っちゃったら嫌じゃない?
 ちょっとちょっと! こら、成長期なんだから、つべこべ言わずいっぱい食べなさい!
 えー、でもー、もう身長十分じゃない?
甘い甘い! とりあえず、伸ばせるだけ伸ばしなさい! それがあなたの持ち味でしょうが! 高身長ロリ顔アイドル。童顔だけなら、上がまだいるけど、童顔高身長なんて、あなたくらいしかいないじゃない。
うん、言われてみれば、確かにそうね。童顔も高身長も珍しくないけど、童顔高身長は珍しい。そう、これこそギャップ! 私の大好きな私の長所。
 ギャップ際立つ自称身長179㎝、高身長ロリ顔アイドル私の名前は川越舞衣。私の青春これからです。さあさあみなさん、私といっぱい、仲良くしましょー!
 早朝まだ少し肌寒いくらいの時間に、人混みが大嫌いな私は家を出て駅に向かいます。朝7時10分頃、この時間の電車はとても空いていて、気持ちいいです。
 逆にこれより遅れると・・・・・・人は密集していて窮屈だし、汗臭い時あるし、痴漢する奴もいるし。なにより、私の長身に嫉妬して陰口言ってくるやつ。私の持ち味高身長。これを貶す奴だけは許せません! もう、思い出すだけで嫌になる!
 プシューっと音がして電車のドアが開きました。私は電車に乗り込みます。一歩前に踏み出して、ドアを通って電車の中へ・・・・・・ゴツン。あら、またやっちゃった、恥ずかしい。
 私くらい背が高いと、電車のドアに頭をぶつけてしまうんです。これ、高身長あるある。ちなみに豆知識ですけれども、電車にも古い型と新しい型がありまして、新しい方はもう少しドアが大きいんです。でも、私がいつも乗るこの電車、残念ながら古い型なんです。毎度毎度気をつけてはいるんですけどたまに忘れちゃって。今日みたいに油断しているとゴツンとドアに直撃してしまうんです・・・・・・てへっ!
 10分間電車に乗って、高校のある駅で降りまして、、また10分間歩きます。はい、到着。教室に入るころ、時刻は7時30分。始業1時間前ですね。こんなに早く学校に来る人、私以外だと運動部の朝練に参加する人くらいなものです。駅からここまで向かう途中、制服姿の生徒なんて私しかいません。あとはみんな、ジャージ姿。
 誰もいない教室に入って、カバンを下ろして自分の席につきます。さて、何をしましょうか。私は朝早くから自習室で勉強するほど熱心じゃないので、教室でスマホをいじったり、課題があったらそれをやったりして、時間をつぶします。そのうち幼馴染の友達がやってきて、一緒におしゃべりしていれば、気が付けば始業のベルが鳴っている。
 さあ、学校生活の始まりです!



 ――さて。
 私がこの高校に入学して、早くも1週間が経ちました。始めは新しい学校にウキウキしていてはっちゃけていましたが、学校にも慣れ、授業にも慣れ、クラスにも慣れ、部活動にも慣れました。まあ、小学校からの幼馴染や先輩も結構いるので、慣れるといっても学校の勉強とかが主ですが。
 ちなみに部活動は手芸部に入りました。私、洋服づくりが趣味なんです。高校卒業したら被服の専門学校に通って、テイラーとかデザイナーになりたいなと思っているくらい。一番好きなのは、ロリータファッション。中途半端じゃない、女の子らしさの決勝みたいな、突き抜けたかわいい系が好きなんです。だって女で180㎝ある、女の子らしさと対極にあるこの私が、一番女の子らしい服を着ているって、最高じゃないですか、ギャップがあって。
 私がこの高校に来たのは、単純に勉強があまり好きじゃないからで、それに進学校だと偏差値バトルが繰り広げられて、専門とか行けないかなって思ったから。まあ、どうせ受からないけどね!
 ここで私の地元の説明をいたしましょう。小学校、中学校はみんな同じところに通って、高校からは大きく分けて二つに分かれます。一つは中学校から近い普通の高校、私が通っている、この高校です。もう一つは中学校から遠い進学校。当たり前ですが、頭のいい人は進学校に行って、私みたいな普通の人は普通の高校に進学します。
 といってもまあ例外というものはありまして、たまに頭がいいのに進学校を受験せずにここに来るような子もいるんですけどね。どうしてなんだろう? 近いから、とか? うーん、なんとなく嫌み! それに、もったいない! 本当に頭がいい子なのに、こんなところに来ちゃうなんて。
 まあとにかく私は現在、この家から近い電車で数駅の普通の高校で、充実した高校生活をエンジョイする華の女子高生をやらせていただいております。友達と先輩に恵まれて、毎日楽しく文句なしです!
 ただ一つ気になることが・・・・・・充実しているのは良いことなのですが、この生活に不満はないのですが。どこか退屈で、あまりにも平和で普通過ぎて、飽き飽きしてしまうんです。
 私は普通が好きじゃないんです。非常識が、常識外れが好きなんです。普通だと思ったのに、変態的な性癖を持ち合わせている、みたいな。そう、ギャップが好きなんです。でもみんな、品行方正でそんなところを見せてくれない。あー、つまんない!
 告白します。ナルシストと思われるかもしれないけど、正直に告白します。
 私は自分の長身が好きです。女子なのに背が高いって、ギャップがあっていいじゃないですか。そして、それに不釣り合いなこの童顔も好きです。長身でクールビューティはあっても、長身でかわいい系って、いないじゃないですか。このギャップが自慢なんです。私の持ち味なんです。
 ああ、どこかに、こんなギャップアイドルの相手になってくれる面白い男の子とか、いないかなあ。できたら、私と正反対の男の子。背が低くて、ワイルドなイケメン。身長も性格もわりかしどうでも良いけど、ギャップだけは譲れない。それが、私の性癖だから。
 それでもって、私のチャームポイントを褒めてくれる人なら最高です。ほら、男の子って、小さい子が好きって人、多いじゃないですか。自分よりデカい女は無理っていう人。そのせいで、私まだ初恋もしたことないんです。からかってくるのは多いけど、褒めてくれる人は少ないから、たぶん私、褒めてくれるだけで好きになっちゃうと思います。
 あー、いないかなあそんな男の子。いたら速攻で告白するんだけどなー。あ、アイドルに恋は禁物なんてこと、言わないでくださいね。あと、理想が高いって言うのも禁句です。
「おはようございます」
 おっと・・・・・・誰もいない教室で一人で盛り上がっていたら、クラスメートの男の子に挨拶されました。160㎝程度の小柄な男の子。大人しくてあまり喋らない、それ以前に周りに無関心な、そんな感じの人。でも勉強はできるみたいで、いわゆる無口なガリ勉くん。私立に落ちちゃって仕方なくこの学校にやってきた、かわいそうな男の子。ちなみに、小学校から一緒です。まあ、ここでは珍しいことではありませんが。
 そういえばこの子、最初はもっと遅く登校してきたのに、最近はなんだか私と張り合うように早く来るようになりました。しかも今日なんて、そちらから挨拶をしてきたし。普段は挨拶されても自分がされたとは気づかず無視するような、そんな人なのに。
 ・・・・・・ハハーン、これはもしや、私に気があるのかな? 全く、昔はもっとウブだったのに、もうそんなお年頃になったのかしら。高校最初の恋模様は10秒くらいで霧散していきましたが、この子はどれくらい続くのでしょうか。
 どうせならもっとワイルドな感じの子が良かったけど、別にこの子も顔は悪くないと思う。ただ背が低いだけで。私の求めていた、低身長イケメン。まあ、イケメンではないと思うけど、許容範囲。
 よし、さあおいで。今なら私は一人よ・・・・・・って、シャイボーイなこの子のことだから、そちらから攻めてくるなんてことは期待できないでしょう。
 なら、こちらから攻めて差し上げましょう! 私は音を立てずにそっと立ち上がり、彼の席の斜め後ろに立ちます。
「おはよう。ねえ、伊藤君、今ちょっといいかな?」
 小さく驚いてから、彼はゆっくりと振り返り、私の方を見上げます。あれ、思ったより反応薄い。もっとビクッとしてくれると思ったのに。
「うん、大丈夫だけど」でもその代わり、彼の顔がぽっと赤くなりました。あらかわいい、読みは正解? では、いざ出陣!
「急でごめんね。あの、私、伊藤君のこと、好きかもしれないの」作戦実行。さあ、あっけにとられて私に間抜け面を晒しなさい。
 告白された伊藤君はじっと、私を見上げてきます・・・・・・やっぱり、思ったよりも反応が薄い。
 つまらない。読みは失敗? あー、こんなことなら、別の子に告白すればよかった。
「うん、僕も」
・・・・・・えっ? 今、なんて?
「ありがとう。僕も、川越さんのこと、好き」
 特に驚く仕草を全く見せることなく、伊藤君は淡々とした調子でそう言いました。
「ねえ、連絡先、交換しない?」
と、そんなことを考えるのもつかの間、流れるように連絡先が交換されました。淡々と事が進んで。って、これもしかして、私が逆にからかわれてる? 私の方があっけにとられてしまいました。
 あー、失敗した。最初に返事を聞いた時に「いや嘘だよ、なに本気にしてるの?」とか言っておけば良かったのに、こちらが一方的に驚かされてしまいました。
「実は、川越さんのことは昔から好きでした」伊藤君は私をまっすぐ見つめてそう言います。そこまで真剣にならなくても・・・・・・これ、遊びだし。
「でも、勇気が中々出なくて、それで川越さんから告白されて。僕は今、人生で一番幸せです。ありがとうございます」
 いやいや、だから・・・・・・
 伊藤君の方から、外見の小動物感からは考えられない押しの強い愛のメッセージが次々と送られてきます。私はそれに圧倒されて、何も言い返すことができません。それに、そんな彼の必死さを見ていたら断る気も失せてきました。
 ・・・・・・いや、むしろ、私はこういう人を望んでいたのではありませんか。
こんなに頼りなさそうな彼からこんなに熱いメッセージが届く。そう、彼は私の求めていたギャップの持ち主ではありませんか。
 伊藤君は小さいのに男らしさを備え、自分よりも20㎝背の高い女の子にどんどん攻め込んでいく、そんな猪のような男の子だったのです。
 そんな彼の意外な一面を見てこれは有望株だと嬉しくなった私は、もっと彼のことを知ろうと思い、正式に告白をすることに決めました。あ、先に行っておきますが、これは好意ではなく興味です。
「うん、ありがとう。私も、伊藤君のこと好きです。これからよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」伊藤君は相変わらずお堅い調子でぺこりと頭を下げます。その様子が、さっきまでの激しい愛のメッセージとは打って変わって、とてもかわいらしく見えます。
 こうして私に春が来ました。



 ちょっと、整理をさせてください。
 私はギャップが好きです。見るのも好きですし、成るのも好きです。小さい男の子の男らしい一面を見るのが好きです。大きい女の子の乙女心が好きです。
 他にも、長身ロリフェイスの私が立ち上がった時の、顔つきとは似合わない背の高さに、最初は特に気にも留めていなかった人がぎょっとするのが好きです。
 なんといいますか、普段は見られないような一面を見るのが好きなんです。
 一方で、私は退屈が嫌いです。退屈を紛らわすためなら、好きでもない人に好きって言ってみたり、そこらへんの人にちょっかいを出してみたり、ちょっと悪い人と絡んでみたり、なんだって手を出します。そうすれば、人の普通じゃない一面も見られるし、一石二鳥ですね。
 ちなみに中学生の頃はバスケ部に入ってちょっと不良っぽい女の子や男の子と絡んでいました。少しだけ楽しかった思い出です。まあ、その後ぎっくり腰をやっちゃって、バスケ部はやめたんですけどね。でも、その頃できた友達とは今でも多少の付き合いはあります。
 また小学生の頃は、同じクラスの京子ちゃんという小さい女の子に毎日ちょっかいを出していました。具体的には、物を隠してみて、探し回っているところを見て楽しんで、飽きたら返してあげたり。すれ違いざまに頭の上に手を置いて、私や他の子と背比べをさせてみたり。とまあ、色々です。
 そんな私のことですので、冷静な人を見ると、なんとなくいじめたくなってしまいます。冷静な人が、戸惑ってうろたえる様子を見たくなってしまうのです。
 そういった邪な考えを抱いて、私は高校に入学して一週間くらいたったある日の朝、暇つぶしに一人の男の子に告白をしました。
 繰り返しますが、私はただ彼の驚いた表情を見たかっただけなんです。好意とかいう感情は、まったく持っていませんでした。あるのは好奇心だけでした。
 藪から棒にこんな自称ギャップアイドルに告白されて、「えっ?」と驚く顔が見たかった、ただそれだけなのです。
 冷静で、周りに無関心で、からかわれてもうまく受け流す、そんな彼が口をぽかんと開けて私を見上げる様子が見たかっただけなのです。
それなのに、彼の反応に、私は逆に驚かされてしまいました。

 私は今まで、人と付き合うということをしたことがありませんでした。男友達はいましたが、そういう関係になることはありませんでした。身長が高い女子というのは、モデルなどでは人気かもしれませんが、恋愛ごとにおいては不人気です。そもそも、私よりも背の高い男性自体が少ないですし。
 そんな私にも春が来ました。お相手は、同じクラスの伊藤真君。身長160㎝の小柄なかわいい男の子。いろんな意味で、私とは正反対の男の子です。
 そんな彼と交際してから、早くも2週間が経ちました。私たちの関係は、初めのころに比べたらこなれたものになり、クラスメートにも恋の段階について色々と聞かれるようになりました。
 「どこが好きになったの?」なんてよく聞かれれますが、当然出来心で告白したなんて言えません。最初は私らしくなく、恥ずかしそうにもじもじすることでごまかしていましたが、最近は、優しいところ、と無難な回答ができるようになりました。実際、彼は優しいです。私によく気を遣ってくれて、とても大切にしてくれます。
 電車で席が一つだけ空いた時には私を優先して座らせてくれたり、道を歩くときに道路側を歩いてくれたり。ところどころに見える私への優しさ、私への女性扱いに惹かれていくようになりました。こんなこと、人によっては当たり前の気遣いなのかもしれませんが、私にとっては新鮮なことです。
 私は身長がバカみたいに高いせいで、女の子扱いをしてもらえた覚えはほとんどありません。当たり前のことを当たり前と思える、そんな女の子がずっと羨ましかったです。彼と付き合ってはじめて私はそんな女子としての当たり前を手に入れることができたのです。
 ちなみに彼の方は、「どこが好きになったの?」と聞かれたらいつでも、「10年くらい前に一目惚れ」と答えていたみたいです。小学生の時から私のことが好きだったのでしょうか?そんな人と高校生になってから、しかも私の出来心から付き合うようになれたなんて、少し不思議な感じがします。
 やがて私たちはクラス全体が知る恋仲となりました。毎日一緒に登下校していたら、そうなるのも当然かもしれませんが。
 正直なところ、初めは興味本位と暇つぶしのために彼と付き合っていたため、飽きたらすぐ振ろうと考えていました。私は彼に好意を抱いたのではなく、興味を抱いただけだったのですから。
 しかし次第に私の方が彼に惹かれていくようになりました。私のことを女の子として優しく扱ってくれ、かといって控えめでもない積極的な彼に、私は異性として惹かれていくようになりました。
 一緒に歩いていると、たまに周りに誰もいないことを確認してから私の手を握ってくることがあります。それから私に、かわいいとか素敵だとか、そんな短い誉め言葉を投げてくれます。何より嬉しいのは、私の身長を褒めてくれることです。
 170㎝くらいまでならモデルみたいと言われることもありましたが、180㎝からはただ目立つだけで、女じゃないとか陰口を言われることはあっても褒められることはあまりありません。
 そんな私の長身を彼はよく格好いいとか素敵とか褒めてくれました。他の人からもたまに言われるお世辞の類だとは思いますが、それでも私は言われて嬉しいです。
 また、一緒にいるときは私が飽きないように終始話題を持ちかけてくれます。この前、私が好きなバンドの話をしたら、次の日に「昨日言ってたやつ聞いてみたよ」と言ってくれました。その日はお互いにバンドの良いところを語り合いました。
 またある日、近所のファミレスで一緒にご飯を食べていた時のこと。私は食欲が普通の女子よりもあるので食べるのが速いのですが、伊藤君はそんな私に合わせて食べてくれます。そんな、優しい彼。私を想ってくれる彼。
 そして何より、彼には私の好きなギャップがあります。私は自分より背の低い男の子の方が、自分の長身が際立つようで好きです。しかし背が低いだけなら、伊藤君よりも小さい人がいます。しかし、伊藤君のようにギャップを具えた人は中々いないと思います。一見無関心で頼りなさそうに見えて、実は積極的で頑張り屋で、私の気を引こうと努力してくれる。熱心に私を想ってくれる。それが、私が彼に惹かれたきっかけであり、同時に私の思う彼の長所です。
 ハムスターが実は猪で、引っ込み試案な病弱少年が実は勢力旺盛なアスリートだったのです。
 交際期間を経るごとに見えてくる彼の男らしい一面、そしてそれから生まれるギャップ。私はそんな性癖ど真ん中の彼にどんどん惹かれていくようになりました。

 ――ここで少しばかり、私の昔話を。
 恋愛というものを誤解していた時期が私にはありました。そう、それは中学時代のこと。バスケ部時代の友達に彼氏ができた時のことです。
 私はある日偶然、友達が彼氏と一緒に歩いているところにばたりと出会いました。
「あー、舞衣ちゃん! 久しぶりー!」
 部活をやめてからはめったに話す機会のない友達でしたが、その時は偶然彼女と出会うことができ、また彼女は私を見るなりバスケ部時代と同じように、私に手を振ってくれました。
 そんな彼女の隣で、彼女の彼氏はこう言いました。
「うわでっか!」
 私を見上げた後で足元を見て、ハイヒールで高く見せていないことを確認してから再び私を見て、言いました。
「でっか! 本当に女子かよ?」私の心がピシッと音を立てました。
 そしてその隣で友達は「きゃははは!」と大笑いをしていました。
こういう人は別に珍しくないので、私はただ、嫌な人と付き合っているなと思っただけでした。
しかし、友達がそんな人と付き合っていて、しかも友達までそんな失礼な行為を笑っているというのが、私はとてもショックでした。
 人の悪口が楽しいというのはなんとなくわかります。女子の友情というものはそういうものなんです。私たちは共感を求めています。そして一番共感を誘うのにうってつけの話題が、ある人の悪口なのです。
 そんな処世術を、当時の私はすでに自然と身に付けていました。悪口に対する後ろめたさも、そこまで負ってはいませんでした。
 しかしその時は・・・・・・バスケ部時代は仲の良かった友達。部活をやめてからも、会う機会がなくなっただけで、会うときはいつだって手を振ってくれた彼女。
 そんな彼女が私のことを彼氏と一緒に笑いものにしている。そんな光景がとても不気味で、恐怖すら覚えました。何が彼女をここまで変えてしまったのかと、私は悲しみに明け暮れました。
 そんな友達のように、人は恋に落ちると、好きな人の偽りの優しさを何十倍にも誇張する呪いにかかってしまう。
 そんな、人をだめにする呪いの名前、それが恋。私はつい最近まで、恋についてそんなことを思っていました。
 ・・・・・・確かにそういう考え方も、一理あるかもしれません。
 しかしそれでも私たちは恋をします。その友人はその後彼氏の浮気が原因で別れたようですが、その一か月後には別の人と付き合ったと聞いています。
 人は、裏切られて終わってもまた新しい恋を探します。
 そう、人は恋をするために生きているのかもしれません。恋は生きがい、そして恋は生命力の源。
 失恋を慰めるのは次の恋。なんていう言葉を聞いたことがありますが、そういう意味なのかもしれません。
 彼と出会って、私は変わりました。優しい彼に釣り合う女になろうと、彼に嫌われないように振舞おうと思うようになりました。
 人を驚かせることは相変わらず好きですが、意地悪をしようとは思わなくなりました。そしてその代わり、人を楽しませることを考えるようになりました。
 デートの待ち合わせで隠れていて、彼が来たらこっそり表れて、目隠しする。そんなスキンシップの取り方をするようになりました。
 以前の私であれば、デートに行かずに、うろたえて電話してくる様子を自宅で楽しんでいたかもしれません。
 しかし今は、人に嫌な思いをさせたくないと思うようになりました。それくらい、私は変わりました。
 学校ではクラスメートや先輩からも逆身長差とか凸凹カップルと言われてかわかられていますが、今の私にとってはどうでも良いことです。伊藤君も気にしていないようですし、何の問題もありません。
 たまに、非常識にも電車の中で騒ぐカップルがいます。以前の私はそんなカップルをうるさいなあと思っていましたが、今なら2人の気持ちがよくわかります。恋の呪いにかかると、倫理・道徳よりも2人の時間の方が重要になってしまうのです。
 マナーは人として大切なことです。しかし恋に熱中しているときのアタマでは、そんなことにまで気を向けることができないのです。
 私は恋をして、それを実感しています。握手をするだけで楽しかったのに、どんどんわがままになっていく自分がいます。どんなに話しても話したりない。ちょっとくらい嫌なことでも、話が盛り上がるのならやってしまう。
 この世界には、こんなにも熱中できる遊びが、あったのだと、私は経験して初めてそれを知りました。



 光を感じて目を覚まします。
 いつもよりも明るい部屋・・・・・・嫌な予感がしてスマホで時間を確認します。
 7時、普段なら家を出て学校に向かう時間です。私ははっとして飛び上ります。
 初めて朝寝坊をしてしまいました。普段は早寝早起きをするタイプなので、朝は6時に起きて7時に出発して朝早い空いている電車に乗って7時半には学校に着くのですが、昨夜は夜遅くまであんなことやこんなことを考えていたせいで、今朝は寝坊をしてしまいました。恋への執着が招いた悲劇です。
「ごめん、寝坊しちゃった! 先行ってて! ごめん!」
 伊藤君にそんなメールを送り、髪をドライヤーで梳かして、朝食をかきこんで、家を出発します。
 人であふれる電車に、「デカくてすみません」と心の中で謝りながら人と人の間にうまく収まります。
「うわ、デカ」
「ん? うわでっか」
 年の近そうな男性の声が聞こえました。不愉快です、だから人込みは大嫌いなんです。そりゃあ、私がデカいのは事実ですが、事実を言われるのは傷つくものです。ましてやそれが、私の唯一の自慢だったときには。
 寝坊したといっても始業には間に合うのですが、人で混んだ電車は窮屈だし、たまに臭いし。私は背が高いので、上のきれいな空気を吸えるのでまだマシなのかもしれませんが、そのかわり不快な目に遭います。
 今日はされませんでしたが痴漢に合うときもあります、最悪です。はあ、これだからアイドルは大変なのね。あと、私と背比べしてくるやつ。そういう性癖があるみたいです。女の子と背比べして負けたい、みたいな。
 私はそういう性癖を否定する気は全くないのですが、珍獣扱いは、さすがに嫌になります。
 それに、伊藤君と一緒に過ごす朝のゴールデンタイムを失ってしまったというのが一番の悲しいことです。伊藤君と二人きりになれるのは、登下校の時だけなんです。お昼休みも一緒にいられれば良いのですが、伊藤君はなんか恥ずかしがって、お昼までは一緒にはいてはくれません。二人きりでいる時は積極的なのに、人目があるとシャイになっちゃう。それが、彼のちょっと残念なところ。嫌がる伊藤君を無理やり誘うなんてことしたくありませんが、少し物足りない。
 あー、残念! これからはもしもに備えて目覚ましをセットしようと心に決めました。
 駅についてから小走りで学校を目指します。いつもより遅い時間に校門をくぐります。これくらいの時間だと、ちらほら人がいますが、思ったよりも少ないです。もしかしたら、自分の教室にはまだ伊藤君しかいないかもしれません。
 身長180㎝の長身女が廊下を走るのは圧巻なようで、すれ違う人は皆ぎょっとします。でも、そんなの今はどうでもいい。今ならまだ、間に合うかもしれない。そんな期待を胸に私は教室に入りました。
「伊藤君、ごめんね! 寝坊しちゃって」
 教室のドアを開けて真っ先に飛び込んできた光景。伊藤君の前に一人の女・・・・・・
 暗闇はなく、ただ無知のみがある。どこかで聞いたことがある名言。最初聞いた時は言っている意味がよくわかりませんでしたが、まさかこの名言をこんなにも心から納得する日が来るとは、夢にも思っていませんでした。
 男はみんな狼なのよ。この警句がいま適切かどうかは知りませんが、自分の愛する恋人がいつまでも自分を思ってくれるとは限らない。そんな当たり前のことを私は忘れていました。そうならないように気を付けるべきだったのに・・・・・・後悔しても過去は戻ってきません。
「あ、伊藤君、またね」
「あー、うん」伊藤君が頷きます。
「じゃあ、お邪魔しました」そう言いながら、女はそそくさと教室から出て行きました。
 恋は盲目、そして恋は呪い。
 いや・・・・・・そもそも呪いではなかったのかもしれません。今まで見てきた彼の表情は私だけに見えるものではなくて、実は誰にでも見えるものだったのかもしれません。
 彼は本当は誰からも好かれる素晴らしい人だったのかもしれません。私が勝手に呪いだと思い込んでいただけで。私だけが、彼の男らしい一面を知っているのだと思い込んでいただけで――

 今日の教室はいつもより暗く、熱く、まるで地獄の窯に投げ入れられたような息苦しさを覚えます。それと同時に、私の愛を侮辱した女への怒りが地獄の窯にふさわしく沸々と湧いてきます。
 佐伯京子、小学生の時、私は彼女のことをいじめていました。当時はいじめという感覚はなかったのですが、今思えば立派ないじめです。
 ちょっかいを出すといつも良い反応を返してくれる彼女はとてもいじめがいのある、良いいじめられっ子でした。私は毎日、彼女をおもちゃにしていました。
 中学からは妙に大人しくなって、小学生の時のようにちょっかいをかけても反応が乏しくなり、私は飽きて自然といじめをしなくなりました。また私が大人になったこともあってそんなことをしたいとも思わなくなりました。
 しかし、まさかそいつに伊藤君を奪われる日が来るなんて。私はそれを、夢にも思いませんでした。
すれ違うたびに京子をきっと睨みつけます。なんとなくわかっていましたが、周りに無関心な彼女はそれに気づきません。それなら、気づくようなやり方で、やり返してやるまで。
 これからどうしてやろうか、私は京子が嫌がることを考えながら、一日を過ごしました。
 放課後、久々に一人の下校でしょうか。独りぼっちの下校に、あたかも好きなドラマの最終回が終わった時のような寂しさを覚えながら、私は帰りの支度をします。次があるかもしれないけれど、もう終わってしまうかもしれない。これから先に対する不安が、私の表情を暗くしていくのがわかります。
「ねえねえ川越さん、このあとお暇?」
 人をイラつかせる、かわいらしい甲高い声。声の主は京子。私はそいつを睨みつけましたが、隣の伊藤君を見て、私は咄嗟にそれをやめました。
 しかし・・・・・・なんでしょう、この状況は。
 男を奪われた女に、奪った悪女が男と一緒に声をかけに来る。この奇妙な状況を前に私は二人と目を合わせることができませんでした。
「あの、誤解していると思うけど、私は別に伊藤君が好きとかじゃないの。今朝は個人的に話をしていただけで」
 私は伊藤君の表情を確認します。彼は大きくうなずきました。ほっとすると同時に、私は思わず顔をしかめます。
 京子ちゃんと伊藤君ができているわけじゃなくて、伊藤君もそれを認めていて、それで今朝は2人きりでしゃべっていて、私が来るなり京子ちゃんはどっかへ行って。
 私はわけがわからなくなりました。
「個人的にって、何を話していたの?」
 低い声で京子ちゃんに尋ねます。京子ちゃんは「えーと」といって目を瞑って、考えます。この仕草は、考え事をするときの彼女の癖です。言い訳でも考えているのでしょうか。気が付けば私は彼女を睨みつけていました。
「話すと長くなるから。最初に戻るけど、このあとお暇? 暇なら、三人で一緒にお茶しない? そこで、ゆっくり話したい」
 納得はしていませんが、とりあえず私は頷きます。伊藤君がほっと溜息をつきました。
「よかったー。本当、浮気とかじゃないからね。佐伯さんとは今日初めてしゃべったくらいだし」
 伊藤君のとなりで、京子ちゃんはこくりと大きく頷きました。

 ・・・・・・どうしてこんなことになっているのでしょうか。せっかくの放課後を京子ちゃんと伊藤君とカフェで過ごす日が来るなんて、小学生の頃には考えられないことでした。
 京子ちゃんとは多少は仲良くしていた節もありましたが、放課後まで一緒に過ごすことなんて、絶対にありませんでしたし。
 京子ちゃんは小さくてかわいくて、中学生になってからは表情がなくなって何を考えているのかよくわからないけれど、昔は何でも顔に出ちゃうタイプで、基本的には誰にでも親切で、人の悪口とかは絶対に言わないタイプです。
 そんな、つい嫉妬してしまうようなかわいい女の子です。しかし、それが伊藤君をたぶらかす理由にはなりません。
「改めて言うけど、私は別に伊藤君に好意とかは抱いてないから。もちろん伊藤君の方も」
 隣の伊藤君は大きくうなずきます。彼の言うことは信じます。なら、どうして今朝、私のいないところで京子ちゃんと話をしていたのでしょうか。しかも、理由は話すと長くなるから言えない。わけがわかりません。
「まあ、説得力ないよね。私も実際、伊藤君が一人になるところを狙っていたし、そう誤解されても」
 私は黙ったまま、2人をじっと見つめます。
 別に、怒っているわけではありません。ただ、意味が分からないのです。京子ちゃんの意図が、そして2人の関係が。
「私はね、伊藤君の性癖に興味があっただけなの。本当に、それだけ」
 隣の伊藤君が恥ずかしそうに小さく頷きます。
 性癖、その単語に私の頭がピクリと反応しました。胸がざわめきました。
 しかし、すぐにまたイライラしてきました。彼の性癖は私が知りたいことです。どうして京子ちゃんが私よりも先に彼の性癖を知ったのか。納得できません。
「ねー伊藤君、話しちゃっていいかな?」
「う、うん、まあ。いつかは話さなきゃいけないことだと思うし。川越さん、別に隠したいたわけじゃないんだ。ただ、言うタイミングがなかっただけで」
 2人の会話を聞いていて、またイライラしてきました。気安く話しかけるな。あと、そろそろ舞衣って呼ばれたい。
「あのね、伊藤君はトールフェチなんだって。しかも相当の」
 京子ちゃんがそう言った瞬間、伊藤君は今にも燃え上がりそうな勢いで顔を真っ赤にしました。
 私は思考が停止するのを感じました。

 『トールフェチ』、私がその存在を知ったのは中学生1年生の時です。当時から166㎝あって周りから抜けており、またそれをからかわれることも多かった私はその存在に驚き、世界の、そして人間の多様さを実感しました。こんな人もいるんだなあと思い、そして少しだけ嬉しくなりました。
 それまでは、女子で高身長というのは、私自身は自慢に思っていても周りの人には良く思われないものだと思っていたので、目から鱗が落ちた気分でした。
 そしていつか、そんな性癖を持った人に出会えたら、こんな私でも楽しく恋愛できるのかなと、空想にふけっていました。
 そんな物好きが、まさかこんなに身近にいるなんて。ましてや、知らず知らずのうちにそんな人と付き合っていたなんて。
「私ね、不思議だったの。伊藤君が川越さんのどこを見ているんだろうって」京子ちゃんが話を続けます。
「伊藤君の視線を追っていたら、川越さんの顔でも胸でもなくて、頭のてっぺんを見ていたの。しかもよく見たら、他の人と並んでいるときとか、ドアを通るときに川越さんの後姿をじーっと見つめていたの。それで私、気が付いた。伊藤君は川越さんの身長を見ているんだってことに」
 京子ちゃんが淡々と話すその隣で、伊藤君は顔を耳まで真っ赤にして、背中を丸めて小さくして、うつむいています。その様子はあたかも、京子ちゃんの言うことすべてを肯定しているかのようでした。
 私は呆然としていました。真面目で優しい、けれども積極的な彼の性癖をこんな形で知るなんて。そして彼の性癖を知った今、私はどうすればよいのでしょうあ。
 私の中の何かが、ピキピキと音を立て始めました。

「それじゃあ、また」
 京子ちゃんが小走りで去っていきます。私たちは京子ちゃんが見えなくなるまで、その背中を目で追っていました。場所は繁華街、時刻は夕方。人通りが多く、その中にはカップルもいます。そして私の付近を通り過ぎるカップルの中には私を巨人と言って喜ぶ人もいます。そう、バスケ部時代のあの子のように。仕方ありません、カップルなんですから。
 しかし、今はそんな陰口を気にする余裕がありませんでした。
「・・・・・・帰ろうか、川越さん」
「うん」
 彼の声が震えています。私は小さく頷いてから、一緒に駅に向かいました。歩いている最中、私たちはずっと黙りっぱなしでした。いつもなら何かしらの話題でおしゃべりをしながら一緒に歩くのに、今はそんな気分にはなれませんでした。伊藤君も話題を振ってくることはありませんでした。
 彼の性癖を知って幻滅したとかそんなことは全くありません。むしろ彼は私が前々から求めていた人だったのです。
 ただ、私は今すぐにはそれを受け入れることができないのです。
 帰り道、伊藤君はいつもと変わりなく私に優しくしてくれました。しかし彼の仕草はどれもぎこちなく、それが私の無表情と無口に原因があるというのは明らかでした。
 なにか一言、「それでも好きだよ」とか言ってあげれば良いのに。しかし私は今すぐには、彼の性癖をありのままに受け入れることができないのです。
 それは彼に引いたとか幻滅したとかそういうものではなく、むしろその逆で理想の人に出会えたからこそ厄介なのです。



 誰にでも気にしていること、いわゆるコンプレックスなるものはあると思います。体のことだったり、才能のことだったり、心のことだったり。
 私のコンプレックスは高身長でした。
 小学校入学時に135㎝あり、他の子よりも頭一つ高く、2番目に高い子と比べても頭半分くらい高かったので、背の順で並んだ時もよく前の方が見えました。
 また6年生の一番小さい人よりも大きかったのを覚えています。運動会などで、自分よりも背の低い先輩が私を先導してくれるということは、よくありました。
 そんな長身を小学4年生くらいまでは、私の一番の自慢に思っていました。そのくらいまでは男女とかを特に意識していなかったので、「大きいと強いから」というとても単純な理由で自分の身長を自慢に思っていました。
 しかし5年生くらいから、友達の影響もあって女らしさというものを意識するようになりました。そしてその頃から、この女らしからぬ高身長をコンプレックスだと思いこむようになりました。
 それと同時に、男女問わず友達から身長をいじられる機会も増えていき、その意識はますます大きくなっていきました。
 しかしそんな外から植え付けられた意識とは裏腹に、中学生になっても伸び続ける私の身長は、私にとっては幼少の頃と同様、私の一番の自慢であり続けました。
 「背が低かったら完璧なのにねー」「顔はいいのに身長がなー」と勝手な同情されても、また心の片隅で小さくてかわいい女の子に、女子として憧れることがあっても、それは私の自慢であり続けました。
 だからこそ、身長をからかわれるのが嫌でした。好きなものを否定されるというのは辛いことでした。
 しかし実際には理解されない時の方が圧倒的に多く、私はいつの間にか、自分のこの一番の魅力を心の内に秘めるようになりました。
 それと同時に私は、自分の唯一の女の子らしさであり、人からも褒められるこの童顔を誇りに思うようになりました。座っているときはいつだって、私はアイドルでした。
 そんな思春期のコンプレックスと誇りはやがて融合し、歪んでいき、私の中で『ギャップアイドル川越舞衣』が誕生しました。
 背が高いおかげでモデルみたいと言われるのはまあまあ嬉しかったのですが、結局それをひねくれものの私は今の今まで目指すことなく、ギャップアイドルとしてデビューしました。
 そんな、私だけが認める秘めたる私の魅力。他人には理解されない私だけの隠れスポット。それが私の童顔高身長でした。
 それが今はどうでしょう。こんな長所を認めてくれる、魅力に思ってくれる人と私は知らず知らずのうちに付き合っていたのです。
 もちろん全部が全部受け入れてもらえるとは思っていませんが、こんな人を目の前にして、私はどうすればよいのでしょうか? 嬉しさよりも奇妙という感情が勝ってしまいます。こんなところに惹かれるなんて、絶対におかしいです!
 こんなおかしな人に現実で出会ってしまったことが、私にはあまりにも衝撃的でした一度はあきらめて自分の中に秘めたものが再び掘り起こされたのです。
 私のみ知る私の魅力、それを素敵と言ってくれる彼の存在。嬉しさよりも、驚きと戸惑いの方が強く、私は彼の好意を素直に受け取ることができません。
 そしてこれらの感情を十分に処理し終えて、そんな物好きさんの存在を確認したところで、今度は私の素の感情が、私の『性癖』が、今、何倍にも膨れ上がって姿を現してきました。



 ぎくしゃくとした関係のまま一週間が経ってしまいました。未だに登下校は一緒にするものの、その最中のおしゃべりが、以前よりもずっとずっと少なくなってしまいました。
 伊藤君はがんばって声をかけてくれるのですが、私はいつも上の空で返事をしてしまいます。そしてとうとう、会話そのものが淡々としたものになってしまいました。
 決して、伊藤君のことが嫌いになったわけではありません。ただ・・・・・・思い込みを捨てるのは、予想以上に時間のかかることのようです。
 たまにいるんです、背の高い女性が好きという人が。電車に乗っていると、たまに私の隣に立ってじろじろと見上げてくる人がいますが、そういう人も、そんな性癖の持ち主なのかもしれません。
 そういえば中学の頃の友達の友達の男の子がそうでした。そして私の背が高いということで、私はその人と会うことになりました。初めての恋愛だったので、少し楽しみにしていました。
 しかしその人が求めていたものは大きい女性なりの包容力とモデル体型で、私にはそのどちらもありませんでした。自分で言うのもなんですが、私は性格が子供っぽいですし、胸も小さく肉月もよくはありません。そしてその恋は始まることもなくその日のうちに終わりました。
 認められたと喜んで、実際には私の趣味とはいくらか異なる。誰も悪くないのに、なんとなく裏切られた気分になってしまう。
 伊藤君がそういう人であろうとなかろうと関係ありません。私は彼の性癖に関係なく彼が好きです。しかし一方で、期待してしまう自分もいます。トールフェチの彼が、私に何を求めているのか。それが気になってしまいまうその一方で、真実を知ることに対して臆病な私もいます。
 一週間という時間は、そんな気持ちの整理をつけるには短い時間です。しかし、その1週間が経過した今日は高校の終業式。このままでは下手すれば、伊藤君とはあと1か月間会うことができなくなってしまいます。
 私にとっての一か月は、伊藤君にとっての一年かもしれません。私がのんきに感情を整理している間に、彼は次の恋を探してしまうかもしれないのです。それだけは避けたい。なぜなら、私は今、これまで以上に彼のことを好きになっているのですから。
 すれ違ったまま自然消滅。なんて悲しすぎます。そろそろ私の方から動き出さないと、取り返しのつかないことになってしまいます。

 終業式の、早い下校の帰り道。いつも通り伊藤君と一緒に帰ります。静かな帰り道、一緒にいてもしゃべらないというのはすでに習慣になってしまいました。こんな時、話題を振るというのは一週間前の10倍くらいのエネルギーを消費する行為です。しかし、ここで逃げたら一生後悔します。私、勇気を出せ!
「川越さん」
「ひゃあ!」
 びっくりして思わず裏声が出てしまいました。まさかこのタイミングで、まさか伊藤君の方から話しかけられるなんて。
 しかし・・・・・・よくよく考えてみれば、そうです、伊藤君の方だって、私と全く同じ事情ではありませんか。今日という日は逃せないという発想は同じじゃないですか。
 それなら、タイミングが被るのは当たり前です。むしろ、気が合うからこそのシンクロナイゼーションなのかもしれません。
「あ、ごめん、驚いちゃった。それで、なあに?」私はにっこりと微笑みながら、腰を曲げて彼と目線を合わせながら彼に問いかけます。
「あー、久しぶりに、どこか寄らないかなって」目を泳がせながら答える伊藤君。私の口角が、より上がっていきます。
「うん、いいよ! 私もちょうど、おしゃべりしたかったし」
 一週間ぶりのデートに、私の胸は高鳴りました。

 喫茶店とかカフェとかファーストフード店で過ごすのも良いですが、たまには公園でゆったり自動販売機のお茶を飲むのも良いです。さらに、コンビニで買ったパンでもあれば、もう最高です。
 私たちは帰り道にある小さな公園でベンチに隣り合って座りました。すぐには話し出せないみたいで、しばらくは沈黙が続きました。私は気長に待ちます。どうぞ、ごゆっくり!
「・・・・・・川越さん?」
「ん?」
「その・・・・・・この前の話、やっぱり引いた?」
「ううん」私は首を横に振って、はっきりと意志表示します。そんなこと、まったく思っていません!
「少しびっくりしたけど、引くなんてこと、全然ないよ。今も、これからも」
 すると伊藤君は嬉しそうに小さく笑いました。
「そう? それなら、良かった・・・・・・」
 また、沈黙が流れます。ああ、私も言いたいことが山ほどあるのに。あと5分黙りっぱなしだったら、こっちから話しかけよう。
「あの」
「はい」
「誤解しないでほしいんだけど。別に体が目的とかじゃないからね。身長に惹かれたのは事実だけど、それはあくまで一つのきっかけにすぎないというか。本当にそれしかなかったら、毎日教室で見ているだけでいいわけだし」
「うん」
「もっと言えば、川越さんと付き合わなくても、しゃ、写真とか取っておけばそれで事足りるし。壁にメジャーとか。あ、別に本当にやってるってわけじゃないけど、そんなことしていればことたりるから、その」
「うーん、うん」その発想には、正直少し引きましたが、大丈夫です!
「川越さん、普通にかわいいと思うし、一緒にいて、話していて楽しかった。こんな人と付き合えて、本当に幸せだって思っている。川越さんに告白された時が人生で一番幸せだっていうのは、本当のことだから」
 かわいい、なんて言われて私は恥ずかしくなりました。かわいい、です。格好いいでも、素敵でも、綺麗でもなく、かわいい。これなら、彼とは本当に気が合うのかもしれない。そんな期待が私の中に満ちてきます。
「うん。ありがとう」
「だから・・・・・・これからもよろしくお願いします」
 伊藤君がぺこりと頭を下げます。そんなに丁寧にお辞儀されたら、こっちが言いたいことも言えなくなっちゃう。私はもっとぶっちゃけた話をしたいのに。
「うん、よろしくね。私も伊藤君に言いたいことがあるの。いいかな?」
「うん、もちろん。むしろ、話してほしい」
 とうとう、私の番。私はにこりと微笑んで、ベンチから立ち上がり、伊藤君を見下ろしながら、告白します。
「私もね、自分のこの体が好きなの」



 再度、自己紹介を。
 私の名前は川越舞衣、チャームポイントはベビーフェイスと高身長。このギャップが私の持ち味。ギャップはあればあるほど面白い。
「私はね、この体が好きなの」
 ぽかんと私を見上げる伊藤君。ああ、その表情、好き。普段冷静な人があっけにとられたその表情が。普段は見えない、人のレアな一面が。
「私はね、自分のこの童顔が好きだし、それに不釣り合いともいえるこの身長が大好きなの。まあつまり、ギャップが好きなの。顔は簡単には変えられないけど、身長はまだ伸ばせる、伸びしろもあると思うし、もっと身長も伸びてほしい。もっともっと、細長くなりたい。高身長ロリ顔を極めたい」
 私の告白をじっと聞いてくれる彼の肩に、私は両手を置きます。彼はびくりと小さく驚きました。私はにやりと微笑みました。
「ねえ、伊藤君。立ってみて」
 脇の下に手を入れて、持ちあげるようにして彼を立たせます。小さい、軽い。でも男の子だから、幅は私と同じくらいかもしれません。
 彼の肩は、大体私の肘の高さにあります。肘を直角に曲げて、再び彼の肩に両手を置きます。体で感じる彼の小ささに、胸がきゅんとしました。
「うーん、こんなもんなのね」
「な、何をしているの」
「自分がどれくらい大きいのかを、実感しているの。ありがとう」
 私は彼の肩から両手を下ろします。伊藤君は呆然とした調子で、私のことを見上げていました。立って上から見下ろす彼の表情は、ベンチに座って隣の彼を見下ろしていたときよりも、さらに小さくかわいらしく見えます。
 伊藤君はぽかんと、思考停止したように私を見上げています。さすがに、最初から飛ばしすぎだったでしょうか? 引かれてしまったのでしょうか。でも、私の伝えたかったことは、これで全て伝え終えました。
「あ、もしかして、伊藤君、引いちゃった?」
「ううん」
 彼はきっぱりとそう言い、首を横に振ります。私はにやりと微笑みます。やっぱり私たち、相性が良いのかも。
「なんていうか、そんな女の子、実在するんだなーって」
「ん? 実在って、どういうこと?」
「いや、普通はさ、背の高い女性ってコンプレックスとか抱えているって思っていたから」
「あー、まー、わからなくはないよ。小さい女の子を見てかわいいなーって思う時もあるし、この身長のせいで嫌な思いをすることもある。でも、私はこの長身が好き。もっともっと伸ばしたい」
「変わってるね」
「そう? それだったら伊藤君だって、普通男子って小柄な女の子好きじゃない?」
「まあ、他の男はそうかもしれないけど、僕はそうじゃないから。それにこの前は、背の高い人が好きって言ったけど、本当は川越さんの童顔も好き。川越さんが言ったのと同じ。僕はたぶん、川越さんのギャップが好きなんだ」
 私はにこりと微笑んでから、彼の手を取りました。
「私たち、似た者同士だね!」つい興奮して、声を上げてしまいます
「ま、まあ、そうなるのかな?」伊藤君は照れて顔を赤くしています。
 私の青春がとうとう始まった、そんな気がしました。

 来た時とは打って変わって、私たちは一緒にいる間は絶えずおしゃべりをしながら駅を目指しました。もっとも、8割くらいは身長の話だったのですが。
 私の小1の身長は135㎝で、中1で166㎝。高校入学して179㎝、足の大きさは小さめで25㎝、去年は5㎝伸びたから、今年もそれくらい伸びるといいな。
 頭の大きさは21㎝なので、8・7頭身。この高頭身だけ誰にでも自慢できると思います。8頭身どころじゃありません。8・7頭身です。足の長さは87㎝で身長との比率は48%。この脚の長さも自慢です。
 背が高くて困るのは洋服とキッチンです。洋服はメンズをうまく組み合わせて着るというのもあるのですが、たいてい肩幅が合いません。そこで丈の短い服を、長袖だったら七分丈くらいにして、そこに長めのスカートで合わせるといい感じになります。
 ただ、キッチンとか洗面台の高さはどうにもなりません。低いので、大股になることで比較的楽に高さを調整できます。まあ、家の洗面所は狭いので、学校のトイレとか、広いところじゃないとそういうことはできないですけど。
 とまあ、こんな私にとっての日常を話すだけで、伊藤君はとても喜んでくれます。それはそれで少し不思議な感じがしますが、私の話で彼が楽しんでくれるというのが、私は今、とても嬉しいです。
今までは伊藤君から一方的に話しかけてくる感じでしたので、これでようやく、私たちは相思相愛のカップルになれたような気がしました。
そして、雨降って地固まるの慣用句のごとく、彼と今まで以上に仲良くできる今が、とても幸せです。
「ねえ、夏休みに水族館に行かない?」
「うん! 行きたい」
 流れるように、私たちはデートの予定を決めます。今までデートと言えば近所のお店でご飯を食べたり物を買ったりするくらいでしたが、今回は遠出です。今日一日で仲が急速に縮まっていった気がします。
 ――ふと視界の端に入る小さな人影。京子ちゃんが、スマホを見ながらこちらに向かって歩いてくるのが見えました。
「あー! 京子ちゃん」私が声をかけると、彼女はスマホから顔を上げます。
そして私が手を振ると、向こうも振り返してくれました。京子ちゃんも歩きスマホとかするんだと、少し意外な気持ちになりました。
 彼女がいなかったら、私たちは今、ここまで仲良くなれなかったかもしれません。私は心の中で、京子ちゃんに感謝しました。
「図書室?」
「うん」こくりと頷く彼女。
「偉いねー」私は心からそう思いました。
 京子ちゃんはとっても頭がいいんです。多分、幼馴染のこの間だと、一番。そんな彼女がこの高校に進学した理由は、今でも私たちの間の謎の一つです。
「ねえねえ川越さん、待ち合わせ時間は10時かなー」
「なに、デートの予定?」伊藤君の話を横切って、京子ちゃんが尋ねてきます。意外でした、こういう話には興味なさそうなので。
「うん、2人で水族館に行くの」私は少し照れながら、そう言い切ります。
 京子ちゃんは目を瞑って、何かを考え始めました。
「ねえ、そのデート私も後ろからついて行っていいかな?」
「え?」あまりの突拍子のなさに、私は抜けた返事をしてしまいました。
「デートってどんな感じなのかなーって。ちょっと参考にしたくて」京子ちゃんは恥ずかしそうに言います。これはもしかして・・・・・・
「あー、京子ちゃんもしかして、好きな人できたのー?」
 屈んで、京子ちゃんに目線を合わせて彼女の顔をまっすぐ見ながら、質問します。彼女は顔をぽっと赤くしました。私は胸がときめくのを感じました。
「まあ、ちょっと興味が・・・・・・」
「うわー! いいよね伊藤君。別に一緒に回るわけじゃないんだからさ」
「そうそう! ただ、参考に観察したいだけだから」京子ちゃんはニコニコしながら嬉しそうに、私たちを低い位置から見上げてきました。こんなに笑った京子ちゃんを見るのは小学生の時ぶりでしょうか。なんだか懐かしい気持ちになりました。
 どんな人が好きなんだろう。それを考えるだけで、私はなんとなく胸がわくわくしてきました。
 やっぱり、恋愛は楽しいです。誰もが熱中する理由がわかります。

「じゃあ、またね」
「うん! 気を付けてねー」
 京子ちゃんと別れて、現在時刻は14時30分ごろです。それでも普段よりも早いくらいの下校時間。
 いつもは改札で別れて反対方向の電車に乗る私たちですが、伊藤君はどうしてか、私と同じ方向の路線に来ました。
「あれ、伊藤君、この後用事?」
すると伊藤君は、恥ずかしそうに目を伏せながら、言いました。「ううん。川越さんのこと、送るよ」
 私は顔がぱあっと明るくなるのを感じます。これは、安全のため夜道に女性を送るものではないですか。このギャップが、小さい子が見せる男気に、思わず口元が緩みます。
「ありがとう・・・・・・」
 私たちは一緒にホームに向かって、二人で同じ電車を待っています。待っている間は、おしゃべりをします。とても幸せな時間です。でも幸せな時間はあっという間に過ぎ、やがて電車がやってきて、一緒にそれに乗り込みました。
「あ、やっぱりドアより背が高いね?」
「へ?」
 頭を下げて乗り込む私を見て、彼はそう言います。なるほど、これも伊藤君にとっては珍しいんだ。
 たしかに、毎度電車の乗り降りでこんなことをする人は、多くはいないでしょう。
「ねえ、川越さん179㎝って言ったけど、多分もう少し高いと思う。電車の入口って、180㎝から185㎝が相場だっていうから」
 ドキッとしました。鋭いご指摘。フェティストはそんなことまでわかってしまうようです。入学して早四か月が経とうとする今日、多くの人に身長を聞かれてきましたが、そのたびに私は179㎝と言ってきました。
 しかしここにきてとうとう、その嘘もバレてしまいました。もっとも、伊藤君には最初からバレていたのかもしれませんが。それに、最近はまた少し伸びたような気もしますし。
 私の最後の乙女心、他人に植え付けられた偽りのコンプレックス。ここで終わりにしてしまいましょう。
「ばれちゃった。春の身長、本当は183・7㎝あったの」
 伊藤君の表情が、驚愕から次第に光悦へと変わっていきます。そんなに露骨に喜ばれるとさすがに恥ずかしくなってくるのですが、同時に嬉しさもこみ上げてきます。
 私は自分の長身が好きです。あと、それに不釣り合いな童顔も好きです。私だけが知っていた私の魅力。それを共有できる、そんな私を褒めてくれる男の子に出会えた今を、私はとても幸せに感じています。



《2》
 高校の教室で川越舞衣を見上げた時の衝撃を、僕は未だに鮮明に覚えている。
 アイドルのようにかわいい顔つき、それに不釣り合いな、目測180㎝近い長身。クラスで2番目に背の高い女子よりも頭1つ分ほど背が高い、飛びぬけた長身。

 彼女と初めて出会ったのは小学生のころ。そのころから飛びぬけて背が高かったものの、中学生になってからもさらに背を伸ばし、高校で180㎝。
 僕は160㎝と男にしては随分小柄なものの、それを抜きにしても彼女が長身であることには変わりない。
 僕を基準に取れば、165㎝でも長身となってしまうだろう。しかし、165㎝の女子なんて、珍しくもなんともない。
 しかし彼女はそうではない。180㎝、相対的に背が高いのではなく、客観的に背が高いのだ。
 そのうえ、顔立ちは中学生のように幼い。そんなギャップを具えた彼女をアンバランスと笑う者もいた。
 しかし僕にはそんな童顔こそが彼女を完璧にしていたように思えた。
 僕の理想をそのまま現実世界に射影したような、そんな存在。それが彼女だった。
 理想というのは実現しないからこそ理想となる。身長だけならもっと高い人はいる。でも、長身に加えた童顔。その両方を具える人なんて、天界から舞い降りてきたとしか考えられない。
 そう、彼女は僕にとってまさに女神であった。

 どうにかして彼女と仲良くなれないかと、僕は必死に考えた。中学生の頃は三年間クラスが違い、関わる機会は最後まで見つからなかった。
 しかし、高校では幸運にも彼女と同じクラスになれた。それだけで幸せだった。第一志望の私立に落ちてここにやってきた僕であるが、まさかここでこんな幸福に巡り合えるとは・・・・・・人生、何があるかわからない。
 これでゆっくり確実に、彼女を知ることができると思った。そしてそのためにはとにかく彼女と仲良くなる必要がある。

 始めに僕は、彼女の登校時間に合わせることにした。川越は人混みが嫌いらしく、朝は一番乗りに来る。僕はそれに合わせて登校するようになった。彼女より早くては意味がない。友人の少ない僕が、後からやってきたクラスメートに挨拶するのは不自然だ。
 二番目になり、教室にたった一人の彼女に挨拶をする、これがよい。僕はそう考えて、二番目に教室に入るようにと心に決めた。
 またそれとは関係なく、僕はドアにメモリを付けた。これは単純に僕の趣味だ。彼女の正確な身長を調べるためだ。これは別に、彼女と仲良くならなくともできる。教室を出入りする瞬間の頭の位置を瞬時に記憶し、後でメモリを確認して身長を測る。そうして測った彼女の身長は179㎝から186と誤差は大きかったものの、大体の高さはそれで記録できた。僕はそれを知って大いに興奮した。
 180㎝の女性なんてめったにいない。たまに街でみかけるものの、たいていはヒールで高く見せているだけだ。そうでなかったとしても、そんな人は街で見かけたが最後、二度とと会うことはできない。
 写真で撮って記録したこともあったが、上手く撮れないし、写真の刺激は背徳感もあって実物の5割ほどにしかならない。またリスクも大きい。よって街中での偶然の出会いで、僕はそこまでの満足感は得ることはできない。
 だからこそ、僕は彼女と出会えたことが嬉しかった。幼馴染みになれた自分の運命に感謝した。同じクラスになれたことが幸せだった。今後一年は、僕は彼女を間近で見ることができるのだ。
 そしてあわよくば、仲良くなることができれば様々な情報を彼女本人から得ることができるかもしれない。幼少時の身長とか、成長過程とか。僕がこの性癖に目覚めたのは中学生の頃であり、古いことを僕はさほど記憶していない。彼女も覚えてないだろう。
 しかし去年、僕らは保健室の先生から9年間の成長の記録をもらった。彼女がそれを取っていれば、今でも過去の身長を知ることができる。そういった情報は僕にとっては盗撮画像よりもずっと価値の高いものである。

「おはよう」
 彼女の直後に登校し、さりげなく挨拶をする。とりあえず、第一段階は成功した。もっとも二番目というのは難しく、もっと早めに来て、彼女が教室に入ったのを確認してから数分後に入る、ということをやっていたのだが。
 それから僕は自然を装ってそのまま席につく。本当は今すぐ話したい。しかし、焦りは禁物だ。冷静に距離を縮めてかなくてはならない。僕は参考書を取り出して、自習を開始した。
「ねえ、ちょっといいかな」
 突然、後ろから声がした・・・・・・恐る恐る、後ろを振り返る。川越がこちらを見下ろしていた。心臓が飛び出そうになった。バクバクと音を立てていた。なぜ、話しかけられた。心中がばれたのかと思い、冷や汗が流れた。
 しかし僕は冷静を装い、ポーカーフェイスに徹して、返事をした。
「はい?」
 彼女をこんなに間近で見上げることができたるというのが嬉しかった。しかし不幸にも、今はそれをじっくり味わう余裕がない。
「私、伊藤君のこと好きかも」
 ――僕はその時、運命というものの存在を初めて信じた。

 かかった魚を逃すまいと僕は必死だった。即答でオーケーを出し、断られないうちに連絡先を交換した。お調子者の彼女のことだ、ただ僕をからかうためにこんなことを言ってきたのかもしれない。
 それでもいい、彼女と仲良くなれるきっかけになるのであれば。
 僕の目的のためには別に恋仲になる必要はないけれど、なれたら最高だ。事実、僕は彼女のことが好きだ。それは性欲とはまた異なる理由で好きだった。
 いつも明るくはきはきとしている。一緒にいるだけで楽しくなれそうな、そんな性格。僕はそれにも惹かれていた。
 今、とにかく僕はこの一大チャンスを逃すまいと必死になっていた。
 連絡先を交換するとすぐに僕はメッセージを送った。連絡先が嘘ではないことを確かめるため。そして、できる限り距離を縮めるため。そして息をつく間もなく、ずっと好きだったとか、告白されて人生で一番幸せだったとか言った。
 中途半端だと逃げられてしまうかもしれないから、多少オーバーに言っておいたが、言った内容には別に嘘は含まれていなかったし、本心だった。
 二人きりで話したその時は、間違いなく僕の人生の中で一番輝かしい出来事だった。

 やがて僕らは登下校も一緒にするようになった。駅で待ち合わせをして、教室まで一緒に歩く。帰りはその逆。
 こうして僕らは一日に最低20分は二人だけの時間を確保することができた。部活の日は、相手が終わるまで図書館で自習していた。
 川越さんの隣を歩く、それだけで僕は幸せだった。彼女の高身長、こちらを見下ろす童顔。それを真横で味わうことができるだけで、僕は毎日エネルギーに満ち溢れていた。
 まさに彼女は僕の女神だった。エネルギーを注ぎ、僕を生かしてくれる、正真正銘の女神だった。彼女は太陽だった。

 逆身長差カップルというイレギュラーなものはからかいの対象になる。毎日一緒に登下校をしていれば自然とクラスの知れる所となってしまい、クラスメートから何かとからかわれるようになった。普段は話さないような奴もこう言う時だけはからかってきた。
 それでも僕は一緒にいて幸せだった。からかわれても、それを跳ね除けるくらい、僕らは幸せだった。
 人を馬鹿にする奴は不幸だからそうする。そんな感じのことを小学校の先生が言っていたのを不意に思い出す。そして、そんな奴よりも不幸な人間が、いじめを受けるのだと。
 今ならわかる、それは本当のことだと思う。不幸だから幸せな僕らを嫉妬しているんだ。
 でも、僕らは不幸ではない、幸せだ。幸せだから、そんな奴らのからかいなんて屁でもない。いじめられることもない。そして奴らは惨めさを味わい逆に不幸になっていくのだろう。そう考えると、僕は自分の幸福とに感謝しつつ、良い気味になった。



 僕らは毎朝7時20分に待ち合わせをする。今日もその時刻に駅前で川越さんと合流するために、僕は電車に乗っていた。
 ふっと、スマホの画面にメッセージの受信を知らせるタブが表示される。僕はそれをクリックして受信箱を開く。
「ごめん、寝坊しちゃった! 先に行ってて!」
 受信時刻、7時5分。メッセージを読むなり、返事をフリック入力でさくさくと打ち込んでいく。「大丈夫? 待っているから、ゆっくりして」そう打ち込み、送信ボタンを押そうとして・・・・・・やめる。全消去をしてから、新しい文章を打ち込む。
「具合悪かったりしない? 大丈夫?
了解! 先に行ってるから、ゆっくりしてね!」
 そして僕は送信ボタンを押す。下手なことはしない方が良い。彼女がそれを求めているのだから、それに素直に従おう。そう思った。
 駅に到着し、人を待つことなくそのまま学校に向かう。久しぶりに、独りぼっちで登校する。朝早い時間、周りには運動部の生徒がちらほらいるくらいで、制服姿の生徒は僕くらいしかいない。それに気が付いて僕は少しだけ、恥ずかしくなった。
 何か、楽しいことを考えよう。そうだ、もう少しで夏休みだ。夏休みに、どこに行こう。やっぱり水族館が良いだろうか。彼女はペンギンが好きだと言っていた。そういえば、そのうち水族館に行こうと約束していた。
 調べたところ、少し離れたところにアシカショーで有名な水族館があり、そこにはペンギンも飼育されているらしい。
「川越さん、そのうち水族館にいかない」そう言おうと思い、横を向いた・・・・・・誰もいない。僕は慌てて口を隠す。
 いつもなら隣に川越さんがいて、楽しくおしゃべりをしながら登校している。しかしいま、彼女はいない。いないのに、いるものと思い込んでいたらしい。僕の中の彼女の大きさを再確認する。
 同時に、今まで気が付かなかったことだが、こんな時間に制服姿の僕らが一緒に登校するというのはかなり目立っていたのではないだろうかと実感する。それくらい周りには、制服姿の生徒はいなかった。

 教室に入ると、そこには女子が一人。自習室でたまに見かける女子。確か同じクラス。まあ、よく覚えていないが。そいつを横目に僕は席に着く。そしてメッセージを確認する。
「ねえ、伊藤君」
 女子に声をかけられる。一応小学校からのクラスメートではあるが、特にこれといった接点はない。名前も覚えていないかもしれない。覚える理由がなかったから。
 そんな女子に早朝から声をかけられて、僕は不快感を覚えた。彼女のいない朝を別の女で潤すほど、僕は落ちぶれてはいない。
「伊藤君って、川越さんと付き合っているんだよね?」
 ああ、そういう話か。普段話さないやつも、こういう時だけは話しかけてくる。まさか、こいつも話しかけてくるとは。この手の質問にはうんざりだ。
 僕はそいつを無視をしてスマホをいじる。メッセージは〇件だった。目の前の女子はため息をついた。机に寝かせたスマホをいじる僕の手に、そいつの鼻息が若干かかった。気持ち悪いと思った。
「ねえ、伊藤君って、背の高い女性が好きなの?」
 一瞬、僕の手が止まる。しかしすぐにスマホいじりを再開して、そいつを鼻で笑ってやった。
「身長なんて関係ない。僕は川越さんの全てを好きになった」
「うん、そうなんだ」無表情でそう言う佐伯。淡々と進む会話が不気味だ。こいつの目的は何なんだ?
 チラッとと表情をうかがうと、そいつは目を瞑っていた。寝るなら自分の席で寝ろ。僕はそう思いながら、僕は思い切りため息をついてやった。
「ねえ伊藤君て、もしかしてトールフェチ?」
 スマホを触る手がピタリと止まる・・・・・・顔が耳が熱くなり、変な汗が噴き出てくる。
佐伯はじっと、僕を見埋めてくる。僕の変化を見て、喜んでいるのだろう。無表情だけれど、多分喜んでいる。むかつくやつだ。しかし佐伯に対する嫌悪感よりも、僕の性癖がバレたことへの焦りの方が100倍も優っていた。
 どうしてバレた。しかも、よりによってこいつに。こんな、接点も何もない奴に。どうしてだ。そんなにも僕の行動が露骨だったのか?
 そもそもトールフェチなんていう単語をなぜ知っているんだ。この単語はそんなに市民権を得ていたのか。様々な疑問が次から次へと浮かび、僕の頭を占領していく。
「安心して、別に誰かに言いふらそうとか、そんなことは全く思っていないから。ただ気になっただけなの、伊藤君がどこ見ているんだろうって。頭でも胸でもなくて、頭のてっぺんを見ていた」
 ドキッとした。僕は常に川越さんの身長に興味があった。多分、顔と同じくくらい頭のてっぺんを見ていたと思う。
 いや、違う。むしろそればかり見ていたんだ。とくに、彼女がドアを通るときは、僕はいつでもドアの方を見るようにしていた。
 ドアや壁は簡易身長計に使えるから。チラッ、なんて表現では済まされないと思う。僕は彼女がドアを通る時、ドアを舐めるように見ていた。それでバレてしまうとは・・・・・・油断していた。
 そして僕は反射的にドアの方をチラッと見てしまう。
「あ、やっぱりあれ、伊藤君がやったの?」
 またドキッとした。冷や汗が流れるのを感じた。なんなんだこいつは、まるで僕の心を読んでいるみたいに話しかけてきて。
 小学生時代の佐伯はおどおどした性格だった。話しかけるとびくりとする、そんないじり甲斐のありそうな奴だった。実際、軽いいじめも受けていたと思う。
 しかし中学生になってから雰囲気がガラリと変わった。今思えば、いわゆる中学デビューだったんだろう。声をかけても反応しない、めったにしゃべらない、そんな奴になった。
 先生に怒られても、いじられても、たいてい無表情で淡々と「はい、はい」と答えていた。教室ではいつでも何かの本を読んでいた。無感情キャラを演じていた。
 高校生になった今、こいつは今度はどんなキャラになったというのか。別にどんなデビューの仕方をしようがただ痛いだけで僕には関係ない。でも、今は事情が違う。僕はこいつが恐ろしかった。何を考えているのか、何を知っているのかがわからなかった。
 佐伯はドアに向かい、例の印を指差す。
「私の身長は140㎝。手を開くと、小指から親指までが大体15㎝。両手合わせてほら、ぴったり170㎝に黒い印」
 佐伯はポケットから定規を取り出す。次の行動がすぐにわかった。
「黒い印からちょうど10㎝上、180㎝に茶色の印。簡易身長計。なんとなく見ていたら気づかないけれど、ちゃんと見れば伊藤君の席からでも印は見える」
 ・・・・・・僕は何も言えなかった。全部正解だった。
 スマホの点滅に気が付いた。僕は逃げるようにスマホをいじる。メッセージが一通。川越さんからのメッセージだった。駅についたと書かれていた。
「ゆっくり歩いて気をつけてね」という返信を送ろうとしたところで、ふと気が付く。受信時刻は7時40分。現在時刻は50分。普段の僕らは、7時20分に待ち合わせて、30分には学校についていた。
「ねえ伊藤君、ここからが本題なんだけど、いつからそんな性癖に目覚めたの? 何がきっかけだったの? 良ければ、教えてくれない?」
 バタン――ドアに大きな人影、目測で身長180㎝ほど。
 息を切らせた川越さんが、そこに立っている。最悪のタイミングだった。佐伯もこれには驚いているようだった。
「あー、伊藤君、またね」
「あ、うん」
「じゃ、お邪魔しました」走り去っていく佐伯。一方で川越さんは呆然としていた。
 その日、川越さんから笑顔が消えた。話しかければ笑顔を返してはくれるものの、魂が抜けたようになってしまった。



 それからはあっという間の出来事だった。
 結局その日、川越さんは学校で僕に話しかけてこなかった。僕が話しかけても、笑ってこくりと頷くだけだった。
 また佐伯を目の敵にしているようだった。それ自体はどうでも良いのだが、その大元の原因は僕の隠蔽にあったので気分が悪かった。
 そして放課後に女子2人とカフェで話した。一人は彼女、もう一人は変な奴。
 そこで佐伯に性癖をバラされた。
 いつかは言うべきだと思っていたし、隠すと余計面倒なことになると思い、僕は思い切って性癖を暴露した。
 それから川越さんとはなんとなくギクシャクしている。登下校時、僕らは会話をしない。正確には、話題を振っても川越さんは上の空で、反応が乏しい。少し前までは、いつでもおしゃべりを楽しんでいたのに。
 最近は僕が話題を考えている間に10分が経過してしまう。駅までの10分、僕らは一緒に登下校だけはしているが、それから会話がごっそりと抜けてしまった。
 僕は生きる希望を失ってしまった。初めてできた彼女、それも理想の彼女。そんな人が、たった一度の障害によって離れていってしまったのだから。佐伯を殺そうという気力さえ、今の僕には湧いてこない。

 そんな日々を送って、早くも一週間が経った。一週間、七月の一週間は時には一ヶ月になってしまう。夏休みが迫っていた。
 川越さんは僕の性癖にフルマッチする女性ではあるが、それ以前に僕の彼女だ。佐伯にも言ったが、僕は決して川越さんの身長だけに惹かれたわけではない。川越さんの全てを好きになったんだ。もし身長だけに惹かれたのであれば、傍から見ているだけで充分だ。
 彼女と一緒にいるだけでこちらまで楽しくなってしまう。川越さんにはそんな魅力があった。だから、告白されたときは、フェティストとしても、男としても、純粋に嬉しかった。
 初めての彼女だ。彼女ができて、嬉しくないわけがない。そんな彼女と過ごす初めての夏休みを、僕は前々から楽しみにしていたし、ある程度計画も立てていた。
 それが、こんなことになってしまうなんて・・・・・・何が起こるかわからない。悪いことはしてはいけない。正直で誠実でなくてはならない。
 しかし反省をしたところで過ぎてしまった過去はもう戻っては来ない――

 ・・・・・・勇気を出そう。いま聞かなければ、僕は一生後悔するだろう。
 終業式当日、午前中の放課後を僕はいつも通り川越さんと一緒に歩いていた。静かな下校風景、それを打破するチャンスは今日で最後だ。
 逃げてはいけない、立ち上がらなくてはならない。僕は知っている、トールフェチが意外と多いということを。フェチとまでは行かなくても、長身の女性が好きという人は、実は少なくない。性癖扱いされるから、表に出ないだけで。
 僕らフェティストは自分の性癖のアブノーマルさを自覚しているから普段は一般人に擬態しているが、実は一般人にもそんな人はいなくはない。身長が高くても低くてもかまわないけど、その時の気分で高い方を選ぶ。そんな奴らに取られたら・・・・・・彼女を想う気持ちなら、僕の方が絶対に大きいのに・・・・・・
「ねえ、川越さん」声が僕の喉から飛び出てきた。
「ひゃあ!」裏声を上げて叫ぶ彼女。僕の方まで驚いてしまった。
「あ、ごめん。驚かせちゃって」
「ううん、、大丈夫。それで、なあに?」
腰を曲げて、笑顔で返事をしてくれた。ああ、彼女はやっぱり太陽だ、そう思った。その笑顔だけで、僕は元気が湧いてきた。
 一週間ぶりの会話、しかし話し出すと、思ったよりはすらすら出てくる。僕ではない何かが僕を操作している。
 そして僕は彼女を公園デートに誘った。

 自動販売機でお茶を買い、隣りあってベンチに座る。そして、沈黙・・・・・・公園で彼女と過ごす時間がこんなにも長く感じるなんて。少し前までは、こんなゆっくりな時間を喜んだかもしれないが、今は違う。重い空気と沈黙が僕らの周りに漂っている。
 ついに、この時が来てしまった。後悔はしていないが、様々な不安が僕の中によぎってきた。
 性癖がバレて引かれるのは承知の上だ。仮にそれで彼女との関係が終わってしまったとしても、まだ諦められる。そんな人、こっちから願い下げだ。
 でも、他の人にそれを言いふらして僕を変態呼ばわりしだしたら・・・・・・想像するだけで、胃が痛くなってきた。
 ・・・・・・いや、そんなことは多分ないだろう。川越さんはそんな人じゃない。
 僕は彼女を信頼している。長身の女性を僕は性癖として好きだが、それだけで恋愛対象として好きになることはない。川越さんは、僕が心から好きになった人だ。僕を故意にいじめるようなことはしない、そう信じたい。

 それから色々なことを彼女に伝えた。そして、彼女に尋ねた。僕の性癖に引いたわけではない、そう言われて少し安心した。
 そして、ついに僕の気持ちを全て伝え終わった。結果待ちの緊張感と同時に、清々しい思いがした。今まで隠してきたことを全て、信用できる人に打ち明けた。それゆえの、爽快感。
 川越さんの方は相変わらず、淡々とした反応だった。それでも、僕は伝えきった。後悔はしていない。
「これからも、よろしくお願いします」
 最後に僕は改まった調子で川越さんに頭を下げる。彼女は曖昧な表情でどこかを見つめていた。この状況をどう思っているのか、よくわからない表情だった。でも、少なくとも嫌がってはいない。僕はそう思った。そう、期待した。
「うん、よろしく。私も伊藤君に言いたいことがあるんだけど、いいかな?」
「うん、もちろん。むしろ、うれしい」
 心臓がバクバクと激しく運動を始める。審判の時が来た。これから何を言われるのか、その時僕はどうなってしまうのか。今後人から性癖を理解されることを諦め、世間の『普通』に迎合し、猫を被って生きていくことになってしまうのか。
 僕は次の彼女の言葉に全神経を集中させる。
 川越さんはベンチから立ち上がり、こちらを見下ろす・・・・・・ああ、とても背が高い。体が熱くなってきた。この人との関係が1日でも長続きすることを願わずにはいられない。
 思い出した、彼女は女神じゃないか。彼女がいなければ、僕は生きていられない。やっぱり僕は、彼女と付き合わなくてはならない。でも、もう取り返しはつかない・・・・・・
 僕のこの赤裸々で誠実な行動が吉と出ますようにと、僕は生まれて初めて神に祈った。
 川越さんはしばらくじっと僕を見据えてから、口を開いた。
「私もね、自分のこの体が好きなの」



 心の底から好いていても、他者からは否定的にしか見られないもの。アブノーマル、イレギュラー、異端、ニッチ。人に知られれば変態呼ばわりさせること必至の性癖。
 そんなものを、愛する人に告白する羽目になった当時の気持ちは今でもすらすらと思い出すことができる。
 佐伯に対するいら立ち、そして恐怖、関わってしまったことへの後悔。そして運命への恨み。長年追い求めてようやく手に入れた魅惑の果実を持ち帰り、目の前でつぶされる、そんな気分。
 しかし、一時の喜びが人生の幸福を約束するわけではないように、一時の後悔も、それが直ちに僕の人生の破滅を意味するわけでもない。
 ――幸福というのは、こういうものなのかもしれない。災い転じて福となす、というように。雨降って地固まる、というように。
 一つの不幸が僕のその後を今まで以上にきらびやかなものにしていく、そんな運命の力。それを幸福というのかもしれない。
 僕は今、彼女とともに手をつないで歩いている。彼女の手は僕のよりも一回りほど大きい。また身長差のために歩幅が合わないが、川越さんは僕のためにゆっくり歩いてくれる。
 手をつないだまま駅に到着、少し恥ずかしいけれど、まだ離したくはない。
 そうだ、肝心なことを忘れていた。デートの約束をしないと。そのために過去の僕は、勇気を振り絞ったのだから。
「ねえ、夏休みに水族館に行かない?」
「うん! 行きたい」
 川越さんが、満面の笑みでそう言ってくれる。そんな彼女を見ていたら、なんだか僕の方まで、嬉しくなってしまった。
「何日が空いているかな? 僕、夏期講習があるから」
「うーん、8月4日はどう?」
 4日、翌日から夏期講習が始まるが、早めに予習をすれば問題ないだろう。
「あー、その日は僕も都合いい」
 僕はスマホの予定表に記録する。8月4日、僕らのデートの日。絶対に忘れてはいけない、アラームもつけてやった。
「あー! 京子ちゃん!」川越さんが急に声を上げる。そちらを見ると、スマホを持った佐伯がこちらに向かって歩いてきた。
 邪魔者、僕は正直そう思った。
「ねえねえ川越さん、待ち合わせ時間は10時かなー」佐伯を押しのけるように、僕は川越さんに尋ねる。
「なに、デートの予定?」想定外の事態、佐伯が割り込んできた。普段は独りぼっちの癖に、どうしてこういう時だけ。もう、お前は首を突っ込むな。
「うん、2人で水族館に行くの」と、川越さん。こちらも乗り気らしい。姦し、というやつか。そう思った。
 佐伯はそれから目を瞑る。何かを考えているようだった・・・・・・嫌な予感がした。
「ねえ、そのデート私も後ろからついて行っていいかな?」
 嫌な予感、的中。川越さんも少々戸惑っているのが救いだ。
「デートってどんな感じなのかなーって。ちょっと参考にしたくて」
「あー、京子ちゃんもしかして。好きな人できたのー?」川越さんが佐伯の顔を覗き込みながら尋ねる。
 佐伯の顔が、ぽっと赤くなった。
「まあ、ちょっと興味が・・・・・・」
「うわー! いいよね伊藤君。別に一緒に回るわけじゃないんだからさ」
「そうそう! ただ、参考に観察したいだけだから」佐伯がにこにこしながら僕に訴える。初めて見る、佐伯の笑顔。こいつ、笑うのか。
 当然、僕に断ることもできず、ただ頷くしかできなかった。
「じゃ、私はこれで。今度は水族館でね!」
「うん、バイバーイ!」
 佐伯が去っていく。川越さんは見えなくなるまで手を振り、やがて手を下ろした。
「じゃ、私たちも帰ろうか」
「うん」僕は笑顔でそう答えた。

 歩いて数分、改札口前、いつもならここで彼女とは別れる。しかし今日は、彼女についていくことにする。僕は川越さんについて、自動改札機にタッチした、
「あれ、伊藤君向こうじゃ?」
「いや、送っていくよ」勇気を出して、この一言。
 夕方17時30分。夏のこの時刻は十分明るいが、僕は彼女を送っていくことにした。彼氏として、そうしてかったから。
「・・・・・・ありがとう」
 一瞬、間をおいてから彼女は答えた。まずい、いきなり攻めすぎたか? それとも、こんな小さい男に送られるのは恥ずかしかったか? 
 だが考えても仕方がない。とりあえず、そこまで嫌がってはいないようで安心した。むしろ、喜んでもらえたらしい。僕は照れ臭くなった。
 僕らは一緒にホームに向かい、しばらくおしゃべりをして時間をつぶしてから、やってきた電車に乗り込む。
 ・・・・・・これが見たかったんだ。予想通り、川越さんは頭を下げて電車に乗り込む。これで、彼女の身長が180㎝超であることは確実だ。
「やっぱり、ドアよりも背が高いね」
「へ?」
「ねえ、川越さん179㎝って言ったけど、多分もう少し高いと思う。電車の入口って、180㎝から185㎝が相場だっていうから」これくらいなら許されるだろうと思いながら、僕は彼女に尋ねた。180台か否かというのは、僕にとってはとても重要なのだ。。
 駅まで僕らは身長の話で盛り上がり、春の身長が179㎝というのをさっき聞いた。しかし電車のドアの高さと比較するに、もっと高そうだ。教室で測った時も、180㎝はありそうな感じだった。
 しかもこの電車のドアは高めでおそらく185㎝。そしてドアと彼女の間に、隙間はほとんどなかった。むしろ、川越さんの方が、たぶん高い。
「あー・・・・・・うん、ばれちゃった。春の身長、本当は183・7㎝あったの」
 体の底から、何か熱いものがこみあげてくるのを感じた。汗が出てきた。
 今、僕はとても気持ちの悪い笑みを浮かべていると思う。でも、抑えることができない。ローファーの高さは2㎝くらいか? つまり、今の彼女は185㎝。
 すばらしい、あまりにもすばらしい。
「あの、そんなに見られると・・・・・・」
 恥ずかしそうに、手で僕の視線を遮ろうとする川越さん。ハッ、あまりにも露骨だったか。
「あ、ごめんなさい」慌てて謝罪する。せっかく仲直りできたのに。再び彼女の近くでいられるようになったというのに、フェティストの悪いところを出して、また遠くなってしまう。これでは本末転倒ではないか。
「うん、でも・・・・・・ありがとう」
 川越さんは顔を赤くした。僕の方まで赤くなってしまった。こんな変態的なことをしても、そこまで不快に思わない彼女。
 ああ、本当に、僕はこの人と付き合えてよかった、幸せだ。



 夏休みと言えば何か。海、スイカ、青い空、台風、お盆、人によって色々意見が分かれると思う。
 僕にとっての夏休みは夏期講習だった。夏休みと言えば勉強漬け。学校の宿題、そして塾。祖父の家に行く時だって、僕はいつでも勉強道具を持っていった。どうせそこまで進まないだろうと思いながらも、持っていかないと母の機嫌が悪くなるから、持って行った。
 でも、今年は違う。僕には愛する彼女がいる。そんな彼女と過ごす夏休み・・・・・・僕は初めてカルピスの甘酸っぱさを美味しいと感じた。

 駅前の人混みの中で、僕は改札から出てくる人々を眺めていた。
 初めてのデート。ずっと探し求めていた理想の女性との、神聖なデート。ああ、これから起こることを考えるだけで胸が高まる。
「ごめん、ちょっと遅れるかも」そんなメールが僕の元に届いた。
 どうぞどうぞごゆっくり。時間はたっぷりありますから。はあ、この一人の待ち時間すらも、僕は幸せに満ちている。
「川越さん、遅いねー」
 ・・・・・・下から聞こえる女子の声。せっかくきれいな妄想にふけっていたのに、消し飛んでしまったじゃないか。
 どうして佐伯と一緒に、駅の前で待ち合わせをしているのだろうか。まあ、こいつがいたからこそ僕らの中が深まったという可能性は否定はしない。
 臆病な僕のことだから、こいつがあんな変なことをしてこなければ、自分から性癖を暴露するなんてことは、この先一生なかったかもしれないのだから。
 しかし、どうしてデートにこいつを連れていかなくてはならないのか。せっかくの川越さんとのデート。そこに部外者が一人入りこむ。女3人で姦しとは言うが、二人でも十分そうなってしまうというのを僕は経験済みだ。
 そうなってしまえば、僕は除け者になってしまうではないか。せっかくの川越さんとのデートなのに。
 そもそも、こいつと川越さんは仲が良かったのか? 小学校の時、佐伯は川越さんにいじめられていた気がするのだが。まあ、興味がないのであまり覚えていないが。
 ああ、佐伯、今からでも遅くないから、空気を読んで帰ってくれないか。
 じっと僕のことを見上げてくる佐伯に気が付いた。無表情でこちらをじっと見てくる。いけない、読まれたか?
「なに?」
「伊藤君いま、私のこと邪魔だって思ったでしょ」頭の中を覗かれて不快な気分になりながら、僕は小さく曖昧に頷く。
「あ、頷いた。正直だね」
 女の第六感というものなのか。まあ、変に隠すよりはばらした方が楽だし、バレたところで何もない。僕はもう一度、大きく頷いてやった。
「初デートなんだから、二人きりになりたいのは普通だろ」
「あー、普通・・・・・・そう。まあ、そうか」
 佐伯は意味深長にため息をつく。無表情ながらそれにかかる寂しい影に、僕は少し胸が痛んだ。意地悪しすぎただろうか。邪魔者というのは本音だが、もう少し言い方があったかもしれない。
「あ、悪い。なんか言い過ぎたかも」
「え? あー、ううん、まったく気にしていないよ」
 前言撤回、恥で顔が熱くなっていくのを感じる。
 そう、こいつはこんな奴だ。何を感じ、何を考えているのかわからない。そんな奴の心配をした自分の方が馬鹿だった。
「伊藤君は、川越さんのこと、好き?」
「は?」
 唐突な質問。こいつは僕らがデートに来ているというのを忘れているのか。
「もちろん、好きだよ。当然だろ」
「おふたり、いわゆる逆身長差だけど、関係ない?」
「関係ないっていうか、だから好きなんだよ。180㎝の女性なんてめったにいない。あ、別に身長だけが好きってわけじゃないから。誤解するなよ」
「うん、わかってる。好きになったきっかけの一つ」
「そ、そういうこと」
 相変わらず、妙に鋭い。こいつと話していると、自分の心の内がどんどんバレていくようで怖い。
「ねえ、川越さんとは、どこまで行ったの? 教室だと、あまり話しているところ見ないけど」
「どこまでって、なんだよ」
「例えば、キスとかさ」
 顔が赤くなる。先に馬鹿にされないよう、僕は深呼吸をして平静を装う。
「まあ、そのうちやるだろうな」
「教室では、やらないの?」
 馬鹿か、と思った。
「キスなんて、普通人前でやらないだろ!」
「キスじゃなくても、手をつないだり、一緒にお昼を食べたり」
「僕は二人だけの時間を大切にしたい。だから、教室とかでは、極力接しないようにしている」
「・・・・・・そう」
 佐伯は小さくため息をついた。そして、悲しそうな表情を浮かべてきた。そんな顔を見ていたら、腹が立ってきた。これからデートだというのに、勘弁してくれ。
「逆身長差は、世間ではイレギュラーになるけれど、関係ない?」
 まだ、聞いてくるのか。それにこういう質問にはうんざりだ。
「関係ない。僕は僕の好きな人を選んだ。川越さんも、きっと同じ。それだけだ」
 わかり切っていることを他人に言われると、無性に腹が立つ。自分たちがイレギュラーだなんてそんなこと、僕らが一番よく知っている。そして、それがどんな苦難を生み出すのかも。
「うん、頑張って」
 そう言ったのち佐伯はポシェットから文庫本を取り出し、読書を始める。全く、自分勝手な奴だ。僕はスマホを起動させ、川越さんからのメッセージを何度も読み返していた。

「おまたせー! ごめんねー遅くなっちゃってー」
 改札前の人混みの中から、川越さんが手を振って、小走りでこちらへと向かってくる。
 やはり、川越さんは背が高い。人混みでも頭一つ抜けている。素晴らしい・・・・・・いや、何かがおかしい。
 2週間ぶりの再会する彼女はどこか新鮮で、それは初めて目にするかわいらしい私服によるものであったと思う。
 ・・・・・・いや、表情と服装、それ以外にも何かが変わっている。それは彼女が僕の目の前に立った時に自然と気が付いた。足元を確認すると、その予想は的中していた。
「・・・・・・ヒール、持っていたんだ」
「うん! 今日のために、買っちゃったー。いやー、やっぱ12㎝は高いねー。歩くの難しくて、ゆっくり歩いていたら遅れちゃった」
 現在の彼女の身長は195・7㎝、未知の高さの長身女性が僕の目の前にいる。普通に暮らしていれば、人生に一度で会うか出会わないかくらいの、それくらいの高さだと、僕は勝手に思った。それくらい衝撃的な人が、僕の目の前で僕らを見下ろしていた。
 素晴らしい。確かに素晴らしい。けれども・・・・・・今日は嫌だった。
「すごーい! 私よりも、50㎝高いんだねー」
「京子ちゃん、私の胸までしかないねー。かわいい!」川越さんが、佐伯の頭をポンポンと叩いた。
 その様子はあたかも、小学一年生の世話をする小学六年生といったところだ。
 そのまま2人が抱き着けば、佐伯さんの顔がみぞおちにすっぽりはまってしまうであろう。そんな驚異的な身長差の二人を、周囲の人々は物珍しそうに見ている。
 195㎝の女子高生がいる時点でかなり貴重な出来事なのに、そこに140㎝の女子までそろうと、あたかもテレビの企画であるかのように非日常的な光景がそこに広がっていた。
 佐伯、こいつがいなければもしかしたら僕がその位置にいたのかもしれない。川越さんのそばで彼女の高身長をん感じていたのかもしれない。そう思うと思わず歯ぎしりをしてしまう。そして、結局性欲に振り回されている自分が嫌になった。今日は普通のカップルとして、性癖を抜きにして普通にデートを楽しみたかったのに。
 しかし落ち着こう、これは初デートだ。川越さんとプライベートを一緒に過ごすのは初めてのことだが、こんな駅前の人混みで女性同士で頭を撫でてしまうくらいに大胆な人であるというのは初耳だ。
 これは収穫だ。川越さんは僕の彼女なのだから、これを踏み台にして今後より仲を深めることができれば良いじゃないか。これからの交際生活で、彼氏彼女としてもっと色々なことができるようになるかもしれないじゃないか。
「あ、伊藤君、いま何かエッチなこと考えたでしょ」いつの間にか、佐伯の目線は川越さんではなく僕を向いていた。
 いけない、こいつの前では油断できない。僕は無表情で目の前で手を振って否定して見せ、川越さんに本心が伝わっていないことを願った。
「それより早く、水族館に入ろうよ。入口が混んじゃうからさ」必死に、話題を逸らす。
「あーごめん。じゃあ行こうか!」
「うん!」僕は笑顔で返事をし、川越さんの手を取る。こんなに人通りの多いところで手をつなぐのは恥ずかしかったが、それ以上に嬉しくなった。
「私は後ろから観察しているだけの約束だから、おふたりで楽しんでね」
「うん! じゃあまたねー京子ちゃん」
 観察という奇妙な単語に一瞬違和感を覚えるが、どうでもいい。僕らは手をつないで水族館へと向かう。
 川越さんは手をぶら下げ、一方で僕は肘を90度近く曲げて彼女の手を握り締める。体が熱くなってきた。195㎝の女性と手をつなぐとこうなるらしい、なんというか、ぎこちない。しかしそれがかえって僕の脳内に幸福ホルモンの分泌を促した。幸せだ、でもどうして、よりによって今日なのか・・・・・・

 混むことを予想して朝一番に来たものの、チケット売り場にはすでに行列ができていた。
「うわー、混んでるねー」
 川越さんは額に手を立てて列を上から眺める。さすが、195㎝ともなればこの人混みでも周りから抜けるらしい。
「列の長さ、何人くらい?」
「うーん」と、目を細めて数える彼女。「20人くらいかな?」
「まあまあ? まあ、おしゃべりでもして、時間潰そうか」
「うん!」
 彼女の光り輝く笑みを、僕は見上げる。高い位置から降り注ぐそれ、首が少しばかりきつい。
 雑談をしながら僕らは列が進むに従い、当然僕らの後ろに人も増えてくる。人が増えても身長の分布に変わりはなく、相変わらず川越さんは周りから抜けていた。
「うわ、あの子デカすぎん?」
 そんな声が後ろから聞こえる。こういうところでは、嫌な目に合うことが多い。僕はいつも通り気にせず、川越さんと話を続けた。そもそも、川越さんを指しているかなんてわからないのだから。
「2メートルくらいあるんじゃね?」「巨人かよ」「でもヒール高くね」「いやでも高いでしょー」「つか手ーつないでる。かわいい」
 彼らの一言一言が僕の心にぐさりと刺さる。僕らの一挙一動が批判の対象になっているようで緊張し、心臓が痛くなってきた。
 でも、無視するしかない。苦情を言ったところで意味はないだろう。どうせ言葉は通じないし、悪化させるかもしれない。とにかく、無視。どうせそのうち飽きてくれる。
 予想通り、数分後には無反応な僕らに飽きたようで、やがて後ろのグループは別の話題で盛り上がっていた。
 列は順調に進んでいき、僕らはようやくチケットを買う。そしてまた入場口の列に並んで、とうとう僕らは水族館に入る。まだ入り口に過ぎないのに、僕はすでに疲れてしまった。
「やっと入れたね」
「うん、楽しみだね!」
 川越さんが笑顔を輝かせてそう言った。その瞬間僕の疲労は吹き飛んだ。僕の選んだデートスポットを喜んでもらえて良かったと、僕は心から思った。
 視界の端に顔出しパネルが映る。普通なら真っ先にここで写真を撮るのだろうか。通りすがりの人に頼んで、自分らの写真を撮ってもらうのだろうか。
 せっかくなので取っておくべきか・・・・・・でも、もしかしたら川越さんは写真が苦手かもしれない。彼女が望むかわからない。そんなことを考慮して僕はそれを無視する。彼女が言ってきたら、撮ることにしよう。
 パンフレットを開き、川越さんと相談する。他にも、こんな風にしているカップルがいて、少し照れ臭い。でも、僕らでもちゃんとカップルをやれているようで、嬉しくなった。
「どこ行こうか」
「どれどれー。うーんと」
 川越さんが大きくかがむ。僕の頭の高さまで、彼女の頭が降りてきた。
「あ、ごめん」僕は慌ててパンフレットをもっと高い位置で持つ。
「いや、大丈夫だよー。まずは・・・・・・大水槽とか?」
「あー、いいね」
 僕はパンフレットを閉じて斜めがけのカバンにしまい、それから彼女の手を取る。
「じゃあ、行こうか!」
 彼女は返事の代わりに笑顔を返してくれた。

 大水槽。視界いっぱいに広がる巨大なアクリルガラス。ガラスの周りに人は多いが、離れたところからでも十分見ることができる。
 僕らは今、後ろの方から大水槽を眺めている。
 まず初めに目に映るのは小魚の大群。天敵から身を守るために大群になるとは言うけれども、そんな天敵はここにはいない。そんな、平和な水槽。
「きれいだね」川越さんがぼそりとつぶやく。僕はそれに頷いて肯定した。
 しばらくして、前のカップルが移動し、そこに隙間ができた。すぐに、そこに入ろうとする人はいない。僕はチャンスだと思った。
「もっと、前で見ない?」
 ここも良いが、やっぱり、前で見た方がきれいだと思う。
「え? あー・・・・・・」上方を見て暫時考えてから、「うん、行こうか」
 僕らは先ほどまでカップルのいた隙間に入り、アクリルガラスの目の前に立つ。視界いっぱいに広がる海の風景。やっぱり、移動して正解だったと思った。
 ガラスの下部には案内板があり、そこに八種類の魚とその説明が書かれている。どんな魚がいるのか、彼女に聞かれたときに答えられるよう、それを速読する。
「うわあ!」川越さんの感嘆の声。僕はすぐさま顔を上げる。アカエイが目の前を悠々と泳いでいた。川越さんはそれに目を輝かせていた。
「やっぱり、近くで見ると違うね」
「うん」にこりと穏やかにほほ笑む彼女。
「ねえ前見えないよー!」
 後ろから男の子の声。振り返ると、小学校低学年くらいの男の子が川越さんの後ろでぴょんぴょんと飛び跳ねている。後ろから見ればよいのに、わざわざ僕らの後ろに来て、文句を言っている。
 邪魔だ、僕は正直そう思った。僕らだって並んでここの位置を獲得したんだから、お前も並べ。僕は男の子に目でそう語った。
 すると、川越さんがしゃがみ込んで、男の子に声をかけた。
「ごめんねー、見えないよねー。今どくからねー」
 そう言って川越さんは再度立ち上がり、僕を見下ろして言う。「行こうか」
 川越さんはすたすたと、どこかへ向かって歩いていく。まずい。僕は彼女を追いかける。
 その時、僕は川越さんと手をつないでいなかったことに気が付いた。最初はつないでいたのに、いつの間にか離していた僕らの手。それが、この人で溢れた水族館において、未来の出来事を反映しているようで、僕は恐ろしくなった。
「川越さん!」
 トットッと歩くの彼女を小走りで追いかけ、僕は思わず声を上げた。周りが僕を見てきた。
「ん?」川越さんがピタッと立ち止まり、こちらを振り返る。その様子はいつもの彼女。怒っていないと良いのだが。
「次、どこ行こうか?」咄嗟に出てきた言葉がそれだった。
 僕はリュックサックからパンフレットを取り出して、高い位置に固定しながら、無難なスポットを探した。
「クラゲとかどうかな?」ここならおそらく、小さな水槽を入口から順々に見ていくことになるから、今のようなことは起きないだろう。川越さんは微笑んだ。
「うん、でもまだ、ここにも見るところはあるから」
「あー、そうだよね。じゃあ、見ようか」
「うん!」彼女の元気な返事に、僕はほっと、胸を撫でおろす。怒っているわけではないらしく、安堵した。
「にしても、嫌な子だったよねー。僕らだって並んだのに」
「うーん・・・・・・」
 しばらく考えてから、彼女は口を開く。「でも、後ろから見えないのは、事実だからさ」
 川越さんはにこりと微笑んだ。その笑顔は少しばかり悲しそうで、また申し訳なさそうに見えた。こんな時、普通のカップルならどうするのだろうか・・・・・・考えても僕の頭では答えを出せない。
 もっと空いているときに来ればよかった。そんな後悔だけが僕の中に残っていた。

 大水槽のある展示場を見終えた僕らはクラゲ館に向かう。クラゲ館ならもう少し人が少ないだろうかと期待したが、建物自体が小ぶりなこともあってか、人であふれている。
「いたっ」川越さんの、短い悲鳴。彼女は額を手で押さえながら、歩き始める。
「案内板みたいのに、ぶつけちゃった」額をさすりながらそう言う彼女。僕は自然と体が熱くなるのを感じた。
 今日はデートだ。デートは今までも何度かしてきたが、今日は特別だ。そしてそんな特別なイベントに、性欲をむき出しにはしたくない。それなのに、彼女と一緒にいるだけで僕の本能が反応してしまう。フェティストの性か。
「大丈夫? 気を付けてね」
「うん。あーでも、伊藤君はこういうの、好きそう」
 意地悪そうな笑顔で、川越さんは僕に尋ねてくる。もちろん好きだ、ただしそれは性欲として。
「まあ好きだけど。今日はそういうのは抜きに、普通に楽しみたいから」
「ん? そうなの?」キョトンとした様子で、彼女は首をかしげた。彼女の中にはフェティストとしての僕しかいなかったらしく、少し悔しい思いになった。
「クラゲ館は小さいけど、展示の数は多いみたい」
「そうなんだ。楽しみだねー」
 僕らは薄暗い展示場をゆっくりと歩き出す。クラゲの中には光るものがいるのでそういうものを展示している部屋が薄暗いのは分かるけれど、どこを見ても薄暗い。しかしそれが、バックライトに照らされたクラゲを一層幻想的なものにしていた。
「きれいだね」
「ねー。癒される」小さな水槽を、川越さんは腰をおばあちゃんのように曲げて見ている。
「川越さん、腰、きつくない?」
「え?」と、意外そうに返事をしてから「あ、ちょっときついけど、大丈夫だよ。慣れているし」
 それからも川越さんはずっと、猫背気味で水槽を見て回っていた。それを心配する僕と、喜ぶ僕。デートに集中したいのに、そういうことしか考えられないもどかしさ。
 クラゲ館は小さいけれど、順々に見ていく展示形式なので、周りから何かを言われるというのはあまりない。相変わらず子供やカップルに煽られることはあるが、ここまできたらもう慣れっこだ。言いたきゃ好きに言え、僕はそいつらに向かって心の中でそう叫んだ。
 20分くらいで全てを見終え、僕らは明るい外に出る。ボリュームがあり、思ったよりも疲れたというのが本音だった。
「あー、背中伸ばせるー!」
 川越さんは曲げていた背中を思い切り逸らして、手を空に向かって伸ばす。高かったものがさらに高くなった。僕はドキドキした。
「・・・・・・はあー」背伸びを終えて、息を吐く彼女。周りの目線が彼女に集まっている。
 そして僕の方を振り返って、笑顔でこう言った。
「次、どこ見ようか」
 楽しそうな川越さんに対して、僕は目を細めることができた。。

 クラゲ、サメ、ホッキョクグマ、アザラシなど、僕らは片端から色々な動物を見ていく。後ろから文句を言われたのは最初の大水槽の時くらいで、他の展示では、入口から順々に見ていく形式となっていた。周りからコソコソと噂をされることはあっても、見えないと文句を言われることはなかった。
 僕らは今、ペンギンの展示場に向かっている。そしてその途中の、自動販売機とその隣のベンチに目がいった。
「のど、乾いていない?」
「あ、飲み物買いたい!」
 川越さんは自動販売機の前に立って、僕はその隣のベンチに腰掛ける。
 目の前にはペンギンの展示がある。彼女はペンギンが好きだと聞いていたので、本日の目玉といったものだ。
 ・・・・・・と、そんな彼氏らしい発想の裏で、僕は彼女の頭を意識してしまう。
「今日は暑いから、水分補給!」
 そう言いながら、軽く膝を曲げて自動販売機にお金を入れて、スポーツドリンクを買う彼女。自動販売機の方が額一つ分ほど背が低い。公園デートの時に見ているとはいえ、やっぱり意識してしまう。
 僕は頭を振って意識を逸らした。そして時計を見れば午前12時50分、そろそろお腹が空いてきた。何を食べようかと悩みながら、彼女と一緒に僕はペンギンの展示へと足を運ぶ。岩の上にペンギンが何匹かいる一方で、その他は水中を泳いでいる。
「あ、いま卵を育てているんだって」案内板を、腰を曲げながら見る川越さん。
「どれ?」
「ナツミていう女の子とヤナギっていう男の子。どれだろう?」
「卵を守るので、忙しいんじゃない?」
「いや、卵は飼育員さんが人工孵化しているらしいよ、ほら」案内板を指さす川越さん。ペンギンのマスクを被って飼育する様子の写真がそこにあった。
 案内板には30羽のペンギンの写真と一緒に名前が書かれているが、実物と照らし合わせても、どれがどれだか見当がつかない。
「いないってことは、ないよね」
「うーん、あの子かな?」
 川越さんの指さす先に、陸上で突っ立つペンギンがいる。違いがよくわからないけれど、言われてみれば、なんとなくそれのような気がしてきた。
「あー、うん、そうかも」
「赤ちゃん、いつ生まれるんだろうなー」
 赤ちゃん、その単語に一瞬胸がざわめいた。性欲の次には、別の性欲が僕を支配するのか。僕は手を振ってそれを霧散させた。
「あれ、伊藤君どうしたの?」
「あ、いや。なんでもない。赤ちゃんが生まれたら、また見に来たいね」
「うん! 私、動物だとペンギンが一番好きで。ピングーっていうアニメが好きだったから」
「そうなんだ。ピングー、僕も好きだった」と、視界の端に映った時計を見ると13時を回っており、腹が音を鳴らす。
「そろそろお昼にしない?
「あ、そうだね。売店、混んでるかなー?」

 少し遅めのお昼に訪れた売店は相も変わらず人でわんさしていた。
 フライドポテト、巨大なたこ焼き、冷たいスープ。スープの中央にはペンギンの形をしたクラッカーが2枚添えられている。こういうところの料理はコスパは悪いけれど一風変わっていて面白い。
 川越さんはペンギンをいじりながら「かわいいねー」といいつつスープを飲む。そして、もぞもぞと脚を動かし、机が揺れる。
「あ、ごめんね。机揺らしちゃって」
「いや、大丈夫。でも、大変だね」
「うん。学校の机とかも、小さいなって思うし」
 ハイヒールでさらに長くなった脚を斜めにして机の下に収める彼女。遠くから見ているだけではわからない彼女の苦労。僕はより一層、複雑な気持ちになった。
「アシカのショーって、14時からだったよね」
「うん。あ、もうあと30分か。急いで食べないとね」
 と言いながら、真っ先にクラッカーと一緒にスープを飲み干す彼女。パクパクと早いペースで、平らげていく。
 僕はそれに追いつこうとはいペースでたこ焼きを食べながら、彼女の食べる様子を見ていた。普段から見られるものだけれど、環境が違うといつもの風景もまた違って見えるものらしい。
「ん? 伊藤君どうしたの、食べないの?」
「あ、いや。早く食べないとね」
「うん! これ逃したら、次は2時間後だもん」
 川越さんも、たこ焼きを食べはじめる。味は普通。でも、好きな人と一緒に食べる食事はなんでも美味しい。
 昼食をさっと食べ終え、ソフトクリームを食べながら僕らはアシカショーに向かう。混んではいる、けれども満員ではない。
「後ろの方で座る?」
 先の反省から立ち見をしようとも思ったけれど、これくらい空いているのなら座っても問題ないと思った。
「うん。そうしよっか」
 僕らは階段を上がって後ろの方へと向かう。観客席にありがちな、角度の小さい階段。川越さんは無意識に二段飛ばしで上がっていくので、僕は小走りでついていく必要がある。
 座ったところでちょうど14時になったらしく、女性の飼育員の声がマイクを通して会場に響き渡る。と同時に、5匹のアシカが1列になって参上した。
 ショーの始まりだ。僕はこっそりと、川越さんと手をつないだ――

 夕方の明るい時間帯を、僕は川越さんと見慣れた風景の中を、手をつないで歩いている。そして、白い家の前で立ちどまり、ゆっくり手を離した。
「伊藤君、いつもありがとう。じゃあまたね」
「うん、ばいばい」
 微笑の後に家の中に入っていく川越さんを見送ってから、僕は来た道を戻って駅へと向かう。
 夢のような時間だった。しかし終わってしまうとあっけない。
 可愛い彼女と一緒に過ごした6時間、水族館に6時間いるのは普通の僕だったら飽きると思う。しかし今日の6時間はあっという間に過ぎてしまった。6時間で切り上げたのは、帰りが遅くなりすぎないようにするためで、その縛りがなかったら僕は今でも川越さんと一緒に何週目かの水族館を楽しんでいたと思う。
 夕日があたりを赤く染める。そんな幻想的な光景を見ながら一人で電車を待っていると、涙が出そうになってきた。さっきまでの出来事があまりに華やかで、その思い出が今の自分をあまりに惨めにしていた。
「あ、伊藤君」
 下の方から、聞きなれた声。こんな時に出会いたくなかったと思いながら、僕はそれを見る。帽子をかぶったそいつが、僕のことを見上げていた。そいつを見たら、今日の始まりのことが思い出されてまた涙腺が緩んだ。
「ああ、佐伯さん。今帰り?」
 泣き顔を見られるのは嫌だ。こいつと話すのも嫌だが、涙に気づかれることの方が嫌だった。どうせバレてしまうのだろうが、涙をごまかすために、僕は話しかける。
「うん、最後にアシカショー見たくて。14時のを見逃したから、16時までぶらぶらしていた」
「最初に、アシカの行列が見えるやつ」
「うん、それ。面白かった」
 そして沈黙。涙は引っ込んでくれたが、退屈なのには変わりない。彼女でない女子との会話なんてこんなものだ。
「佐伯さんは、普通に楽しんだんだ。観察とか、なんか言っていたけど」
「うん、でも12時くらいには飽きた。普通にカップルしていたよ」
「それは、よかった」
 ほっと、安堵のため息が出た。傍から見ていれば、僕の目指していた普通のカップルになっていたようで、良かった。
「うん、いい感じだった。随分目立っていたけど」
「目立って・・・・・・ああ、まあ。そうだよな」
 195㎝超の長身の女性がいれば、誰でも珍しがってそちらを見てしまう。僕だって見る。そしてそんな女性と交際しているのが僕みたいな小さい男だと、そのインパクトはより強力なものとなる。これは、仕方がない。
 水族館は幼い子が多く、川越さんを見上げて無邪気に巨人とか指さして言いだすのがいた。川越さんはそのたびに子供に微笑みかけるのだ。そんな川越さんの強い一面を見られて、僕は嬉しかった。
 もっとも、子供はまだかわいげがある。問題は中学生以上だ。明確な悪意が僕らに向けられる。でも、そんな風に悪目立ちしようが、僕らには関係ない。どんなにからかわれたところで、僕らの幸福はそれらをはねのけてしまうのだから。実際、僕の記憶には川越さんとの楽しい記憶ばかりで、悪意の記憶はすべて消えてしまった。
 ふと下を見ると、佐伯さんが僕をじっと見上げてくる。嫌な予感がした。今までの経験から、こういう時は僕の心を読んでいるときだ。
「・・・・・・何?」
「欲求不満」
 ギクリとした。相変わらず、鋭い。でもって表情がなく、何を考えているかわからないから、心臓に悪い。
「本当はもっと、色々なことを期待していたんでしょ」
「期待って・・・・・・」
 嘘ではない。しかし、本当はもっと普通にデートを楽しみたかった。でも、性欲が僕のそんな切実な願いを邪魔するのだ。
「・・・・・・僕だって本当は、もっと普通にしたかった。でも、できない。フェティストの性だよ」
「あ、そうなんだ。普通・・・・・・じゃあ、天井の低いところに連れていったり、自販機の横に立たせたりしたのは」
 また、ギクリとした。両方とも、僕が普段川越さんの背の高さを実感するためによく使う比較対象が必要だから。でも、今日は違う、そう信じたい。
「本当に、偶然・・・・・・多分。無意識かもしれないけど」
「そう」
 佐伯の方をチラッと見ると、目を瞑っていた。嫌な予感がした。
「伊藤君って、けっこう敏感だよね」
「え?」
「積極的な半面で、周りの目をすごく気にしている。手も、最初はずっとつないでいたのに、周りからからかわれて、さりげなく離した」
「あー」
 確かに手を離したのは事実だ。それに気が付いた時、とても不安になったのを覚えている。つまり、こいつは自意識過剰と言いたいのか。確かにもっと赤裸々に、自分に素直になれたら、どんなに生きやすいことか。そう、川越さんのように。
 川越さんはいつも、自分の楽しいことをやっているようで、うらやましい。それに、なんというか、大人だと思った。
 今日のデートで一層分かったが、川越さんは大胆だ。子供の悪口を笑顔で受け流したり。そういえば、最初に教室で告白してきたのも川越さんだ。二人きりとはいえ、あんなにあっさりと告白なんて、僕にはできない。
 しかし日本人なら誰だってそんなもんだろう。それに、そんなことを、どうしてこいつに言われなきゃいけないんだ。
 だんだんと、イライラが募ってくる。
「あのさ、佐伯さんは何なの? 人の恋愛ごとに口を出して。今日も観察とか言って付いてきて、挙句の果てに12時で飽きて。何がしたいの? 気持ち悪いんだけど」
 少し言い過ぎた気もしたが、これくらい言わないと気が付かない馬鹿もいる。後悔はしていない。佐伯は相変わらず、むかつく無表情で僕を見上げていた。
「応援しているの、ただそれだけ。二人とも好きだから。二人に幸せになってほしいから」
「はあ」
「あ、別に恋としてって意味じゃないから。なんというか、人間として」
「まあ、わかっている」
 何も言えなかった。応援してくれているというのはありがたいのかもしれない。しかし、意図がわからないから不気味だ。好きだから? 佐伯と僕らの間に、そんなわかりやすい接点があったのか?
「ねえ伊藤君、本当にそれでよかったの? イレギュラーになってしまった以上は、普通では守り切れない。そう思うの。あなたも川越さんも、私も」
「はあ・・・・・・」
 意味がわからなかった。なんだ、イレギュラーなら普通なんて目指さずに、イレギュラーを貫けとでも言っているのか。まあ、一理あるかもしれないが・・・・・・いや、そんなものはない。そんなに深い意味なんてないんだ。
 こいつは自分に酔っているだけだ。同い年のやつに深そうなことを言われても、何も響かないし痛いだけだ。
 なるほど、こういうやつだからいじめられていたわけか。そして中高でキャラを変えても、結果クラスで馴染めず浮いている。数年越しの疑問が今、氷解した。つまり、こいつはバカだったんだな。
 僕は佐伯を鼻で笑ってから、スマホいじりを始める。あいにくこいつとは同じ路線なのだが、僕は最後まで無視を通した。

 家に到着し、自室に入る。18時過ぎ。まずは、メッセージの確認。川越さんから1通。
「今日は楽しかった! ありがとう!」
 僕は顔をにやにやさせながら返信を入力する。
「こちらこそ、川越さんと一緒に回れてとても楽しかったよ。次はどこに行こうか? 都合のいい日があったら、教えてね!」
 送信。僕はスマホを閉じて、机の上に広げられた参考書類を見る。どっと黒いものが出てくる。明日から塾の夏期講習が始まる。そのための予習をしなくてはならない。重い腰を上げて、机に向かう。
 椅子に座って参考書を見た瞬間、頭に佐伯の顔が浮かんできた。
 ドン。僕は机を叩いてそれを消す。勉強が始まると、最近はいつもこうだ。僕が佐伯と同じ高校に通っている、それだけでイライラしてしまう。
 コンコン。ドアがノックされた。暗い気持ちになりながらドアを見ると、僕の母親が心配そうにこちらを見てきた。
「勉強は?」
「今からやる」それだけ言って、僕は机に向かう。
「明日から夏期講習でしょ。予習はできているの?」
「だから、今からやるって」
「今からって、予習はもっと余裕を持ってやった方がいいんじゃない」
 それだけ言って、ドアをそっと閉める母親。頭に血が上り、参考書を理解するのにも一苦労だ。全く、これだから母親は嫌いだ。言いたいことだけ言って、何もしない。
 ・・・・・・はあ、それでも僕はやるしかない。全く、どうしてこうなってしまったのか。高校受験が成功して私立に行っていたら、もう少し気が楽だったのだろうか。今はとにかく、
 頭に佐伯の顔が浮かんで、僕はもう一度机を叩いた。



 8月下旬の登校日、とうとう夏休みが開けてしまった。人生で初めてできた彼女、川越さんとのデートは水族館一度きりだった。もう一度くらい川越さんとデートがしたかった。
 しかしなかなか都合が合わず、ついに夏休みが開けてしまった。彼女との初めての夏休みをたった一回の水族館デートで終えてしまったのは寂しい。
 ただ、過去を悔やんでも仕方がない。ポジティブにとらえてこれからの楽しみを見つけよう。そうだ、僕はまだ高校一年生、まだ成長期。そうだ、川越さんが夏休みにどれくらい背が伸びたのか、そんな楽しみ方があるではないか。夏休み中に毎日のように会っていては気づけないであろう、彼女の変化が。
「お、おはよー。久しぶり」
 頭上から声が降ってきて、僕は彼女を見上げてあいさつする。
「おはよう、久しぶり」
 前よりは小さめの、ナチュラルな川越さんがそこにいる。なんとなく背が伸びた気がする一方で、僕の期待が作り出した妄想という感もぬぐえない。いけない、久しぶりでセンサーがマヒして、目測では身長がうまくは測れない。川越さんに会えない寂しさ、もどかしさを勉強で紛らわせていたツケが、まさかこんな形で表れてくるなんて。
「じゃ、学校行こうか」笑顔を作り、川越さんに言った。
「う、うん」彼女も笑顔を返してくれる。幸せな日常の始まりだ。
 新学期初めての登校、僕らは学校に向かう。一か月ぶりの登校風景、なんとなく新鮮な気持ちになる。朝早いこの時間、周囲には僕らの他に生徒がおらず、二人だけの世界を楽しめる。デートもよかったけれど、こんな二人だけの時間も良い。そうだ、次は自宅デートが良い。新鮮で、かつ二人きりになれる。いや、少し気が早すぎるか。とりあえず、川越さんに相談しよう。
「ねえ、川越さん」
「うん?」
 彼女を見上げると、ひどい猫背の彼女が僕の目に映った。猫背なんて、とんでもない。僕は急いで注意をした。
「あ、川越さん。猫背は良くないよ」
「え? あ、ありがとう」
 すっと背を伸ばし、より背の高くなった川越さんと並ぶ、僕は全身が熱くなるのを感じた。久々のこの感覚。やっぱり彼女は、僕の理想の女性だ。彼女といるだけで、生命力が湧き出てくる。
「ごめんね、夏休み中。予定合わなくて」
「いやいや、大丈夫だから。また、デートしようね」
「う、うん。そのうちー」
 自宅デートがいいね、と言おうとしたが、僕は直前でやめる。やっぱり、まだ気が早すぎる。もっと慎重に、距離を詰めていくべきだろう。
 学校が近づいてくる。人は少ないものの、運動部の人はもっと早く来るため、いないわけではない。
 逆身長差23㎝のカップルは学校でも有名なのか、校門をくぐってから後方でコソコソと話すのが聞こえてきた。もう、こんなことは慣れっこだ。いくらでも言うがよい。僕はそれらをすべて無視して、川越さんとおしゃべりしようと声をかける。そこには、さっき治ったはずの、猫背姿の川越さんがいた。
「あ、川越さん。猫背は良くないよ」
「え? あー、ごめん」
「これ、二回目。背筋伸ばした方が、かわいいから」
「あ、ありがとう・・・・・・」恥ずかしそうな彼女。こんなギャップが、かわいい。
 それから校内に入り、上履きに履き替える。こんな、二人だけの時間が、幸せだ。
 こんな時間がいつまでも続くと思っていた――

 その日は突然来た。
「ねえ、ちょっといい?」
下校中に川越さんに聞かれ、僕は笑顔で「うん、大丈夫」と答えた。
 川越さんは暗い表情でしばらく黙った後で、口を開いた。
「あまりべたべたするのも恥ずかしいし、駅と学校近いから、これからは別々に登校しない?」
 そんな、彼女の訴え。恥ずかしい・・・・・・その意味が最初は分からなかった。
「僕と付き合うのが、恥ずかしいってこと?」咄嗟にそう尋ねてしまった。そこまで厳しい意味ではないことは、分かっていながら。
「ち、違うよ。そういうことじゃなくてさ・・・・・・」また、黙り込む彼女。
「なんていうか、私たち、目立つじゃん、だからさ」
 嫌だ、そう言いたかった。目立ってもいいじゃないか、嫌な奴なんて無視すればいいじゃないかそう思った。
 しかし・・・・・・言葉が思うように出て来なかった。それに、彼女の望むことは、できる限り叶えてあげたい。そう思って、僕はその時首を縦に振ってしまった。
「うん、わかった。でも、デートはしようね」
「うん、もちろん。ごめんね、私のわがままで」
「いやいや、川越さんがそう言うなら、無理はさせたくないもの」僕は無理やり笑顔を作った。

 登下校を一緒にしなくなって、もう2週間が経つ。思い返してみれば、それを境に僕らの関係は変わり果ててしまったようだった。
 燃えるような恋情は鎮火し、火種はどこにも見当たらない。火の付け方がわからない。燃料が尽きて燃えカスのみが残された。まるで、両思いが片思いになってしまったようだ。
 ぎくしゃくして、教室ですれ違っても、軽く会釈することしかできない。たまたま帰り道に一緒になることがあっても、前のようにはならない。あの幸せな時間はどこへ行ってしまったのだろうか。
 どうしてこうなってしまったのか。川越さんから告白されて晴れて両想いになれて、水族館でデートもしたのに。どこで失敗してしまったのか。どこで僕は間違えてしまったのか。お互いに性癖を開示することで深まったはずの僕らの愛情は、どうして冷め切ってしまったのだろうか。なぜか、なぜなのか、考えても答えが見つからない。
「イレギュラーになってしまった以上、普通では守り切れない。そう思うの」
 突如脳内に響く佐伯の声。イレギュラー、なんだそれは。僕らは普通の高校生だ。普通に恋をして、普通にデートして。普通に青春を謳歌していた平凡で幸福な高校生だった。
 なのに・・・・・・どうして・・・・・・
 だいたい、イレギュラーってなんだ。どんな完璧人間だって、人には言えない性癖とかを持っているものではないのか。となれば、僕らの性癖だって普通だ。普通であってイレギュラー。人間とは、そんなものではないのか。
 僕らは普通に恋をして、普通に付き合って、そして・・・・・・普通に、終わってしまった。そうだ、それだけなんだ。イレギュラーだから失敗したわけじゃない。性癖のせいで失敗したわけじゃない。普通だから守り切れない? そもそも、普通ってなんだ。一番難しい単語の一つではないか。僕らは自然に恋をして、自然に終わってしまった。ただそれだけの、仕方のないことだったんだ――

 一度味わった魅惑の果実を手放すことはできない。しかし、下手に動いてしまえば、今度こそ本当に縁が切れてしまうかもしれない。それなら、今のままが一番無難なのかもしれない。でも・・・・・・やっぱり、もう一度手に入れたい。自分の手元に置いておきたい。
 切羽詰まった人間はこれほどまでにエネルギッシュになるようだ。嫌いな人間に頭を下げて、聞いたところで大した答えが出てくるわけでもないと思いながらも、質問する。むかつく話だが、以前の言葉の本意を知りたかった。
 クラスのメッセージグループから、そいつの連絡先を探す。まさか自分から佐伯に連絡をする日が来るなんて、夢にも思っていなかった。
「こんにちは」
 勇気を出して、佐伯に挨拶をした。一日くらいしてから返事が来た。
「こんにちは」
 待たせた挙句、挨拶だけ。僕はそんな佐伯に少しイラっとしたが、冷静になって、本題に移る。
「イレギュラーになってしまった以上、普通では守り切れない。この意味が気になったので、教えてもらえますか?」
 返事は早かった。画面の向こうで佐伯がこのメッセージを今読んでいたのだと思うと少々腹立たしかったが、背に腹は代えられない。
「そのままの意味です。逆身長差カップルという普通に反する関係を作った以上は、平凡な恋愛は続けられないだろうという私の考えです。関係を持つ、それだけで様々な受難を受けてしまうのですから、もっと強い執念を持たなくてはならないと思うのです」
 相変わらず、わかったような口調にイライラしてくる。次の質問を投げつけた。
「しかし誰しも何らかの、普通ではない個性を持っているものではありませんか? 普通とは多数派のことであり、何から何まで多数派に染まった人なんて、それこそイレギュラーでしょう。ならば、イレギュラーとはなんですか?」
 返事は早かった。画面の向こうで必死に文章を打っているのだと思うと、なんとなくうれしい気持ちになった。佐伯の他に、僕がこんなことを相談できる相手はいない。佐伯がいなかったら、今頃僕は一人で悩んでいたのだろうから。
「その通りだと思います。イレギュラーを隠し通せれば、それに世間は注目しません。しかし体型は隠し通せるものではありません。お二人はお互いの体型に価値を見出してしまった、それが問題なのです。
 もちろん、そのわかりやすいイレギュラーに対する世間の風当たりを受け入れたうえでその道を堂々と歩む覚悟があればよいのですが、伊藤君が望んでいたのは平凡な恋愛でした。イレギュラーが平凡にはなれない、私はそう思います。イレギュラーになってしまった以上は、それを貫かなくてはならないと思うのです。
 これが私が以前に申した、『イレギュラーになってしまった以上、普通では守り切れない』の意味です。中途半端に変人の道を行くから、余計に苦しむと思うのです。変人なりに鈍感に、己の道をつらなかなくては、成功できないと思うのです」
 読んでいるうちに苛立ちが頂点に達し、斜め読みをしてからスマホを投げる。やっぱりこいつは嫌いだ。わかったような、胡散臭く賢そうな、私は格が違うんだみたいな上から目線の口調が嫌いだ。勝手に人の恋愛に首を突っ込んで、勝手に飽きて、言いたいことだけ言って去る。そもそも、僕たちに首を突っ込んだお前の方がよっぽど変人じゃないか。そしてお前には、守るものすらない。寂しい独りぼっちの暇つぶしにはこりごりだ。
 ああ、今日はもう寝よう。よく考えれば、こんなことは前にもあった。佐伯に性癖をばらされ、僕らの関係が壊れかけた、あの時だ。結局夏休み前には自然と仲直りできた。むしろ、そんな困難を乗り越えたからこそ、僕らの中は一歩前進した。
 今回も、そんなものなのではないか。この困難はやがて時が癒してくれる。そしてその暁には、僕らの中はより一層素晴らしいものとなり、自宅デートも叶う。果報は寝て待てとは、こういう意味なのかもしれない。さあ、もう寝よう。それに、寝て覚めたらもっと良いアドバイスを僕の頭脳がはじき出してくれるかもしれないのだから。



 川越さんとの関係が悪化して何週間が過ぎたのか。とにかく、長い時間だった。その間僕は勉強に専念することで、その辛さを慰めていた。恋愛をしなければ勉強がはかどるとは、世の中はなんて理不尽なんだろう。
「ねえ、一緒に帰らない?」
 そんな寂しい自分に、彼女の方から教室で声をかけてくれたときは、飛び上りそうになった。時が僕らのギクシャクを癒してくれたんだ。これでまた、元の幸せな日々を手に入れることができる。そう思うと胸が躍った。
 ところが・・・・・・久しぶりの公園デートの空気は妙に重く、嫌な予感しかしない。川越さんはずっとうつむいていて、気まずい沈黙だけがそこに漂っていた。
「別れましょう」やがて小さな声で、しかしはっきりと、彼女はそう言った。
 僕はしばらく自分の耳を信じることができなかった。どちらかというと、信じたくなかった。こんなにも愛しているのに、こんなにも想っているのに。どうしてこの想いがあなたには届かないのか。僕が不細工だからか、変態だからか、チビだからか、性格が悪いか。僕はとりあえず理由が知りたかった。
「・・・・・・どうして?」
「えーと」
「どうして、別れたいの?」
「・・・・・・」
 彼女は暗い表情で背中を曲げ、うつむいて黙り込む。気まずい沈黙が流れる。1度きりとも、彼女を不快にさせようと思ったことはないし、させた覚えもない。
 あなたと出会ったその日から、僕の世界にはあなたがいた。いや、逆だ。あなたが僕の世界の女神だった。勉強に専念するために友人と日々遊ぶことをためらった、寂しい僕の唯一の生きがいがあなただった。
 あなたのいなくなった世界、それは世界の破滅を意味する。そんな世界で僕は生きることができないし、生きている理由もない。でも、そんな僕の想いとは関係なく、あなたは無慈悲にも立ち去ろうとする。
 やっぱり、神なんていないんだ。受験の時、ぎりぎりでも受かりたいと神に祈った。でも、叶わなかった。世の中そんなものなんだ。こんな世界、さっさと終わらせてしまった方が良いのかもしれない。
「川越さん、ひどいよ」
「え?」
「川越さんと付き合えない世界なんて、生きる価値ない」
「ちょ、ちょっと伊藤君?」
「最後に聞きたい。どうして、別れたいの? 僕が何かしました? それとも、何もしなかったから? もっと積極的にするべきだった? あまりに平凡すぎた? お願い、最後にこれだけは聞かせてほしい。僕の何がいけなかったの? この教訓を、来世で活かしたい」
「ら、来世って・・・・・・」
 僕は一歩、川越さんの方に歩み寄り、彼女を見上げる。別にあなたを困らせたいわけじゃない。ただ、顔が見たいだけなんだ。・・・・・・なるほど、僕にはもったいないくらいの素敵な女性。僕よりも良い男は星の数ほどいることだろう。
 でも、僕のあなたを想う気持ちは誰にも負けない自信がある。
 川越さんは目を逸らしながら、口を開いてくれた。ありがとう。
「・・・・・・周りの目が、辛いの」
「え?」
「逆身長差の私たちを見る、好奇の視線が辛いの」
 前に聞いたような理由。周りの目? わからない。なぜ、彼女がそんなことを気にするのか。
「でも川越さん、高身長気に入っているって」
「うん、そうだよ。でもだからこそ、それが原因で陰口叩かれるのが、本当に嫌い」
「でも、この前・・・・・・水族館で子供に巨人って言われても、むしろ喜んであやしてあげていた」
「うん、子供に悪気はないのは分かっているから、別に。でも、他の人は違う。かわいそうなものを見るような目で見てくる。中には、人間じゃないとかいう人もいる。好きなものを否定されることほど、辛いものはないの」
「でもそんなの。僕がいてもいなくても、川越さんの身長は変わらない」
「うん、そうだよ。私は今まで、自分が傷つかないように人混みを避けて、からかってくる人を避けてきた。からかわれても無視してきた。でも、今は違う伊藤君と一緒にいて、伊藤君も一緒にバカにされる。それが本当に辛いの。ごめんなさい」
「そんなの、僕は気にしないよ!」
 思わず声を荒げる。しかし彼女は首を横に振る。
「うん、ありがとう、知ってる。でも、私が気にしちゃうの・・・・・・好きな人が私のせいで否定されていることほど、辛いものはないから・・・・・・」
 彼女の言った言葉はとても純粋で、とてもありがたくて、とても優しくて、またとても残酷に聞こえた。

 モノクロの世界はカラフルに比べるとこんなにも退屈で味気ないものだったなんて。こういうことは、カラフルに慣れきってしまった者にしかわからないことなのだ。彼女のいなくなった世界に価値がない、壊すほどの価値もない。荒廃しきった世界の自然崩壊を待つしかない。
 あまりに退屈でありながら、気が付けば1月が過ぎてしまう。時間は待ってくれない。最近はずっと勉強も手につかない。そんな僕はこの調子で廃人になったまま死んでいくのかもしれない。
 僕らは普通だ、そもそもイレギュラーなんて存在しない。そんなことを声高に主張していた過去の愚かな少年よ。それを決めるのはお前ではない世間なのだ。お前がどんなに大声で叫ぼうと、世間の目は容易には変わらない。そして彼女はそんな『普通』にとても敏感だった。お前も心のどこかでイレギュラーであることに抵抗があるだろう。何かと人目を気にしていたのだろう。だからこそ自分は普通といって自分に言い聞かせていたのだろう。そして彼女はその抵抗がお前よりも強かったのだ。だから耐えきれなくなった。あんなにラブラブだった僕らの仲を断ち切ってでも、それを避けたかったのだ――
 僕はどうすればよいのだろうか。彼女以上に魅力的な人間なんているのだろうか。失恋を癒すのは次の恋という。その次の恋に、出会えるのか。
 彼女ともう一度付き合いたい。しかし、それは無理なのだ。僕と付き合った時点で彼女は不幸になってしまう。そんな運命なのだ。隠れればいいのか、人目につかずこっそりとデートをすればいいのか。それならば、交際とは何のためにするのか。未来の契約のためにするのではないのか。そんなコソコソとした関係を築いたところで、余計に精神を疲弊してしまうだけではないのか。
 僕はどうすればよいのか。どうすれば彼女とよりを戻せるのだろうか。ああ、力が欲しい、知恵が欲しい。学校の勉強なんかよりも、こんな勉強がしたかった。人生における最大の困難を突破するための知恵を身につけたかった。
 僕はどうすればよいのか、何をすればよいのか。そんな混乱した奥の脳内にコトンと落ちてくる、大嫌いな奴の大嫌いな台詞。
「イレギュラーになってしまった以上、普通では守り切れない。そう思うの」



《3》

余は人間の諸行動を笑わず、嘆かず、呪詛もせず、ただ理解することにひたすら力めた
――スピノザ『国家論』

 『大人』とは何かについて考えていた時期があった。きっかけは、同級生に「京子は幼稚だ」と言われたこと。小学5年生になった時、周りのみんなが大人になっていくにも関わらず、私はいつまでたっても子供だった。他のみんなが私の知らないところで身に付けていく汚さ、器用さを、私はいつまでたっても習得できないでした。いつだって単純に、嬉しいことに喜び、嫌なことに怒っていた。自分を見つめることができず、また自分に原因があることもわからず。私はいつだって人のせいにしていた。よく言えば純粋、悪く言えば不器用で独りよがり。そんな不器用で自分勝手な私は強い人の標的にされ、周りの人は見て見ぬふりをすることで自己保身に徹していた。今ならわかる、それが正しい行為であるということが。しかし当時は分からなかった。どうして助けてくれないのか。そもそも、どうして私がいじめられるのか。
 小学5年生の時にやってきた新米の担任の先生は、とても厳しい先生だった。何かにつけて私たちに説教をしてきた。クラスメートは皆、先生のことを恐れていた。先生の前では良い子のふりをしていた。しかし、その裏では悪口を言い、また先生に隠れて軽いいじめも行われていた。その標的にされたのは私だった。
 川越舞衣さんという背の高いクラスメートに、私はよく弄ばされていた。物を隠されて、焦って探す様子を見て笑い、涙目になって先生に行きそうなタイミングで渡してくる。私が友達と話しているところでその友達に話しかけて、私を仲間外れにする。私の手が届かない場所に大切なものをわざと置いて、飛び跳ねる私を友達と一緒に傍から見てからかう。そんな、軽いいじめを受けていた。
 今思えば、川越さん自身は私をいじめようとしているわけではなかったのかもしれない。多分、純粋に暇つぶしとして人をからかっていたんだと思う。川越さんは昔からクラスで一番背が高く、また私は一番低かった。それで、私は彼女におもちゃにされることは、低・中学年の頃から度々もあったけれど、両端同士仲良くすることもあった。いじめを受けていても、私たちは時々仲良くしていた。当時は、時に優しくて時に意地悪な彼女がとても不気味で、恐怖心から川越さんと表面上仲良くしていたが、今ならわかる。女子の友情というのはそういうものなのだ。
 川越さんとの関わりで今でも覚えているのは一緒に倉庫を掃除しているときのこと。私はなんとなく、「身長高いよねー、うらやましいなー」といった。当時彼女は自分の高身長をよく嘆いていたから、嫌みのつもりで言った。すると彼女は「小さい方が可愛いよー」という定型文を言いながらもそれに続いてこういった。
「でもありがとう。自分ね、本当はこの身長自慢なんだー。なんか女子なのに身長高いって、いいじゃん。ギャップがあって」
 ギャップ、当時の私はその単語を知らなかった。今は分かる、川越さんが当時言わんとしていたことを。そして、彼女がなぜ私をいじめていたのかも。
 彼女は、ギャップ、言い換えれば人間の多面性が好きだったんだと思う。ふとしたときに見せる、普段は出て来ない別の一面が好きなんだ。私は当時引っ込み試案で、普段から全くしゃべらず、同級生にも話しかけるだけでびくりとしていた。だから私は、彼女の標的にされた。私の変化がわかりやすいから。声をかけるだけでギャップが見える、お手軽なおもちゃだったから。もっとも、川越さんがいなくても、私はいじめられていたと思う。私は弱い人間だった。弱いからいじめてもよい、いじめっ子という人間はそんな大義名分を得て、私にいじめをしかけるのだと思う。
 しかし当時はそんなこともわからず、私はただ不可解に思っていた。どうしていじめをするのか。なぜ私がされるのか。なぜ誰も助けてくれないのか。そして、あの厳しい先生も、いじめの存在を知りながらどうしてそれを叱るようなことはしなかったのか。
 一度、先生にいじめの現場を見られたことがあった。高いところに掃除の箒を置かれて、私がそれを取ろうと、机の上に乗ると、彼女は机を揺らす。そんなことをしているときに、先生が現れた。川越さんは顔を青くして、蛇ににらまれたカエルのごとく硬直していた。しかし先生は何も言わなかった。その時はただ、ふざけているのだと思われたんだろうと、私は無理やり自分に言い聞かせた。
 けれど、先生は本当は気が付いていたのだとあとで知った。

 ある日、私は先生に言われて放課後に一人で残った。そして一枚の紙を渡された。
「これは、あなたので間違いありませんね」
 差し出されたものは、漢字テストの答案用紙。確かに私のものだった。
「はい、そうです」私は慎重にそう答えた。どうしてこんなことを放課後に聞かれるのかがわからなかった。
「ここを、よく見てください」と先生がボールペンで指したのは名前欄。佐伯京子・・・・・・ではなくて、京の字が高になっていた。私は恥で顔が赤くなった。それを見て先生は微笑を浮かべていた。気分が悪くなった。
「普通なら〇点ですが、今回は特別です。ちなみに、百点はあなただけです」
「あ、ありがとうございます」私は深々と頭を下げて、そう言った。嬉しいという他に、どこか複雑な感情も起こってきた。ズルをしたようなうしろめたさ、そして、こんなことのためにわざわざ居残りさせたことへの違和感。
「で、ここからが本題ですが」そう前置きして、先生は真剣な表情で私を見る。何か、怒られるようなことをしたかと、私は身構えた。
「あなたは、川越舞衣さん及び、その友人からいじめを受けていますね」
「え?」予想外のことに硬直してから、私は恐る恐る頷く。先生は目を瞑った。沈黙が漂った。時間を経るごとに、汗が噴き出してきた。
 ようやく先生は目を開き、そしてこう言った。
「本当に辛い時は、私に相談してください。一回だけなら、助けます」
「一回?」私はぼそりと、オウム返しをした。
「はい、一回です。いじめなんて、教師が介入して防げるものではありません。防いだとして、より陰湿になるだけでしょう。あなたが自分の力で解決すべき問題です。解決できるように人を強くすること、それが私、教師の役目だと思っています。でも、一回だけなら、私は助けます。お話は以上です。漢字テストは、とてもよくできていました」
 先生はにこりと微笑んで、席を立つ。私もそれに倣って席を立った。
一回・・・・・・その一回を結局私は卒業まで使うことはなかった。

 色々なことがありながらも、私は小学校を卒業した。卒業式の日、礼装姿の先生はクラスの前に立って、いつものように説教を始めた。その説教を、私は今でもよく覚えている。
「このクラスには、6年生になったくらいの時からいじめがありました。私は最初から知っていました。クラスの誰かがチクったわけではありません。先生が自分で気が付きました。先生に相談してくれた子は一人もいませんでした。いじめられていた子も含めてです。
 私はいじめを止めることはしませんでした。なぜか、いじめはなくせないからです。いじめる人は不幸な人です。人を見下して優越感にひたらないと生きていけない。因果応報と言う四字熟語がありますが、、そういう人はいつか同じ仕打ちを受けます。いじめられる人。その人はもっと不幸な人です。そんな不幸な人の標的にされてしまい、反撃することもできず、自分で消化するしかない、寂しい人です。そして、いじめを知りながら見て見ぬ振りした人も不幸な人です。後ろめたさを抱えながらも何もしなかった人。とことん無関心だった人。どちらも不幸です。自分勝手で卑怯な人です。そんな人はこの先どこかで、その卑怯さのせいで、大切なものを失っていくことでしょう。
 皆さん、強くならなくてはなりません。理不尽な目にあったとき、それを対処し、幸せになる道を探る。そんな強い人にならなくてはなりません。それが人生を生きるということです。そのために勉強があるのです。算数が国語が社会に出て役に立つか、まあ、たいていの場合は役に立たないでしょう。しかし、勉強することで鍛えられた頭。そしてそのために努力した経験。これは、この先もっともっと難しい人生の問題を解くときに役に立つでしょう。賢くなるために勉強があるのです。内容は何でも構いません。算数でも国語でも道徳でも英語でも。スポーツでもお絵描きでもダンスでも。ゲームでも、本気でやったら賢くなれるかもしれません。皆さんが良い大人になることを、先生は望んでいます」
 10分程度の最後の説教だった。この日私は家に帰るなり布団に入って翌朝まで出て来れなかったのを覚えている。私がいじめられるのはなぜか、理由は不幸だから。では、不幸とは何なのか。数字で測れるものなのか。百科事典を読めば書いてあるものなのか。また、私はどうして不幸になったのか。終わりのない問いかけと曖昧な回答、およびそれに対する問いかけが無限連鎖して私の頭をおかしくしていった。
 この日を境に私は狂ってしまった。先生に対する、恨みにも似た激しい感情。その先生のせいで、私はこんなにもひねくれた人間になってしまった。それは私の身に降りかかった不幸なのか、それとも、私が唯一得られるたった一つの幸福だったのか。事実、私はそれから強さを手に入れることができた。強さ、それは別名、卑怯さ、鈍感さとも言えるかもしれない。
 その後先生は、いじめを見過ごしたとPTAから叩かれて教師を辞めたらしい。若い先生だった。今はなにをしているのでしょうか。私は今でも毎日そのことばかりを考えている。



 中学生になって、私は必死に勉強した。賢くなるために勉強をした。不幸とは何か、それが知りたかった。私は不幸な人間。だから中学生になっても何かといじられることが多かった。私はとにかく無視した。臆病ながら、私は戦った。その結果クラスで浮いて、体育でのペア作りとか、授業で二人組で音読をするときとかでは苦労したし、そこがいじめの表舞台へと変化していった。直接的ではなく、間接的ないじめ。当事者が曖昧になった、狡猾なやり口。そして、教師からもよくからかわれた。
 しかし、そんなことはそこまで致命的でもなかった。あの日以来、私にとっては出会う教師全員が反面教師だった。生徒も私には研究用モルモットとしか思えなかった。私は中学校の全ての教師を信頼していなかった。格好いいことを言って、結局は根本的なことには何も答えていない。笑顔で大きいことを語るペテン師よりも、微力ながらも一歩一歩進もうとする一生懸命で格好悪い人に、私はなりたかった。どうしてそうなるのか、根本的な問いかけからはいつも逃げている。答えなくて良いと思っている。私にとってそれが中学教師という人間はそんな奴だった。そんな人に怒られても、笑われてもどうでもよかった。ただ、謙虚さは失わないように最大限の注意を払った。私の目的は賢くなることであって、人を叩くことではないのだから。良いと思ったところは受け入れて、悪いと思ったところは軽蔑した。その基準はただ一つ。それで私が幸せになれるか。もしくは、その先生が誰かを幸せにしているか。
 私は不器用な人間だ。何かを極めるためには何かを切り捨てる、そんな生き方しかできない。気が付けば、私をいじめてくるような人はいなくなった。中には私に親切にしてくれる人もいたけれど、私は平等に、全ての人と距離をおいた。そんなことをしている間に、ほとんどの人に無視をされるようになった。人を避けるようにして、人に避けられた。まさに因果応報。中学時代、私に良い思い出は一つとしてない。
 個人の思い出ができるできないとは関係なしに時間は順調に進んでいき、私は高校生になった。中学の時に必死に勉強していたこともあって、多少は頭が使えるようになっていた。そして私はこの高校で不幸の研究をしてみようと思い立った。不幸とは何か。そして、不幸は操作できるのか。私の興味はそれにあった。それから恋愛に興味を抱いた。それは、こんなイギリスのことわざを知ったからだ。
「結婚は悲しみを半分に、喜びを二倍に、そして生活費を四倍にしてくれる」
 これが正しいのなら、結婚は人の不幸を軽減する働きがあるということではないか。そして、結婚は恋愛から始まる。なら、恋愛を知れば幸福と不幸がわかるのではないかと期待した。
 ちょうど良いことに、最近私のクラスにカップルが出現した。川越さんと伊藤君。小学校の時は何の接点もなかった二人が交際しているというのには最初驚いた。そして、お互いを好きになった理由に興味を持った。恋愛が不幸を決めるとして、恋愛のきっかけが完全にランダムなものだったのなら、結局はそれも確率的なもの、つまりはその人の幸福度で決まってしまうのだから。
 私は二人をよく観察した。普通のカップルだった。逆身長差はすこしインパクトがあるけれど、どこかお似合いに見えた。見事な両想い、とでも表現すればよいのか、とにかく二人は仲が良さげに、幸せそうに見えた。
 カップルを観察していたら、あるとき、伊藤君の視線に妙な違和感を覚えた。男性が女性に惹かれるのは、女性ホルモンの影響が強く表れる胸と尻だという。しかし伊藤君の視線は、川越さんの頭頂部をいつも見ているようだった。そして、川越さんと話しているとき以上に、川越さんの後姿を真剣に見つめるときがあった。何を見て、何に惹かれているのか。私はその調査を始めることにした。

 伊藤君の見る先に何があるのかを、私はよくよく観察した。その結果、川越さんの後姿でもなく、壁を見ていることに気が付いた。
 ある日私は始業一時間前に教室に入り、壁を入念に確認してみようと思った。しかしそこにはすでにカップルがいた。川越さんと目が合い、私は小さく会釈をする。その隣で伊藤君が私のことを睨んできた。なるほど、朝早い時間に教室で出会い、そこで何かが起きて交際に至ったのだろうと、私は仮説を立てた。
 カバンを持ったまま、私は後方の入口付近の壁を確認する。特に変わったものは見られない。一つ気になるのは、そこそこ高い位置にマジックで書かれた黒と茶の二本の線。間隔は10㎝程。壁はところどころ塗料がはがれているのに、その線だけは新しく、明らかに最近書かれたものだった。伊藤君はこれを見ていたのかもしれない。また、これを書いたのも彼なのかもしれない。では、何のために。
「京子ちゃん、どうしたの?」
「うわあ!」
 急に上から声がして私はびっくりした。悪く思ったのか、川越さんは謝ってくれた。小学校の時に比べて、随分おっとりしたと思った。恋愛は人間を変える力があるのかもしれないと、その時思った。
「あ、ごめんいきなり」
「ううん、大丈夫。ちょっと、ぼーっとしていただけだから」
 川越さんから目を逸らすと、伊藤君の三白眼が私に出ていけと訴えかけてくる。私はしぶしぶ、教室から出て行くことにした。ちらっと後ろを振り返ると、伊藤君の元へと向かう川越さんの後姿。そして印は川越さんの頭のてっぺん・・・・・・私の中で全てがつながった。
 後日私はメジャーを手に川越さんよりもさらに早く登校し、印の高さを測定した。赤い印は170㎝、緑の印は180㎝。1ミリの誤差もなく、そうなっていた。コンビニや郵便局の入口にある簡易身長計のようなものが、教室の入口の壁に付けられていた。
 ここから以下の仮説が立てられる。伊藤君が見ていたものは身長だったのではないか。そして今、伊藤君はクラスで一番背の高い川越さんと付き合っている。・・・・・・私はこういう性癖を知っている。恋愛感情に興味を抱いているくらいだから、性癖には少しばかり詳しい。アナスティーマフィリア、マクロフィリア。もしくは俗称、トールフェチ。背の高い人に興奮するという性癖。伊藤君はそんな性癖を持っているのだと、これまでの観察から予想がたった。
 これを知った途端、私はいてもたってもいられなくなった。そして同時に、どうしてこの二人組がこんなにもお似合いに見えていたのかを納得した。平凡そうな見た目の伊藤君が抱える変わった性癖。これらが生み出す巨大なギャップ。そしてそのギャップに惹かれる川越さんと、その高身長女性に惹かれる伊藤君。どこまでを当の本人が知っているのかはわからないが、これほどまでにお似合いで、かつイレギュラーを含んだカップルなんて、この先出会えなのではないかと思った。私はこんなカップルに興味があった。不幸というのが周りとの差異が生みだすものであると思う。周りに適応できない人を、人は「浮いている」と表現して時に仲間外れにする。ある程度の差異は個性として認められるものの、行き過ぎれば異端分子としてグループは時に排除しようとかかる。なら、その境界はどこにあるのか。どこからが不幸の原因となるのか。そしてその行き過ぎた個性による不幸を、恋愛は変えることができるのか。次に私はそんな疑問を抱いた。
 隙を見つけて伊藤君に接触することを試みた。毎日早くに学校に来ては、二人が分かれる瞬間を探した。そしてある日、伊藤君は早朝に一人で教室にいた。その時私は彼に接触し、私の仮説を披露した。全問正解だったらしく、私は嬉しかった。そして性癖を抱いたきっかけや、長身に魅力を感じる理由を尋ねようとしたところで、川越さんがやってきた。あまりにタイミングが悪かった。

 伊藤君と二人きりで話すさまを川越さんに見られた。そして誤解された。放課後まで、川越さんは私とすれ違うたびに睨んで舌打ちをしてきた。そのたびに背筋がぞっとした。私は普段、学校では実験のために基本は演技をしているけれど、こういう時はどうしても本能的な恐怖心が出てきてしまう。放課後までに、私は今後のプランを必死に考えた。まずは、伊藤君がトールフェチであることを川越さんに伝える。すると川越さんはおそらく喜ぶ。川越さんが高校生になっても自身の長身を誇りに思っていることは観察済みだった。まず、猫背にならずいつもすっと背筋を伸ばしていることから、少なくともコンプレックスではないと思われる。また、長身をうらやましがられると、定型文を言いながらも多少嬉しそうにしていた。彼女は小学生時代と同じく、自分の長身が、それによるギャップが好きなのだろうと思われた。
 また伊藤君は、教室の入口の印でこそこそと身長を測っているくらいだから、おそらく川越さんに自分の性癖を伝えていないのだろう。そして同様に伊藤君も川越さんの性癖を知らないと思われる。二人の隠し事を意図的にばらし、仲を近づけることを目指す。そのためにまず、伊藤君の性癖をばらす。そうすればおそらく、川越さんも自分からばらすことだろう。伊藤君の性癖は数字によるものなのでわかりやすい。一方で川越さんの性癖は少しわかりにくい。ギャップといっても色々ある。そもそも、川越さんが伊藤君の何に惹かれていたのかもよくわからなかった。私の計画が成功する保証は当然なかったけれど、私はその日の放課後に実行することを決めた。
 作戦を実行に移した一週間後、二人の関係は最初はぎくしゃくしていた。伊藤君に刺されてしまうかもと不安だったが、そんな元気すら失ってしまったようで、見ていて辛かった。あんなにお似合いだった二人が別れてしまうのは、傍観者としても見ていて辛いものがあった。しかし川越さんの方は決して伊藤君を嫌悪しているようには見えなかったので、私は観察を続けた。

 終業式の日、いつものごとく二人は一緒に下校していた。すかさず私は二人を追う。今日を逃したら、夏休み中もメッセージですれ違いを解消することができずに、自然消滅する可能性がある。私は二人を尾行していた。もしも今日、二人が話し合うことがなかったら、伊藤君に抱きついて川越さんの危機感を煽り、行動を起こさせる予定を立てている。
 相変わらず無言で帰る二人。カップルなんだからおしゃべりくらいはしろとは思うものの、私のせいでこうなってしまったわけなので、何も言えない。両方とも話したいと思っているに違いない。伊藤君は教室でずっと川越さんの後姿を見ているからわかりやすい。川越さんはずっと物思いにふけっていてよくわからないけれど、伊藤君を嫌いになっているようには見えなかった。
「ねえ、川越さん」
「ひゃあ!」
 考え事をしている川越さんに話しかけて、川越さんが驚く。よし、一週間ぶりの会話。胸が躍るのを感じた。臆病な伊藤君も、こういう時は動くらしい。ここまできたらあとは心配ないとは思うけれど、最後まで見守りたい気持ちが出てきた。
 二人は小さい公園のベンチに座って、話を始める。途中川越さんが立ち上がり、大きな声でこう言った。
「自分のこの童顔が好きだし、それに不釣り合いともいえるこの身長が大好きなの」
 その後の話を聞いていると、気が付けば私の口角が上がっていた。
 彼女は小学生の頃から変わっていない、それが知れて私はとても嬉しくなった。すごい、ここまでお似合いなカップルなんていないんじゃないか。そして、二人の交際。それは二人のとっての最大幸福を意味するのではないか。それは言い換えれば、この二人の親密度を変えるということは、同時に幸福度を変えることにおおよそ等しいのではないか。私は嬉しかった。どうにかして二人の親密度を上げることができないか、それを目指すことにした。次の目標が定まった。

 会話が終わり、二人は仲睦まじくおしゃべりをしながら駅に向かう。もうこそこそ尾行するつもりはないのだけれど、ぱっと出て行っては尾行がバレて意味がない。向こうの警戒心を強くし、今後の観察に支障が出てしまう。タイミングを探る。駅に入ったタイミングで私は自然を装い歩きスマホをしながら二人についていく。人混みで見失わないように、できるだけ足早についていき距離を詰める。
「ねえ、水族館に行かない?」
「うん、いいよー。行きたい!」
「何日が空いているかな? 僕、夏期講習があるから」
「8月4日はどう?」
「あー、その日は僕も都合いい」
「じゃー、それで。あー、京子ちゃん!」
 川越さんが私を見つけて手を振ってきた。良いタイミングで見つかった。相変わらず隣の伊藤君はもの言いたげな視線をこちらに向けてくる。私は手を振り返す。機嫌のいいときの川越さんは優しくて、かわいい。
「今帰りなの、図書館とか?」
「うん。まあ、そんな感じ。京子ちゃんは?」
「自習室にいた」
「偉いねー」
「ありがとう」
「川越さん、待ち合わせは何時くらいがいい?」
「んー、10時くらいかなー」
「ん、デートの予定?」
「えへへ、そうだよー。初めてのデートだよー」
 そう言って、川越さんは照れている。デートが初めて、二人の親密度はまだこの程度らしい。そんな二人が送る初デートは、上手くいくのだろうか。今は歩きながらだから目立たないものの、悪い人はいる。長い待ち時間にでそんな人に出会ったとき、二人はどうなってしまうのか。その程度で崩れるような仲なのか。それとも、そんな不幸をきっかけにして強さを身に付けられる、生命力を持っているのか。予想だけれど、二人とも単独ではそんな力を持っていない。川越さんは人混みを避けているようだし、伊藤君は性癖をとことん隠し通していた。では、二人は一緒になったらどうなるのか。恋愛は個人の生命力を上げることができるのか。
「ねえ、そのデート私も後ろからついて行っていいかな?」
「え? ・・・・・・えーとー」
「デートってどんな感じなのかなーって。ちょっと参考にしたくて」
「あー、うん、それなら・・・・・・あれ、京子ちゃんもしかして。好きな人できたのー?」
 にやにやしながら、屈んで私に問いかける川越さん。好きな人、その単語で私の顔が反射的に赤くなってくれた。
「まあ、ちょっと興味が・・・・・・」
「うわー! いいよね伊藤君。別に一緒に回るわけじゃないんだからさ」
「そうそう! ただ、参考に観察したいだけだから」
 伊藤君は川越さんに押されて、無言でうなずく。私は心の中でクスクスと笑った。これで、実験がうまく進められるようになった。



 幸福そうな人を見るだけで不幸な気分になってしまう人がいる。そんな人は不幸だ。しかしもっと不幸なのは、そんな愚かな人のせいで不幸な気持ちになって、色々あきらめてしまう人の方だ。
 二人は毎朝仲良く一緒に登校していた。逆身長差20㎝のカップルはよく目立つ。そして伝統に反する、それを良いことに陰口を言う人がいる。自分の理解できないものを否定する、心の狭い人だ。そんな不幸な人たち、放っておけばよいものの、川越さんは気にしてしまうらしい。知らず知らずのうちに自分を偽り、周囲に迎合する性質を持つ彼女は、伊藤君との『普通』の交際に耐えることはできなかったらしい。伊藤君と一緒にいられるから12㎝のヒールを履いてきたのに、伊藤君はそれを望むことなく、ただいたずらに目立つだけになってしまった。そして実は伊藤君も、多少は気にしていたようだ。窮地では彼らしからぬ行動力を発揮する伊藤君が復縁に猛進しない。水族館デートの日、最初は川越さんと手をつないでいたのに、途中からつながなくなった。入口で他のカップルのように記念写真を撮らなかった。理性よりも、恥じらいが勝った瞬間だった。
 伊藤君、あなたの変態性はそんなものだったの? 川越さん、あなたはもっと飄々とした人だったじゃない。どうして交際して周りからヤジを飛ばされて、それでうじうじしているの。どうして戦わないの。そのイレギュラーで圧倒させようとしないの。あなたたちの生命力はそんなものなの?
 ・・・・・・人には宿命というものがある。生まれた時から不幸な人もいれば、生まれた時から不幸な人もいる。そういう極端な人は生まれた後、その宿命に従って生きていくのだと思う。しかし普通の人は、時に幸福で時に不幸となる。そんな一過性の不幸を乗り切る力が生命力で、乗り切った先に幸福が待ち受ける確率を運を呼ぶのだと、私は考えることにした。
 二人には生命力がある。少なくとも、私よりは。いじめっ子と傍観者。そうじゃなきゃ、そんなに器用には生きていけないと思う。だからこそ、こんなものに負けないでほしい。きっかけさえあれば、二人はこの困難を乗り越えられると私は信じている。思春期特有のホルモンバランスのせいで自意識過剰になって乗り越えられないだけで、適当な時期に出会っていれば、乗り越える力を持っていると私は思う。それもまた運命なのかもしれないけれど、外からの介入で、その運命を変えられるのではないかと、私は期待したい。
 どうして私が二人の幸福を望むのか。答えは、それが私のためになるからだ。人工的に整えた環境は人をどうしていくのか。人は人の運命を変えられるのか。私はそれに興味がある。私は二人で恋のキューピッドの実験をしているのだ。



 一人で寂しそうに帰る伊藤君。失恋したら、こんなにも人は暗くなってしまうらしい。後姿を見るだけで悲壮感が伝わってくる。
「伊藤君」
 後ろから声をかけてみた。予想通り、伊藤君は無視する。私は小走りで彼の隣に並ぶ。
「一人なの? 川越さんは?」
「・・・・・・」
 黙ってうつむきながら、足早に歩く。私は小走りで彼についていく。ここまでは予想通り、あと一回試してみよう。
「ねえ、伊藤君?」
「なあ、ちょっと聞いていいか?」
イレギュラー発生。落ち着いて対処しよう。
「佐伯さん、どうしてこの高校に来たの?」
「え、どういうこと?」この手の話は他の人からも振られたことがあったけれど、一応、確認しておく。
「お前なら、もっといいところに行けただろう」
「受験していないから、わからない」
チッ、と伊藤君が舌打ちをした。これだから、受験は苦手だ。数字に一喜一憂して、カーストが作られるようで。私の求めるものはそこにはない。したり顔で知識をひけらかす上流階級よりも、理想を求めて捨て身で戦うホームレスの方が、私は好きだ。
「ねえ、川越さんとは」
「うるさい! どうせ知ってんだろう、ストーカー」
 三回目にして反応あり。
「・・・・・・やっぱり別れちゃったんだ。どうして?」
「知らない。僕と付き合うのは恥ずかしいとか、そんなこと言われた」
「そう。復縁は、しないの?」
「できたらとっくにしている。できないから悩んでいる」
「できない。それは、どうして?」
 彼は、はあと大きなため息をついてから私を横目で一瞥し、それでも話してくれた。
「僕らはただ並ぶだけで滑稽な見た目になってしまう。人から悪く言われることを、僕はまったく気にしないけど、、川越さんは僕が巻き込まれるのを見て傷ついてしまう。本当に素敵な人だよ。でもそうなった以上、僕にはもうどうすることもできない。それこそ、別れるくらいしか・・・・・・」
 悲しそうに語る伊藤君。なるほど、川越さんはなんだかんだ優しいから、伊藤君が陰口叩かれるのが見ていられなかったのか。川越さん本人は、身長の悪口は小学生のころから言われていた。そして今まで耐えてきた。でも、今度の対象は想いの人。
しかしどうしてそこで、別れるなんていう考えが出てくるのか。どうして、川越さんのために戦おうとしないのか。まだ、やるべきことはありそうなのに。
 そう、彼は結局できないのではなくて、できない理由を探しているだけなのだ。川越さんはこんなにも伊藤君のことを考えているのに、伊藤君は川越さんを救おうとはしない。
「いくじなし!」私は叫んでみせた。
「は?」
はっきり言ってやる。はっきり言わないと、彼は動かないのだろうから。
「臆病者! あなたも人目を気にしているだけでしょう。本当は別れて、少しはほっとしているんでしょう」
「チッ、殴るぞ」
 伊藤君は右手を振りかざす。先手必勝――伊藤君に抱き着く。一瞬の出来事、その一瞬で伊藤君は大いに取り乱した。そして周りを見渡して、誰にも見られていないことを確認して、安心している。
「何するんだよ!」
「男なら同じこと、川越さんにもやりなさいよ!」
「は? 男だからとか・・・・・・この男女平等の時代に」
「意気地なしって、言ってるの。あなたは今、自分ができない理由を男女平等に求めた。卑怯もの!」
そう言い捨てて、私は走りだす。できるだけ長く、できるだけ遠くへ。彼に追いつかれないところまで。これでどうなるのかはわからない。これは実験、どちらに転ぼうと結果は出る。
でも私としては、良い方に転がってくれたらうれしい。

 新品の服を下ろして駅前で人と待ち合わせ。隣に知らない男性がやってきて、話しかけられる。
「ねえ一人?」
「すいません、人を待っていますので」
「へー、何時待ち合わせ」
「あと二分です」
「二分あったらその間にちょちょっとお茶するくらい」
「あ、川越さーん! 早くいこー」
 ナンパを振り切り、川越さんの元へ走り出す。繁華街に一人でいるとたまにされるので怖い。とくに、こういうかわいい服を着ているときは。今日は川越さんと一緒でよかったと、安堵した。
「じゃあ、行こうか!」
「う、うん」
 川越さんは背中を曲げて、私に目線を合わせてくれる。そして足元を見ると、例のものがそこにある。
「やっぱり、それ履くと高く見えるね」
「うん、でも、ちょっと恥ずかしいよ」
「あ、そうなの? でも、似合っているよ」
「そう? ありがとう。京子ちゃんも・・・・・・かわいいね」
「ありがとう」
 今日の私は、フリルのついた長袖の黒いロングワンピースをベルトで締めた、軽めのロリータファッション。こういう露骨なファッションはあまり好きではないけれど、今日は着てみた。川越さんは12㎝のヒールに黒いひざ下スカートと白いシャツにショートカーディガンを羽織る。袖は短いけれど、細身なので服はとても似合っていると思う。
 今日私たちは水族館にやってきた。前と同じ水族館。ペンギンの子供が展示されたというニュースを耳にして、せっかくなので見に行こうと。ついでに川越さんを誘ってみた・・・・・・というのは口述の一つで、単純に川越さんに刺激を与えるためだ。伊藤君にあんなことをして二週間が経ったけれど、二人の間に特に変化はないらしい。このカップルは女の子が動かないと動かないらしい。伊藤君はきっと、頭の中でそれらしい理由を考えては、現実逃避しているのだろう。
 今日、私は川越さんに頼んで12㎝のヒールを履いてもらった。当然かなり嫌がられたけど、しつこく頼んで無理を言って履いてもらった。川越さんは攻めるのは得意だけれど、攻められるのは苦手らしいのだ。なんとなく、いじめっ子らしいと思った。
 身長差50㎝超の低身長ロリータ女子と超高身長女子はかなりのインパクトのようで、常に周りから注目を集めている。この場で大道芸でもやったら2万円くらいもらえるんじゃないかと思えるくらいの注目度だ。感嘆の声の中には、狙った格好に対する批判、ヒールに対する批判、それとは関係なしの、イレギュラーゆえの陰口も多い。なるほど、これがヒール付き川越さんの過ごす世界か。川越さんを見れば、背中を曲げて恥ずかし気にうつむいている。
「川越さん、猫背は良くないよ。背骨が歪んじゃう」
「え あ、ありがとう」と言ってから、少しだけ背筋を伸ばす。
 それから私は川越さんの手を握り締めた。ただ手をつなぐのではなく、ぎゅっと握り締めた。少しは緊張が和らいだだろうか。私はそんなことをしながら、川越さんと一緒に水族館を回った。

 チケットを買って入場口に並んで・・・・・・と、わざわざ手順を確認しなくても体が覚えている。最近来たばかりの水族館、見たいものと言えばペンギンの赤ちゃんくらいのもの。それを見て、他を一通り見て、お昼ごろにはすでに私たちは帰路についていた。
「楽しかったねー。ペンギンの赤ちゃん、かわいかった」
「今しか見れないもんね、行ってよかった。誘ってくれて、ありがとう」
 帰り道、私たちは楽しくおしゃべりをしながら駅の構内を歩く。川越さんと一緒にいてわかったこと、この人は本当は強い。周りを気にせず流す鈍感さを持っている。
「伊藤君と一緒だったら、もっと楽しかった?」
 最後に、彼女に尋ねてみる。川越さんは頬を紅潮させ、小さく頷いた。やっぱりまだ二人は両想いらしい。一過性の不幸によって、別れてしまっただけで。
「伊藤君って、結構敏感なところ有りそうだもんね」
「うん。二人きりだと手をつないだりしてくれるんだけど、人前だと、してくれない」
「シャイなんだね」
「うん、多分。それに、私のためにいつも無理してくれている気がして、こっちまで疲れちゃう」
「色々、難しいんだね」
「うん、でも・・・・・・」川越さんは小さくため息をついた。「もっと、上手い解決法があったんじゃないかって。私、どうしてあんなこと、言っちゃったんだろう」
 悲しそうな目で、彼女は虚空を見つめていた。
 伊藤君は、口は達者だけれど臆病だ。頭の中でできない理由を必死に探している。川越さんはあまり本心はしゃべらないけれど芯はしっかりしている。今はこんな風に沈んでしまっているけれど、好きなものははっきりと好きと主張し、好きなもののために行動も起こす。そんな印象を受けた。別に、伊藤君が悪いとは思わない。人には功罪両方が備わり、問題なのは個人のそれらと環境とのバランスだろう。私はこんな二人の本性を観察で見出して、この二人が本当にお似合いのカップルだと、いま改めて実感している。
 今日の実験は以下だ。まず、川越さんの身長と同じくらい目立つ洋服を着る。そして人前でも恥を捨てて飄々と接する。人目を完全に無視する、中途半端じゃいけない。これで、どう動くのか。イレギュラーを徹底した結果を彼女に見せる。今日の私たちに比べたら、伊藤君との交際なんて楽だろうと思う。開き直ってしまえば、見えてくる世界がある。こんな極端な環境で一日を過ごした彼女はどうなっていくのか。
 本当に川越さんが好きだったらスイッチが入ったら、こんなことは簡単にできるのだろうと思う。ただ、感情のままに動けばよいのだから。でも私は川越さんが友達としては好きでも恋愛感情までは抱いていないので、実験として徹底的に神経を張った。
 駅が見えてきた。もう少しでお別れだ。駅に近づくと人は多くなり、川越さんの長身も私の低身長も私たちのイレギュラーも浮き彫りになっていく。でも、そんなのに負ける私たちじゃない。こんなところでも、手をぎゅっとつないで歩いて見せる。
「私さ、夏休みに身長伸びたんだ。2㎝」
「すごい!」
へへ、と笑う彼女に、私は微笑み返した。
「本当は京子ちゃんみたいにかわいい服着たいんだけど、またサイズなくなっちゃった」
「作ればいいじゃん、手芸部」
「まあ、そうだね。そのために、今は修行中」
 川越さんは今、背中をすっと伸ばして胸を張って歩いている。私のために背中を曲げてくれることはあるけれど、基本的には姿勢をよくしている。初めは慣れないヒールを履いて恥ずかしそうに曲げていた。でもそれから背中も次第に伸ばすようになり、陰口を完全に無視するようになり、今も無視している。本来の川越さんが戻ってきた。遊び半分で私をいじめていた、あの生き生きとした川越さんが。やっぱり川越さんはこうでないと。伊藤君に気を遣って色々悩んでいたようだけれど、それでも好きなものは好き。ヒールを履いた川越さんは自販機よりも背が高く、また天井から吊り下げられた看板に頭をぶつけそうになったり、実際にぶつけたりしていた。そのたびに川越さんは、少し嬉しそうにするのだった。この人は本当は長身が好きなんだ。どんな目にあっても、それが好きなんだ。私はそう確信した。そして、伊藤君がもう少し恥を捨てて積極的になるか、もしくは伊藤君を変えられるくらい川越さんが積極的になれば、この二人はもっと仲が縮まるのではないかと、私は予想した。
「アシカのショーは、何度見てもすごいよねー」と、私は話を元に戻す。デートの終わり、気持ちよく締めようではないか。
「ねー。ボールのバランス感覚は本当に、落ちちゃうんじゃないかって、ハラハラする・・・・・・」
 川越さんが急に静かになる。どこかを見据える川越さんの表情。その視線の先では、私服姿の伊藤君がこちらをじっと見ていた。カバンを持っていて、これから塾に行くような、そんな格好。
 予想外の事態、けれどもこれはこれでよいだろう。本当は、二人に独立に私が介入してどうなっていくのかを見たかった。研究の目的には外れてしまうけれど、仕方がない。
「あ、私ちょっと用事思い出した。先に帰るね」
「え? あ、うん。じゃあねー。今日はありがとう」
 そう言って私は小走りで改札に向かう。途中、後ろを振り返ってみると、川越さんと伊藤君は何かを話していた。伊藤君の時にこうならなくてよかったと安堵しながら、私はホームへと向かった。
 実験は失敗してしまったけれど、これで結果が良い方向に向かってくれることを、私は祈らずにはいられなかった。



 不幸な人は自ら不幸を招く、幸福な人は自ら幸福を招く。与えられた試練をうまく生かせるかは生命力にかかってはいるものの、その生命力だって結局は運に因る代物に過ぎないのかもしれない。すべては運に過ぎない。もしもこの世界がそういったものであるのなら、私が行動せずともどこかしらのタイミングで二人はやがて復縁を果たし、幸せになっていったのかもしれない。いやむしろ、不幸な私が介入しない方が、試練を乗り越えて成長して、より幸せな結果になったのかもしれない。もしくは、私が介入することそれ自体が二人が幸せもしくは不幸ゆえに引き起こされたものだったのかもしれない。
 私の行為はどこまで二人の幸福に介入できたのか。もしかしたら、全ては壮大な無意味だったのかもしれない。考えてみれば、あれほどお似合いの二人であれば、あの芯のしっかりした川越さんであれば、私がいなくても数か月後には自然回復していたようにも思う。そもそも、二人の間に縁がなければ二人が付き合うことはなかったはずなのだ。なら問題は、私と二人の縁が、どれくらい太いものだったのか。なんとなく、とても細いものだった気がする。それなら、私の存在は、意味がなかった。つまり、私は二人の幸福に貢献できなかったということになる。
「舞衣ー、身長伸びた?」
「わかる? 自分でも、伸びたかもーって思ってたの」
「好き。もっと好きになった」
「ありがと。私も好き」
 はっちゃけた二人の会話は、聞いているだけでこちらの方が恥ずかしくなってくる。こそこそ付き合っていた二人、一緒に登下校していたからこそ気が付かれた、一組の影の薄いカップル。そんな二人が短い別れののちに復縁し、ある日突然変態カップルとして生まれ変わった。女子の体を中心にして築かれた二人の恋仲。クラスはこの変わり具合に驚きながら、その一方でうらやましく思い、同時に応援しているようにも見て取れた。
 二人は幸福になった、周りを幸福にするほどに・・・・・・なるほど、人を幸福にするためには、わざわざ介入するよりも、自分自身が幸福になるのが確実だったわけか。それなら、私の努力は無意味か。私の実験は、失敗に終わったのか。
 一般にクズと呼ばれるような人は、不幸な人なんだと思う。自分よりも不幸な人を見下さないと死んでしまう、ストレスで一杯一杯の人なんだと思う。そんなクズに狙われないためには、幸福になればよい。幸福になれば、からかった方が惨めな思いをするようになる。持ち前の幸福度以上に幸福にはなれないかもしれない。しかし何らかの刺激によって引き起こされた一過性の不幸に陥っている状態でクズに狙われているだけなのなら、まだ救いはある。外からの刺激で本来の幸福を引き出せばよい。二人はそんな伸びしろのある人だったのかもしれない。それなら、私の行動は・・・・・・結局すべては二人の幸福度に従った劇にすぎず、私の介入もただの決定事項だったのかもしれない。
 私の行動は二人の幸福を引き出すことに貢献したのだろうか。私の研究テーマは、私の行動によって人を幸福にできるかを調べることにあった。
 川越さん伊藤君二人の個性から見て、これ以上にお似合いな組み合わせはめったにないように思えた。よってこの二人が交際するというのは、二人にとっての最大幸福を意味しているように思えた。それなら、この二人の親密度を左右することは大方幸福度を左右することであり、そこに私が介入できれば、それは私が二人の幸福度をコントロールしたことになる。私はそう考えてこの実験を始めた。
 実験が終わった今になって、私は本当に二人を幸せにできたのかという疑問が沸き上がってくる。実際、二人の親密度は私の介入によって幾分か変えられたように思う。しかし、こうも考えられる。二人の持ち前の幸福度によって決まる、同じ幸福度の状況は複数ある。それをイ、ロ、ハ、などと名付ける。私の働きは、その同じ幸福度の状況を変えただけに過ぎないのではないかと。つまり、イの状態をロの状態に写したにすぎず、合計の幸福度を変えることができたわけではないのかもしれない。二人の交際だけを見ていれば幸福度が見かけは上がったように見えて、例えば伊藤君の家庭内の幸福度は少し下がっているのではないかと。
 ここまできたら、もう何もわからない。何が正しくて、何が間違っているのか。それを確かめるすべがない。全ては仮説にすぎず、その結果私の作り出した体系は膨大な仮説の塊になってしまった。何が正しいのかはわからない。客観性を持たない。そして、全てが間違っているかもしれない。
 こんなのは似非科学だ。私はトンデモ科学者だ。でも、私はどうにかしてそれを知りたい・・・・・・私の妄想を、科学にしたい。私にそんなことができるのか。私はそんなに賢い人間になれるのか。それでも、私は挑戦したい。本当に大切なものを、手に入れたいから。



 今日も二人は仲睦まじく、一緒に登校し一緒にお昼を食べて一緒に下校している。当初のクラスのざわつきはなくなり、日常の一部となりきっていて、今更誰も気に留めない。強いて言えば、お熱い二人に嫉妬する独り身が出てきたくらいだろう。トールフェチと身長ナルシスト、変態的でイレギュラーなカップルも毎日見ていれば慣れてしまう。
 私は今、一緒に下校する二人の後姿を眺めながら帰路についている。二人はおしゃべりに夢中で、私には気が付かない。二人が復縁して以来、私は一度も二人と話したことはないし、話しかけられたこともない。二人の世界から、私の存在は消えてしまったらしい。研究とはいえ、そのあまりのあっさりさに、また二人のあまりの仲の良さに、私はどこか寂しい気持ちになった。
「恋したいなあ」
 ・・・・・・私は咄嗟に口を押える。二人をぼんやり眺めていたら無意識に発せられたそれ、そんなものはご法度だ。私は恋のキューピッド。キューピッドは恋をしない。私は科学者、不幸の研究がしたいだけ。不器用な私は、何かを得るために何かを捨てないといけない。今は研究をしなくてはならない。将来、ある人を幸せにするためにも。だから恋はお預け。
「いじめを知りながら見て見ぬ振りした人も不幸な人です。後ろめたさを抱えながらも何もしなかった人。とことん無関心だった人。どちらも不幸です。自分勝手で卑怯な人です。そんな人はこの先どこかで、その卑怯さのせいで、大切なものを失っていくことでしょう」
 ふと、先生の言葉を思い出した。いじめはなくせない、だから高校でも程度の差こそあれいじめはある。カップルへの陰口だって、いじめだろう。私はいじめの存在を知っておきながら、いじめる張本人に対しては何も行動を起こさなかった。それが、今の私なのだ。
 私はそんな人になってしまったのかもしれない。研究というそれらしい理由を付けて、不器用という大義名分を得て、努力すらしなかった。そんな自分勝手な私はこの先その独りよがりのせいで一番大切なものを失ってしまうのかもしれない。
 でも先生、私のような不器用な人間は、いったいどうすればよいのでしょうか。人づきあいと研究の両立なんて、不可能です。研究を諦めろというのでしょうか。しかし、私は自分の幸せのために研究しています。なら、何ために、私は両立を目指すのか分からなくなってしまいます。

 カップルもいなくなり、私は家を目指して一人で歩いている。私はこれから何をすればよいのだろう。しばらくは、カップルの観察を続けるか。今の幸福も、もしかしたら一過性のものに過ぎないのかもしれないから。
 向こうから、こちらに歩いてくる一人の男性。・・・・・・鼓動が早まる。星の数ほどいる男性の中でも、特別な人。私はそんなあなたに話しかける。
「久住礼二先生ですか?」
 名前を呼ぶと、その人はゆっくりと振り返った。無精髭にぼさぼさ頭、やせた腕。教師時代とは全く異なるやつれた風貌。
「えー、いま私の名前を呼びましたか? 私はもう、先生ではありませんが」
 先生の目が私をまっすぐ見据える。風貌が変わっても、彼の目は当時と同じ輝きを残していた。
「元6年2組の、佐伯京子と申します。X年卒です」
「ああ、佐伯さん・・・・・・覚えていますよ。なんだか、大きくなりましたね」
「はい。もう、高校生ですから」
「ああ、もう高校生」
 鼓動が高まり、胸が熱くなる。なぜみんながそんなに恋を求めるのかがこの瞬間にわかった気がした。生命力を得るために、恋をするのではないかと。生命力・・・・・・それは逆境を乗り越える力だと、私は解釈していた。
「ちょっ! どうされました? 具合でも悪いんですか?」
 私は先生に抱きつく。数年ぶりに間近で聞いた先生の声に、嗚咽が漏れた、涙が出てきた。ひねくれものの今の私を作ってくれた人。私を強くしてくれた人。私の憧れの人。そして、私の初恋の人。
「すみません言いにくいのですが、私最近忙しくて、まともに風呂とか入っていないので、余計に気分が悪くなるかとー」
 詐欺師のような笑顔を張り付けてそれらしい理想論を熱血教師よりも、澄んだ目で遠くの真理を見つめるホームレスが好き。そんなひねくれものの私。イレギュラーになってしまった私。そんな私にできることは、ただ一つ。
「先生、好きです」
 憎しみにも似た激しい感情を彼に抱いてきた。四六時中私はあなたのことを考えてきた。そして、あなたみたいな人になりたいと思っていた。私はどうして勉強を、研究を頑張ってきたのか。目的は一つ、賢くなりたかったから。賢くなって、この人で実験をしたかったから。私が彼を幸福にできるのか、それを知りたかったから。
 顔を上げる。横目に同じ学校の制服を着た人がちらりと見えたけれど・・・・・・どうでもいい。イレギュラーになってしまった以上、私はイレギュラーで戦うしかないのだから。
 背伸びでは届かない。私は自分の低身長を呪った。いや、呪ってはいけない、受け入れなくてはならない、そして問題の本質を理解しなくてはならない。そこを目掛けて、私は軽くジャンプをする。ちょうどよく、2つのそれが重なり合った。
これから新しい実験が始められそうだ。



《4》
 街中で偶然出会った最後の教え子の少女が高校生であると聞いた時、僕は時の流れの速さを実感した。新米教師だった数年前。教員をやめて早数年、気が付けばもう30も目の前になっている。人々の幸福のためにと教師になったものの願いは叶わずクビになり、今は会社で人の下で働く平凡なサラリーマン。身の丈に合わない巨大な目標を掲げて4年で破れた。こんなこと実現するにはそれこそ国家レベルの力が必要であり、個人でできることなんて皆無に等しい。それに僕はわからなかった、そして失敗した。自分を過信しすぎていた。僕にできることなんて、何もないのに。
 こんな失格人間は今、元教え子にジュースをおごっている。彼女は一番安いのを選んだ。良い子だと思った。小学生の頃はもっとおどおどした感じの子だったのに、やけに落ち着いていて、でもって表情が豊かで、それゆえに何を考えているのかよくわからない。さっきの出来事を思い出して、僕は頭の中で手を振ってそれを否定する。何かの間違えだろう。僕は彼女に、嫌われるようなことしかした覚えがないのだから。
 彼女はしばらく目を瞑り、やがて考えがまとまったのか、僕の目をじっと見つめてきた。
「先生、もう一度言わせてください。好きです」
 その目は真剣そのものだった。ゆえに恐ろしくかった。首になったとはいえ元小学校教師。法的に罪ではないが、世間は良くは思わない。これはタブーだ。タブーを犯した者は、いつの時代でも罰を受けるものだ。私は彼女のためにも、これを阻止しなくてはならない。
「卒業式のスピーチの時から、先生のことしか考えられなくなってしまいました」
「スピーチ・・・・・・ああ、いじめの話でしたっけ?」
「はい、そうです」
 その言葉がぐさりと僕の心臓を刺す。恐怖だった、彼女から恨まれても仕方がない。結果的に僕は彼女を助けなかった。本当は教師として、助けるべきだったと思う。それが、僕の仕事だったのだから。
「懐かしいですね。あれが原因でクビになったんですから、とてもよく覚えています」
「クビ・・・・・・噂は本当だったんですね」
 どうやら僕の解雇は噂になっていたらしい。厳しい先生が責任問題でクビになる。教え子たちはそんな僕を、バカにして笑って、すがすがしい気分に浸っているのだろうか・・・・・・もしそうだとしたら、僕は本当に何も、変えることができなかったのだろう。結局僕は無力だったのだ。微力ですらなく、無力だったのだ。
「はい。PTAで問題になって、それでそのまま。あ、再就職はしていますから、お気になさらず」
「それは、良かったです・・・・・」いったん黙ってから、また口を開いた。「あの、昔、いじめを一回だけなら助けてくれると、おっしゃいましたよね」
 また、心臓に刃物が刺さる。僕は無言でうなずくしかなかった。一回だけ、確かにそんな約束をしたことがあった。しかし結局何をしても何も変わらないのなら、何度でも助けてあげるべきではなかったのか。いや、もしかしたら、一回だけというのも正しいのかもしれない。ポテンシャルがあれば、その一回でその人の生命力を上げることができるかもしれない。しかし、ポテンシャルがなくても助けるのが教師というものではないのか。
「卒業式の日から、私もう、先生のことしか考えられなくて。それで、お願いです。人助けとして、私と交際をしてもらえませんか?」
 彼女が頭を下げる。どうして頭を下げるのか。これではまるで契約だ。この子にとって交際とはなのか。相変わらず、わけのわからない子だ。とりあえず、無難なアドバイスをしておこう。店長の視線が痛い。
「あなたはまだ若いのですから、こんなリスクあることをするよりも、もっと普通に恋愛したらどうですか?」
「いえ、若いからリスクを背負いたいんです。どうせ後2年でみんなとは別れるんですから。それなら、多少のリスクを背負っても、取り戻せます」
「たった一度だけの高校生活ですよ。取り返しは尽きません。リスクを背負いたいと言いましたが、普通の学校生活は試しましたか? 案外、普通の日々も楽しいかもしれませんよ。もっと冷静になってください」
「それは、たしかに可能性はありますが・・・・・・」
 彼女はうつむき、ジュースを手に取る。可能性・・・・・・僕は自嘲な笑いを漏らすしかなかった。可能性だけなら、何にでもある。僕が理想の教育者になれる可能性だって。問題は、どれくらい可能性が大きいかなのに。
 ――沈黙が長く続く。さっきの自分の言ったことを思い返してみるが、特に何かを言った覚えはない。ただ教師として、無難なアドバイスをしたに過ぎないと思う。まあ、もう教師ではないのだが。しかし、彼女はなぜ話さないのか。
 周りの音がやけに大きく聞こえる。彼女は依然として、うつむいたまま黙っていた。僕はふと彼女の机が不自然に濡れているのに気が付いた。最初は結露だと思ったが、違う。それは彼女から流れ出していたのだ。その時僕は事の大きさにやっと気が付いた。この子は本気で僕のことを好いてくれていたのかもしれない。その本気がどれくらいのものかは知らないけれど、少なくとも、音を出さずに涙を出せるくらいには、強い感情だったようだ。彼女は僕に見えないようにハンカチで目元を拭いてから、バッグを探る。おそらくティッシュを探している。しかし、見つからないらしい。僕はカバンの底に眠っていたティッシュを取り出す。一番上のけば立ったものを捨ててから、彼女に手渡す。
「良ければどうぞ」
「あ、ばい」
 鼻提灯をティッシュで覆い、控えめに鼻をかむ。少女の涙というものには不思議な効果があるようで、泣いている彼女を見ているだけで、この子を助けたいという思いが沸いてきた。さっきまでは、こんな人間とかかわるべきではないと言っていたにも関わらず。人助け、最初に彼女が言っていたのはこういう意味だったのか。僕でなくては、彼女を救えないのかもしれないのだ。そんな自分勝手な考えが雨雲のごとく、次第に僕の真っ白な脳内を占領していきしとしとと梅雨の雨を降らせた。
「・・・・・・先生」
「はい」
 とりあえず、まずは話を聞こう。
「私、中学に入ってから勉強をすごく頑張りました。賢くなれるように頑張りました。そして、幸せになれるように努めました。もっといい高校も通えたけど、ここにいれば先生と会えるんじゃないかと思い、この高校に来ました。高校生になってからは、ずっと、先生の言ったことを理解しようと、不幸について考えていました・・・・・・」
「それで、何かわかりましたか? 幸せになれる方法が」
「はい、私の幸せは、好きな人を幸せにすることです」
「・・・・・・はい」
 なら幸せとは結局何か。そんな問いかけは、今はまだする時ではない。
「先生。先生は今、幸せですか? それだったら、私はもう不必要です」
「そんなこと、言わないでください」
 不必要。自分で言うのは平気だが、彼女に言われると、鉛の塊を飲み込んだような気分になる。
「すみません。それで、先生は・・・・・・」
 幸せ・・・・・・結局僕は今になっても幸せとは何なのかよくわかっていない。今の僕に、幸福について語る権利はない。
「・・・・・・僕は未だに、幸せというものの定義がよくわかっていません。僕が幸せかと言われれば、幸せと言えば幸せだし、不幸と言えば不幸です」
「・・・・・・」
 少女は黙り込む。答えになっていない、あまりに幼稚な回答に、僕は自分の無能さを呪った。
「ですが、私はあなたが泣いているのを見て、不幸な気分になりました。言ってしまえば私の幸福は、あなたが笑顔でいることだと思います。ここで最初の質問に答えます。人助けをしてくれないか、でしたね」
 彼女はこくりと小さく頷く。涙目で顔を赤くして、目をキラキラと輝かせながら、僕の目をじっと見てくる。僕は目を瞑ってしばらく考えた。
 よし、腹を決まった。人類の幸福なんていう壮大すぎる難問には僕は無力だった。しかし、この目の前の少女だけなら、僕は幸せにすることができるかもしれない。それは結局僕の自信過剰な試みに過ぎないかもしれない。それでも僕は、それを試してみたいと思った。何より僕はもう、彼女が泣くところは見たくないのだから。
「最後にもう一度訪ねますが、本当に僕で、良いのですか?」
「はい」少女は素早く、そして確実に首を縦に振った。
ため息を一つついて呼吸を整えてから、僕は彼女に返事をした。
「よろしくおねがいします」



《エピローグ》
 学校というものは私にとって実験場に過ぎない。人間がいかに動いていくか。その人の宿命に応じてどのように動いていくのか。それを調べるところが学校だ。私は科学者、みんなはモルモット。また私は、私の行為が周りにどう影響していくのかにも興味がある。そしてその影響は、どれくらいが私によるもので、どれくらいがその人によるものなのかにも。
 コソコソ、コソコソ、私が学校に入るだけで、周囲の人は時々陰口を言い出す。なるほど、これが川越さんたちの気持ちか。イレギュラーたるもの、そこにいるだけで周りから噂をされてしまうもの。彼女が朝早く学校に来ていたのもこれで納得だ。
 でも、私はそれをしない。悪口を言う理由は私だけにあるのではなく、その人自身にもある。よってそこからその人の幸福度を測定できる。それが、その人の人生をどうしていくのかに、私は興味がある。
 教室に入る。一瞬私の方を見た後で、誰もが目を逸らす。面白い、小学生の頃は嫌だといっても絡まれたこの私に、今は誰も近づこうとさえしないのだから。
 席に着き、私はメールを確認する。メールなんて前は三日に一回くらいしか見なかったのに、最近はことあるごとに確認してしまう。受信数2、私はすぐさまそれを確認する・・・・・・一つは川越さんからだった。
「前はありがとう。何かあったら、相談に乗るよ」そんな短いメッセージ。私は心の中で川越さんに感謝した。ありがとう。でも、今は必要ない。むしろ、昔みたいにいじめてほしい。それがきっかけとなって、周りは幸福度に従ってどう動いていくのか、私はそれに興味があるのだから。
もう一つは、久住さんから。「水曜日の午後は空いています」そんな短く簡潔なメールを読んで、私は素早く携帯の電源を落としてカバンにしまう。そして、目を抑えた。疲れ目のふり。本当は、顔を見られたくないから。
ああ、水曜日。何をしよう、どんな服を着ていこう。思い切って、一番かわいい服で? それとも、無難な服で? ・・・・・・ああ、いけない。目を瞑っていても、スマホをカバンにしまっていても、こんなことを考えているだけで口元がゆるんじゃう。

 幸福とは何か。そして幸福というものは他人がコントロールできてしまうものなのか。私はそれが知りたい、それは他ならぬ私自身のため。私には幸福にしたい人がいる。だから、それが可能なのかどうかを、私は知りたい。
 私は科学者、みんなはモルモット。私の行為が周りにどう影響していくのかを実験している。その影響から、当事者の幸福度を測定し、それが人生をどのように動かしていくのか、それを研究している。
 今日から二年間、私はこの研究に青春をささげるつもりだ。

-FIN


あとがき