3度目の初恋

 初恋の人を好きになった理由、というのを覚えている人がどれくらいいるのだろうか。僕はとてもよく覚えている。小学6年生の時、同じクラスだった市村真奈さんに僕は恋をした。正義感が強くて、悪い子には悪いとはっきり言う、そんな意志の強い人だった。自分の中に正義をしっかり持っている、そんな人だった。僕は市村さんのことを尊敬し、同時に好きになった。僕にとって人を好きになることはその人を尊敬することだ。
 よく、背が低いから好きだとか、顔がかわいいから好きだとか言う人がいる。そんな人々を僕は軽蔑している。見た目なんて整形でいくらでも変えられるのに、そんなものを信じるなんて僕にはその人の気が知れない。人間やっぱり内面だ。歳を取って顔がしわくちゃになっても、その人の輝く内面はいつまでも残り続ける。外見はまやかしにすぎない、僕はそんなまやかしに騙されずその人の本質を見られる人になりたいと常々思っていた。
 畑の間を車で揺られながら、懐かしい我が家に向かっている。ここに来るのは3年ぶりだ。卒業数週間前に突如と決まった父の転勤と引っ越しは当時の僕を大いに驚かせた。皆と同じ中学に行き、高校も同じところに行くと思っていたシナリオがその時崩壊した。僕は焦った、そして特に準備もせずに勢いだけで市村に告白したのを覚えている。……市村は何も言わずに去ってしまった。その後確認しようと思ったものの、結局聞く勇気が出なくて、引っ越しのことも親友の浩一以外誰にも言わずに僕はこの町から姿を消した。……あの時僕は振られたのだろうか、それは今でもわからない。ただ、恥ずかしさで俯いていた僕の額に柔らかいものが触れたことだけは鮮明に覚えている。その記憶だけで僕はこれまで、彼女に振られたとするのは早計であると思い続けてきたと言っても過言ではない。
 ――見慣れた家が目に入る。3年経てば何もかもが変わってしまうと3年前の僕は思っていたが現実の変化はもっとゆっくりとしたものらしい。見慣れた風景の中に見慣れた我が家がぽつんとある。ガレージに車を入れて、僕はシートベルトを外して車の外に出た。土と畑の匂いが僕の鼻をくすぐった。格好は昔のままなのに、3年経ったこの場所はすでに自然の一部となっているように思えた。
 車に積まれた荷物を僕ら一家は運んでいく。車が到着した1時間後には大型トラックが残りの家財道具を運んできて、引っ越しはひとまず終了した。段ボールの積まれた自室の窓を開けて僕は景色を眺める。なんの感動もない、見慣れた景色。細部が多少変わったくらいで、特に大きな変化はないらしい。今日からここが僕の暮らす町、なんて頭のなかでドラマチックに演出してみようと努力するが、本当に何も感じないのだ。それくらいこの町は僕にとって当たり前で大切な存在だったらしい。
「おーい!」
 2階から町を眺めていたら、下の方から男の声がする。声だけではわからなかったが、顔を見るとすぐさま分かった。青木浩一、ここから自転車で5分くらいのところに住んでいる友人で、小学校に上がる前からよく一緒に遊んだ親友だ。僕はそいつに向かって小さく手を振った。
「健、本当に帰ってきたのか!」
「うん! てか電話で言ったよね」
「うん、聞いたよ。でも……本当に帰ってきたんだな。高校はK高校だよな?」
「そうだよ。受験でも会ったじゃん」
「うん、会った会った。考えてみればつい先月の話か。もっと大昔のような気がするよ」
「はは……上がっていく?」
「うん。上がらしてもらう」
 浩一の姿が屋根に隠れて見えなくなり、インターホンが家に響き、母と浩一のやり取りが1階から聞こえる。その後、僕の部屋に浩一が参上した。
「お……変わらないな。この部屋も、お前も」
「浩一も変わらないね」
 3年ぶりの旧友との再会に、僕らはお互い笑いあった。

 南中した太陽が周囲をギラギラと照らす。田んぼがキラキラと輝く様子が僕の部屋からよく見える。母が持ってきたおやつを食べながら、段ボールの片づけをしながら僕は浩一との会話を楽しんでいた。
「春から一緒の学校か……なんか、変な感じがするよ。さっと消えた癖にさっと戻ってきやがって。俺の中学校生活の思い出にまで健がいるような気がする」
「なにそれ。僕は向こうで、友達のいない寂しい中学校生活を過ごしていたよ」
「はは、とか言って健のことだから向こうでも普通にうまくやっていたんじゃないか? 手紙やメールだって、ほとんど年賀状しかよこさなかったじゃないか」
「まあ、上手くやってはいたけど、こっちに戻ってきても付き合いそうなやつは1人もいないと思う。年賀状も、多分出さない。僕の居場所はここだって、帰ってきて心から思った」
「そうか……」
 浩一と一緒に段ボールをのんびりと開けていく。部屋の片づけが終わったら僕は下で手伝いをすることになるだろう。そっちの手伝いまで浩一にさせるのはきっと母さんが許さないから、部屋の片づけが終わった瞬間に浩一はお邪魔虫と化して帰ってしまう。僕はそれが嫌で、こうしてのんびりと段ボールを開けている。
 開けた段ボールには卒業アルバムなどの小学校時代の思い出がどっさりと入っていた。僕は、これは使えると思って浩一を呼ぶ。
「ねえ、見てよこれ! 懐かしいよね」
「ん? ……おー、卒アルじゃないか。それに文集も。こっちのアルバムは?」
「僕のアルバムだね。でもほとんど小学校以前のだと思う。開けていいよ」
 浩一にアルバムを渡して、僕は卒アルを開く。向こうにいた時でも時々開いていた卒アル。見慣れた写真だけれど、何度見ても不思議と飽きない。見るたびに懐かしさがこみあげてくる。
「はは、浩一、幼いね」
「まあ、3年以上前の写真だもんな。こうしてみると、俺たち結構変わったな」
 浩一のいる写真を探しては見て懐かしむ。その中に1つ、幼い浩一が運動会でダンスを披露する写真があった。浩一だけでなく、当時の学校の友達が何人か映っている。その中には市村の姿もあった。市村は小6当時で160cmくらいあった背の高い大人びた女子で、写真ではよく目立って探しやすい。僕は市村の隣にいる浩一を見て、浩一に思わず嫉妬してしまった。市村よりも頭半分ほど背の低い浩一。浩一と僕は当時から同じような背丈だったので、ここに僕がいればと思って自分の姿をそこに置換してみる。……無益な行為に小さなため息が出た。
「何をそんな真剣に見て……て、俺の写真かよ。俺と、その両隣が市村と白井か。市村……はは、そういえばこれくらいだったな。懐かしいな」
「ん、懐かしいって、何が?」浩一の言いぶりに違和感を覚えて咄嗟に聞き返す。すると浩一は少しの間首を傾げてから、はっとした表情になった。
「ああ、そうか。健は知らないもんな。市村はなー……いや、こりゃ後の楽しみにした方がいい。入学までのお楽しみ、ってあれ? お前、受験の時市村と会わなかったのか?」
「うん、会っていないはず。何人かとは会って話しもしたけど、健とも。て、ちょっと待って、市村もK高校なの?」
「ああ、そうだよ。おかしいなあ、あんなに目立つ奴が……あ、思い出した! あいつ、当日インフルエンザになってその後追試で受かったんだよ。そうだそうだ、いやー、あんな奴でもインフルかかるんだって皆びっくりしてた。まあ、運動とかできないタイプだったし納得はできるけどな」
 僕は浩一が語っている様子を、胸がざわめくのを必死に抑えながらじっと聞いていた。4月から市村と同じ高校であるということに歓喜し、自分が知らない市村の情報を良く知っている浩一に嫉妬し、同時にぬぐい切れない違和感に困惑している。
「あ、自分だけ盛り上がって悪い。まあ、入学式になればわかるよ。きっと、市村を見てびっくりすると思う」
 腕を組んでうんうんと頷きながら納得する浩一を僕は無意識に睨みつけていた。すぐに目つきを直し、僕は軽く深呼吸をする。まだ胸はざわついているけれど、少しはましになった。
「なに、そんなに変わったの、市村?」
「うん、変わったね。見たらびっくりするよ」
「つまり、外見が変わったと」
「うん? まあ、そうだけど。中身は良くも悪くも小学生の時から変わっていないよ。結構はっきり物を言うタイプで、でもって無邪気でおせっかいで。本当、小学生のまま体だけデカくなったって感じ」
 その浩一の言葉に僕はほっとする。僕にとって外見なんてどうでもいい。たとえ市村がヘビメタでピアスを付けていたとしても、僕が尊敬していた市村の内面が保持されているのならどうってことはない。と同時に、外見の変化を囃し立てる浩一を僕は心の中でひっそりと軽蔑した。僕はそんなものには惑わされない。
「……よし、これで段ボールは全部開けたかな?」
「うん、手伝ってくれてありがとう」
「いいよいいよ。それに、まだ家の方がたくさん残っているだろう。俺は邪魔にならないように帰るよ。じゃあな!」
 浩一は部屋から出て行く。僕は窓から身を乗り出して、浩一が家の前に現れるのを待った。お邪魔しました、と下から声がして、やがて屋根の下から姿を現す。浩一は地面から部屋の僕に向かって手を振った。こうして僕らの再会のひと時は終わった。

 引っ越しの片づけをしたり、高校入学の準備をしたりと忙しい数週間だった。そして僕は今日から高校生になる。それも、この少年時代を共に過ごした地元で高校生活という青春の日々を送ることができるのだ。僕は新品の制服に身を包んで高校の校舎を目指す。胸が高鳴り同時に緊張しているのが自分でもわかる。新しい環境に対する緊張と同時に、小学生以来の友人との再会を楽しみにしていた。皆、どうしているんだろうか。当然のことながら、3年という月日は長いもので、性格が全く変わってしまっていても不思議ではないだろう。見た目の変化は慣れればどうとでもなるが、内面の変化を受け入れるのは時間がかかるかもしれない。そう思うと僕の心中に今後の生活に関する一抹の不安がよぎる。しかし、考えても仕方がない。僕は3年間、充実した高校生活を頑張って構築しようと心に決めた。
「よう!」
 男の声、僕の口角が小さく上がった。ここで親友に出会うとは。僕はゆっくりと振り返る。入学式初日からいつものように騒ぐ気にはならなかった。浩一の隣には女子もいて一瞬驚いたが、よく見たら知っている顔だ。
「おはよう浩一、あと白井京子さん」
「なんでフルネーム? まあ、別にいいけど。荒井くん久しぶりー、身長伸びたねー」
「まあ、俺も伸びたけどな」
「まあそうだけど、荒井くんは小学校の時で記憶が止まっているからさ。高校はこっち通うんだ、3年間よろしく」
「うん、よろしく」
 白井にそう言いながら、僕は白井の周囲に注目した。彼女は市村と仲が良かった、今もそうかはわからないけれど、白井と一緒登校していてもおかしくない。僕は周囲を確認する。しかし、市村の姿はなく僕は肩を落とした。
「あ、もしかして真奈のこと探している? 荒井くん、真奈のこと好きそうだったもんね。……ねえ、もしかして、今も好き?」
 急に図星を付かれて、僕はしばらく硬直してしまった。白井の言う通り、僕は小学校の時から今まで市村のことが好きなのだ。中学校の時に少し浮気しそうになった時期もあったが、その子の嫌な一面を見つけてすぐに冷めた。やっぱり僕には市村しかいないと、あの時確信した。
 意地悪そうに微笑を浮かべる白井を見下ろして、僕ははっきりと頷いて見せる。白井の目が大きくなり、同時に頬が赤くなる。
「あ、素直。きゃー! でもー……」
 突如白井の表情が硬くなった。これで2回目だ、浩一の時も市村の話をすると微妙な反応をされた。白井は心配そうな表情を僕に向けてくる。しかし僕はそんな彼女に冷静に対処する。
「もしかして、市村の外見が変わったっていうことについて? 浩一からも聞いたよ、詳細は知らないけど。でも大丈夫、僕は内面重視だから」
「あ、知ってた? まあ、会えばわかるよ。そっかー、もしかしたら荒井くんと真奈がカップルになっちゃうかもしれないんだね……ねえ荒井くんていま身長いくつ?」
「え?」唐突な質問に僕は戸惑う。「えーと、170くらい。もう少しあるかも」
「俺よりは少し高いよな」
「ねー。170か、うんうん……あ!」
 軽く俯いて考え事をしていた白井が不意に声を上げ、右手を上げる。「ねえねえ! 真奈来たよ。やっほー! おはよー」
 白井が僕の後ろに向かって手を振る。僕の身体がまた硬直した。今までの2人との会話の内容を全て忘れ、今から起こる事に全意識が集中された。
「やっほー彩名ちゃん! あと青木くん。あと……ん?」
「へへ、誰かわかる?」
 僕は初対面で変なところを見せまいと、心を落ち着かせてから冷静に振り返った。……僕の目の前には女子の制服の蝶ネクタイがあり、その下にわずかな凹凸が目に映り、慌てて視線を逸らす。初っ端からやってしまったと思った、それから僕はすぐさま彼女の顔を見上げた。
「あ、もしかして荒井……健くん? うわー、久しぶりー! 一瞬誰かわからなかったよー」
 僕の記憶にあったのは小学生の頃の市村。いま僕の目線の先には、高校のブレザーを着た市村が僕を見ている。……この前浩一が言っていたことを思い出す、小学生のまま体が大きくなっただけだと。当時の面影をそのまま残した彼女が僕を見ていた。彼女に何かを言おうと思った。しかし口が開かなかった。予想外の事態に直面した衝撃が僕をフリーズさせていた。浩一と白井が言っていたのはこの事かと冷静に分析している別の自分がいる。
 3年ぶりに再会し、『成長した』彼女を見て、僕は全く動けなくなってしまった。……懐かしい彼女の顔がはるか遠くに感じてしまう、それは物理的な距離に加えて精神的な距離によるものもあるのではないかと思ってしまった。僕はしばらく呆然と、市村の顔を見上げていた。市村はきょとんと首を傾げる。
「ん? もしかして健くん、私の事、忘れちゃった?」
「そんなわけないよ! さっきまで真奈のこと話していて、そしたら真奈が参上したからびっくりしているだけ」
「うわー! 呼び寄せの法則ってやつだね!」
 無邪気に喜ぶ市村、盛り上がる女子2人。浩一の言っていた通り、体が大きくなっただけで中身は何も変わっていないのかもしれない。小学生の時のような光景がそこにある。……首がずきずきと痛み始める、その痛みで僕はやっと我に返り、慌てて市村に挨拶をする。
「あ、おはよう市村。忘れていないし、ちゃんと覚えている。市村もK高なんだよね、一緒だね」
「そうだよー。ほら、K高の制服、彩名ちゃんと一緒」
 ブレザーの襟に手を添える。白井の制服をそのまま大きく長くしたようなものがそこにはある。今日から市村とは同級生、それを考えると嬉しくなった。しかし、心の底からこの状況を喜べない自分がいるのも確かだった。
「ねえねえところで荒井くん、真奈を見て、何か小学生から変わったなって思わなかった?」
「おいおい、なんだよそのクイズ。まあ、これが今まで隠していたことだよ。びっくりしただろう」
「ん? 何のこと? てか、なんか私だけ健くんがこっちに戻っているってこと知らなかったの?」
 浩一らが隠していた市村の秘密、そんなこと、考えるまでもない。答えは目の前にあるのだから。市村は、身長がとても伸びていた。小6当時から背の高かった彼女だが、誰がここまで成長するなんて予想できただろうか。実際、僕は現在170cm以上あるが、今でも市村に背を抜かされているなんて思っていなかった。むしろ、小学生の時よりも差が広がっているのではないだろうか。……高校生の男女らしい身長差で並んでいるものと勝手に予想していた。それなのに、今は僕の目の前に市村の胸があり、頭一つくらい市村の方が背が高くなっている。
「えーと、多分……身長のことだよね?」
「正解! ねえ真奈って身長いくつあるの? どうせまた伸びたでしょ」
「えー、そんなの測らないとわからないよー。まあ、ちょっと伸びた気もするけど。高校でも伸びるかもって、制服も大きめに作ったし」
 肩を動かして余った袖を引っ込める。市村の大きな体よりもさらに1回りほど大きい制服が彼女の身体を覆っている。中学生の男子ならこういう格好もかわいらしく見えたことだろうが、女子高生がやると不格好に見える。市村は格好を軽くただしてから、にこりと笑って僕を見下ろした。僕は胸が軽く締め付けられるのを感じた。
「えー、じゃあ改めまして健くん。高校ではよろしくね」
「う、うん。市村真奈さん……よろしくお願いします……」
 僕は彼女の前で深々と頭を下げる。友人同士でこんなに丁寧にあいさつする必要なんてない、それなのに僕の身体が勝手にそう動いてしまった。こんなやりとりよりも、僕にはもっと話したいことがたくさんあったのだ。卒業式の前の告白の話とか、今の気持ちとか、中学校生活のこととか、色々。しかし、今は何も話す気になれなかった。
「じゃあ、そろそろ高校向かおうか。まだ時間はあるけど、歩きながらでも話せるじゃん」
 白井が先頭に立ち、4人でそろって高校に向かう。市村の長身はとても目立ち、彼女を見つけた旧友が僕らに手を振り、そして僕を見て目を大きくした。友人との再会に僕は一々喜んだ。中には受験の時すでに僕がこちらに来ることを知っているのもいたが、みんな僕を温かく出迎えてくれた。地元に戻ってきてよかったと心から思った。それなのに……僕の何かが、時間が経つごとに壊れていくのを感じた。

 クラス分けが書かれたプリントを校門で受け取る。僕はまず自分の名前を探した。C組に自分の名前があった。次にC組の名前を上から順にたどっていき、青木浩一を見つけ、そのそばに市村真奈を見つける。白井彩名はC組にはおらず、隣のB組にいた。
「あー、なんかうちだけ仲間外れって感じ」
「彩名ちゃんと別れちゃったー……まあ、教科書とか交換できるからいいよね!」
「確かに、そういうメリットもあるかも!」
 女子が盛り上がっているのを尻目に僕は浩一とC組に向かう。僕は何も言わずにその場を立ち去った。……今は、市村の近くにいたくなかった。
 入学式の頭の中は今朝の出来事で圧迫され、来賓や校長、学年主任の話なんて全く頭に入ってこなかった。僕は呆然と椅子に座っていた。胸が終始ざわざわとしていた。入学式が終わり、周囲の生徒が起立する中で僕だけワンテンポ遅れて立ち上がる。そして出席番号の遅い方から退場する。そしてその時僕は、うちのクラスでは出席番号順で荒井のすぐ後ろに市村が来ることを思い出した。退場するとき、僕の目の前には彼女の巨大な背中がある。僕はそれを見て……恐怖してしまった。
 教室に戻ると担任の先生が色々と話し、午前中で下校になる。入学式と言えどもみんな顔見知り、普段よりも早い終業に、これからどうしようかと盛り上がっていた。そんな中で僕はそそくさと席を立ち、前のドアから教室を出て行った。早く1人になりたいと思い、小走りで廊下を走り下駄箱の靴を出す。
「おい健、一緒に帰らないか?」
 あわただしく外履きに履き替えながら浩一が僕の背中に話しかける。僕は振り返ることなくこくりと頷く。本当はこんなことはしたくない、もっと皆と仲良くほのぼのとした入学式を、旧友との再会をしたかった。久々に会ったにもかかわらず淡々としか反応しない僕を見て皆、僕が変わってしまったと思っただろうか。そんな風に思われたとしたら心外だ、それなのに僕は、今はただ1人になりたいと思った。
 浩一に誘われて仕方なく僕は一緒に帰る。僕はゆっくりと歩いて、浩一も僕の歩幅に合わせてくれる。歩いていると、段々と気分が落ち着いてくる。さっきまでの尖った僕はすでにおらず、いつも通りマイペースに花見をしながら下校する。
「なんか、用事でもあったのか? やけに急いでいたけど」
「いや、そういう訳じゃないけど、なんとなく」
「もしかして、市村のことか?」
 少し悩んで、僕は素直に頷くことにした。嘘をついたところで何にもならないのだから。
「はは、まあ、びっくりするよな。詳しい数字は知らないけど、***はあるだろう。小学生の頃からデカかったのに、中学でもにょきにょき伸びてさ、みんな驚いていたよ、宮崎なんかはよく嫉妬して絡んでいたな。まあ、本人はあまり嬉しそうじゃなかったけど。おしゃれができないとか、小さい方がかわいいとか、良く嘆いていた気がする」
 市村のことを語る浩一に対して、以前と同様の嫉妬心が湧いてくる。自分も浩一と同じくらい市村を良く知りたいと思った。しかしそんなチャンスをさっきの僕は自ら手放した。それを思い返して悔しくなり、同時に胸が締め付けらる。
「にしても、背の高い女子って男よりも大きく見えるよな。まあ、市村はデカすぎだと思うけど。それでも、中2の180cmくらいで俺はあいつを2メートルはあるって本気で思っていた。女子の高身長は男の高身長よりもデカく見える」
 浩一が1人でしゃべっている最中、僕は俯きながら適当に頷くことしかできない。途中、浩一が背中を曲げて僕の顔を覗き込んできた。
「もしかして健……失恋したのか? まあ、3年もあれば人は変わるよ。3年ぶりに会ったら好きな女の子の身長が30cmも伸びていたなんて、まあそんな風になっても仕方ないよな」
「ち、違う!」
 喉から声が飛び出す。浩一がぎょっとする。僕は小さな声で謝ってから、今の気持ちをそのまま話す。
「別に市村の身長が伸びたから嫌いになったとか、そういう訳じゃない……と思う。僕はただ……ああ、ごめん、1人にして。なんか、色々なことで頭がごちゃごちゃになっている。気持ちの整理がつかない。ただ、僕は別に背が高くなった市村を嫌いになったわけじゃない。ただ、僕の感情が追いついていないだけで……」
 僕らの間が、しんと静まり返る。トットット、という駆け足の足音が響いていることに気が付く。僕は足音のする方をなんとなく見て、再びさっきと同じ胸の痛みを感じた。
「健くーん!」
 手を振りながら早歩きで向かってくる女子。彼女の名前は市村真奈、さっきまで浩一と話題にし、今なお僕の脳内の9割を圧迫しているその人本人だった。
 市村の身体が徐々に大きくなっていき……やがて、僕の視界を埋め尽くす。そんなに距離が近いわけでもないのにそうなってしまう。それから市村の顔が僕の目の前まで降りてきた。
「健くん、なんか元気ないけど、大丈夫?」
 首を傾げる彼女。何も言わずに去った僕をわざわざ追ってくれる優しい彼女がそこにいる。僕は彼女に余計な心配をかけまいと、笑顔を作って頷いた。
「うん、大丈夫。ありがとうわざわざ気にしてくれて。なんか……ちょっと疲れたみたいで。引っ越しとかで忙しかったから、そのせいかな? とりあえず、大丈夫だから。ごめんねわざわざ」
「そう? それならよかった」
 目の前にあった彼女の顔がすっと上昇していく。僕はそれを見上げるために首を大きく反らせた。市村は振り返り手を振ってくれて、その先には白井ともう1人の女子が市村の戻りを持ってこちらをうかがっていた。
「じゃ、健くんまたね! 青木くんも」
「うん、また明日」
 市村が大きく手を振り、僕は振り返して別れる。そして作られていた笑顔が瞬時に無表情に変わり、忘れていた胸の痛みを思い出した。さっきまでの混乱が再び僕の頭をかき回す。
「楽しそうに話せたじゃないか、良かったな」
 ぽんと肩に手が添えられる。浩一は微笑を浮かべて僕を見ていた。違う、楽しくなんかなかった。僕は演技をしていただけだ。その証拠に、まだ遠くの方に見える市村を見て僕の胸が一層きゅっと痛くなる。
「なんか、また顔色が悪くなったな。疲れているんだろ、今日は早く寝るんだな」
「いや……疲れてなんていない、市村に言ったのは嘘だよ」
「は?」浩一が、意味が分からないといった表情を僕に向けた。
「市村を心配させないための嘘だ。僕は疲れてなんていない、でも、心が苦しい……なんとなく、自分が壊れていくのを感じる」
「よく分からない」
「うん、わからないと思う。自分でもわからないから。……今朝も言ったけど、僕は小学生の時から市村が好きだった。再開した今も好きだ。それは変わっていない……と思う。でも、市村と再会して、変わった彼女を見て、なんというか……自分が好きになる資格があるのかが分からなくなってしまった」
「資格?」浩一が少しの間考えてから、大きくため息をついた。「……資格なんて、そんなものが必要なのか? 好きなら好き、嫌いなら嫌い、それだけじゃないのか?」
「うん、浩一の言いたいこともわかる。でも、僕は小学生の頃から市村が好きだった、4年間も好きなんだ。その理由もずっと変わっていない。だから……ごめんは、上手く言えない」
「うん、1人で考えろ、俺にはわからない。相談なら乗るから……とりあえず、今日はしっかり休めよ。疲れていると言ったのは嘘だなんて言っていたけど、引っ越し明けの入学式、3年ぶりの友達との再会、変わったやつもいれば変わらないやつもいる。そんな情報の波に飲まれたら疲れるのも当然だろう。お前、疲れているんだよ。ほら、倒れないように家まで送るから……といっても、通り道だがな」
 浩一は僕の背中を押さえながら一緒に帰ってくれた。僕の家につくまでの間、僕らはほとんど話をしなかった。最初は浩一も色々他愛もない話を吹っかけてくれたが、僕が淡々としか反応をしていなかったら何も話さなくなった。彼なりの気遣いだろう。普通なら僕らは話題を見つけては最後までおしゃべりを楽しむ。でも今は、僕は何も話したくなかったし、考えたくなかった。僕にとってもっと重要なことが心の奥底でうごめいていた。
「じゃあ、健。またな。明日も学校で会おうな!」
 最後にそう言って大きく手を振っていく浩一に、僕は小さく頷きながら手を振り返す。そのやり取りにさっきの市村を思い出し、胸がチまたクリと痛んだ。それから僕はただいまも言わずに自分の部屋に入り、部屋着に着替えて布団に入る。心の奥底でうごめいていたものが眠気を誘い、そのまま夢の世界へと落ちていった。

 空腹を感じて目を開けると、外は真っ暗だった。スマホで今の時刻を確認すると、僕は表示された時刻を見て目が覚める。午前3時30分、昨日は家に帰ってそのまま布団に入ったので、12時間近く寝ていたことになる。寝すぎのせいか、軽く頭痛を覚えた。
 部屋の電気をつける。照明に目が眩み、僕は思わず目を閉じてしまう。光に目が慣れるまで、僕は目を閉じて昨日のことを思い返してみる……思い出した、昨日は高校の入学式で、市村と再会して色々と衝撃を受けて、その後浩一に相談に乗ってもらって、家に帰ってすぐに寝たのだ。……言葉にしてしまえば、案外単純な1日だった。昨日は相当苦しんでいたと思うが、12時間も寝たら頭がすっきりした。
 僕は薄目で部屋を出て、廊下の電気をつけてから部屋の電気を消しリビングを目指す。冷蔵庫を開けると自分の分の夕食がラップに包んで置かれていた。僕は親に感謝しながらそれを完食し、その後シャワーで体を洗った。全てが終わる頃にはリビングの時計の針は午前5時を指しており、外はまだ暗い。僕はシャワーで火照った体のまま部屋に戻り、椅子に座って脱力する。
 自室で一息ついていると、昨日のことがより鮮明に思い出されてくる。浩一との口論、市村との再会、そして何より、市村とほとんど何も話さなかったことへの後悔が僕の胸をきゅっと苦しめた。話したいことはたくさんあった、小学生の時の出来事だったり、今の僕の気持ちだったり、中学校生活のことだったり。
 どうして昨日の僕はあんなにも落ち込んでいたのだろうかと一瞬不思議に思う。しかし理由は明快だった、1日が経過して、それを言語化できるほどに頭は整理されていた。僕は市村の高身長に驚いた、そして自分が初めて出会った大きい女性という存在に本能的に恐怖した。しかし、一番恐ろしかったのは、僕自身がそれを理由にして市村のことを嫌いになってしまいそうになったという事実だった。
 初めて市村に恋をしたときのことを思い出す。当時小学6年生の僕は、5年生のいじめを目の前にして黙っていた。いじめといっても、背の高い子が背の低い子から筆箱を取り上げて、背の低い子の届かないところに取り上げたものを置くというような、今の僕からしてみればかわいらしいいじめだった。しかしいじめられていた子は本気で嘆いていた。物を取ろうと飛び跳ねるのを見て、背の高い子はにやにやと笑っていた。僕は上級生として、いや人としてそのいじめを止めるべきだった。しかし、その背の高い子は下級生ながらも当時の僕よりも背が高かった。いじめを止めに入れば怪我をするんじゃないかと思い、僕は自分が正しいと思ってもその行為ができなかった。僕は臆病者だった。
「こら!」その時女子の高い声が辺りにこだました。そして彼女は筆箱を取って、軽く屈んで背の低い子に優しく手渡した。そして笑顔でその子にこう言った。「はい、これ君のだよね。困った時はいつでも言ってね、助けるから」
 その後彼女は振り返り、背の高い子の前に立ってはっきりとこう言った。
「いじめは良くない! いじめっ子の君は、とてもかわいそうな人だよ」それから彼の肩を両手でぽんと叩いて「悩みがあるならお姉さんに相談してね。いつでも乗るから」
 そして彼女は笑顔で2人に手を振り颯爽と去っていった。5年生2人は嵐のように現れて去っていく彼女を見てぽかんとしていた。それから2人は何も言わずに一緒に帰っていったのがまた印象深かった。
 その時僕は市村に恋をしたのだ。僕は最初から最後まで隠れていじめの様子を、市村が助けに入る様子を見ていた。ただ見ていただけだった。僕は臆病だった。いじめていた5年生の男子は、校内でも有名な大男で、市村よりも背が高く、5年生にして170cmくらいあったと思う。当時150cm未満の僕からしてみればとても大きく見えたし、市村にとってもそうだったと思う。しかし市村は、そんな男子に対しても怖気ることなく、いじめを止めに入った。しかも、上級生だから止めに入らなくてはならないというような義務的な動機ではなく、『いじめは良くないから』という彼女の倫理に沿った行いとしていじめを止めたのだ。
 僕はそんな市村の姿に感動し、尊敬し、一目ぼれした。市村みたいな人になりたいと思った。そしてその翌日から僕は彼女から目が離せなくなっていた。彼女のことで頭がいっぱいになっていた。
 ……あの出来事がきっかけだった。僕にとって人を好きになることはその人を尊敬することだ。小学6年生にもなれば恋をする同級生も増えてくる。普段の学校生活で僕らは時々好きな人を話題に上げた。いると言えばその場が盛り上がり、いないと言えば白けるか照れ隠しと言われるかだった。ある時僕は宮崎という、運動神経が良く明るいクラスの人気者に市村が好きだと話した。当時は秋に差し掛かり、卒業を意識し始めるころだった。当時の僕は、卒業までに市村に告白しようと焦っていた。中学生になったら何かが変わって、距離が遠くなってしまうと思っていたのだ。しかし勇気が出せずにいた。そんな時宮崎と恋の話になり、こいつなら相談に乗ってくれるんじゃないかと思い僕は自分の思いについて話した。その時の返事を未だに僕は頭の中で再生することができる。
「え、市村? あのデカ女が好きなの?」
 宮崎は確かにそう言った。デカ女、それは時々市村が言われていたあだ名のようなものだった。デカい女だからデカ女。続けて宮崎はその理由を僕に尋ねてきたので、僕は彼女の尊敬できる点を思いついた順に述べた。その時のことはあまり覚えていない。勇気を出して宮崎に話して、予想外の反応をされてショックを受けていたのは覚えているが。
 宮崎は僕の話をつまらなそうに聞いていた。普段、そういう感情を露骨に表に出すようなやつではないが、その時の宮崎はどこか不機嫌だった。そして僕が話し終わると宮崎は一言、「俺は自分より小さい子じゃないと嫌だな」と言った。
 見た目で人を好きになる人がいるというのは当時の僕も知っていた。それは、漫画だったり、友達の恋バナだったりで情報を入手していた。そして僕は世間のそんな風潮を否定していた。美人は三日で飽きるという諺がある。容姿なんて整形で簡単に変えられる、保健の教科書で、薬物で顔がただれてしまった美人の写真を見たことがある。そんなもので人を好きになるなんて、その人に失礼だと当時から僕は思っていた。――

 外が薄っすらと明るくなってきた。スマホで時刻を確認すると5時30分。朝がやってきた、今日も1日が始まる。僕は椅子から立ち上がって伸びをする、体がポキポキと軽い音を鳴らす。昔のことを思い出していたら、何となく心が落ち着いてきた。そして自分は今でも市村を好きなのかと改めて自問してみる、答えはすぐに出た。好きだ。昨日のことを思い出して僕はそう結論付ける。彼女の優しさが、彼女の意志の強さが好きだ。そして昨日はただ、予想もしていなかった彼女の変化に驚いてしまっただけだろう。しかしそれは見た目の問題、中身は変わっていない。見た目の問題ならそのうち慣れることだろう。
 ……刹那、自分の思考にはっとする。美人は三日で飽きるという。僕は咄嗟にスマホでその諺の意味を確認してみた。当然意味は知っていたが、きちんと辞書で確認したい衝動にかられた。検索するとそこにはその諺と一緒に『ブスは三日で慣れる』と合って僕は思わず息を飲む。決して市村をブスと思っているわけではない。ただ、見た目だけの問題は結局時間が経てば慣れてしまうのだ。そうだ、少しの辛抱だ。市村の変化に慣れてしまえば、もうそんなことは問題ではない。市村が変わったのだから僕も変わらないでどうする。
 部屋に朝日が差し込み、同時に気温が下がる。さわやかな朝がやってきた。時刻は6時、朝食が出来上がるまでまだ時間がある。それまで何をしようかと考えて、僕は筋トレを始める。将来男として市村を守るために、体を鍛えておいて損はないと思ったのだ。僕はスマホで筋トレについて検索し、良さそうな動画を片端から視聴してはトレーニングをした。普段運動をしない僕にとって筋トレはかなり疲れるものだったが、市村のことを考えると頑張ることができた。

 早朝を筋トレにささげ、シャワーで軽く汗を流してから僕は制服に着替えてリビングに向かう。朝からすでにヘロヘロだ、しかしこれから学校に行くことを思うと活力が湧いてきた。テーブルの上にはすでに朝食が用意されている。僕は数時間前に食べたばかりであることを思い出したが、運動した後であったこともあり気にせず食べることにした。椅子に座る時、筋肉が悲鳴を上げる。今日がオリエンテーションで、授業が始まっていないことを幸運に思った。
 食事を済ませ、疲労した体に鞭を打って学校に向かう。昨日と同じ登校時間、顔見知りばかりとは言え高校生活2日目という事実は気持ちをいくらか新鮮にさせた。
「よっ!」
 玄関のドアを開けると、浩一がいた。待ち合わせをしていたわけではないが、僕を迎えに来てくれたらしい。
「インターホン鳴らしてくれればよかったのに」
「お前のことだから、この時間より早く学校に行くことなんてないだろうと思ってね。予想通りだった」
 指摘されて、少し恥ずかしくなる。僕は学校よりも家が好きなタイプで、いつも遅刻しない程度にぎりぎりまで家にいる。僕は頷きながら浩一と一緒に歩き出す。
「そう言えば、もう気分は良いのか? 昨日は色々と悩んでいたみたいだけど」
「うん、もう大丈夫。なんていうか、まあ慣れていけばいいだけの問題だって気が付いた」
「まあよくわからないけれど、元気ならよかった。そういえば部活何入る? 俺は化学部が気になっている」
「部活かー、全く考えていなかった。中学の時は友達に誘われて卓球やっていたけど」
「まあ、ゆっくり考えな。つまらなかったら幽霊部員になってもいいんだし。中学と違って、内申もそこまで気にしなくていいだろうし」
「うん、そうする」
 僕らは他愛もない会話をとめどなく続けながら一緒の歩幅で高校に向かう。昨日話さなかった分を取り戻すように、僕らはおしゃべりをした。始まったばかりの高校生活、3年ぶりの地元、親友に相談したいことは山ほどあった。
「ん? なんか、人が多くね?」
 話の途中、浩一が怪訝な表情で遠くを見つめる。僕もそちらを見た。学校の校門に入ってすぐのところに人の列がありにぎわっていた。そして、自分のよく知っている人物もそこにいて僕の胸がドキンとした。
「ああ、部活の勧誘か。そう言えば高校は部活の勧誘がすごいって聞いたことがある。すごい、まさに勧誘だ」
 人々、おそらく上級生たちは紙の束か看板を持っており、通りかかる生徒を見かけてはビラを配るか声をかけて勧誘していた。そしてそんな部活勧誘行為をより激しく受けている人物がいた。
「ねえねえ、君いま身長いくつあるの?」
「えーと、測っていないからわからないです」
「じゃあ、去年の」
「去年は、えーと……185とか、だったと思います」
「すごーい! ねえねえバレーとか興味ないかな? バレーとかバスケって身長が有利って聞いたことあると思うんだけど、バレーは特にそうなの。バレー部だと君の身長絶対生かせると思うんだけど、興味ないかな? これ、平日16時以降だったらいつでもいいから、覗きに来てくれると嬉しいな!」
 マシンガントークをかます背の高いバレー部員は市村にビラを押し付け、市村はよくわからないまましぶしぶとそれを受け取った。そして受け取ったビラの上に他の部のビラがさらに積み上げられていった。市村は他の部からの勧誘にも振り回されながら、へこへこしながら人混みを抜けていく。その後ろで僕らも主に文化部にビラを押し付けられながら進んでいく。
 赤色のコーンを抜けると、勧誘する人はいなくなり、代わりに生徒会の腕章を付けた人が腕を組んで監視している。そういうルールが設けられているらしい。僕の前方では猫背になった市村と白井が並んで歩いていた。白井の存在を僕はいま知った。
「うわー、なんかすごかったねー」
「うん、いっぱい紙もらっちゃった。どこに行こう……」
「まあ、無理に行かなくていいと思うよ。てか真奈、そもそも運動そんな好きでもないでしょ」
「うん、でもせっかくこんなに身長あるんだからやってみようかなってちょっと思ったり」
「ふーん。私はもうソフテニって決めているけど、付き合おうか? 運動部の見学とか、1人だとあれだよね」
「うん、ありがとう。でもまずは色々調べて考えてみる……あ、健くん、浩一君おはよう」
 2人の後ろを歩いていたら、市村が首を動かすふとした拍子に僕らが見つかった。市村は立ち止まり、僕らが追いつくと彼女は屈んで僕に目線を合わせてくれた。僕は急に近くなった市村に思わず驚いてしまった。
「健くん、今日は元気そう」
「うん、昨日はちょっと疲れていたみたいで……あ、心配してくれてありがとう」
「ううん、大丈夫。あ、健くんも勧誘されたんだね。部活とかもう決めた?」
「いや、全然。何があるかもよく知らないし」
「そっかー。うーん、何にしようかなー」
 ビラに目を落とす市村。やがて彼女は屈むのをやめて下駄箱へと再度歩き始めた。白井がこちらを振り返り、眉をしかめる。それが何を意味するのかよく分からなかったが、僕はしばらく市村の背中を眺めていた。
「普通に話せているじゃん」横から浩一の声。
「え? あ、ああ。言われてみれば……うん、普通に……」
 昨日のことを思い返す。市村の変化にショックを受けて、一日中頭が混乱していた。白井よりも肩から上が飛び出る市村の長身はその周囲に異様な雰囲気を醸し出している。昨日の僕はあのオーラに飲み込まれてしまったんだと思う。さっきも、市村の大きな体を前にして少し驚いた。しかしそれは昨日のような恐怖ではなく、ただ非日常的なものに驚いただけだ。
「……健、お前は相変わらず不器用だよな」
 ため息をつきながら浩一が突然そんなことを言い出した。不器用、人にそんなことを言われるのは初めてかもしれない。
「不器用って、どういうこと?」
「そういうところかな。まあ、変に演技している奴よりも俺はお前みたいな奴の方が好きだよ」
 笑いながら話す浩一。なんとなく腹が立ったが、浩一は僕を置いて先に下駄箱に向かったので慌てて僕も歩き出す。
「どういうことだよ」
「そんなの本人に言ってもわからないよ。言ったところできっとお前は頭の中で色々考え始めて昨日みたいになってしまうと思う。あ、さっきの白井のしかめ面は教えてあげるよ。まあ本心は本人に聞かないとわからないけど、あのタイミングで市村に部活見学を誘っていれば自然に近づけたのにって意味だと思うよ」
 さっきの出来事を思い返す。市村と目線を合わせて会話して、部活の話になって、お互い悩んでいるという話になって……終わった。確かにいま思えばそういう誘い方もできた。
「でも、すでに誰かとそういう約束しているかもしれないじゃん。もしそうなら、誘って断られてで空気が気まずくなっちゃう」
「ほら、そういうところだよ。昨日も思ったけど、健は1人で考えすぎだよ。もっと気を楽にした方がいいと思う。さっきだって、その時に空気が多少気まずくなってもその後一生話さなくなる、なんてことめったに起こるもんじゃないし、第一人付き合いで人を傷つけないなんてことあり得ない。もっと気楽にしようよ……応援しているよ」
 ぽんと浩一に肩を叩かれる。説教されているようでなんとなくむかつくが、僕はそれをこらえた。確かに、友達付き合いで友達を傷つけない日なんてないかもしれない。事実、僕も昨日は浩一に冷たくしてしまったわけだ。

 その日はオリエンテーションで一日が終わった。帰りのホームルームで明日から授業が始まると聞かされて少し憂鬱な気分になった。ホームルームが終わると、皆は友達とわいわいおしゃべりを始める。その内容の大半は部活のことであった。市村が他の友達と話しているのが聞こえる。僕は今朝のことを思い出して誘おうかと一瞬迷ったが、すでに先客がいるような気がして諦める。
「健、この後どうする? 部活見ていくか?」
 前の席の浩一が後ろを振り返る。僕は少し迷ってから首を縦に振る。あまりその気はなかったが、せっかくなので付き合おうと思った。
「うん、見に行く」
「そうか、どこ行きたいとかある?」
「ない」
「まあ、だと思ったよ。俺は化学部に入ろうと思っているから、そこでいいか?」
 僕は頷いて席を立った。スタスタと目的地に向かう浩一の後ろに僕はついていく。実験室のドアは開いており、『化学部』との張り紙がされていた。中には白衣を着た部員が数人いて、僕らに気が付くとこちらに向かってきた。
「1年生?」
「はい、見学に来ました」
「そっか。まあ、一言で言うと自由な部活だよ。たいていは読書か課題か、適当に暇をつぶしているか。実験もやってもいいけど、試薬が結構限られているし。まあ、その範囲でなら基本好きにできるから、面白いけど」
「試薬って、どんなのがあるんですか?」
「それは……あ、君たち白衣持っていないよね、貸すからこれ着て。実験室では絶対に白衣は着なきゃいけないから」
 先輩は壁にかかっていた白衣と安全ゴーグルを僕らに手渡す。それなりに汚れているが、柔軟剤の香りがして安心した。それから先輩は試薬の入った棚まで案内してくれた。鍵がかかっており、先輩はポケットから鍵を取り出して棚を開ける。茶色や透明の瓶が所狭しと並んでいる。浩一は瓶に顔を近づけてラベルを熱心に眺めていた。浩一の科学好きは今も健在らしい。
 浩一と先輩が話をしている後ろで、僕はぼんやりと実験室を眺めていた。机には、音楽を聴きながら課題をする先輩、読書をしている先輩がいた。居心地が悪く感じて、僕は入口に目線を移す。ドアの横には大小さまざまなレンタル用の白衣が何着かかかっていた。白や青、綺麗なものや汚いものが色々ある。僕はふと、どんなものが売られているのかと気になった。化学の授業がそのうち始まるが、白衣を買うとしたらいつ買うのかと気になった。
「あの、白衣って自分で買うんですよね?」
 浩一と先輩の話がひと段落したタイミングで僕は先輩に尋ねる。先輩は無表情でただ頷く。
「うん、実験が始まる時に持っていない人は買う。まあ、化学部みたいに実験始まる前に持っている人もいるけど。実験が始まるのは夏くらいかな? うちの学校は先に教科書を終わらせて、その後実験をやる進め方だから。あ、そう言えば、1年にすごく身長高い女子いるよね」
 市村のことだ、とすぐに分かった。この場で彼女の話が出てくるとは思わなかったので僕は少し戸惑う。浩一の方を見ると、浩一も僕の方を見ていた。
「はい、いますね」
「彼女、制服も特注っぽいから白衣も特注かな? 白衣は女子男子でSMLの3サイズあるから普通はそこから選ぶけど、特注の仕方とかは先生に聞かないとわからない。先生も知っているかわからないし。……まあ、余談だよ。もしかしたら生産に時間がかかって最初の実験できないかもしれないから、早めに注文した方がいいかもね。もし言う機会あったら言ってあげるといいかも。先生も、そこまで気が回るかわからないから。とりあえず、実験の時は、白衣は絶対。これ、実験室のルール」
 浩一が感心したように何度もうなずくので、釣られて僕も同じようにした。僕は心の中で、これで市村と話すネタができたと思い少し嬉しくなった。ただ、話す機会がいつ訪れるかはわからないけれど。
 見学が終わり、僕らは白衣とゴーグルを返却して実験室から出て行く。浩一は楽しそうだったが、僕は部活に対しては何の感動もなかった。思いがけない収穫はあったが、入りたいとは特に思わない。自由そうなので入っても別に良いのだが。
「他に、どこか行くか? 俺はない」
「うーん……」
 オリエンテーションで配られた部活説明のプリントを見る。部活の名前とPRが書かれている。ハートや星で装飾をしてPRする部活、文章だけの部活など様々だ。色々見ていると、僕は『手芸部』の文字に目を引かれる。手芸……そしてさっきの会話を思い出した。「彼女、制服も特注っぽいから白衣も特注かな?」との先輩の台詞。よく考えてみれば、市村のあの長身ではさぞ衣服に苦労していることだろう。体に合っていない制服が思い出された。そしてそう思ったら、僕は手芸を学んで市村のために洋服を作ってあげたいという欲求が出てきた。それだけじゃない、僕は工作系が好きだ、そういえば中学時代に好きだった授業は技術家庭と美術だった。それを思うとより手芸部に魅力を感じてきた。
「なんか、気になるのあったか?」
 浩一が僕のプリントを覗き込む。僕はゆっくりと首を横に振った。
「特に、浩一は?」
「俺はもうないよ、もともと化学部に決めていたし。色々見てまわるのも楽しそうだけど、別に付き合いでもないのにわざわざ回ろうとまでは思わない。じゃあ、帰るか?」
「……うん」
 僕はプリントをカバンにしまいながら頷く。部活の見学なんていつでもできるし、今する必要はない。それに、手芸部は女子っぽい雰囲気があるのに、そんなところに浩一みたいなタイプを連れていくのは気が引けた。行くなら明日以降、1人でこっそり行ってみたいと思った。もしも手芸部が女子だからだったらどうしようとの不安がよぎるが……その時はその時考えよう。別に見学くらいなら大丈夫だろう。大事なのは技術の習得だ。僕はそんなことを考えながらその日は浩一と一緒に帰路についた。

 翌日、授業が終わったあとでしばらく図書室で時間を潰してから僕は手芸部室へと向かった。手芸部ではきちんとスケジュールを組んで部活説明会を行っており、僕は化学部に行った翌々日の部に参加した。部室の前まで行くと、開けられたドアの向こうはとても静かで女子が一人座って読書をしている。僕はひと安心する。女子の花園となっていたら、見学とはいえ気まずい。僕はゆっくりと中に入る。その人が僕の存在に気が付いた。
「あ、見学ですか」
 頷くと、座っていた彼女は立ち上がって僕を迎えてくれた。
「手芸部副部長の平岩です。今日は来てくださりありがとうございます」
 礼儀正しくお辞儀をされ、僕もつられて深々とお辞儀をする。
「手芸部では、各々が好きなものを製作して、文化祭でその作品を発表しています。発表は別に強制ではないので、自分のペースで手芸を楽しむことがメインです。こちらが去年文化祭で披露した作品です」
 淡々と案内されて、僕は奥の長机に展示された作品を眺める。クッション、巾着袋、ぬいぐるみなど様々なものが展示されているが、その内の1つ、フリルの付いた洋服に思わず目がいってしまう。一瞬、既製品を飾っているのかと思ったが、他の作品と同じくそばに作者の名前が添えられていた。『平岩菜月』、それが作者の名前だった。その苗字に僕ははっとする。
「この服、すごいですね。平岩菜月さん、とは」
「はい、私が作りました」
 先輩が得意げに小さく笑う。この人がこんなにクオリティを高いものを作ったのだなと僕は感心した。手芸部に入ってこの人と一緒に活動していたら、自分にもこんなものを作れる日が来るのだろうか? 僕は手芸部に興味を持ったきっかけを思いだす。市村に合う服を作ってあげたいとの思いが発端だった。
「この服、作るのにどれくらいかかりましたか?」
「そうですね。まずデザインを決めて、型紙を作って……実際に針を手に取って作ったのは3か月くらいだったと思います。構想には、なんやかんやで2か月くらいかかりましたけど。まあ、片手間に他のものも作っていたので」
 そう言って先輩は机の上に展示されていたヒヨコのぬいぐるみを手に取る。そばには先輩の名前が書かれている。洋服と同様、他の作品と比べて格段に上手でまるで売り物みたいだ。片手間でこんなものを作れてしまうなんて、きっと経験の長い人なんだろうと僕は思った。
「すごいです。先輩は、どれくらい手芸をやっているんですか?」
「そうですね、小学5年くらいの授業でやったときに手芸の面白さに目覚めて、それからなので、5年くらいになりますね」
 5年という言葉に僕は肩の力が抜けるのを感じた。高校3年間を手芸に費やしても、この人みたいにはなれないのかもしれない。それなら、市村の洋服を手作りするという僕の目的は高校在学中には達成されないことになる。高校卒業後……そんな先のこと、全く想像がつかなかった。
「でも私は年数を重ねているだけです。私くらいのレベルなら、本気でやれば1年でなれると思います。例えばこの人の作品」
 先輩はクッションを手に取る。1番作るのが簡単そうなクッション。僕を慰めてくれているのかと思い、僕は情けない気持ちになった。
「見てください、この刺繍。これ、手縫いなんですよ。刺繍なら、私よりも慣れているかもしれません。しかもこれを作った長野くんは去年から始めたので、たった半年でクッション作りも含めてこれだけの技術を身に付けたんです。年数だけが問題じゃないです、技術はやる気×年数で決まりますから」
 クッションをそっと机の上に戻す。僕はその細かい装飾を観察する。これを作っている風景を思い浮かべてみる。とてつもなく地味な光景が目に浮かんだ。しかしその地味な作業の果てにあるのがこのクッションなのだ。
 僕はもう一度平岩先輩の作った洋服を見る。先輩はこれをデザインも含めて半年で作ったらしい。デザインがどれくらい難しいかはわからないけれど、先輩は言った。技術はやる気×年数で決まると。僕も、本気を出せば1年くらいでこの洋服の市村サイズが作れるんじゃないかと思えてきた。それくらい僕は今、やる気に溢れている。
「あ……こんにちは、見学ですか?」
「はい。あのー、今からでも大丈夫ですか?」聞きなれた声がして、僕は驚きで胸がきゅっと痛くなる。
「はい、大丈夫です。こちら、去年の文化祭で手芸部が展示したものなんです」
 ゆっくりと影がこちらに向かってくるのが分かる。僕は恐る恐る、斜め上を見るように首を動かした。市村と目を合った。市村は小さく手を振った。
「知り合いですか?」
「はい。同じクラスの……友達です」
 市村が言うと、先輩は僕を一瞥した後で市村のつま先から頭頂部を繰り返し観察した。「身長、すごく高いですね。制服も大きい、受注生産ですか?」
「はい、基本的に服はサイズがないので。それで、私服は自分で作れたら安上がりかな、なんて思って見学に来ました」
「ありがとうございます。正直コスパはあまり良くないと思いますけど、手芸は楽しいですから、ぜひ入部を検討していただきたいです」
 背中を曲げて先輩と顔を近づけつつ、市村は自己紹介と見学に来た理由を説明する。そわそわと落ち着きがなさそうにしている姿に、僕はなんとなく違和感を覚えた。
「ちなみに健……荒井くんは、手芸好きなの?」
 急に市村から質問を振られて戸惑う。市村の服を作りたいから、なんて理由を本人の前で言うことはできないから、別の理由を答える。
「工作とか好きだから、手芸もいいかなって。まあ、手芸自体はやったことないけど」
「初めてでも全然問題ありませんよ。私も昔は不器用な方だったんですけど、やっていくうちに慣れていきました。結局は慣れです、毎日やっていれば必然的に技術は上がっていきます」
 そう言って先輩は僕を見てから、ニコッと空笑いをした。市村はその横でコクコクとうなずいている。
「そうなんですね。私、手が大きいから大丈夫かなって心配だったんですけど……ちなみに先輩はどれを作ったんですか?」
「この中だと、これとこれです」さっきの僕への紹介と同様、ぬいぐるみと洋服を指さす。その瞬間市村の表情がぱっと明るくなる。
「すごい、かわいいです! ぬいぐるみも、それにこのお洋服も! このフリフリ、作るの大変じゃなかったですか?」
「よく言われますけど、フリルは結構簡単に作れるんですよ。慣れるのは少し時間がかかりましたけど、慣れたらもう、するするって作れちゃいます」
「そうなんですね……私もこういう洋服、着てみたいです。似合うかはわからないですけど」
「手芸部に入ったら、好きなものを自由に作れますよ。それにどんな人にだって、デザインとコーデ次第で似合う服は作れます」
 市村はしゃがみこんで、洋服を360度から慎重に眺める。市村が質問をしては、先輩がそれに嬉しそうに答える。女子同士のやり取りに僕はなんとなく気まずくなって、展示物から離れて手芸部室を観察する。色々な本や見慣れない道具がそろっており、見ているだけでも楽しいものだ。部員も少なそうだし、マイペースにゆったりと手芸が楽しめる環境だと思った。
 ……そこで僕ははっとした。そもそも僕は、市村に特注の服をプレゼントしたくて手芸部に入ろうと思ったのだ。しかし市村が入り、しかも洋服を作りたいと言っているのであれば、僕は何のために入部すればよいのかわからなくなるではないか。
 僕は焦った。2人は相変わらず後ろの方で楽し気におしゃべりをしている。僕は考えをまとめて冷静になって、教室をぐるっと一周する。よく考えてみれば、入ることによるデメリットはないのだ。手芸部に入れば市村と一緒になれる上に、彼女に服をプレゼントするチャンスもある。しかし入らなければ、市村との関係においては何も変化が起きないだろう。僕は入部を心に決めて、2人の方へと戻る。ちょうど、話す内容が尽きてきた頃らしい。
「結構いろいろあるんですね、ミシンも何種類かあるみたいですし、それに本や布もたくさん」
「はい、意外と設備がそろっているでしょう。布もいっぱいありますし、活動費で多少は買うこともできます。コンピューターミシンもあるので、本当はこういう刺繍も自動でできるんです。長野君は手縫いでやりましたけど」
「うわー、きれいな模様ですね!」
「ですよね。これ、手芸を初めて半年の人が作ったんですよ。市村さんも頑張れば、あっという間に上達すると思います」
「うん……うん……」
 背中を大きく曲げて、クッションの刺繍をじっくりと、楽しそうに眺める市村。そんな彼女をじっと見つめる先輩。そして僕は2人の後ろでそんなほのぼのとした光景を見て、自然と口角が上がった。
 気が付けば1時間以上が経過していた。見学を終えたその後、僕は市村と一緒に帰った。少し前、市村を部活見学に誘わなかったことを浩一と白井に責められたが、僕は自ら仕掛けたわけでもなしに自然とこういうしていることに幸福を覚えた。
 一緒に帰ることはとても嬉しいが、話す内容がすぐには思い浮かばず、僕らの間に気まずい沈黙が流れる。僕は必死にさっきまでのことを思い返すが、すぐに思いつくような話題はすでに全部部室で話していた。記憶の時間を巻き戻していき、市村が手芸部室に現れた頃まで遡る。そこで1つの疑問が浮かび上がった。
「そういえば、部室に来るまで何していたの? 結構遅れて説明会に来たじゃん」
 首を大きく傾けて市村を見上げる。彼女は背中を曲げて、僕を上から見る。
「えーと、なんだっけ……あ。陸上部の見学に行っていたの。私は全然興味なかったし、手芸部の説明会があるから断りたかったんだけど、なんか流されちゃって」
「流された?」市村の言ったことに、思わず違和感を覚えた。
「うん……私、昔から流されやすい性格だから。すぐ人に影響受けて、その気になっちゃうし。でも、手芸部は入りたいなって思った。まず、先輩が優しそうだったし。って言っても、平岩先輩しか知らないけど。でもやっぱり運動部って、ちょっと怖い人多いから、今日はリラックスできた。健くんは、確かあまり部活見学とかしていないんだよね?」
「うん、この前浩一と一緒に化学部に行ったくらい」
「そうなんだ。私は先輩に引っ張られて、バレー部とか陸上部とかテニス部とか、いっぱい行ったの。テニス部は彩名がいるし緩そうだからちょっと迷ったけど、入るなら練習ペアを探してって言われて……そっちが誘ったから行ったのに……。健くん、中学の時って何やっていたの?」
「うん? あー、卓球部だったよ」突然の質問に、慌てて答える。別のことに意識が向いていた。僕は余計な思考をやめて、市村との会話に集中する。「と言っても、友達に誘われたから入っただけで……テニス部と同じだと思う。入るなら練習相手も誘えってなるから。友達が内申のために運動部に入りたいから卓球部に入るって言って、それで特に入りたい部活のなかった僕が誘われた。その友達がいなかったら、無所属だったかも」
「なるほどねー……手芸部はどうだった? 結構、健くん楽しそうに見えたけど」
「手芸部は面白そうだったよ。最初、先輩の作ったフリルの服見たとき、売り物だと思ったもん」
「あれね! すごいよねー。私もああいうの、着てみたいなー!」
 市村の台詞に、僕の意識がまた飛ぶ。しかしすぐに頭を現実に戻す。「うん、すごかった」
「あと、ぬいぐるみもかわいかった。手芸ができたら、人生楽しくなりそう」
「市村は、もう手芸部で決定?」
「うーん……入りたいけど、バレー部の部長から、すごく熱心に誘われていて。校門で勧誘された時からずっと。『絶対入ってね!』って言われちゃって……断るのも申し訳ないし……」
 また、頭がくらっとする。慌てて調子を戻す。俯いて悩む彼女の表情は僕からは丸見えで、首を傾げて本気で悩んでいるようだった。何かうまいことでも言えないかと頭を動かすが、タイムリミットはもう来ていた。
「市村、こっちだよね?」
「ん? あ、そうそう。じゃあね健くん、またねー!」
 手を振って僕らは別れる。別れた後も市村はその長い脚で颯爽と歩きながら、部活選びで悩んでいるようで地面を見ていた。遠くから眺めると、彼女の長身はまるでその縮尺を間違えたかのように街の風景で浮いた存在となっている。僕はそこで、市村の背がとても高いことを思い出す。と同時に、その事実にこの数日で慣れ切っていた自分に気が付く。美人は3日で飽きるというのは事実だったのだと僕は身をもって知った。初日は3年のうちに大きく成長した彼女を見て恐怖を感じたものだが、今は何も感じない。
 ただ……僕は自分の中に、ぬぐい切れない違和感があるのに気が付く。さっきの市村の様子、態度について。僕は少し前に、市村を好きになった時のことを思い出した。それは小学生の時の市村だった。今、僕らは高校生。当時の彼女と違うのは当たり前だ。しかし……僕はそこで考えるのをやめる。結論を出すには早まだすぎる。僕は彼女のことを知らなすぎる。もっと市村のことを知ってから、結論を出すべきだ。
 気分を変えて、楽しいことを考えよう。……わざわざ考えるまでもなく、これからの学校生活は楽しいことばかりじゃないか。市村とは一緒の部活になれるかもしれないし、手芸という新しい活動に心を躍らせている。いつ、僕の技術が先輩くらいに、つまり市村の心を動かすまでに上達するのかはわからないが、ベストを尽くすのみだ。



「入部ありがとう! 手芸部部長の菅原です。早速だけど、連絡先交換しても大丈夫かな?」
 昼休み、浩一と弁当を食べているところ突然クラスに現れた女性。僕は一瞬間を置いてから慌ててスマホを取り出した。部長を見るのは初めてだ。説明会以来、手芸部に関わることもなかったので1か月近く僕はその存在を忘れていた。始まったばかりの高校生活は予想以上に忙しく大変で、日常に流され部活のことを完全に忘却していた。
「はい。これ、読み取れますか?」連絡先が交換できるQRコードを部長に向ける。部長は慣れた手つきでそれを読み取り、僕らはデバイス上で『友達』となった。
「オッケー、グループに招待したから入っておいて。ところで、市村さんっているかな? 身長がすごく高いっていう女の子。その子も手芸部に入ったみたいなんだけど」
 後ろを振り返り、真後ろの市村の席を見る。4時間目にあった化学の教科書は机の上にあるが、市村本人はおらず、机の下に椅子がきっちりと収まっている。そういえば、最近市村は昼休みになるとどこかに行ってしまう。たまに他の人が昼休みの間、市村の席を使っていることもある。
「今はいないみたいです。ここが市村の席なんですけど」
「あ、そうなの。ねえ君、市村さんの連絡先知っているかな?」
「はい、知っています」
「じゃあ、彼女も手芸部グループに招待しておいてくれないかな?」
「わかりました」
「よし! じゃあ、またねー。まあ私は写真部とかもあって、あんまり部室に顔出さないかもしれないけどー」
 そう言いながら先輩は僕に手を振ってさっさとどこかへ行ってしまった。通り雨のように来て去っていく先輩に僕らはあっけに取られてから、昼食を再開する。
「手芸部に入ったのか。なんていうか、珍しいな」
「うん、工作とか好きだし、なんか面白そうだなって。空気も緩かったし」
「なるほど。まあ緩さなら化学部も負けないけどな」
「どうだろう、僕は副部長以外会ったことないから部全体の雰囲気はよく知らないけど。部長はさっき初めて会った、あんな人だったんだね」
「てか、市村も手芸部なのか? あいつバレー部って宮崎か誰かが言っていた気がするけど」
「え?」
 初めて聞く情報だった。しかし、さっき部長が市村も手芸部に入ったと言っていた。兼部ということだろうか?
「バレー部の部長がぜひ入ってほしいって何度も懇願したとか。今も多分部活に行っているんだと思う。なんでも夏の大会に向けて特訓しているとか」
「そうなんだ……なんか大変だね、市村ってそんなに運動得意じゃないよね」
「うん。小学生の時から変わっていないよ。まあ、身長はあるからそれだけで有利なのかもしれないけど」
 身長のせいで、運動部に振り回される市村。そういえば説明会の時も、別の部活に行っていたとか言っていた。何か彼女のために自分にできることがないかと考える一方で、僕はそもそもどうして市村が振り回されているのかに疑問を持つ。僕の知っている市村は、思ったことをハッキリという意志の強い人だったのに。
「……ってか今気づいたけど、お前もしかして市村目的で手芸部入ったのか?」
 急に浩一がニヤニヤと笑いながら質問をしてくる。図星を突かれて心臓が驚き、さっきまでの思考が吹っ飛んだ。思えば手芸部の存在を知ってから入部するまで、最初から最後まで市村が関係している。僕はそれを自覚して急に恥ずかしくなった。
「あ、図星だな。お前、顔に出るからな。どうやって市村が手芸部に興味あるって知ったんだ? お前も成長したな」
 相変わらずニヤニヤと笑いながら質問をしてくる。そういえばこいつは僕と市村のことになると途端にいやらしく、しかも少し上から目線になる。
「知ったのは説明会でだよ。だから、偶然。説明会に行ったら市村も来た、それだけ」
「なんだ、お前から動いたわけじゃないのか。それで、市村が入るのならと入ったわけか。てか、そもそもどうして手芸部に入ろうと……って、さっき聞いたな。工作が好きなんだっけ」
「それもそうだけど……市村に服を作りたいなって思って」
「ん? 服?」
「うん。市村、あの身長だから既製品だとほとんど服なさそうじゃん。制服も特注って言っていたし。だから、僕がオーダーメイドで服を作ったら喜ぶかなって……」
 話しているうちに、恥ずかしさで顔が熱くなっていく。どうしてこいつの前でこんなことを話さなくちゃいけないのかと苛立ってくる。一方で浩一の表情は冷めていた。
「お前なあ、お前の言っていることは、25メートル泳げない奴がトライアスロンするみたいな話だぞ。告白して付き合ってもいないのに手作りの服をプレゼントするって、お前本当に……すごいな」
 大きなため息をついてから、浩一は首の後ろで手を組んで軽くふんぞり返った。僕はその態度にイラついた。浩一の言う通り、やろうとしていることに飛躍があるのは認める。しかしそういう態度を取られるのは普通にむかつく。
「まあ、そうかもしれないけど……てか、なんだよ。どうして浩一は僕らの恋愛事情にそんな興味津々なわけ? ……あ、もしかしてお前も市村が好きとか?」
 言葉にして、胸が少し痛む。しかし直後に浩一は無表情で激しく首を横に振り、そして僕の胸の痛みは和らいで安堵した。
「別にそういうわけじゃないよ、ただ興味があるだけで……」
「あ、それなら市村の友達が好きとか? 僕を利用して、その子と仲良くなろうという魂胆か?」
 うろたえる浩一を見て、僕の意地悪な心がにょっと姿を現す。さっきの浩一と同じように、今の僕もきっとニヤニヤと笑いながらこいつを質問攻めにしているのだろう。
 しかし浩一の反応は淡々としていて、黙って首を横に振るだけだった。無表情でそうされると途端に興ざめする。さっきのお前と同じことをやっているだけなのにと思い、苛立つ。僕は次の授業の準備をしようと机の下を漁る。まだ時間はあるが、浩一と話す気が一気に失せた。
「……なあ健」
「ああ?」手元から目を離さずに答える。
「……人を好きになる気持ちがわからないって、変だと思うか?」
 妙な質問に思わず浩一の方を見てしまう。さっきのヘラヘラした態度とは打って変わって、膝の上に手を置いてまっすぐ僕を見ている浩一の姿があった。僕はその変わりようにぎょっとした。
「なんだよ急に」
「俺な、わからないんだよ、人を好きになるっていうのが。顔がかわいいっていうのはわかる。あと、気が合うとかどうとかもわかる。でも、そこから好きになるっていうのがわからない。気が付いたらずっとその人のことを考えているとかいうけど、俺にはそれがわからないんだ」
 急に切実な質問をされて僕はどんな反応をすればよいのかがわからなかった。さっきのこともあって無視しようかとも思ったが、浩一がこういうことを言い出すのはとても珍しく、友達として放っておくのが嫌だった。僕は自分の考えを話すことにする。
「えーと、尊敬っていえばわかる? 例えばその人の意志の強さとか、自分にないものに憧れる感情。それが『好き』って気持ちだと僕は思う」
「うん……つまり健にとって、人を好きになることは人を尊敬することというわけか?」
「まあ、そうだね。僕は市村を人として尊敬している。だから好き。浩一には、尊敬する人はいるか?」
「まあ、尊敬と言われたらいるよ。科学者だけど、ボルツマンとかキュリー夫妻とか。でも……なんか違う気がするんだよなー……」
 腕を組んで首を傾げる。なんか違うと言われても、僕にとっては確かにそうなのだから仕方がない。僕にとって人を好きになることは、その人の人間性を尊敬することなのだ。
 ……しかしそうは言ったものの、僕自身浩一に説明していて、頭が混乱してきた。僕は市村を人間として尊敬しているのかと聞かれたら、イエスと断言できるか? ……小学生の時はできたと思う。しかし最近は……そう言うことに抵抗を覚える自分が出てきた。
 では、市村を嫌いになったとかというと別にそういうわけではない。僕は今でも市村のことが好きだ。心優しく強い、素敵な人だと思っている。尊敬できるところもある。一方で、市村らしくないところがあるのも事実だ。人に振り回されて自分の意見を言えず、ぬいぐるみのように子供っぽいものに熱中する。個人の趣味をとやかく言う気はさらさらないが、僕はそういう市村の知らない一面を見るたびに、自分の気持ちに疑問を感じてしまう。僕は市村の何を知っているというのか、僕は何も知らずにただ執着しているだけなのではないかと、そんなことまで思ってしまう。
 人影が教室前方のドアを覆いつくした人影。市村が教室に戻ってきた。そしてまっすぐ席につく。手芸部グループのことを教えようと思ったが、グループへの招待はすでにしているし、わざわざ口頭で伝えることでもないと思い直す。
「……うん、まあありがとう。参考にはなったよ」
 浩一が振り返って授業の準備を始める。その瞬間始業のベルが鳴って先生が入ってきた。僕はそれまで考えていたことを中断し、授業に意識を向けることにした。

 手芸部の活動日は火・木と決まっている。しかしその日以外にも、手芸部室が使われていなければ、家庭科の先生の部屋に行って、部屋の前に置かれた箱の中の鍵を取って部室を使うことができると部長がグループチャットで言っていた。
 今日は火曜日。初めての部活は少し緊張する。鍵はすでに開いている。僕はゆっくりとドアを開けた。副部長がいた。「こんにちは」と挨拶をすると平岩先輩は僕に気が付き、無表情で会釈をする。
「こんにちは」
 それだけ言って先輩は作業に戻る。頭を抱えながらノートに絵を描いている。僕は邪魔しないようにひっそりと、先輩から遠く、しかし部室の入り口に近い位置に座った。
 ……急に退屈になる。それもそのはず、今日は初めての部活動なのだ。先輩のように、自分のする作業があるわけではないし、先輩は何も言ってこない。確かに緩い部活だと思った。顧問の先生もいない。僕は退屈が嫌になって静かに立ち上がり本棚に向かう。初心者向けの本がいくつか並んでおり、僕はその中から適当に合いそうなものを探した。
「入門書ですか?」「うわあ!」「あ、すみません」
 不意にそばに現れた先輩に思わず驚く。小柄な先輩は忍者のように僕の死角に入り込んでいた。僕の声で、先輩も小さく驚いたようだった。
「はい……手芸は授業以外では全くやったことはないですし、まずは読書をしようかなと」
「そうですか。私としては、この本がいいです」
 先輩は淡い水色の本を手に取り、中をパラパラと見てから。僕に手渡してきた。僕はこの瞬間を市村に見られないかおびえながら本を受け取る。
「ありがとうございます」そして席に戻り、読書を開始する。先輩も自分の席に戻って、作業を再開した。ちょうどその時僕の後ろのドアが開いたので、僕は幾分の期待と共に後ろを見る。知らない男がそこにいた。
「あ、どうも。もしかして、新しく入った人ですか?」
「はい、荒井と言います。1年です」
「2年の長野です。今日は本を取りに来ただけなので」
 長野先輩はさっきまで僕がいた本棚に直行し、本をパラパラめくりながら選別し、何冊かを鞄の中に入れた。そして、近くのノートに何かを書き始める。その一連の手続きを見て僕はそのノートの正体がなんとなくわかった。
「もしかしてそれ、貸出ノートとかですか?」
「うん? ああ、うん。ここから借りるときは、このノートに記録するの。期限とかは特にないから、読みたいのがあったら持っている人に直接言って」
 先輩は記入を終えるとノートを元の場所に戻す。随分と慣れた手つきだった。それから教室の方に体を向けた。
「なあ平岩、ぬいぐるみって作ったことあったよね?」
「はい。去年の文化祭で展示したウサギのやつとか」
「俺もぬいぐるみ作ろうと思うんだけど、わからないことがあったら聞いてもいい?」
「うん。私は基本的に部室にいるから、いつでも。ちなみに、どんなぬいぐるみ?」
「ありがとう。えーと、それはまだ決めていなくて……アザラシとかかな?」
「アザラシ、鳥羽動物園にいるみたいな?」
 長野先輩の眼が少し大きくなった。僕は読書に戻るタイミングがわからず、2人のやり取りをじっと聞いていた。
「まあ、そんなの……まあともかく、なんか詰まったら教えて」
「うん、了解。アザラシのぬいぐるみ、ねえ」
 そそくさと部室を出ていく長野先輩と、椅子に座って小さく微笑む平岩先輩。彼女の顔をぼうっと見ていたら目が合って僕は咄嗟に目を逸らす。
「あ、自己紹介もあったけど、さっきの人が長野君です。文化祭の時に、クッションに手縫いで刺繍をした人です。今は、ぬいぐるみ作りに挑戦しているみたいですね」
 そう説明して、先輩はまたノートに向かった。さっきまでは真剣にノートに何かをしていたのに、今は口角を上げて楽しそうにしている。
「……平岩先輩は、今は何を作っているんですか?」
「え? あー、今は服のデザインを決めているんです。文化祭ではフリルまみれのものを作って、その次はシンプルなものをつくりました。今度は何にしようかなって、その段階です」
 先輩のノートを覗くと、服のイラストが色々と描かれていた。かわいいもの、クールなもの、シンプルなもの。僕はそれを見て、そんな服を市村に作れたらと考えて、先輩の技術が羨ましくなる。
「荒井くんは、何か作りたいものはありますか?」
「えーと、洋服を作りたいなって思っています。先輩みたいに」
「いきなりは難しいと思いますが、1年もあればある程度作れるようになると思いますよ。ちなみに、どんな服を作りたいとかもう決まっていますか?」
「えーと、そうですね……」
 急に言われても返答に困る。自分が着るものではなく、市村が着たいものを作りたいのだから。市村はどんなのが好きなんだろうか。僕は記憶を思い返してみた……初めてこの部室に来た時、途中から市村が来て、それで先輩の作った服とぬいぐるみを見て喜んだ様子が瞼に浮かぶ。
「先輩が文化祭で出したみたいな服です」僕は咄嗟にそう答えた。先輩の口角がさっきみたいに上がり、微笑を浮かべる。
「あのフリフリの服を。まあ、フリル自体は見た目ほど難しくはないので、頑張れば1年くらいで作れるようになると思います。コンピュータミシンで刺繍や文字縫いをすれば、手軽に装飾も行えます。……ところで、誰が着ることを考えていますか? 荒井くんですか? 身長や体格によっても難易度は変わりますので」
 ニコニコと笑いながら先輩が問いかける。最初の頃の、真剣にノートを見ていた先輩の面影はどこにもない。無邪気な笑顔を浮かべて、僕に質問をしてくる。そんな様子を見ているとある人物の顔が頭に浮かんできた。今の先輩の表情は、市村の話をするときの浩一と同じだ。
 お茶を濁そうとも考えた。しかし今の先輩のアドバイスは聞き逃せない。市村サイズの服を作るのがどれくらい大変なのか……僕は恥を捨てて、正直に答えた。
「えーと、市村の服を作ってみたいなと。市村、あの身長なので合う服がないと言っていました。なので、作ってあげられたらと」
「あー、そうだったんですね!」
 パンと嬉しそうに手を叩く先輩。それから、口元に右手を添えて、右肘に左手を添えて真剣な表情を浮かべた。僕は自分の顔が赤くなっていくのを感じる。と同時に、先輩とこんなに長く話していることに不安を覚える。市村が現れて、今の状況を誤解されたらと思うと一刻も早く読書に戻りたかった。
「市村さんくらい大きな服を作ったことがないので、正直わかりません。でも、小さいものを作るよりも簡単だと思います。生地の料金が多くかかってしまいますが、まあ多少は活動費からも出せますから。頑張ってくださいね」
 真剣な無表情から一転、ニコリと微笑み先輩は僕にエールを送る。僕はお礼を言って、読書を再開する。
「でも、残念ですね」まだ話が続くのかと僕は多少のいら立ちを覚える。「市村さん、バレー部の部長に目をつけられて、手芸部はめったに来られないそうじゃないですか。私は部室が好きなので毎日来ていますが、荒井くんは別に来なくても大丈夫ですよ。デザイン決めや型紙づくりは家でもできますから。本を借りるのは自由ですし、インターネットの情報も参考になります」
 アドバイスと一緒にさりげなく出てきた情報に僕は驚く。市村が手芸部に来られない……そういえば、浩一も似たことを言っていた。バレー部で特訓をさせられているとか。確かにそうなってしまえば、手芸部に来る余裕なんてないだろう。
「はい……ありがとうございます」
 疲れがどっと出てくる。さっきまで市村の登場を期待していた自分が馬鹿みたいだ。誤解されぬよう平岩先輩から遠ざかり、しかし市村の出現にすぐ気が付けるようにドアの近くに座って。僕はため息をついてから読書を再開する。活動時間終了が間近に迫っていた。

 部活が始まって数週間が過ぎる。手芸部という初めて触れる環境に身を置いても、僕の日常は何も変わらなかった。そもそも部室にはめったに顔を出さないようにしていた。いつ覗いても副部長しかおらず、平岩先輩と2人きりで長い時間過ごしていることが市村に知られて誤解されるのが怖かった。僕は今、長野先輩のように、本を借りに行く時だけ部室に行き、家か学校で手芸の本を読んでいるだけだ。
 手芸の練習はちゃんとしている。本を見ながら僕は小学生の頃に買った裁縫箱で練習をしている。そろそろミシンを使ってみたいとの欲も出てきたが、もうしばらくは部室外で本を読んでネットで調べつつ、勉強していきたい。
「あ、健くん。手芸の本読んでいる」
 昼休みが終わろうとする時、ジャージ姿の市村に話しかけられた。
「あ、うん。これ、部室の本」
「『初めての手芸』、面白い? ごめんね、全然部室行かなくて。同級生うちらしかいないんだよね。先輩とは、仲良くなった?」
 ぐっと、市村の顔が近くなった。僕は恥ずかしくなって思わず目を逸らす。
「まあ、喧嘩とかはしていないけど。そもそも今は読書と手縫いで練習しかしていないから、部室には行っていない。そのうち、ミシンを使いに部室に行くと思うけど」
「あ、そうなんだ」
 そこで、小さくため息をついて脱力する市村の体がさらに僕の方に迫って少し驚いてしまう。視界を覆うのは、彼女のジャージ……このジャージはどういう風に作られているんだろうか。襟元のチャックは、どうやって布にくっついているのだろうか。手芸の本の影響でそんな疑問が頭に浮かんできた。
「ん? 健くん、どうしたの?」
「あ、いや別に」慌てて彼女の体から目を逸らす。考えてみれば、女子の服をじろじろと見るのは破廉恥と思われても仕方がない。僕は話を逸らそうと、別の話題を考える。
「そういえば、市村はバレー部が忙しいんだよね。大丈夫?」
 その瞬間市村の眼がぱっと輝く。
「それ! もー、部長が夏の大会に私を出させるって言いだして。私、身長高いくせに運動神経ないから全然だめで、それで特訓だってなっちゃって……」
 堰を切ったように市村の口からあふれ出すバレー部への不満。僕はそれをじっと聞く。
「昼休みも練習で、授業終わったら練習して、その後部長とお昼食べて、ぎりぎりまでアドバイス貰って、やっと教室に戻れる。そして放課後も練習……時間延長で6時半までやっているから、手芸部にはとても顔出せなさそう。せっかく入ったのに――」
 そこでチャイムが鳴り先生が教室に入ってきた。市村は慌てて後ろの席に座る。学級代表の号令で僕は機械的に起立し、礼をし、着席する。所作は普通の生徒、しかし頭の中はさっきまでのことで興奮していた。
 久しぶりの市村との会話だった。最近の市村は、朝も午後の授業もジャージ姿でぎりぎりの時間に教室に現れ、放課後は掃除が無ければさっさといなくなってしまう。せっかく席が近いのにめったに話す機会がない。それはそういう事情だったのだと知り、僕はなんだか申し訳ない気持ちになった。手芸部に属して悠々と読書をしている僕に対して、市村は必死だったのだから。
 教科書とノートを開いて授業を聞きながら、僕の顔が赤くなってくる。好きな人の服を作るために手芸部に入って、一年かけてやっと作れるかもわからない洋服づくりという難題に挑戦しようと志していたのに、いつの間にか僕は怠惰な生活を送っていた。
 こうしちゃいられない。今日は水曜日だが、部室に行こう。そしてミシンの使い方くらい勉強してから帰ろう。活動時間は5時までと決まっているが、延長届を出せば6時半まで使える。どうやって出すかは知らないが、とにかくベストを尽くそうと僕は決心した。
 放課後、僕は掃除をすぐに終えようと、忙しく箒を動かした。掃除といっても簡単なもので、机と机の間を履くだけだ。当番といっても15分くらいで終わる。その15分すら今の僕には惜しく、忙しく掃除をせずにはいられなかった。
「健くん、なんか必死だね。この後用事でもあるの?」
 掃除をしている最中、思わず市村に声を掛けられる。彼女の顔を見上げていると、視界の端に浩一の首が縦に振られる様子が映った。
「うん、なんか俺らと動きが違う。なんかあったのか?」
 早く手芸部室に行きたいから、なんて言ったら笑われるだろう。しかも昼と市村とあんな会話をした後なのだ、変な誤解を受ける可能性もある。しかしこんなことで嘘をつく気にもなれない。僕は誤解を招かぬよう丁寧に言葉を選んで答える。
「……今日、先輩にミシンの使い方を教えてもらうんだよ。いよいよ僕もミシンデビューだって思うと、なんか楽しくなって」
「へー。お前、結構手芸部楽しんでいるんだな。まあ、普段から手芸の本ばかり読んでいたからなんとなくわかっていたけど。化学部なんて、課題をやるやつばかりだから退屈だよ。真面目に化学実験やろうとする人なんて部長くらいで、その部長も3年生だからそろそろ来なくなるって言うし。あー、俺も手芸部に入ろうかな?」
 小さく笑って、浩一はため息をつく。最近はあまり浩一と雑談をしていなかったので、こういう話を聞くのは少し新鮮に感じる。
「私も、バレー部やめてそっち行きたいなー。部長厳しいし、先輩怖いし、友達もできないし……」
 僕を一瞥してから、浩一が市村に話しかける。「入った後で初めて気づくことってあるよね」
 会話する2人を傍から見ていると、2人の身長さはまるで姉弟のようだと気が付いた。それはつまり、僕と市村も同じということ……どうでも良いことだ。
「私は、最初から入りたくなかったんだけど、何度もお願いされたら押されちゃって……あの時勇気出して、ハッキリ断ればよかった。なんか運動しすぎのせいか最近膝が痛いし」
浩一がしばらく僕を見た。それからまた市村を見上げる。「まあ、無理せず頑張って。別にやめてもいいわけだし」
「だから、それができないから困って……って、やばい! 先輩に怒られる! もうゴミ集めちゃっていいよね、健くんが頑張ってくれたし、いいよね」
「あ、僕やっておくから、市村先行っていいよ。他の人も」
「本当? ありがとう健くん! 明日はやるから。じゃあバイバイ!」
 箒を片して鞄を取り、小走りで廊下を掛けていく市村を見ながら僕はチリトリにゴミを入れてゴミ箱まで持っていく。
「久しぶりに市村見上げたけど、やっぱりデカいな。あれで運動嫌いっていうのは、確かにもったいない気もするけど、よく考えてみれば有利であることと好き嫌いは別物だよな」
 急に語りだす浩一。僕はどんな反応をすれば良いかわからず、一度だけ頷く。浩一も返事を期待していないのか、さっさと自分の席へと向かう。鞄を手にしたとき、僕ははっと思い出した。今日は部室でミシンの使い方を勉強してから帰ると決めたのだった。そして、さっきの市村の駆けていく姿が思い起こされては、僕は居てもたってもいられなくなった。
 市村と同様、小走りで部室に向かう。予想通り部室の鍵は開いており、僕は静かにドアを開けた。平岩先輩はミシンの前に立って作業をしており、僕の存在にすぐに気が付いた。
「こんにちは」僕が挨拶をすると先輩は小さな声で返しながら会釈をする。
「あの、ミシンって使っても大丈夫ですか?」
「はい。普通のが6台ありますから、そちらから取ってください」
 先輩の指さす先の棚を開けると、ミシンがずらりと並んでいて圧倒された。僕は右下のものを両手に抱えて机に置く。今日はこれを使いこなせるようになるまでは帰らないと心に決めて、僕は深呼吸をした。
 本を片手に僕はミシンを動かしていた。ミシンを使いこなすという目標は1時間くらいで達成され、勢い余って僕は洋服づくりにチャレンジしていた。先輩から型紙を貰い、それを使って練習する。以前に説明会で見たときは先輩の作ったフリルの服を洋服としか見ていなかったが、本当はブラウスと呼ぶらしい。いわゆる上着のことで、本来はボトムズと組み合わせる必要がある。
 僕は型紙の使い方を勉強しながら、型紙を元に服を作っていた。先輩はすでに定刻で帰っている。本来部活動時間の延長には顧問の先生に延長届を出す必要があるのだが、実際には出さなくても黙認され、またそもそも手芸部室にまで先生が見回りに来ることもないという。僕は1人になった部室で黙々と作業をしていた。純粋に、手芸が楽しかった。型紙を元に平面的な布の切れ端を作る、今はただの布切れだけれど、それを縫い合わせてば立体的になりやがて見慣れた形になっていくのは想像するだけで面白い。僕は時間を忘れて没頭し、気が付けば18時半を過ぎている。活動延長の上限時刻だ。さすがにそろそろやめようと、僕はいま作業している袖部分の端処理を完成させてから、ミシンを片付ける。6月に差し掛かる時期、外は薄暗く、日の入りが近い。
 外が騒がしくなってきた、運動部の人が一緒に帰っているのだろう。僕はなんとなく合流するのが嫌で、片づけをわざとゆっくり行う。運動部、から連想して、ふと僕の頭に市村のことが浮かんだ。彼女は今、帰路についているところなのかもしれないと想像する。それから、僕は今までの活動が全て市村のためにやっていたことであるのを思い出した。ここに来る前、僕は市村が必死にバレーをやっていると聞いて自分も頑張ろうと思い立ったのだった。
 あの時の感情の爆発から3時間近く経った今、1人になった部室で改めて考えてみる。僕は本当に、そんなことをするくらい市村が好きなのかと。……答えが出てこなかった。少なくとも、直ちにイエスということはできなかった。前も思ったことだが、僕はただ市村に執着しているだけなのかもしれない。クラスの女子で1番好きな人を上げるとすれば市村の名前を真っ先に挙げることができる、しかし市村が自分の思っているほど素晴らしい人ではないということに、僕は薄々気が付き始めていた。どうして僕は彼女に執着するのか……ああ、いけない。部室という真面目な空間に1人きりになると、こんなことを延々と考え始めてしまう。18時45分、外も静かになってきたし早く帰ろう。作品を手に取ってドアの隣の棚にしまおうとした時、部室のドアがゆっくりと開いていくのに気がつく。しまった、先生にバレたかと思った。しかし開いたドアからひょこっと顔を覗かせて部室を見渡したのは、僕の良く知る人、市村真奈であり僕はもっと驚いた。
「あ、健くん。もしかして今まで、部活やっていたの?」
「あー、うん。集中していたら、こんな時間になっちゃって」
「楽しそう、いいなー……あ、それって何?」市村は僕の習作を指さす。さっき作っていた僕にとっては、立派な洋服の一部。しかしこうして客観的に見れば、ただの布切れにしか見えなくて少し悲しくなる。
「……今は布切れ、でも縫い合わせれば洋服になる」
「あ、洋服作っているんだ。えーと、これが袖かな?」
 市村は中腰になって、僕がさっきまで作業をしていた部位を指さしてじっと見つめた。袖だとわかってもらえて僕は内心嬉しかった。
「やっぱり、手芸部楽しそう……あれ、先輩は?」
「普通に、17時に帰ったよ。延長届け出していないけど、まあ大丈夫だって先輩は言っていた。でもまあさすがにそろそろ帰らないとやばいかも」
「あ、もう19時じゃん! 早く帰らないと」
 僕は棚に作品をしまい、ドアを目指す。市村は先に部室から出ようとした時、鈍い音を響かせた。
「いたっ!」
「ん? 大丈夫?」
 頭を押さえながら市村は背中を丸めて廊下に出る。その様子で僕は事情を察した。
「うん、大丈夫、ありがとう。最近よくやっちゃうんだよね、気を付けないと」
 ドアの枠を触りながら呟く市村。僕だと普段は気にしないそれを、市村は教室に出入りするたびに気にするらしい。背が高いのは大変だなと僕は心から思った。そして、さっきまでやっていたことを思い出して、今の活動が少しでも市村のためになればと思った。
「あ、ねえねえ健くん。ちょっと来て」
 物思いにふける僕に市村はその姿に不釣り合いなほどに無邪気な笑顔を浮かべてから、とことこと歩き出す。僕は鍵を箱の中に戻してから、市村に小走りでついていった。部室近くの階段を4階から1階まで下りた先にあったのは、僕の知らない玄関だった。
「ここ、知っている? 職員玄関。私、ここから来たの。今はだれもいないから、近道……あ、そうか、健くんは外履き向こうだよね。じゃあ、私もそっちに行くね」
 市村は靴を手にして、僕らは生徒用の玄関に向かう。僕にとっては遠回りになったけれど、不思議と悪い気はしない。それはきっと……さっき考えることをやめたことが、また頭を占領した。とにかく、今は考えるのをやめようと思い頭を振って邪念を払う。
「そういえば、今日はどうしてこの時間まで部活やっているってわかったの?」
「帰り道に、被服室の電気がついていたから、誰かいるのかなって思って。来た道を戻って、先輩と鉢合わせるのが嫌で、職員玄関から来ちゃった」
 にこりと微笑む彼女。しかし言葉の内容は暗くそのせいでその笑顔までも悲しく見えてしまう。
「私、バレー部に友達いないから。終わったらさっさと帰っちゃうから、戻ったら鉢合わせちゃうなって。……健くんは、部活楽しそうだね。いいなー」
 市村は背筋をすっと伸ばして、暗くなった空を見上げる。遠くなった彼女の顔、すらっと細長く伸びた体が僕の遠近感を狂わせて、僕の頭も呆然とさせてまるで夢の中にいるような安らぎを感じた。その時不意に湧き上がる疑問。以前から胸に貯めていたが、言う機会がなかったこと。言おうかどうかと考える前に、つい口に出てしまう。
「ねえ市村、そんなにバレー部嫌なら、どうしてやめないの?」
 ずっと不思議だった。僕の知っている市村は、物事をハッキリと、ダメなことはダメと、嫌なことは嫌と言う意志の強い人だった。なのにどうして今、彼女はバレー部にとらわれているのか。部長がそんなに強い人なのか。疑問だった。
 市村は首を傾げてしばらく考えてから、まっすぐ僕を見下ろした。
「うーん、せっかく誘ってもらったのに、断るのが申し訳なくて、それでずるずるって感じかな。私、人に流されるところがあるから。人に言われると、すぐにその気になっちゃう。自分でも思う」
 虚空を見つめながら淡々と語る市村の表情を僕はじっと見つめる。普段の飄々とした彼女が見せない表情。僕はそれを見て、納得した。
 しかしその瞬間、市村は僕をまっすぐ見て口を開く。「でも、やっぱり運動は嫌い。もう少し嫌なことが続いたら、やめるかも」
 街灯が彼女の瞳を輝かせていた。瞳孔が見上げる僕の眼を掴んだ。僕は蛇に睨まれた蛙のように彼女の視線に捕らわれた。同じ速度で並んで歩きながら、僕は市村に対してそんな緊張を抱きながら、同時にある種の安心感と不安感を抱いた。
「あ、私こっちだから。じゃあ、またね! 時間があったらまた手芸部でも会おうね」
 笑顔で手を振りながら去っていく彼女に僕は小さく手を振り返す。市村と別れて1人で道を歩いていると、自分の胸がドクドクいっていることに気が付く。懐かしい感覚だった。そして、訳がわからなくなった。もう少しで答えが出そうというところで、何かが僕を答えから引き離す。いやらしい試験問題を解いているようなもどかしさに駆られた。
 家に帰ると母が心配してきた。手芸部の時間が長引いたと答えると、今度は遅くなるなら連絡しろと叱り、それから僕は遅めの夕食を取る。それが終わると風呂に入り、部屋で一人の時間を過ごすころには9時近くになっていた。
 僕はベッドの上で一息をつきながら、頭の整理を始める。さて、何から思い出そうかと考える。市村を好きになったきっかけ、怖い後輩に注意した時のことは以前思い出した。今日はその次、小学6年生の卒業式直前から中学時代の僕の恋愛経験について思い出してみようと決めて目を閉じる。



 卒業式の2週間ほど前、僕は市村に告白した。市村を小学校の近くの、小さくて人のあまり来ない公園に呼び出した。「言いたいことがあるんだけど。できれば、2人きりで話したいから、放課後公園に来てくれない?」、そんな感じのことを言って誘ったことを覚えている。思い出すだけで、あの時の情景が瞼に蘇り、赤面してしまう。
 市村はそれを快く承諾してくれた。そして放課後に公園で僕は市村に告白した。直前まで緊張していたけれど、ここまで来たら言うしかない、せっかく来てもらったのに変にお茶を濁したらそれこそ失礼だと思い、僕は勇気を出して一息で言った。
「あの、僕、市村のこと、好きです」
 言っている間はそれほどでもなかったのに、言い終わると僕の心臓は今にも飛び出しそうなほどにバクバクと鼓動した。市村の顔を見ることが怖くて恥ずかしくて、僕はずっと俯いていた。
 ……額に何か温いものが触れた気がした。ゆっくりと顔を上げると市村と目が合い、そして彼女はにこっと笑って小走りで公園から出て行ってしまった。僕は訳がわからなかった。翌朝、市村に会うと普通に挨拶をしてくれて益々訳がわからなくなった。今でもわからない。そしてその直後、急な引っ越しが決まり、僕は地元を離れて他県の中学校に進学することになった。
 地元の中学校、急な転校のため手続きは入学式までに間に合わず、僕は1か月ほど遅れて中学校に入学した。その地域では、僕の地元のように小学校と中学校でメンバーが同じということはなく、小学校にもよるが大体2割が同じ小学校出身のクラスメートとなるらしい。つまり残り8割とは、中学校でできた友達というわけだ。そういう環境に、僕は1か月遅れて転校した。すでにある程度友達関係ができているところに僕が現れたのだ。僕はすぐに何人かと友達になれたが、それは入学早々友達作りに失敗したような人だったと思う。それでも、僕はとりあえず新しい環境で友人ができて嬉しかった。地元の小学校でも、いつも一緒にいるような友達、いわゆるつるみ仲間は居なかった。浩一は親友だと思っているが、別にいつも一緒にいるわけじゃないし、僕はそれが本当の友達関係だと今でも思っている。
 しかし、つるみ仲間がいないと授業で色々と困るのも事実だった。中学に入学してそういう相手を見つけられたのは幸運だったと思う。そしてその友達の勧めで卓球部に入り、だらだらとした3年間を過ごすことになった。中学校は普通に楽しかったと思う。クラスメートとの関係は良好で、冗談を言い合い、ふざけあい、年末には年賀状メッセージや本物の年賀状を送りあうこともあった。そういう関係は中学校を卒業した途端にパタリと終わってしまったと思うが、在学中、僕は至って平和で平凡な中学校生活を送ったのだった。
 そして……必然といったら不誠実かもしれないが、僕は中学校でも数度、一瞬だけの恋をした。……恥ずかしながら、全て一目ぼれみたいなものだった。顔だったり性格だったり、何かしらに惹かれて僕はしばらくその人から目が離せなくなってしまった。図書委員の人に恋したときは、その人が貸し出し当番の週は毎日のように図書室に通って本の貸し出し返却をした。クラスメートに恋した時は、席替えやイベントの班決めでその人と一緒になれるよう頑張った。
 しかし、一目ぼれで唐突に始まった恋は、終わるのも唐突だった。ある時は、校外にて人の悪口で盛り上がっているのを見て僕は冷めてしまった。面倒な授業課題を、他クラスの友人を利用してさっと終わらせているのを見て冷めてしまった。そしてそういう形で恋が終わるたびに、僕は市村を思い出した。彼女の人間性に惚れたあの出来事を思い出して尊敬し、好きだと再確認した。堅強な意志を持ち、自分がダメだと思うことをきっぱりと言うところが僕は好きだった。彼女が嫌うこと、それは弱いものいじめだったり、人の悪口だったり、一言で表せば人を不快にさせる行為全般を嫌っていたと思う。よく、漫画とかで人の告白を馬鹿にするシーンがあるが、僕は市村に告白した時、そういう被害妄想は一切しなかった。市村はそういう人ではないと信じていたから。
 さて、僕は2か月ほど前に市村と3年ぶりに再会した。最初彼女を見たときはその外見の変化に少々……いや、正直かなり驚いた。市村を見上げる度に恐怖してしまった。しかし結局1週間くらいで慣れた……いや、実は今も慣れていないかもしれない。最初の頃のように極度の恐怖を感じることはなくなったが、今でも市村の姿を見ると何かの拍子に怪我をするんじゃないかと思い、緊張してしまう。
 最初の頃は、結局は中身が重要だから、中身が変わっていないならどうでも良いことだと自分に言い聞かせていた。そう、言い聞かせることで僕は市村への好意を維持しようとしていた。しかし、市村も色々と変わってしまったらしい。きっぱりと物を言う意志の強い人だったのに、バレー部に利用されているし、口を開けば部活の不満ばかり言っている。よく、後ろの席で白井に愚痴を漏らしている。愚痴……良くない行為だと言われるが、僕が思うにきっと人にとって、特に女子にとっては重要な行為なのではないかと思う時がある。女性は共感を求め男は理由を求めると聞いたことがあるが、共感を求める人にとって一番使い勝手のいいものが愚痴や人の悪口なのではないか。まず、人に欠点が必ずある以上はネタに困ることはないし、相手も同様であるから1つくらいは共感できる要素を発見できる。愚痴や悪口、それは人が共感を得るために重要な行為なのではないかと僕は考えた。
 何が言いたいかと言えば、市村だって人間なのだから欠点があるのは当然だ。僕は市村と言う人間に期待しすぎていたのだ。しかしその期待は、僕にとっては唯一の彼女を好きになった理由だった。変わってしまった市村を僕はもう好きになれない、そう思い始めていた。しかし今日、市村はあの時と同じ目を僕に向けてきた。強い意志を具えた人が、確信を持って語るときの目。変わったといっても、全てが変わったわけではない。まだ、僕が好きだった市村の内面も残っている。実際、僕は今でも市村が好きだ。それは小学生からの執着かもしれないし、今の自分が純粋に抱いている好意かもしれない。
 ……ここで、市村に関していくつか疑問がわいてきた。まず、市村の趣味について。小学生時代の記憶では、市村はカッコいい人というイメージがあった。とても、ぬいぐるみやドレスに興奮するような人という印象はなかった。次に、市村の性格について。市村は自分自身のことを「流されやすい性格」と言っていた。これは、僕が彼女に抱いていたイメージとは真逆なものだ。そして最近の市村を見ていると、確かにそういう面を感じることがある。……以上から、恐ろしい結論が導かれるかもしれない。僕の見ていた市村は全てハリボテだったのではないかと。僕が尊敬した市村は、好きになった市村は何かに影響されてできた仮初めの人格だったのではないかと。
 そしてさらに恐ろしいことに気が付いてしまった。僕は小学生時代の市村のことを『ハッキリと物を言う性格』と思っていたが、それならどうして告白の返事があんなに曖昧だったのだろうか。僕への配慮だったのか、それはつまり拒絶を意味したのか。ああ、頭が混乱してきた。内面重視とは言っているが、そもそも1人の人間の内面にも好き嫌いがある。ある一面は好きでも、ある一面は嫌いになることがある。しかも、僕が見ている一面がその人の全てでないことは当然であり、となれば内面重視というのは何を持ってその人の内面を良しとできるのかがわからなくなる――

 考え事をするために閉じた目を再び開けたとき、僕の目には朝の光が差し込んでいた。部屋の電気はいつの間にか消えていた。きっと母が消してくれたんだと思う。
 時計を確認して、僕は起き上がる。体がだるく重い。布団を被らずに寝たのが原因だろう。寝ぼけた頭で朝の身支度をしている内に頭が覚めてきて、そして心が重くなってきた。僕は振り回されているだけだったのかもしれない。しかし、恋愛なんて所詮そんなものかもしれない。アバタもエクボというではないか。しかし、そうであるなら恋愛になんの意味があるのか。ただの暇つぶしというわけか?
 学校に向かい教室に入ると、今日も日常が始まる。前の席には浩一がいて、市村は今日もまだ来ていない。僕は浩一に挨拶をした。浩一は本を閉じて、後ろを向いて僕に話しかける。
「あ、健。おはよう。ねえ手芸部って布の切れ端とか余っていないか?」
「切れ端……まあ、いっぱいあるけど。試し縫いとかで使うから、ある程度大きいものは全部取ってあるし」
「少し、わけてもらうことってできる? 化学部で古い機械を手入れすることになって、その時にウエスが欲しいって部長に言われて。ウエスっていうのは、布の切れ端のこと。布は機械油をよく吸うから、それで必要だって」
「うーん……先輩に聞かないとわからない。今日部活で聞いてみるよ。多分、先輩いると思うし」
「いや、できれば今日欲しい。もちろん、貰えればの話だけど」
「そっか……先輩に連絡するの、なんとなく抵抗あるんだよね。良い人なんだけど、チャットだとそっけなくて。そうだ、放課後部室に来れば? 切れ端がどれくらい必要か僕はわからないし、浩一が説明した方が良いと思うし」
「確かに。なら、そうするよ。部室って、被服室だよね。4階の」
「うん。掃除が終わったら一緒に行こう」
 浩一との会話が一段落ついたちょうどそのタイミングで、ジャージ姿の彼女がドアからぬっと現れた。つまり、授業がもうすぐ始まるのだ。市村から視線を感じたが、僕はそれに気が付かないふりをして鞄の中を漁って教科書を取り出す。……今はいつも通りに振舞える自信がなかった。
 放課後、僕は掃除を終えて浩一と共に部室に向かう。部室にはすでに先輩がいて、いつも通りミシンを使っていた。
「失礼します、化学部です」浩一は先輩に会釈をする。先輩は黙って頷いてから、作業を中断した。
「あの、ウエスってありますか? 布の切れ端がたくさんあると聞いているので、いくつか貰いたいんですけど」
「ウエスはありません」先輩がきっぱりと答える。浩一は予想外の反応に戸惑っているようだった。僕も同じだった。切れ端を浩一に渡すかどうかはわからなかったが、ここまできっぱりと断られるとは思っていなかった。
「えーと、布の切れ端は、たくさんあるって荒井から聞いていて」戸惑いつつも、浩一ももう一度尋ねる。
「切れ端はあります。でも切れ端とウエスは違います」
 先輩は棚を開けて切れ端の入った紙袋を机の上に置き、浩一に見せる。僕も最近はよくここから切れ端を取り出して練習をしている。先輩は袋を漁り、薄手の布地の切れ端を浩一に見せた。
「切れ端は練習用として使うこともありますが、パッチワークに使うこともできるので、立派な素材と私は考えています。なのでこういうほつれ易い素材は、端処理を施して保存しています。端処理とは、端をミシンでジグザグに縫るなどしてほつれにくくすることです。普通は作品を洗濯時などにほつれから守るために行いますが、私はほつれ易い布は切れ端にも処理を施しています」
 先輩は薄手の布を軽く引っ張る。確かに、端には生地と似た系統色の糸で処理が施されている。僕もいま気が付いた。浩一は隣で感心しながらうなずいている。
「ウエスというのは、使い古された洋服を断裁して作った切れ端のことです。何度も洗濯された布は機械油をよく吸うので工場などで重宝されます。おそらく、化学部さんもそういった用途のために必要なのでしょう」
「あー、そうです。古い装置をこれから修理するので、それでウエスがあったらと部長に言われて」
「申し訳ありませんが、ここにウエスはありません」
「はい、そうみたいですね……」
 小柄な先輩に対して、浩一は背中を曲げてペコペコとお辞儀をしている。先輩はそれを無表情でじっと見ている。
 浩一が気の毒だと思った。以前から思っていたが、平岩先輩は少し不器用なところがあるらしい……自分も人に言えることではないと思うが。基本的に優しい人で他意はないと思うのだが、高圧的に聞こえる時がある。今のように、手芸について何かを質問すると、マシンガントークで色々教えてくれるのだ。教えてくれるのは嬉しいことなのだが、情熱的過ぎて辟易してしまう時がある。
 浩一はじっと布の切れ端を見つめながらコクコクと頷いていた。その様子は、先輩に脅されて狼狽える後輩といった感じだ。浩一はコクコクと頷きながら、ゆっくりと部室を見渡す。
「……あの、話変わるんですけど、先輩はいま何を作っているんですか? 自分、荒井から手芸部のこと聞かされて、面白そうだなって思っていたので」
 急に、先輩に質問を始める浩一。てっきりそそくさと帰っていくものだと思っていたので、僕は浩一の行動に少し驚いた。そして浩一の口元が小さく笑っているのに気がついて、妙な感じを覚えた。
「私が作っているのは、ギャザースカートというものです。こんな風に、腰回りにシワがランダムにできるのでカジュアルに見えます」
 スケッチを浩一に見せながら説明する先輩。無表情で淡々と聞かれたことを、プラスアルファの情報を混ぜつつ解説する。僕も知らないことばかりなので思わず聞き入ってしまうが、そもそもどうして浩一がこんなに興味津々なのか、化学部に行かなくて大丈夫なのかとの疑問が頭をよぎった。浩一は先輩の解説に相槌を打ちながら聞き入っていた。その様子はどこか楽し気だった。そういえば昨日、浩一が化学部の不満を漏らしていたのを思い出す。もしかしたら本当に、そのうち手芸部に来るかもしれない。部活で仲間ができるかもしれないと期待し、少し嬉しくなった自分がいた。
「……わかりました。すみません、色々と教えていただいて。ウエスの件は了解しました。失礼なことを聞いてしまってすみません」
「いえ、気にしないでください。わかってもらえたのならそれで大丈夫です」
 先輩は作業に戻り、浩一は部室から出ていく。
「失礼しました!」
 礼儀正しくお辞儀をして去っていく浩一。普段とは異なる様子に、僕は不気味な感じを覚えた。先輩はすでに自分の世界に入っているらしく、時々小さく笑いながら作業をしていた。僕も、棚から作品を取り出して昨日の続きを始めることにする。
「そういえば、今日は延長しますか? 正規の活動日なので、一応しておいた方が無難だと思いますけど」
「えーと、そうですね……いえ、今日は普通に帰るつもりです」
「わかりました」
 先輩は再び作業に戻る。楽しそうに裁縫をする先輩を見て、僕は昨日のことを思い出す。市村の服を作ろうと燃えていた昨日。その1日後に、こんな風になるとは思わなかった。感情とはなんて変わりやすいのだろうかと、自分が嫌になる。
 作りかけの作品を触りながら昨日の進捗を思い返し、これからの作業について確認する。ミシンを取り出して、端処理を終わらせて、縫い合わせて立体を作っていく。始めは恐る恐るやっていた作業も段々慣れてきて、作業中にも別のことを考える余裕ができてきた。そして僕は、昨夜考えたことを思い出した。それは、自分が抱いていた市村へのイメージは全て幻想だったのかというものである。
 ……今思うと、気づいていないわけではなかった気がする。それに、完全な人間なんていないのだから、嫌な一面があるのは当然だ。問題は、僕が好きになった一面すらも、それは幻想にすぎず、本当の市村の姿ではなかったんじゃないかということだ。ある意味で僕はずっと騙されていたんじゃないか、そんなことを思ってしまう。
 中学時代の恋を思い出す。何かのきっかけで惚れて、何かのきっかけで冷めて、冷めた後はその人に興味がなくなった。時には嫌悪すらするようになった。……感情とはどうしてこんなにも脆いのだろうか。自分が嫌になる。そして今度はついに、3年間尊敬し続けた人にまで、同じようなことをしそうになっている。アバタもエクボという諺がある。欠点と見られるであるアバタも、好きな人のそれはエクボに見えてしまうらしい。……つまり、恋とは洗脳の一種か。
 ふと、恋する気持ちがわからない、と言っていた浩一を思い出す。当時は尊敬と恋は同じだなんて断言していたが、今になって僕も浩一の気持ちがわかる気がする。その人の全てを知っているわけじゃないのに、どうして尊敬できる。どうして恋できる。騙されているだけじゃないのか。それなら、恋なんてする意味ないんじゃないか。みんなどうして恋をするんだ。……ただの魅力的な遊びにすぎないのか?
 頭の中で恋とは何かを考えながら、ブラウスを作っていく。作る前は憧れていた服制作、しかし手を出してみれば、布の切れ端を丁寧につなげていく作業。機械作業で行えるほどに簡単な作業。気が付けば僕の作品はすでに出来上がろうとしていた。
「もう少しで完成ですね」
「うわっ!」
 完成間近の作品を手にもって見ていたら、横から先輩に話しかけられる。急な出現に僕は思わず声を上げて驚いた。先輩は小さな声で謝ってくれた。そういえば、以前もこんなやり取りをした覚えがある。そのうち慣れるものなのだろうか……市村の身長のように。
「あ、すみません。で、あとは待ち針のところを縫って端処理したら終わりですか?」
「はい。思ったよりも簡単なんですね。服を作るのって」
「それはまあ、これは簡単な型ですから……これに飾りボタンをつけたり、刺繍をしたり、フリルをつけたりすることもできます。もちろん、他の型紙に挑戦するのも自由です。文化祭まで時間はありますし」
「なるほど……どうしよう」
 元々は、市村の服を作りたいと思って始めたことだった。……いま思うと、随分と大胆なことを思っていたなと冷静になれる。浩一にも似たことを言われた、25メートル泳げない人がトライアスロンに挑戦しているみたいだって。確かに、まずはジュースを奢るくらいから始めるのが普通だろう。そもそもそれ以前に、市村とはもっと仲良くなる必要がある。
「……すみません、すぐには思いつかないです」
「ゆっくり考えてください。こんなに機材が整っている部室なら、その気になれば何でも作れますから。服じゃなくてもいいんですよ、クッションでも、ぬいぐるみでも、ブックカバーでも。荒井くんが作りたいものを見つけてください」
 言い終えるとすぐに自分の作業に戻る先輩。きっと先輩には、作りたいものがたくさんあって、それを作ることに必死なんだろうと思う。毎日部室に来て、ほとんど1人きりで作業をしている。
 今の僕には、作りたいものがない。昨日まであったのに、今日はない。そもそも作ろうにも、採寸データなしには作れないものではあったのだが。昨日までの流れで行くなら、ブラウスの次に作るのはスカートのようなボトムズだろう。しかし、どうもその気になれない。僕は借りていた本を鞄から取り出してパラパラとめくる。昨日までは真面目に読んでいたのに、今は眺めるのが精いっぱいだ。僕の手芸へのモチベーションは完全に市村のためだったんだと自覚する。そして市村への好意が……いや、好意という感情の意味自体がわからなくなった今、何のやる気も出なくなってしまった。
 その日、僕は17時きっかりに部活をやめた。先輩と一緒になるかもしれないと思い少し緊張したが、先輩は下駄箱ではなく職員玄関の方に何の抵抗もなく向かっていった。きっと、普段からそっちを使っているんだと思う。見た目は真面目で優しそうなのに、結構癖の強い人だと思った。……見た目、中身。そういえば僕はどうして中身が一番なんて思い始めたのだろうか。普通の人は、顔を見て惹かれて、近くにいるうちに中身を知って、それから夢中になるんだと思う。もちろん、人によるのだろうが、僕があんなにも中身重視に小学生の時点でなっていたのは、なにか理由があるのだろうか。
 ……昨日に引き続き、寝る前にじっくり考えてみようとも思ったが、僕にはそんな元気も残っていなかった。頭を休めるため、僕はスマホにイヤホンを装着して音楽を聴きながら帰る。外はまだ明るく、運動場には多くの生徒が見える。僕はただ前を見て家を目指した。

 木曜日に部活に行って以来、しばらく手芸から離れる日が続いた。部室に行っても特にやることもやりたいこともなかった。たまに本をパラパラめくったり、インターネットで調べ物をするくらいで、次の製作に向けての具体的な準備をする気にはなれなかった。
 たまに、もしも部室に行って18時半まで残っていたらまた市村が来るのかもしれないと思う時があった。その度に、未だ市村に執着している自分が嫌になった。しかし同時に、どうして恋心自体に疑問を抱いた自分が執着できるのかと不思議に思った。市村が嫌いになったというわけではない、しかし以前のように尊敬しているわけでもない。普通の友達と考えられるかと思えば、そういうわけでもない。この微妙な心境がさらに自分をイライラさせる。
 ちょうど一週間が過ぎた木曜日の昼。弁当を食べながら僕はゆったりとした時間を過ごしていた。学校の課題をやり、手芸の本をパラパラと眺め、それに飽きたら今度は音楽を聴く。時間がゆっくりと眺めていく。こういう時、音楽は偉大だといつも思う。頭がぼんやりして、余計なことを考えずに済む。市村のことを考える時間も段々と減っていった。
「なあ健」
 肩を叩かれて、僕はゆっくりと目を開ける。浩一が真剣な表情で僕を睨んでいて、慌ててイヤホンを外し、音楽を止める。
「な、なに?」
「……この前の、手芸部の先輩の名前を知りたい」
 唐突なお願い。手芸部、という単語に僕は少しイラついた。せっかく過去を忘れて前を向こうとしているのに、浩一が邪魔をしているように思えた。しかし浩一の表情は、そんな僕の身勝手を許すまいとでも言いそうなほどに真剣で、しぶしぶ僕は手芸部のことを思い出す。
「先輩……平岩先輩のこと? 2年生、クラスは知らない」
「平岩さん……下の名前は?」
「えーと……ちょっと待って」
 普段、先輩を下の名前で呼ぶことなんてないので急に言われても思い出せない。僕はスマホを起動してメッセージアプリを開き、先輩の名前を探した。
「平岩菜月、だって……って、どうしてそんなことが知りたいの?」
 言われるがままに探してから、またイライラが再燃する。どうしてこんなことをさせられているのか、理由がわからない。それがまた僕をイラつかせた。
「平岩菜月さん……平岩菜月さん……」
 浩一は先輩の名前を小声で何度もつぶやいてから、再び僕の方を振り向く。凛々しい表情で瞳を輝かせる浩一がまるで別人に見えた。
「俺、未だに平岩さんのことが忘れられないんだ」
「……は?」
 意味がわからなかった。浩一は目を瞑ってしばらく考えた後、また僕を目を見据えてきっぱりと言葉を発した。
「俺、平岩さんのことが好きかもしれない」
「はあ……おめでとう……」
 勝手にしろ、と心の中で呟く。自分は今、恋愛のことは考えたくない。浩一から目を逸らして音楽を聴いていた。……音楽が頭に入ってこない。浩一は僕の機嫌が悪いと知ってすでに前を向いており、僕はその背中をぼんやりと見つめる。
 人を好きになる気持ちがわからない、浩一は以前そう言っていた。僕はその時、好きになるとは尊敬することだと答えた。今、僕らの立場は全く逆転している。僕は恋愛感情に疑問を抱き、浩一は先輩を好きになった。浩一がどういう経緯を経てそうなったのか、疑問をいかにして解決したのかについて興味が湧いてくる。
「……浩一」
「うん?」
 名前を呼ぶと、浩一はゆっくりと振り返る。僕は音楽を聴くのをやめて、浩一に質問をする。
「先輩の、どこが好きになったの?」
「どこ……」口元に右手を添えて考える。しばらくして返事があった。「全てかな」
 予想外の返答だった。顔とか声とか冷静さとか、そんなものだろうと予想していた。浩一が先輩と話したのは、僕が知る限りでは先週の1回きりだったはずだ。
「え、浩一って先輩とあの後話したの?」
「いや、木曜日の、ちょうど1週間前のあれだけ」
「それで、全てが好きになったと」
 浩一は瞼を閉じてしばらく俯いてから、ゆっくりと顔を上げる。「そうなんだよ」
「……すごいね」僕は皮肉を込めてそう言った。
「自分でも不思議なんだよ、どうして俺が1人の女性にこんなに夢中になっているのかって……ついこの間まで、恋愛感情がわからなかった俺が……」
 僕は黙って、浩一が頭を抱える様子を観察する。何が浩一をこうさせたのか、それを知りたかった。どのようにして恋愛感情を得たのか、それを。
「俺は以前こう思っていた。人が人を好きになるにあたって、面食いとか内面重視とか言われるけど、俺はこう思っていた。顔やスタイルは物理的に変形させることができる、人間性は化学物質で変えることができる、と。極端なたとえだが、事故で骨格が変わった前例も精神疾患で性格が変わった前例もある。そういう例がある、というのは否定できない事実だ。
 つまり好きな人の好きなところはその後いくらでも変わりえる不安定なものだ。となれば、人に対する好意というものに意味はない。そもそも人は多面的であって、ある人の全てを好きになることなんてないし、仮にそれが起こったとしてもそれは今後変わりえる可能性がある。俺はこう考えて恋愛感情というものを無意味と結論した。
 しかし、人々は恋愛をする。俺はそれがつい最近までわからなかった。お前も恋愛しているよな、はっきり言ってずっと意味不明だった。でも、今なら気持ちがわかる。でもその一方で合理的な理由が見当たらない。これは非常にもどかしい、しかし別に理由が見当たらずとも俺が平岩さんを好きという事実は確かに今ここに存在している」
 一気に言い終えた浩一は、大きく息を吸って吐き出し、それから目を瞑って再度俯いた。正直、彼の言っていることをすぐに理解することはできなかったが、言わんとしていることはなんとなくわかった。そして衝撃的だった。面食いを否定することは僕も同意できる。しかし浩一は内面重視も否定する。しかも僕の目の前で。理由は、どちらも簡単に変わるものだから。外見はよくわかる、内面も……一理あるかもしれない。どちらかというと、そもそも具わっていた内面が出てくるか出てこないかの方が大きい気もするが。
「男同士で真面目に恋愛語っているの、言い方悪いけどちょっと気持ち悪いよ……」
 白井が冷ややかに僕らを見下ろしていた。友人と気楽に真面目な話をしていたところを女子に乱入されると、一気に恥ずかしい気持ちになった。浩一は顔を上げて白井を澄んだ目で見上げる。
「いいよ、気持ち悪く思ってもらって。それくらい切実だから」
「それ、平岩さんにも同じこと言える?」
「言える。それでキモイって言われたら、俺はあの人の目の前から消える。あの人を不快にさせたくないから」
「うわ、なんか純情っていうか、重いっていうか……すごいね。切実だね」
「うん、切実な悩みだよ。お前は、恋愛したことありそうだよな」
「まあ、経験くらいなら大抵の女の子はあると思うよ。多分その平岩さんも」
「平岩さんが選んだ人なら、きっといい人なんだよ。少なくとも平岩さんにとっては」
「うわ、なんか青木キモイ! てか怖い。平岩さんが家でDVされていたらナイフ持って家庭内に踏み込んでいきそう」
「……するかも。できるかもしれない。そう考えると、俺やばいな。どうしたんだろう」
 真剣な表情で、冗談みたいなことを言い出す浩一に、僕は白井に若干の共感を示す。中学校3年間のブランクがあるとはいえ、小学生の頃からの親友だ。こんな一面があるとは思わなかった。浩一はさっき、人間性は化学物質で変えられるといったが、化学物質がなくても恋愛でこんなにも変えられるのだなと感心してしまう。
「うわー、ちょっと引くわー……まあそれはさておき。で、その平岩さんってどんな人なの?」
 汚いものを見るような目で見た後で、白井はニヤニヤと笑いながら浩一に尋ねた。恋の話をする時、人はいつもこうなるらしい。浩一も平岩先輩も、僕の恋に関して尋ねるときはこんな感じだった。
「手芸部部員2年生」
「……で。なんていうか、スタイルとか性格とか、そういうのは?」
「スタイル……身長は確か低めで150cmくらい。体型は……たぶん普通。性格は、なんていうか、好きなことになると早口になる感じ」
「なるほどー。ちなみに、眼鏡かけてる?」
「俺が見たときは掛けていなかった。普段はかけているのかな。健、どうだ?」
「いや、かけているところは見たことないよ」急に質問されて、少し驚いた。
「ん? なんか、色々曖昧なんだけど。てか手芸部の先輩とどうやって知り合ったの?」
「ちょっと野暮用があって、その時に話した」
「……何回話した?」
「1回」
「うわー、一目ぼれでそこまで……内面重視の荒井くん、こういう人どう思いますか?」
 急に話を振られる。正直こういう話をする気分じゃないが、無視する気にもなれなかった。こういう話題で女子の意見を聞ける機会はとても貴重だから。
「いや、別に何とも、浩一が好きになったならそれでいいと思う。てか、内面重視とか、今はそういうわけでもないし」
「え……」白井の表情が凍り付く。そんなに大層な発言だったのだろうか? 浩一の好意を否定しない、白井よりも優しい意見だったと思うのだが。
「もしかして真奈のこと、もう好きじゃなくなったとか……」
「え? ああ、そういうわけじゃないよ。ただ、好きとか、よくわからなくなってきただけ。前の浩一みたいに」
「健、そうだったのか……それで最初話を振った時、あんな不機嫌だったのか。悪かった」
「いや、別に大丈夫」
 僕と浩一のやり取りを見て、白井はわざとらしくため息をつく。僕らの間にわずかに緊張が走る。
「あなた達は、恋愛を大げさに考えすぎていると思う。恋愛なんて、テントウムシでもやることなんだから、そんな複雑に考える必要ないの。感情的に、好きなら好き、興味ないなら興味ない、それだけ」
「さっき俺の恋をキモイと言った奴に言われてもな……」小さめの声で浩一が呟いた。白井は彼を睨みつける。「もう、そんなんだからあんたはモテないのよ」
 浩一は一瞬イラっとした表情をするが、何も言わずにコクコクと頷く。
「それでね、恋愛っていうのは、ただ楽しいからやるものなの。オトナの遊びよ。子供のあなた達にはわからないかもしれないけど。テレビを見て笑ったりするのと同じ。かっこよくて面白そうな人を見つけて一緒にいる内に内面を知って、好きになって、告白して、付き合うの」
「なるほど。告白する前から距離が近いのが普通か」
「まあ、普通はね。もちろん色々な場合があるけど……って別にそれが言いたいんじゃなくて、恋愛っていうのは楽しいからやること。以上」
 浩一が曖昧に頷く。わかったような、わからないような、そんな曖昧な頷き。浩一の心情がよくわかる、なぜなら僕も同じ心境だから。テレビを見るのと同じで、楽しいからやることだと白井は言った。……確かに白井にとってはそれだけかもしれないが、僕らにはどうしてもとても高尚なものに思えてしまう。
 しかし、白井が言うことも一理ある気がする。つまり、僕らは恋愛を大げさに考えすぎているらしい。もっと気楽に考えた方が良いらしい。好きか、そうでないか……最も僕は好きという感情自体わからないので、何もできないのだが。
 教室がざわつく、人が増えてくる。時計を見るともう少しで授業が始まる。そしてそのくらいの時間になると……
「あ、彩名ちゃん」
「真奈、これ返しに来た。ありがとう」
「あ、これね。机の上に置いてくれればよかったのに」
「まあ、なんとなく手渡ししたかった。いま来たばっかだし」
 視界の外で行われる書物の手渡し、おそらく教科書か何か。僕は顔を上げて2人を見上げる。まず白井が視界に入り、さらに顔を上げていくと市村が映る。市村と目が合った、少し緊張した。彼女は口角を上げて、首を傾げる。
「ん? 健くん、どうしたの?」
「あ、いや、別に……」
 市村の顔から目を逸らすと、白井の顔が視界に入った。白井は冷たい目で僕を見くだしていた。表情だけで、何を言いたいのか予想が付く。意気地なし、きっと白井は心の中でそう言っている。
「じゃ、バイバイ」
「うん。てか、授業間に合う?」
「走れば大丈夫。じゃ!」
 白井は市村に手を振ってから、走って隣の教室に向かった。白井と入れ違いで先生が入ってくる。ちょうどそのタイミングでチャイムが鳴った。廊下を走る白井をぼんやりと眺めて、さっき白井が言ったことを思い出す。恋愛は楽しいからやる、以上。

 放課後がやってくる。この時まで僕は、部活に行こうか悩んでいたが、なんとなく顔を出すことにした。部室に行くとすでに平岩先輩がいてアイロンの準備をしていた。僕らはいつも通り会釈を交わす。それから僕は浩一のことを思い出して、平岩先輩のことをよく観察する。小柄で、髪を後ろでまとめていて、体型はおそらく普通、性格は少し癖がある。浩一はこの人の全てを好きになったと言っていた。全て、の中には当然外見も入っているだろう。
「……あの、どうかしました?」
「あ、すみません」咄嗟に謝る。じろじろと観察していた自分が恥ずかしくなった。しかし先輩は首を傾げてから再度問いかけた。
「別に怒っているわけじゃないです。荒井くんが、どうしたのか聞いているんです」
 無表情で淡々と質問をしてくる先輩。なんて答えようか……もう、考えるのが面倒になった。正直に言っても大丈夫だろうと思い、浩一のことを話すことに決めた。それで先輩について何かわかったら、明日浩一にいってやれば喜ぶだろう。
「すみません、特に深い理由はないです。僕の友達が、先輩を好きになったみたいで。それを思い出して、ぼーっとしていたんです」
「まあ……」
 口元に両手を添えて目を少し大きく開き、ぽっと赤面する。……こういう時、白井だったらどんな反応をするのかと僕はその時思った。同じような反応をするのだろうか。それとも、あっそう、くらいで終わるのだろうか。……なんとなく、後者な気がする。先輩は目を左右に泳がせてから深呼吸をする。
「……はい、わかりました」それだけ言って先輩は作業に戻った、アイロンで布地にシワをつけている。端処理など、裁縫ではよくやる作業だ。僕はそれを見て少し懐かしい気分になった。ちょうど1週間ぶりの手芸を楽しみにしている自分に気が付く。僕は棚から作品を取り出した。布の匂いが鼻をくすぐった。
 作品を眺めていると、待ち針がいくつか刺さっていることに気が付く。そういえば、最後に端処理をすれば完成というところまで進めていたのだ。そしてそれを終わらせる前に、次に何を作ろうかと考え始めて、来なくなってしまった。僕はミシンを準備して、さっと端処理を終える。待ち針を取り、完成したブラウスを眺める。柔らかい布で作られた、緑色の長袖のブラウス。サイズ的に僕が着ることはできない。そもそも、サイズはどうやって決めるんだろうという根本的な疑問に完成してから気が付く。作っていたときは初めての服作りに精一杯だったから気が付かなかったし、あくまで習作なので自分が着ることも他の人が着ることも考えていなかった。
「先輩、そもそも型紙ってどうやって作るんですか? 体のどこを測定すれば十分なんでしょうか」
 質問してから、後者の疑問はどの本にも書いてあることを思い出す。確か、着丈や肩幅のような基本的なものに加えて、シャツやブラウスによって細かく変わるのだった。あんなに本を借りておいてそんなことも知らないのかと先輩に呆れられる未来が見えた。しかし先輩は、一見作業しているように見えてぼーっとミシンの前で突っ立っていた。
「……平岩先輩?」
「……あ、はい。えーと、いま呼びましたか?」
「はい。えー……質問は型紙の作り方に関して何ですけど、その前に、先輩大丈夫ですか? なんかぼーっとしていましたけど」
「はい、大丈夫です、ごめんなさい。型紙の作り方に関してですが……本を紹介します。中級者向けですが、あれを読めば型紙の改変方法や作り方が学べると思います」
 先輩は本棚に向かい背表紙を眺め、本を取り出して僕に手渡す。ずしっと重みが伝わる。ソーイングの本は厚手のページにカラーで印刷されているので、普通の本よりも重い。僕はその重みで以前の感覚を思い出す。あの頃は必死で、入門書を乱読していたのだった。
「ありがとうございます。これ、借りますね」
 貸し出しノートを開くと、返却されていない本の題名が目に飛び込んできた。自分がこの1週間パラパラと眺めていた本だ。結局まだきちんと読んでいないが、僕はそれを鞄から取り出し返却して、新しい本を借りることにする。もう入門書では満足できないらしい。
「今回の型紙は簡単なもので、布を平面的に縫い合わせただけです。しかし、ダーツを入れて布に膨らみを持たせると複雑な形を表現でき、より着心地の良い服を作れるようになります。勉強頑張ってください」
「ありがとうございます」
 席に着いて僕は新しい本を開く。目次に知らない単語が並んでいるのを見て、僕は小さく興奮した。新しい世界に入っていく感じがした。
「……あの」
 読書をしている時、不意に先輩の声がしてそちらを見る。先輩はまだ本棚の前に立っていて、俯いて目を泳がせている。弱々しい声で尋ねてきたため、以前のように急に声を掛けられても驚くことはなかった。
「どうしました?」
「いや、ええと、その……私を好きになってくれた人って、どういう人だったか聞きたくて。私、1年生と関わったことってほとんどないので、それで誰なのか気になってしまって」
「ああ……」
 僕はしばらく回答しようか迷う。勝手にこういうことを言っていいものなのかわからなかった。しかし、第三者に勝手に噂するならまだしも、当事者なのだから教えても良いだろう。むしろ教えて先輩の気持ちや彼氏の有無を聞ければ浩一にもプラスになるだろうと思い、僕は教えることにした。
「青木浩一っていうやつです。この前、ウエスが欲しいっていって切れ端を取りに来たあいつです」
「ウエス……ああ、えー!」
 先輩は目を丸くして、さっきと口元に両手を添えて驚愕する。平岩先輩のここまで大きな声は初めて聞いた。まさかこんなにも驚かれるとは、まったく思わなかった。先輩はさっきよりも激しく目を泳がせ、体をそわそわと動かしている。
「ええと、あの人ですよね。ウエスが欲しいって言われて、私がウエスと切れ端は違うって言った時の……え、どうして……どうしてその青木さんは、それで私のことを……好きになってくれたんですか?」
「理由はよくわかりませんが、ずっと先輩のことが頭から離れないって。先輩の全てが好きになったとか、言っていましたよ」
「全て?」
 先輩は口元を押さえて真剣に考え込む。確かに、全てと言われてもよくわからないよなと僕は思った。顔とか性格とかならわかるが、『全て』ではあまりに漠然としすぎているし、第一あの1度きりの会話で先輩の全てがわかったなんて、いくら浩一が賢いとはいえ信じられない。
「まあ、はっきり言ってただの一目ぼれだと思います。そんなに、真剣に考えなくて良いと思いますよ」
 真剣な表情を浮かべる先輩に僕はそう言った。しかし先輩の耳には届いていないようで、相変わらず口元を押さえて真剣に虚空を見つめている。僕はしばらく先輩を見ていたが、やがて読書を再開する。先輩も恋愛が絡むとこんな風になるんだなと意外に思った。少し怖いところもあるが、なんとなくモテていそうなイメージがあったから。
 ドアが開く音がしてそちらを見ると、長野先輩が立っていた。数か月ぶりに見た気がする。長野先輩は本棚に直行するが、そこにはフリーズした平岩先輩が突っ立っている。
「平岩、ちょっといいか?」
「はい? ああ、本ね。どうぞ」
 平岩先輩はその場を立ち去り、自分の席を通過して窓の近くに立って外を眺める。長野先輩は貸し出しノートを記入しながら、そちらをチラチラと見ていた。
「なんかあったの?」
「僕の友達が平岩先輩を好きだって話をしたら、あんな感じに」
「ああ……君、平岩のああいうところ見るの、初めて?」
 苦笑いを浮かべて長野先輩は小声で質問する。僕は、はいと小声で返した。
「……まあ、見ていれば」
 平岩先輩は立ったまま窓の外を眺めて、やがて近くにあった椅子に腰かけて背筋を伸ばして窓の外を見ている。時々両手で頬を挟んだり、後ろで結ばれた髪を撫でたりしている。両手で顔を覆い、何度も激しく頭を上下に動かしてから、先輩は叫んだ。
「えひひひひひっ」
 静かな手芸部室に先輩の奇妙な笑い声が響く。長野先輩の方を見ると、僕を見下ろしてゆっくりと頷いた。
「えひ、えひひひっ……ひひひっ……えひひひひひっ」
 それからパチン、と両手で自分の頬を叩く。そしてまた窓の外をじっと見つめている。パチンパチンと数回両手で自分の頬を叩いてから、先輩は椅子から立ち上がってくるりと僕らの方を向いた。ニコニコと笑みを浮かべながら僕らを見ていた。
「あら、長野君。本の貸し出し? ぬいぐるみ作りは、順調?」
「うん。とりあえず市販のキットで、テディベアを作っているところ。それなりにうまくできていると思う」
「そうですか。彼女さんに喜んでもらえるといいですね」
「うん、まあ。……お前も、新しい彼氏できたんだってな」
「そんな、まだ付き合っていないし、あまり話したこともないし……いひひっ、でも今回は、うまく付き合える気がします……えひひひひっ」
 太陽のような微笑みから定期的に聞こえてくる独特な笑い声。僕の知っていた平岩先輩は冷静沈着で上品なお嬢様のような人だったので、目の前でニコニコ微笑んでいる先輩を見ているとどこか不気味な感じがしてしまう。
「……まあ、頑張れよ。とりあえず、その変な笑い声はやめろよ」
「わかっているの! 別にわざとやっているわけではないんだから。こんな風にすればいいっていうのはわかっているの」
 口を閉じた状態で口元に左手を添え、首を左に軽く傾けて上品に微笑み、「ふふっ」と笑う。先輩がやると本当に美しく、かわいらしく、思わず自分の心が動きそうになる。
「でも、本当に楽しくなると……白馬の王子様が迎えに来た、みたいなことが起こると、嬉しくなっちゃって……えひひっ」
 口元から白い歯が見えた瞬間に、さっきの妙な笑い声が聞こえてくる。見た目はさっきとほとんど同じなのに、さっき一瞬抱いた感情は出てこなかった。長野先輩はそれを見て、小さくため息をついた。
「……まあ、頑張れよ。じゃあ、俺はこれで」
「はい、お疲れ様です。あ、近いうちに菅原さんに、今年は作品出すのか聞いておいてもらえる? 別に急ぐ必要はないけど、先輩のを今年も出すってなると、一部修正した方が良い作品もあるから」
「ああ、聞いておくよ」
「よろしくお願いします。では、お疲れ様」
 ペコリとお辞儀をして長野先輩を見送る平岩先輩は、すでに無表情でいつも通りの先輩だった。ドアが閉まり、平岩先輩は自分の席に着き、作業を再開する。僕も、読書の続きを始める。……しかし先輩が作業を再開したのは一瞬で、定期的に机に伏してはさっきの妙な笑い方をして、冷静になるということを繰り返している。
「……あの、ごめんなさい、うるさくして」
「……いえ、あまり気にしていないです」本当は気になって仕方がないが、そう答えた。
「ありがとうございます。私、性格とか笑い方に欠陥があると言われて、これまで付き合った人とはそういう所が原因で別れていました。直そうと思った時はありますが、性格はそんなにすぐ直せるものでもないと思いますし、笑い方も……意識すればできますけど、やっぱり楽しくなるとあんな感じになってしまうんです。
 でも、青木さんは、多分今まで告白してきた人とは違う気がするんです。今までの人は、ほら、私、外見だけなら男受けする見た目をしているらしいので、それで、入学してすぐ先輩やクラスメートからだったり、新学期にすぐ後輩からだったり、何回も告白をされてきました。そして、何か月かで私の実態を知って、別れてしまいました。『思っていたのと違う』ってよく言われました。自分から追うこともしなかったので、基本的に自然消滅です」
 先輩は淡々と昔話をしてくれた。そして言い終えると大きなため息をついてから、また「ひひひ」と笑う。
「聞いてくれてありがとうございます。あの、その人の……青木くんの下の名前ってなんでしたっけ?」
「浩一です」
「浩一さん……ひひっ……化学部ですよね。化学部って、活動日はいつなんですか?」
 嬉しそうに微笑みながら質問してくる先輩。僕は頭の中を探すが、知らないことに気が付く。
「すみません、わからないです」
「いえ。そうですよね、すみません。……はあ、次はいつ会えるんでしょうか」
 頬杖をついて棚を見つめる。様子だけを見ていると、まさに恋する乙女の振る舞いだと思った。このことを浩一に言ったら跳んで喜ぶのだろうかと思うと、少し微笑ましく思えてくる。好きな人と両想いになるのはすごく嬉しいだろうことは自分でもわかる。
 ……僕自身のことに目を向ける。つい最近まで、僕は好きという気持ちがわからなくなっていた。4年間も片思いをした相手を好きになれる自信がなくなり、また恋愛感情そのものに疑問を抱いていた。しかし、燃えるように恋する2人を見ていると、そんな悩みがとてもちっぽけに思えてくる。白井も言っていたが、僕はきっと、答えの出ないものをごちゃごちゃと考えすぎていたのかもしれない。恋愛は楽しいからやる、テレビを見るのと同じ。そこまで恋愛というものを低俗化することは僕にはできないと思うが、もっと気楽に考えていいのではないか。なんらかのきっかけで惚れて、近くにいるうちにその人の内面を知って、嫌ならそこでやめて、そうでないなら続ける。ただそれだけのものではないのか。
 では、僕は市村を好きか。市村に惚れることができているか……その途端に疑問が湧き上がる。そして気がつく。僕はそもそも、市村とほとんど関わっていないのだから分かりようがないのだと。僕の頭にぱっと浮かんできた市村は入学式の放課後に、元気がない僕にわざわざ駆けつけて心配してくれた市村だ。それ以降、ほとんど関わっていない。頭の中で惚れているかどうかを考えることはできても、実際に自分が市村に惚れているかはわからないのだ――

「なあ健、平岩さんの好きなものって何か、知っている?」
 体育祭が終わり、土日を挟んだ月曜日の朝。登校するなり浩一が真剣な表情で僕に質問を投げてくる。そして僕は木曜日の出来事を思い出した。平岩先輩に浩一のことを教えて、先輩がとても嬉しそうにしていたのを思い出して微笑ましい気持ちになる。しかし好きなものと言われてもわからない。そもそも先輩と手芸以外の話をするのは木曜日が初めてだった。
「……わからない。そもそも先輩とは手芸の話以外はしないから」
「ああ、そうだよな。平岩さん、そんな感じする。体育祭の時、同じ黄組だったから何か接点あるかもって期待したけど、当然何もなかった。やっぱり機会は自分で作らないとだめだよな」
 先輩が同じ組だったというのを僕は今知った。この学校の体育祭はとても緩く、学年競技台風の目の練習も数えるくらいしかやっていない。練習の思い出もなければ、体育祭の思い出もほとんどない。……思い出と言うより、嫌な噂話しか思い出せない。
「なあ浩一、今日って部活だっけ?」
「いや、手芸部は火木だよ。でも、活動日以外に部室に行っても大丈夫だし、たぶん先輩はいる」
「そうか……俺、手芸部に入ろうかなって。別に先輩がいるからじゃなくて、前から化学部は合わないなって思っていたから。化学が好きなやつが集まっているってよりは、勉強が好きなやつが集まっているって感じがして。それで、入部の話を先輩にしてみたいと思う。今日の放課後、行ってもいいかな?」
「うん、大丈夫だと思うよ。先輩がいるかはわからないけど、多分いる。あ、何なら先輩に確認してみるよ。手芸部の話を聞きたいっていう人がいるって。平岩先輩副部長だし、部活説明会も主導的にやっていたから、部長に横流しすることはしないと思うし」
「わかった、ありがとう……最近、お前の言っていたことが少しわかったよ」
 不意に自分のことを指摘されて僕はメッセージを打つ手が止まった。
「恋とは尊敬することだって、なんとなくわかる気がする。まあ、それが全てとは思えないけど。恋はもっともっと、感情的でどうしようもないものだと思う。……あ、そういえば、市村とは何か進展は」
 僕はスマホに顔を落として、先輩にメッセージを打ちながら「特にないね」と答える。市村が好きか、そんなことは今はどうでもいい。問題は市村との接点が少ないこと。どうにかして市村と距離を近づけてみよう、仲良くなってみよう。それから、好きかどうかを決めようと、僕は最近ずっと思っている。
「あ、返信来たよ。了解です、だって」
「あー、放課後か……今から緊張してきた」
 体をソワソワさせる浩一。その様子がこの前の平岩先輩とそっくりで、僕は思わず小さく吹き出してしまった。先輩も、返信はいつも通り淡々としていたが画面の向こうではこんな風にしているのかもしれない。興奮して、変な笑いをクラスでしているのかもしれない。楽しそうだ。浩一の様子を見て、先輩の様子を想像して、僕は心からそう思った。確かに、恋愛は楽しいからやるものという白井の言い分もわかる気がする。
 ぬっとドアに人影が現れる。もう授業が始まると思い時計を見ると、まだ始業まで10分弱あった。市村の帰りがこんなに早いなんて初めてじゃないか……僕は思い切って後ろの市村に話しかける。
「今日は、朝練終わるの早いね」
「え?」ぎょっとする市村。普段話さないのに唐突過ぎたかと反省。市村は鞄を置いて席に座る。いま気が付いたが、今日の市村はジャージ姿じゃない。そもそも朝練自体なかったのかもしれない。
「うん。最近関節が痛くて、体育祭の時もハードル跳ぶのきつかったし。それで、部長に行って今日は朝練途中で抜けさせてもらったの。放課後は、行くことになるかもしれないけど……大会近いし……」
 しゅんと悲しい表情をする市村。そんな彼女に「大変だね」と安っぽい言葉しかかけることができない自分の会話力の無さを呪う。
「うん、大変、やめたい。健くんは、手芸部楽しい? 文化祭って何出すの?」
「文化祭かー……最近型紙使って練習用に簡単な洋服作ったんだけど、あれを出すのはつまらない気がする」
「え、健くん洋服作れるの!」
 ぱっと目を輝かせる市村に僕は思わず緊張した。
「まあ、簡単なのだったら」
「すごい! え、まだ入部して3か月くらいなのに、もうそんなに上達したんだ。あー、私も早くバレー部なんかやめて手芸部で頑張っていればよかったなー」
 両手で頬杖をついて市村は、ふう、とため息をついた。生暖かい鼻息が僕の体を弱々しくなでていき、なんとなく恥ずかしい。チャイムが鳴り、僕は急いで前を向いて授業の準備を始める。久しぶりに市村と話して頭が興奮している。さっきまでの会話が頭の中で反芻されている。……楽しかった、僕は素直にそう思った。
 放課後、慌ただしく教室を出ていく市村を目で追ってから、僕は浩一と一緒に手芸部室へと向かった。先輩にはすでに連絡してある。浩一が部室に入り、僕はその外で2人のやり取りが終わるまで待機する、という寸法だ。部室の前に来る、鍵は開いているので、中に先輩がいることはわかる。僕は無言で浩一に頷く、浩一も頷き返し、部室をノックして中に入った。
「こんにちは、あの、部活の説明を聞きたくて」
「はい。荒井くんから聞いています。よろしくお願いします」
 淡々としたいつもの先輩の声と、動揺が明らかな浩一の声が中から聞こえてくる。先輩は説明会と同じ調子で浩一に活動内容を説明する。とはいっても、自由なスタイルの手芸部でほとんど説明することなんて機材の紹介くらいで、浩一は化学部の見学の時のように、棚に並べてある機材について質問しては先輩が淡々とその説明をしていた。
「なるほど……えーと……」
「他に何か聞きたいことはありますか? なんでもいいですよ、部活のことじゃなくても、私の知っていることであれば」
 沈黙が続く。壁越しでないと2人の様子をうかがえないのがもどかしい。今頃きっと、浩一は顔を真っ赤にして先輩の前でそわそわしているのだと思う。先輩はよくわからないが、この前の様子から推して浩一と似た感じじゃないかと思う。
「……あの、先輩。自分、先輩のことが好きみたいです。もし良ければ……あの、友達になってもらえませんか?」
「友達? 友達で、いいんですか? それなら全く構いません。私、そんな友達を選べるほどたくさん持っているわけじゃありませんから」
「友達……いえ、交際してください。平岩さんが好きなんです。だから、俺と交際してほしいんです」
「はい……わかりました。よろしくお願いします」
「……こちらこそ、よろしくお願いします……」
 親友の晴れ舞台を聞き終えて、僕はトイレに向かう。ここで自分が入っていっても不自然だから、せめてトイレに行ってから戻ってこようと思った。トイレに行っている間、僕はさっきの2人の会話を何度も思い出す。そして、自分が勇気を出して市村に告白した4年前の出来事を思い出して懐かしい気持ちになった。あの頃の僕は、今の浩一のように感情的で、必死だった。浩一のように先輩からわかりやすいOKを貰うことは僕の場合なかったけれど、もし貰っていたら、今はどうなっていたのだろうか……良い方向に行っていたのだろうか。今も自分は彼女の隣にいたのだろうか。……それはさておき、僕はそもそも市村と距離が遠すぎて何も知らないということを最近自覚した。よって、まずは市村と仲良くなる必要がある。そのためにはどうすればよいのだろう。浩一の場合、手前味噌だが僕が仲介したから2人は恋仲になったのだ。僕の場合にそういう人はいるのだろうか……他力本願だと、自分が情けなくなる。
 ゆっくりとトイレを終えて、いよいよ部室に入る。ドアの前で深呼吸、偶然を装ってドアを開けると……浩一が倒れていた。
「あっ! 荒井君! あの……自分でもどうしてこうなったのか……あの、脈は普通にあるみたいです! 熱もなさそうです。なので、貧血か何かかと……保健室に連れていきましょう!」
 僕はいまいち状況をつかめないまま、変な格好で床に仰向けで倒れている浩一のそばにしゃがみこむ。決して辛そうな顔ではなく、むしろ微笑んでいるようにさえ思う。先輩に急かされるまま僕は浩一を背負って保健室へと向かった。部室は4階、保健室は1階。当然と言えば当然だが、高校に入って保健室に行くのは初めてだ。怖い先生だったらどうしようと一抹の不安を抱えながら、僕は時々おぶい直して浩一を運ぶ。先輩にドアを開けてもらい中に入り事情を説明すると、まずは浩一をベッドに寝かせる。そして先生が色々チェックして、「貧血か何かでしょう」とだけ言った。
「……何があったんですか?」尋ねると、先輩は考え込み、若干赤面した。
「えーと……青木君に告白されまして。それで、最初は気持ちを抑えていつも通り振舞っていたんですけど、隣に座って裁縫の基礎を教えていたら我慢できなくなっちゃって、それで誤解されないようにって頑張っていたら……あの、別に私が押し倒したとかじゃないですよ! ただ、軽く抱き着いただけです。そしたら、なんかふにゃっと倒れちゃって。倒れた拍子に頭とか強く打っていなければいいんですけど……」
 ベッドに寝ている浩一を心配そうに眺める先輩。……少しだけ、浩一が羨ましくなった。浩一自身が倒れた時のことを覚えているかはわからないけれど、覚えていなければ、今のことを教えたらどんな反応をするのか。……相思相愛、2人の関係をすでにそう呼んでいいのかはわからないが、僕は2人がとても羨ましい。
「先輩は、ここで浩一が目覚めるまでそばにいますか?」
「そば……はい、私の責任でもありますから」深刻な表情をしておきながら、少し嬉し気な先輩。
「なら、先輩の荷物ここまで持ってきましょうか?」
「あ、いえ。それは自分でやります。ミシンとかも片付けなきゃいけませんね。一度戻って、またここに来ます。荒井君は、自分の活動を続けてください」
 それから僕と先輩は部室に戻った。僕は席で読書をして、先輩は慌ただしく片づけをして、鞄を持って出ていく。
「それでは、お先に」
 僕に挨拶をしてから、先輩は小走りになる。恋愛する先輩を見送って残った僕はたった1人の部室で黙々と読書をしていた。部室が4階の外れに位置しているということもあってか、この時間の部室は異様に静かで落ち着かない。気が散って本の内容に集中できず、気が付けば僕は全く別のことを考えていた。さっきの続き、いかにして市村と距離は縮めるか。席は近いのに、市村は休み時間にほとんど教室にいないため接点がない。ああ、あんな市村に嫉妬しかできないバレー部の先輩なんて縁を切ってしまえと僕は叫びたくなる。体育祭の時に、市村がハードル走で3位を取った時の女子の先輩の言ったことを今でも忘れない。
「あ、見て。あれ、バレー部の見掛け倒し」「でか! 何センチあるの」「***らしいよ。でも、運動神経全然ない」「見掛け倒しじゃん」「だから言ってんじゃん。それに最近は、膝が痛いとか言い出して練習抜けることもあるし」「やる気ないならやめろよ。まあ、長澤がめちゃ贔屓しているから仕方ないけど」
 ……あんな人たちに市村が利用されていると思うと腹が立った。でも僕はあの時、あの先輩たちに向かって悪口を言うなと言うことはできなかった。僕は臆病な人間だからだ、そして言った後のことばかりを考えてしまい、ドラマのように感情的に動くことはできない。言ったところで根本的な原因は解決していないのだから、言っても意味がないとすら思っている……ただの言い訳だ。
 僕にできることは市村を労うことしか、励ますことしかできない。市村はバレー部には不満が大いにあるらしい。それは、普段の市村の様子やバレー部の先輩の様子を見ていてもわかる。……それを利用して、市村と仲良くなろうなんて邪な考えが出てくる。バレー部への不満を通じて仲良くなるのだ。でも、きっと僕にそういうことはできない。他の人は自然にそういうことをやるけれど、きっと市村も悪口で人間関係を深められるような人ではない……と僕は信じたい。それに、個人的に悪口は苦手だ。悪口を言われる方にも色々な事情があると思うし、言う方も同じだろう。悪口で得られるのは歪んだ一瞬の快楽だけで、結局何も解決しないのだから。
 ……思考が暴走してしまった。時計を見るとすでに17時を回っている。考え事をしてる間に部活が終わってしまった。僕は本を鞄にしまって帰宅する。手芸の中級向けの本……この部活に入った時のことを思い出す。市村の洋服を作りたい、そんな一途な気持ちだけで僕は動き出した。……もしも僕が服を作ったと言ってプレゼントしたら、彼女は喜んでくれるのだろうか。そういえば今朝、僕が洋服を作ったというと市村は目を輝かせてくれた。……結局は聞いてみないとわからないことだ。
 帰り、保健室の方を覗いてみるとすでに部屋の電気が消えていた。すでに浩一が目を覚ましたらしい。その後のことを考えながら僕は1人で帰路につく。7月に差し掛かろうとする時期の17時は、まだ昼のように明るい。僕は大きく深呼吸をして歩き出した。

「おはよう」
 ぼんやりと頬杖をついている浩一に声をかける。浩一は一瞬遅れて挨拶を返してくれる。
「ああ、おはよう」
「昨日は何があったの。ちなみに保健室まで運んだのは僕だけど」
「うん、知っている。平岩さんから聞いたよ。ありがとう」
「いつ、目が覚めたの? 17時に部活帰りに覗いてみたけど、もう保健室の電気消えていたし」
「運んでもらって、割とすぐだったと思う。それで目が覚めて、平岩さんに色々心配されて……それから一緒に帰った」
「なるほど。ちなみに、倒れた時の記憶は?」
「それがさっぱり。俺、どうしてあの部室で倒れたんだろう。少なくともお前に殴られたとかではないはずなんだけど」
 考えこむ浩一を見ていると、僕の口元が自然に緩みだす。耳打ちで浩一に先輩に抱き着かれたことを教えてあげた。浩一の顔がどんどん赤くなっていく。
「え……お前からかっていないよな?」
「全然。なら、先輩に聞いてみれば。僕も先輩から聞いただけで直接見たわけじゃないし」
「ええ……でも、それが本当なら先輩って結構大胆な人だよね。もちろん、どういう文脈でそんなことをしたのかはわからないけど」
「大胆。まあ、確かにそうかも。部室から下に降りたところに先生用の玄関があるんだけど、先輩そこをよく使っているみたいだし」
「うん、うん。まあ、あまりやらないよな。てか、お前の方が平岩さんのことよく知っているの、なんかむかつくな」
 むかつくと言われて、僕は笑ってしまう。こんなことで嫉妬している浩一は、浩一らしくない。僕は思わず笑ってしまった。そして、今の浩一に以前の僕を重ねて懐かしくなった。
 その時、ドアに大きな人影が現れる。昨日に続いて、始業よりも15分ほど早い。市村を見上げると目が合い、僕らは挨拶を交わす。
「おはよう」
「おはよう、健くん」
 にこりと微笑んで返してくれて、気持ちがいくらかほんわかした。後ろに市村が着席した瞬間、後ろで空気が動くのを感じる。
「ねえ真奈ちゃん。昨日のメッセージのことだけど」
「はい。お医者さんに言われているので、しばらく休みたいなと」
「でも、退部はしなくてもよくない? 大会はだめかもしれないけど、冬の大会だってあるし。なんなら春高だってあるしさ。まだチャンスはあるし、ここまでやってきたのにもったいないよ!」
「すみません。でも、やっぱり体は大事にしたいので。それに、ハッキリ言って私、バレーが好きじゃないんです。頑張ったけど、もう嫌なんです。ごめんなさい」
 殺伐とした空気に、教室全体が静かになる。後ろを振り向く勇気はなく、僕は目を伏せて浩一の方を見ていた。
「……私、別に部長としてじゃなくて、真奈ちゃんが好きだった。運動は苦手って聞いたいたけど、それでも頑張って上達しようとする真奈ちゃんがとても輝いて見えた。……それでも、もう嫌?」
「はい。すみません」
「……そう」
 僕らの横を通ってその人は前のドアから颯爽と出ていく。話を聞いている感じ、バレー部の部長らしかったが、外見も確かにそんな風だった。市村ほどではないが背が高く、強そうな女性だった。この人の前だったら、確かに圧倒されて中々部をやめるなんて言い出せないかもしれない。体育祭で、ヤンキーに対して僕が思った通りの行動をできなかったように。
「ねえ健くん」
 後ろから呼ばれて胸が跳びあがる。振り向くと、市村が伏せて僕を見上げていた。
「今日って、手芸部あるよね?」
「うん、普通にあるけど」
「うん、わかった。ありがとう」
 にこっと笑う市村。何を考えているのかと一瞬不気味な気持ちになったが、さっきの話を聞いていれば一目瞭然だ。授業が始まってしまったため、その確認は昼休みに持ち越すことになる。いつもは部活に行ってしまう市村も、今日は教室にいるらしい。白井が市村の隣の不在の席に勝手に座り、市村とおしゃべりをしながら弁当を食べている。市村に聞いてみたいことはあったが、これでは話ができない。僕は浩一と他愛もない会話をする。
「浩一、化学部って活動日いつだっけ?」
「火木。でも、他の日に行ってもいいけど、まあ誰もいないよ。実験は1人ではやるなって先生に言われているし、結局何もできない」
「火木か、手芸部と同じだね。じゃあ浩一、どっちに来るの? 半分ずつとか?」
「うーん……考えたけど、化学部はもういいかな。先輩も受験で来なくなったし、前にも言ったけどあの部活は勉強部だよ。課題を終わらせるための部活。先生もいるから質問できるし、そういうのが好きな奴には合うと思うけど、俺はあまり。勉強だったら、個人でやればいいと思うし」
「じゃあ、今日からお前も手芸部員か?」
「え、青木手芸部入ったの?」横から白井が首を突っ込む。市村も箸を加えながら目を丸く眉を上げて無言で驚いていた。
「まあ、そうだよ。化学部はもういいかなって」
「よりによって手芸部って……あ! もしかしてー、あのナントカ先輩目的で部活変えるとか? うわー、愛だねー!」
 にやにやしながら浩一をからかう。浩一は照れて白井から目を逸らし、口をもごもごとしていた。白井に目をつけられて気の毒だ。このタイミングでこういう話を振った自分も責任を感じてしまう。それから白井はくるりと僕の方を向いたので、僕は身構える。
「そういえば、真奈がバレー部辞めたって知ってる?」
「ああ、なんか今朝部長と揉めていたのは知っている。……正式に辞めたの?」
 市村は口に含んだ液体を飲みこんで、こくりと頷いた。「うん、部長にも納得してもらったと思うし。……って言っても、また勧誘されるかもしれないけど」
「でも、後期登録までは安心できないよねー。あの部長、あなたは部員だからって何か理由つけて誘ってきそう」
「うん、怖い。でももう辞めたいってはっきり言ったよ。私、バレーは嫌いじゃないけどバレー部は嫌い。あ、先輩とかには言わないでね」
「言わないよ。でもわかるなー、体育祭の時、真奈の悪口言っていたし。しかもうちらの周りで。しつこく勧誘されたからしぶしぶ入ったのに、先輩にそんな扱いされるなんて最低。やめて正解だったと思うよ。女バレの友達も、真奈のこと部長にペットとして訓練されているみたいでかわいそうって言っていたし」
「ペットって」市村は苦笑いを浮かべる。「まあ、そうだったかも。とにかく、今はやめてすっきり! あ、健くん。今日から部活でよろしくね」
 不意に微笑まれて、僕は無言で会釈する。今日から市村と一緒にあの部室で過ごすと思うと、少し胸がどきどきする。僕は、自分の作業にちゃんと集中できるのだろうか。……横から白井の視線を感じて、僕は慌てて話を繋げようと試みた。
「ちなみに、手芸部の先輩も結構厳しいよ。平岩先輩っていう、女の先輩」
「あー、覚えてる。フリフリの服作っていたかわいい人でしょ。あの先輩、厳しいの? すごく優しそうに見えたけど」
「平岩さんはたしかに口調は少し厳しいけど、別に理不尽ってわけじゃない」浩一が急に僕らの会話に口を挟む。少し、むっとした。「良い人だし、頼りになる人。手芸のことならなんでも教えてくれるし、一緒に考えてくれる人だと俺は思う」
「ちなみにその平岩さん、青木の片想いの人」
「おい、そういうこと軽々しく言うなよ」青木がポッと顔を赤くした。
「えー、別にいいじゃん。告白なんてする時にしないと、あんたみたいのはズルズルと先輩の卒業まで引きずっちゃうもんでしょ」
 もう両想いだ、と補足しようとしたが、胸に収める。白井の前でこれ以上言うと収拾がつかなくなりそうな気がした。それから僕らはほのぼのとした昼休みを過ごした。男女同数ずつ膝を並べておしゃべりする光景は典型的高校生という感じがする。
 放課後、ホームルームが終わるとすぐに浩一に誘われて一緒に部室に向かう。市村も誘おうとしたけど、僕が浩一に誘われるのと同じくらいの速さでバレー部の先輩につかまっていたので、先に行った。座って見上げていた時に想像していたよりもその先輩は背が高く、自分よりも10cmくらい高く、180cm程あることに驚きながら僕は教室を後にした。
 小走りする浩一についていき、部室に到着する。先輩がちょうど鍵を開けようとしているところで、浩一を見るなりにこりと柔らかく微笑んだ。
「青木くん、こんにちは」
「こんにちは、お世話になります」浩一はぱっと赤面して、先輩にお辞儀をする。
「まずは……そうですね、何か作りたいものとかありますか?」
 鍵を開けて中に入り、先輩はてきぱきと自分の作業の準備をしながら浩一に問いかける。その間も、先輩の表情はずっとにこにこしていた。浩一も先輩に質問されるたびに小さく驚き、緊張しながら返事をする。
「そうですね……すみません、手芸のこと何も知らないので、すぐには思いつかないです。何を作るのにどれくらいの技術が必要なのかとか、よくわからなくて」
「わかりました。じゃあ、基本的なところから始めましょう。とりあえず、本を借りてください」
 先輩は立ち上がり本棚に向かう。「このノートで貸し出しできます。まずは、この本がいいと思います。合わなかったら、ここら辺から合いそうなものを探してください。」
 流れるように浩一に指示する先輩、僕が入部したばかりの頃を思い出す。最初は本で基本的なことを必死に勉強したものだ。僕は中級者向けの本を読みながら次は何を作ろうかと考える……そもそも入部のきっかけは市村に服を作ることだったと思い出す。しかし市村はバレー部をやめたので、きっと手芸部に来て自分で自分の服を作るようになるのだろう。僕が彼女の服を作るよりも、市村が自分の服を作る方がよっぽど自然だ。ため息が出てきた。僕は結局何がしたかったのかと。
 自分の服を作ろうとも考えたが、実際僕は服に対して興味がないので、本に書いてあるような高等技術を使わずとも、今の技術で十分に思えてやる気が出ない。適当に、ぬいぐるみでも作ろうか。手ごたえがあって楽しそうだし、市村も喜んでくれるかもしれない。そうと決まると僕は本腰を入れて読書を再開した。目の前のカップルはいつの間にか横に並んで手芸の話をしていた。
「これが型紙といって、まあ手芸と言うのは言ってしまえば、この型紙に従って布を縫い合わせる作業なんです。でもそれじゃあ、ただレディメイドを自作しただけでオリジナリティがありません。オリジナル型紙を作れるようになったら、世界が広がります。青木君は初心者ですから、まずは型紙を使って製作してみましょう。ミシンは使ったこと、ありますか?」
「小学生の時に……でも、すみません。忘れました」
「じゃあ、ミシンの使い方も教えますね」
 ミシンを取りに席を立つ先輩。僕の時はほとんど放置だったのに、浩一には手厚く教えていて羨ましい気持ちになる。しかし、先輩は浩一に教えたいというよりも、ただ浩一の近くにいて話したいのだろう。そう考えて僕は気持ちを落ち着けて読書に集中する。と言っても、読んでいるだけでは身にならないのでその通りに作ってみることにする。ぬいぐるみ用の布を探すために席を立ち、布が保管されている場所を漁った。
「何されているんですか?」不意に後ろから声を掛けられて、僕は声には出さないものの驚いた。「ぬいぐるみを作ろうと思って、良い布がないかと」
「よくあるのは、シープボアでしょうか。厚手の布はこちらの引き出しに入っています……これはどうでしょう」
 茶色く、表面がもこもことした布地が差し出される。たしかに、ぬいぐるみによくある布だ。先輩にお礼を言って受け取ると、先輩はすぐに浩一の方に戻ってミシンの使い方を教え始めた。僕は茶色のシープボアを持って席に戻り、本を熟読してこれから何をするのかをきちんと把握することに努めようとする。後ろのドアがガラリと開いたが、僕は複雑な型紙を理解するのに精いっぱいで読書に集中した。
「あら、市村さん。お久しぶりです。あの、バレー部の方は大丈夫ですか?」
 心配そうな表情でドアの方を見上げる先輩。後ろを振り向くと、市村が目の前にいて少し驚いた。首を上げると市村と目が合ってお互い会釈する。そういえば今日から市村も参加することになっていたのだ。放課後にバレー部の部長と話しているのを見て、内心ほとんど期待していなかったが市村は手芸部を優先したらしい。
「遅れてすみません。バレー部は大丈夫です。私、バレー部やめましたから。顧問の先生にもきちんとお話して、退部届もさっき出しましたし、部長にも納得してもらえました」晴れやかな笑顔で市村はそう言う。
「そうですか。私、長澤さんと同じクラスなんですけど、市村さんのことをよく聞いていました。特訓、大変だったでしょう」
「はい。もう、一生分のバレーをやったって感じです。……でも今日からは手芸部で活動します。改めまして、よろしくお願いします」
「こちらこそ。あー、今年は後輩さんがいっぱいいて楽しいです。去年はほとんど私1人でしたから……さあ、市村さん。ちょうど青木くんにミシンの使い方を教えるところなんです。市村さんは、ミシンは使えますか?」
「小学校の時に授業で少しやったことがあります……でも、あまり覚えていないです」
「青木くんと同じですね。じゃあ、一緒に教えます」
 先輩は市村の手を取って、先輩の前の席に座らせる。そしてミシンの講義を始めた。「この部室にはミシンは3種類ありますが、今回使うのは普通のミシンです――」
 僕は、先輩の講義を聞く2人の様子をしばらく眺めてから、作業に取り掛かる。作るものはオーソドックスな茶色のテディベア。シープボアで形を作り、ボタンで目を、刺繍で口を作る。胴体と手足を別々に作った後で、それを縫い付けるというもの。そのためどうしてもだらんとした格好になってしまう。売り物なら安っぽいが、いざ作るとなるとブラウスほど簡単ではない。考えてみれば、平面の布で球形を作るのだから洋服のような立体構成とは複雑さが違うのはあたり前だ。しかし眺めている内に、なんとなく全貌がわかってきて思ったよりも簡単だと思えるようになる。僕はチャコペンを取り出して、型紙を布に写していき、パーツ作りを始めた。ミシン組は説明は一通り終わったようで、雑談を始めていた。女子に囲まれている浩一が少し羨ましく感じてしまうが、頭を振って邪念を振り払う。
「市村さんは、洋服を作りたいんでしたっけ?」
「はい! 私、服のサイズが限られるのでおしゃれとか全然できなくて。……そもそも自分に似合う服があるのかもよくわからないですけど」
「大丈夫です! コーディネートや服飾デザインというのは、何を着ても似合う人のためではなくて、市村さんみたいな人のためにあるんだと思います。だからしっかり勉強して考えて、市村さんに合う服を作っていきましょう。……そうだ! 荒井君もいいですか?」
 名前を呼ばれ、僕はチャコペンを机の上に置いて顔を上げる。
「10月に文化祭がありますが、その出し物をそろそろ決めようと思います。例年は個人が作ったものを展示しているのですが、もし皆さんが良ければ、市村さんの服を作ってみるというのはどうでしょうか?」
「え!」
 市村の顔が今にも発火しそうなほどに赤くなった。一方で隣の先輩はにこにこと微笑を浮かべながら僕らに尋ねている。座った市村と立った先輩では顔の高さがあまり変わらないため、そのコントラストが非常にはっきりしていた。
「俺は、面白いと思います。文化祭の時は、市村が完成した服を着て廊下を歩くとか、そんな感じですよね」
「あ、それも面白いかもしれません! 私は、ファッション雑誌みたいに市村さんの写真集にすることをイメージしていました。……あ!」両手を口元に添えて、目を丸くして先輩が僕を見る。何かあったかと、僕は身構えた。
「……でも、それは確か荒井君がやりたかったことですよね。市村さんの服を作りたいって。」
「え?」僕の顔が加熱し、嫌な汗が流れてきた。確かに以前、先輩にそのことを話したことがあった。しかしこの場に言われるのは非常に恥ずかしい。「……いえ、そういうこともできるなって思いついただけです。自分ひとりでは多分3年くらいかかると思いますし、市村さえ良ければ皆で作るのが早いし楽しいと思います」
 それらしい言い訳ができて僕はひとまず安心。市村は首を90度近く曲げて俯いており表情は確認できない……昔の自分のモチベーションに引かれていないか不安になる。
「そうですか。市村さんは、どうでしょう? ……嫌だったら遠慮なく言ってください。部員で協力して何かをするなんて、この手芸部では例外的なことですから、無理してやることでもないです」
「え、えーと……」市村はきつい角度で真下を向いたまま首を傾げるが、やがて返事をした。「……はい、すごく嬉しいです。少し恥ずかしい気もしますけど……でも、よろしくお願いします」
 顔を上げたときに彼女が僕らに見せた表情は、若干涙目で顔を真っ赤にして、幸せそうな満面の笑顔を浮かべていた。僕はそれを見たとき、心がきゅっと締まるのを感じた。
「じゃあ、決まりですね。あと3か月……まあ、頑張ればできると思います。市村さんは全体的に小顔でスタイルが良いですから、デザインも既成のものをベースにアレンジすればよいと思われるので、デザインにもあまり時間がかからないでしょう。私がいくつか候補を探したり作ったりしてみます。市村さん、全身写真、撮っていいですか?」
「あ、はい! よろしくお願いします」市村は恥ずかしそうに、同時に嬉しそうに返事をする。
 先輩はスマホを取り出して、市村が直立した正面と横、後ろ姿の写真を撮る。先輩は撮った写真を確認して、スマホを鞄にしまう。
「ありがとうございます。じゃあ、そろそろ活動時間も終わりますから、片付けましょう。あ、延長したい人はしてもいいですよ。本来は顧問の平沢先生に届け出を出した方がいいですが、ここまで見回りに来る先生もあまりいないので、延長は自由にして大丈夫です」
 先輩は準備した時と同じように、てきぱきとミシンや試し縫いの切れ端を片付けていく。僕も片付けようと思ったが、型紙を写し終えて布を切るまでは片づけができないことに気が付き、作業を再開する。先輩はすでに片づけを終え、他の2人は座ってぼうっとしていた。
「じゃあ青木君、帰りましょう」
「はい!」
 カップルが颯爽と部室を出ていく。さっきまでの賑やかだった部室が打って変わって静かになり、同時に空気が重く感じた。僕はチャコペンで型紙を慎重に写す。解散の流れで市村と一緒に帰りたかったが、今ここで終わらせるしかない作業だし、慎重にやらないと後に失敗してしまうので急いで終わらせることもできない。僕は、唐突にぬいぐるみを作ろうと思い立った過去の自分を呪った。
 しかし市村は帰る気配がなく、本棚で本を取り出して読書を始めた。……顔が熱くなる。これはチャンスだと思い僕は勇気を出して市村に尋ねる。
「……市村は、帰らないの?」問いかけると、市村は本から顔を上げて僕をじっと見つめる。「健くんが終わるまで待つよ」市村の愛想笑いに僕は思わず目を背ける。
「……ありがとう」僕はそれしか言えなかった。そして内心で自分が市村と関わるきっかけを作ってくれた運命に感謝した。僕は市村のどこが好きなのか未だによくわからない。しかしそれは、市村との接点が今まで皆無だったことも理由だと思う。市村と仲良くなり、市村を知ることが今の僕がすべきことなのだ。
 市村と一緒に帰る約束して、早く終わらせるために僕は何も考えず目の前の作業に集中する。型紙を布に当ててその縁をチャコペンでなぞる作業。最後のパーツを写し終えて、布を切り、余った布は引き出しに片付けて、パーツが描かれた布を自分の引き出しにしまい込む。そして僕は片づけを始めた。
 片づけを終えると市村が立ち上がる。肩くらいだった市村の頭がぐんぐん上昇していき、今度は僕が彼女の肩くらいになった。改めて市村の背の高さを思い知る。
「じゃあ、帰ろうか」「うん!」
 はるか上から、教室のドアと同じくらいの高さから見下ろされて笑顔で頷かれる。……正直、少し怖い。男子平均身長の僕でもそうなのだから、平岩先輩はもっと高いところから見下ろされているのだろうと思い、先輩を幾分か尊敬した。
「ちなみに、部室の鍵の場所って知っている?」
「ううん、教えて!」首を横に振って微笑む市村。僕は部室の鍵を閉めてから、副教科教員室の前の箱に鍵をしまった。「ここが鍵。活動日は火木だけど、その日以外もここから取って活動していいって言われている」
「そうなんだ。ちなみに健くんは、活動日以外も手芸部には来るの?」
 今までのことを思い返す。言われてみれば、結構部室には来ている気がする。しかし一方で、何をしようか悩んで活動日すら来ない日もある。「……あんまりかな。でも、今は文化祭に向けて色々やることがあるから、これからは来るようになると思う」
「うん、うん。あー、私も頑張らないと。でも、まさか部活全体で私のお洋服作ってくれるとは思わなかった」見上げると、市村は恥ずかしそうに赤面していた。僕はなんとなく見てはいけない気がして、前を見る。
「あ、ねえねえ。そういえば、健くんが私の服作ろうとしていたって本当?」
 不意の質問に僕は嫌な汗が流れるのを感じた。答えようによっては市村に嫌われてしまう気がして、言葉選びが自然と慎重になる。「うーん、何を作ろうか悩んでいた時にふと思いついて。市村、前に服のサイズが無いって言っていたから。それで先輩になに作るか聞かれたときにそう答えただけだよ。でもよく冷静に考えてみれば、女子の着る服を職人でもない男子が作るって、キモイよね」
「そんなことないよ! むしろ、ちょっと嬉しかった。てかそれ言ったら、青木くんも同じじゃん。私は別に、人の厚意をキモイなんて思わないよ。まあ、ちょっと恥ずかしいけど。あー、どんな服ができるんだろう。今からドキドキしてきちゃう」
 ……市村はこういう人らしい、小学生のころから変わっていなくて安心する。白井なら、気軽に男子のことをガキとかキモイとか言う。それは彼女たちにとっての標準語であり、深い意味はなく一般的な女子の反応だと思う。でも、市村は少し違う。きっと、優しい人なのだろう。僕は胸が温まるのを感じる。この人を好きになってよかったと、今は素直に思える。
「ちなみに市村はどういう服が好きなの?」続けて質問。貴重な下校時間を、市村と2人きりの時間を、市村を理解することに使いたい。
「うーん……言っても笑わない?」
「笑わないよ。人の好き嫌いを笑うなんてこと、しない」僕は市村の目を見てはっきりと答えてみせた。
「ありがとう。あのね、先輩が文化祭で展示していたみたいな、あんな感じのかわいい服。私が来ても似合わないのはわかるんだけど、自己満足でいいから着てみたいって憧れちゃう」
 説明会の時に見た服を思い出す。そしてそれを市村が来た時を想像する……確かに似合わないかもしれない。まず、スカートの丈が短すぎてバランスが悪い。それでも本人が着てみたいなら着させてあげたいと思ったが、そこは先輩次第だ。先輩が素晴らしいデザインを出してくれることを祈るしかない。
「あ、ねえねえ、そういえばさ」想像していたら市村に声を掛けられ、僕は慌ててそちらを見上げた。「もしかして、先輩と青木くんて結構仲良し? 青木くんが平岩先輩のこと好きっていうのは彩名から聞いていたけど、先輩も結構青木くんのこと気に入っていそうで、少しびっくり」
「えーと、それは……」言うってしまってよいものかと一瞬悩むが、同じ部活でこれから共に活動していく以上、バレるのも時間の問題だろう。「……昼休みは黙っていたけど、実は浩一と先輩は昨日から付き合っている」
 その途端、市村の頬に紅がさす。口角が上がり、にこにこと楽し気な表情になる。
「え、そうだったんだ。……告白はどっちがしたの?」
「浩一の方から」本当はもっと色々があったけれど、ややこしくなるのでそれだけ答える。
「そうなんだ。うわー、青春しているって感じで、なんか素敵」楽しそうに市村が言った。声を聴いているだけで分かる。白井も浩一も先輩も、恋の話になるとみんなこうなる。市村も例外ではないらしい。『恋は楽しいからやるもの』という白井の言葉がふっと思い出された。
「青木くん……少し前まで、女の子とか全然興味なさそうだったのに。やっぱり人は変わるんだね……」
 市村の声のトーンがやや下がる。僕は彼女の顔を見上げた。平凡な表情をした市村の顔がそこにあった。
「まあ、そうだね。青木も、つい1か月くらい前まで、人を好きになる気持ちがわからないとか言っていたのに、今は先輩に首ったけだし」
「うん、うん……」
 タイムリミット。分かれ道で僕らは別れる。「じゃあ健くん、また明日ね!」「うん、バイバイ!」
 僕らは手を振りあって別れる。市村の笑顔が僕の心を温めてくれる。今日は良い日だ、そんなことを思いながら僕は一人でまだ明るい道を歩く。
 一人になった途端、さっきまでの会話がレコーダーのように思い出された。まずは、今日知ったことをまとめてみる。市村は優しい人であり、他人の気持ちを考えられる人のようだ。またかわいらしいものに夢中になるというのも知った。……考えてみれば、これらのほとんどはすでに僕が知っていることだった。優しいのは入学式の時に確認している、かわいいもの好きなのは説明会の時に知っている。情報収集と言う意味では、今日はほとんど成功していない。それなのに、今日はとても充実していたと感じている自分がいる。どうしてか、何か特別なことがあっただろうか。
 ……市村の笑顔が思い出された。別れ際の作り笑顔、部室にて嬉しくて涙を流したときのあの笑顔。一度それらを思い出すと、瞬時に僕の頭を占領してしまう。
 違う! 見た目に騙されてはいけない。美人は三日で飽きて女詐欺師は美人なのだ。人間は中身、外見は当てにならない。……しかし僕は学んだ。中身も決して信用できるものではない。僕が見ている内面は決して客観的なものではないし、人は変わるものだ。外見も内面も同じくらい当てにならない。それなのにどうして僕は、市村の優しさに心を動かされ、市村の笑顔に胸をときめかせているのだろうか。わからない。考えることに意味があるのかもわからない。
 それでも僕は考えてしまう。さっきまでは市村と会話をするのに必死で何も考えていなかったけれど、1人になると僕はどうしてもそういうことを考えてしまう。そして悩む、自分は本当に市村を好きなのかと。そして、合理的な理由が見つからないと自分の感情が信じられなくなる。そしていつか……一瞬の気の迷いで市村のことを遠ざけてしまいそうで恐ろしくなる!

 ――昔から僕は外見に惑わされるタイプだった。女子の見た目で一目ぼれをしてしまうタイプだった。小学5年生の時に初めて同じクラスになった女子がいた。彼女は背が高くてよく目立つので存在は多少知っていたが、同じクラスになってその美しさを初めて知った。同い年の小学生とは思えないほどに、冷静で大人びて見えた。実際、身長も当時すでに成人女性くらいあったと思うので、彼女がランドセルを背負って校帽を被ってさえいなければ僕は彼女を中高生くらいには誤解していたと思う。
 彼女はクラスの人気者だった。特に女子からは人気で、彼女の周りにはいつも数人の女子がいた。休み時間にはいつも教室の外に出て友達と遊んでいた。一部の男子からはその高身長をからかわれていたが、彼女自身は特に気にしている様子はなかったと思う。ある時僕は彼女に一目ぼれした。おそらく出会った時から気になっていたと思うのだが、気持ちを自覚したのはそれから1か月くらい経ってからだった。小学5年生、初夏の出来事だった。それまで女子といえば対立する相手だったので、自分の心境の変化に自分でも驚いた。男が女を好きになるのが普通であるというのは知識としてはぼんやりと知っていたはずだが、当時の僕は自分の身にそんなことを起きるとは直前まで夢にも思っていなかった。
 新学期が始まって何か月か経った時、クラスで席替えがあった。その時先生はおらず、児童だけで学級代表を中心に席を決めた。
「まず、視力とかの問題でこういうの席じゃなきゃ嫌って人、いますか?」
 先生の真似をして代表が席替えを始める。真っ先に手を挙げる人はおらず、どこの席がいいかなんて、前後左右の友達とおしゃべりをしている。その時一人の女子が手を挙げた。
「あ、私、身長高いから後ろの方がいいかな……って」
 にこにこしながら、少し照れ臭そうに、しかし甲高く通る声ではっきりと彼女はそう言った。その途端、クラスの一部から笑いが起こった。学級代表は笑いながらそれを容認した。
 クラスが緩やかな笑いの渦に巻き込まれる中で、僕はその光景を信じられずにいた。大人びて冷静だと思っていた彼女の正体を知ってショックを受けていた。もちろん、彼女は悪くない。単に僕が彼女に幻想を抱いていただけなのだ。僕は外見で内面までを知った気になっていた自分が恥ずかしくなった。その日、僕の初恋が終わった。そして人は中身であると固く信じるようになった――



 浩一が読書をしている。カラー印刷で分厚いそれを見てソーイングの入門書と直感する。最近の浩一はいつも手芸の勉強をしている。部活の活動が活発になり、毎日が充実していくのを感じる。平岩先輩と市村はデザインを決め、その間男子は手芸の技術を磨いている。
 浩一が僕に気が付いた。本を閉じて後ろを振り返り、薄笑いを浮かべる。
「おはよう」
「ああ、おはよう。……最近、ずっと平岩さんと一緒に帰っている」
「順調だね。楽しい?」わかりきっていることを尋ねる。浩一は笑顔を隠し切れない様子で応えた。
「うん、すごく楽しい」
 幸せそうな、穏やかな笑顔で浩一は答える。そんな浩一が僕はとても羨ましい。余計なことを考えて気持ちがわからない自分に対して、本能のままに恋する浩一はとても能天気で幸せそうで、嫉妬してしまう。
「……あと、いくつか気が付いたことがある。平岩さんは結構大胆だということと、笑い方が独特だということ」
「ああ、まあそうだよね……」
 やっと気が付いたらしい。平岩先輩に彼氏がいない理由の1つだと、本人から聞いたことがあった。しかし浩一はそれについてはさほど気にしていない様子だ。
 そしてふと、僕の頭に2つの疑問が浮かんだ。浩一は一目ぼれで先輩を好きになったわけだが、もしも最初に先輩のそういう一面を知っていたら、浩一は先輩に好意を抱いたのか、という疑問である。また、そういった一面を知った前と後で感情の変化はあったか、という疑問だ。僕はその疑問を直接ぶつけてみることにした。浩一のことだからきっと役立つ答えをくれるだろうと信じて。
「ちなみに、先輩のそういう一面を見て、何か先輩への見方は変わった?」
「ん? どういうこと?」
「一目ぼれした時は、先輩がそういう人って知らなかったわけじゃん。でも今は知っている。その前後で、先輩への気持ちは変わらないのかなって」
 しばらく悩んでから浩一は答える。「まあ、先輩への見方は当然変わったよ。あんな愉快な人って思っていなかったし。でも、それと好きかどうかは別で、今も昔も俺は平岩さんが好きだ」
 率直で素直な答えに、自分まで恥ずかしくなってしまう。僕は勢いに乗って続けて質問する。
「じゃあ、もしも告白した時に平岩さんがそうだと知ったら? もしそうだった時、気持ちが冷めないでいた自信はある?」思わず口調が興奮してしまう。知らない一面を知っても揺らがない気持ちがどうやって生ずるのか。実際、平岩先輩の元カレたちはそれで冷めたのだった。しかし浩一は違う。どうして? 僕は今、それが大いに疑問であった。僕の口調は思いのほか強かったらしく浩一は戸惑っていたが、真剣に考えてくれた。
「……まあ、はっきりいってわからない。実際の告白はそうじゃなかったわけで、やり直すこともできないから。でも、別に俺は平岩さんの上品さとかかわいらしさとかそういうものに惚れたわけじゃない。平岩さんの……全てが好きになった」
「その、浩一の言う全てが、全て浩一の幻覚かもしれない」
「まあ、確かにそうだけど。決して客観的なものではないと思うし……ああもう、面倒くさい! 好きに理由なんてないよ! ……でも……確かに、お前の言うこともわかる。どうしてあの一瞬で俺は平岩さんの全てを好きになって、今でも好きでいるのか。もちろん、付き合って数週間だから何も言えないけど。……1つ思ったことがあるんだけど、いいか?」
「うん、教えてほしい」僕は身を乗り出して浩一の話を聞いた。
「前にも言ったと思うが、俺は恋愛がわからなかった。外見も中身も容易に変わりえるものであるし、気が付かない欠点も常に存在している。どうしてそんなものをきっかけにして恋愛が始まり得るのか不思議でならなかった。でも、自分がこの恋愛感情に侵されてから気が付いた。外見とか内面で好きになる、そんなに恋愛は小さなものじゃない。もっと壮大なものなんだ。つまりその人の全てを好きになるのが恋愛なんだ。アバタもエクボっていうだろう、それはきっとそういう意味なんだ。欠点も含めて好きになるんだ。恋愛感情っていうのはそれくらい強い感情なんだよ。この感情がどうして起こるのかは、きっと心理学とか動物行動学とかの問題で俺にはよくわからないけれど、大多数の人が持っていることは確かだ。
 そしてそれがどういう意味を持つかと言うと、さっきも言った通り外見とか中身というのは簡単に変わる不安定なものだ。しかし全てを好きになれば、どこか一部に冷める瞬間があっても他のところでその欠陥を補うことができる。……伝わるかな? 例えば精神病にかかっても容姿が好みなら我慢できる、みたいな感じ」
 そこまで言って浩一は考え込む。言わんとしていることはわかるけれど、随分極端な意見だというのが僕の現状の感想だ。浩一は首を傾げながら頭を上げる。
「……ごめん、自分でもよくわからなくなってきた。まあ言いたいことは、俺が今まで考えてきた恋愛は小さすぎたっていう経験談だよ。自分はきっと、平岩さんが変な性癖を持っていても、多分受け入れられるという自信がある。恋愛感情っていうのは本当に強い感情だって思った。俺は理科が好きだし、理科を勉強しているときは興奮するけれど、その好きと恋愛の好きは違う。恋愛の方が2段階くらい上な気がする。化学を好きなのは俺の一方的な行為だけど、恋愛は向こうからも好いてもらえる。これって本当に素晴らしいものなんだって感じたよ」
 話し終えた浩一はやや息切れしているようだった。僕は浩一の言うことを真剣に聞いていた。恋愛感情は強い、全てを好きになれ、外見や中身にこだわる恋愛は小さすぎる……なんとなく、役に立った気がするが、実際のところよくわからない。浩一は結局恋愛感情とはいかにして生じるかには答えていない。どうして平岩先輩を好きになったのかには答えていない。僕はその段階で色々と考えてしまう。市村と距離が近くなって色々彼女のことを知るようになった。一緒にいる間は楽しいし好きだと思えるが、別れた途端に色々と考え込んでしまう。全ては自分の妄想なんじゃないかと不安になる。自分の感情が信用できない。この不安をいかにして解決すればよいのか、そもそも浩一はどうしてそんな不安を抱えないのか。それが僕にはわからない。
「おはよう、健くん」
 頭の上から降りかかる彼女の声。僕は目を開けてそちらを見上げる。市村の笑顔が僕を見下ろす。時計を見ると、始業数分前。
「おはよう。まだ、この時間に来るんだ?」
「うん。早く来たらバレー部の人と会いそうで嫌だから。大会でピリピリしていると思うし。まあ、私のせいでもあるんだけどね」
 意地悪な笑みを浮かべる市村。無邪気というか大胆というか、やる時にはやるタイプだと最近知った。バレー部に関しては情の面で執着はあるものの、『あの部活の人に、優しくする価値なんてない』とまで言っていた。その意志の強さに僕は小学生時代を思い出し、同時に少し恐ろしくなった。いつか僕もそんな風に縁を切られてしまうんじゃないかと……
「まあ、でもあまり良い人じゃないっていうのは知っているし、それがいいと思うよ。あ、話変わるけど、平岩先輩との話はまとまった? 結構揉めていたけど」
「揉めていたっていうか、先輩凝り性だから。私はどれもかわいいデザインだと思うし、それが着られるって思うとすごく嬉しい。でも先輩は『モデルの良さを最大限に出す服でなければならない』っていって聞かなくて。でも、そろそろ決めないと作る時間ないから、今日には決まると思う。健くんは、今は何を作っているの?」
「自分はぬいぐるみを作っている。中級編の勉強、って感じかな」
「あ、なんかかわいいことしている。なんのぬいぐるみ?」
「テディベア、王道だよ。市販の型紙をそのまま使っているだけだけど」
 話している最中にチャイムが鳴ってしまう。僕はしぶしぶ前を向いた。最近は毎日部活で一緒になるし、帰りも一緒になる。帰りは、手芸の話や授業の話など、他愛もない話をして一緒に帰る。時々バレー部の部長の愚痴を聞かされて、そういう時は少し嫌になるけれど、一緒にいられる楽しさの方がまだ大きい。

「市村さん、このデザインでどうでしょうか? 正直、もっと練りたいところなんですが、さすがにそろそろ決めないと時間がないですから」
 僕らが部室に入るなり、先輩がドアにやってきて市村にノートを見せた。ペンと色鉛筆で書かれたイラストを、先輩が腕を伸ばして市村の顔の前にスケッチを掲げる。僕からそれを見ることはできないが、市村は真剣に眺めている。邪魔しちゃいけないと思い、僕はひっそりと先輩の横を通って部室に入った。浩一はすでにミシンの準備をして練習を開始しようとしている。
「浩一は、どんな感じ?」
「とりあえず基本的な用語と道具の使い方は覚えたと思う。あと、コンピュータミシンの使い方も覚えたから簡単な刺繍ならできると思う」
 コンピュータミシン、自分の使ったことのない機械をすでに使いこなす浩一に、僕は若干の危機感を覚える。先輩も浩一も頑張っている、僕も頑張らないといけない。頭、手足、胴体はすでに完成しているぬいぐるみを自分の引き出しから取りだして作業を開始する。先輩と市村も席についてデザイン決めの最終段階に入っている。
「ブラウスとミモレスカートの色ですが、同系色の濃淡か、補色か……市村さんは大人しいイメージがあるので。いや、でもモデルってなるとどうなんだろう……市村さん、どっちが着たいですか?」
「自分は派手なのが苦手なので、こっちの濃淡緑の方が……いいです」
「わかりました、ならこれにしましょう。スカートはミモレのAラインで濃緑色、ブラウスは淡緑色、……襟付き、長袖、にしましょう。今から型紙を作ります。市村さんは、基本的なソーイングの勉強をしてください。わからないことは荒井君などに聞いてください」
「わかりました」
 先輩が勢いよくノートのページをめくり、スケッチを始める。デザインが決まり、型紙ができれば、いよいよ服制作が開始する。市村が僕の隣に向かってくるのに気が付き、僕は目線を先輩から作品に映す。
「わからないことがあったら、教えて」
「うん」
 僕は頭と胴体をはしご縫いしながら頷いた。市村がミシンを準備して、本を読みながら何かをしているのが横目に見えるが、作業中の僕は手元から目が離せない。それに、最近の部活の雰囲気は活動中の私語を許さない。しても先輩は怒らないかもしれないが、デザイン作りに煮詰まると先輩は部室をふらついて僕らの作業を凝視して色々と指摘してくるので油断はできない。
 部室が静かになる、時々ミシンの音が響く。僕らは各々がやるべきことに全力を注いでいる。そんな静寂を破るように勢いよくドアが開いた。
「あれ、なんか人多いね」長野先輩の声が後ろで聞こえる。僕は平岩先輩の方をちらりと見たが、聞こえていないかのように作業を続行している。先輩の席を1つ開けたところで作業をしている浩一は長野先輩を一瞥して会釈をした。長野先輩は本棚のそばで何かをしてから、ゆっくりと部屋を出ていった。
 静かな部室、4階に位置する部室に校庭からの運動部の叫び声が響く。時々先輩は立ち上がり、後ろ手を組んでゆっくりと部屋をふらついたり、窓の外を眺めたりしている。
「青木君、ちょっとそのミシンで縫ったもの、見せてもらえますか?」
「はい」
「……きれいだと思います。ロックミシンで端を処理したら完璧です。ロックミシンは使ったことありますか?」
「いいえ」
「なら、教えます。荒井君は、使ったことありますか?」
「いえ。名前だけなら聞いたことがありますが。端をシマシマに処理するやつですよね」
「そうです。他にも、伸縮性のある生地を使う場合はロックミシンで処理をしないと生地の伸縮性が活かされません。ロックミシンの処理の方がきれいで丈夫なので、できれば今回は全員ロックミシンを使いたいところです。使い方を教えるので、皆さん作業の区切りがついたら集まってください」
 市村と浩一はすぐさま先輩のところに集まる。僕は両腕を縫ってぬいぐるみ制作の最終段階に入っていた。縫い付けまで終わらせようか迷ったが、途中でもやめられる作業なので針を針山に刺して席を立つ。新しい道具に興奮している自分に気が付く。
「あ、俺が運びますよ。多分あれですね」椅子の上に乗ってミシンを運び出そうとする先輩のもとに浩一が早歩きで向かう。先輩は無表情で頷いて、浩一にその役目を任せた。浩一がミシンを慎重に運び、机の中央に設置する。先輩がすぐさま電源ケーブルをコンセントにつなぎ、糸の設置などをして、パンと手を叩いた。
「えー、ロックミシンは端処理を行うものです。下着やトレーナーを見ると、布の端がかがり縫いという、梯子のような縫い方をされているのがわかります。それを行えるのがロックミシンです。普通のミシンでも簡単な端処理はできますが、かがり縫いの方が丈夫できれいです。
 そしてロックミシンが他のミシンと大きく異なるのは、返し縫いがないことです。なので糸の端を自分で処理する必要があります。そこをよく覚えてください」
 先輩は前置きの説明を終えるとすぐに実演に入る。何かを語るときに早口で無心になる先輩を見て、ふっと浩一の顔が浮かんできた。浩一を一瞥すると、真剣な表情で先輩の説明に耳を傾けていた。……気が合うとはこういうことなのだろうか。それなら僕の場合は……僕は先輩の早口の説明についていくために考えるのをやめてそちらに集中する。先輩を囲んで指導を受ける様子は授業を彷彿とさせ、僕は今から始まるプロジェクトに胸を躍らせた。部活終了のチャイムが鳴るが、誰も気にせず先輩の指導に集中していた――
 ロックミシンの説明が終わる。大体の使い方はわかったと思う。本当に使えるかはやってみるまで分からないが、わからなくなったら先輩に聞くか本で調べるかをすればいいと思った。
「何か、質問はありますか? 今でなくても、わからなかったらいつでも教えるので聞いてください」
 誰も話さない。僕らを見回して先輩は一度頷いた。
「じゃあ、今日の活動は……あ、すみません。最後に、市村さんの採寸だけしても良いでしょうか? あと、活動時間を勝手に延長してごめんなさい。もう終わっていますから、帰りたい人はどうぞ。お時間取らせてしまいました」
「は、はい。私は大丈夫です」市村はやや緊張した調子で答える。その後で小さく「……18時半までなら」と付け加えた。今は17時15分。もっと時間が経っているものと思ったが、思ったよりも延長していない。まあ、延長しても僕は構わないのだが。
「大丈夫です。すぐに終わると思います。あっちの広いほうで測りましょう」
「あの、ロックミシンを使ってみてもいいですか? 今のこと、復習したくて」浩一がすかさず質問する。僕も練習したい。
「はい、大丈夫です」
 先輩はメジャーを取り出して、椅子を市村のところまで運ぶ。僕と浩一はロックミシンの使い方の復習を始める。浩一が切れ端を持ってきて先に試し始めた。さっき言われた通り、先に布が無い状態でミシンを回してから布の端をかがり縫いしていく。浩一はゆっくりと端処理を行っていく。端処理専門のミシンなので、余分な生地はカッターで切られ、縫ったとこが必ず端となる。
「じゃあ市村さん、採寸しますね。えーと……うん、ブラウスはこの箇所を採寸すればよいはずです。これで型紙も作れるはずです。じゃあ、始めます……ふふ、私が椅子に乗っても、市村さんの方が背が高いですね」
「す、すみません……」
「ああ、ごめんなさい。市村さんは全く悪くないです。じゃあ、採寸します」
「よろしくお願いします」
 浩一が使っている様子を僕は凝視する。なんとなく、女性の採寸は見てはいけない気がしてそちらを見ないように全力で努める。
「浩一、初めてのロックミシンはどんな感じ?」
「うん、設定とか糸の始末が色々面倒だけど、出来上がりはきれい。売り物みたい」
「きれいだよね。僕、前にシャツ作った時は普通のミシンでジグザグに端処理したけど、こっちの方が見た目がきれい」
「俺はそっちの方を知らないんだよな。勉強しないと……よし、カラ環を糸の間に入れて、終わり。健、やるか?」
 時計を見る、17時半。まだ時間はある。「うん、やりたい」そして浩一と席を変わる。初めて触る機械を目の前にして緊張してきた。
「ブラウスは終わりです。次はスカートですね……市村さん、脚長いです。こんなに長いスカート作るの、うちの部活くらいかもしれませんね」
「……すみません」
「ああ、ごめんなさい。褒めているつもりなんです。良い服を作ればきっと、市村さんは素敵なモデルになります。では、採寸を始めますね」
「は、はい。ありがとうございます!」
 楽しそうな女性陣の会話を聞きながら、試し縫い用の生地をセットして軽く深呼吸をする。僕は手元を凝視して浩一と同じようにゆっくりとかがり縫いを始めた。市販品で見覚えのある縫い目を見て胸が躍った。こういった道具を使い技術を磨いて、僕らと先輩が力を合わせて市村の服を作る。どんなデザインなのかはまだよく知らないが、とても大きなプロジェクトに携わっている気分になって気持ちが高鳴った。自分が制作を手伝った服を市村が着ている様子を想像して僕はなんとなく照れ臭い気分になった。

 デザインが決まる頃には7月に入っており、完成に向けて僕らは毎日のように部活に通った。先輩の型紙が出来上がると、まずは安い布で試しに作ってみて市村の体に合うかどうかを確認する。それを通じて僕らは型紙の読み方と使い方を勉強し、技術を磨く。僕自身が市村と浩一にミシンの使い方や縫いのテクニックを教えることもあった。そして、本番の製作が始まるその日を待った。とはいえ僕ら高校生の本文は勉強であって、定期試験による部活休止には抗えなかったのだが。
 定期試験が終わり、夏休みまでの消化試合が始まる。しかし手芸部では服制作のために平日は毎日部活へと通った。先輩の手によって型紙の最終版が完成し、僕らは役割分担をして制作に取り掛かる。ソーイング中級の勉強を多少していた僕は比較的すらすらと、しかし慎重に作業を進めていくが、他の2人は先輩に指導を受けながら、切れ端を使ってソーイングの勉強をしながら作っていく。布は活動費で購入したものとはいえ、失敗したら自腹で買い直す必要があるため、みんな真剣になった。
 夏休みが近づく。ある時クラスで配られた部活動全体の活動予定表を見て僕は驚いた。手芸部の活動日がたったの7日程度しかなかったのだ。僕は思わず前の浩一の背中を叩いて質問してしまった。
「活動日、少ないね」
「うん、俺も思った。文化祭は10月だから、実質夏休み終わって1か月で仕上げるのか……まあ、毎日やればできるかな」
 放課後先輩に尋ねると、先輩は悲しそうな表情で理由を話してくれた。
「本来部活動は顧問の先生と同伴の下でやる必要があります。うちは、平沢先生がいなくても勝手に鍵を取ってやっていましたが、夏休み中はセキュリティ上の理由で鍵は先生がきちんと保管することになります。平沢先生は非常勤の先生で、夏休み中は用事があるとのことで活動日数はこれ以上増やせませんでした。これだけでも感謝しないといけません。活動時間も午後の4時間だけです。時間には比較的余裕がありますが、ぎりぎりにするのも良くないので、皆さん集中して、頑張っていいものを作りましょう」
 そして先輩はにこりと愛想笑いをした。この人の笑顔を久しぶりに見た気がする。浩一は見慣れているのかもしれないが。
 僕らは今まで以上に熱心に、各々の作業に取り掛かった。担当の型紙を理解し、布にチャコペンで型を写してパーツを切り取る。間違えたら台無しなので、自然と慎重になる。チャイムが鳴っても、作業がひと段落するまで僕らは続けた。毎日がとても充実していて、楽しかった。そして手芸を楽しんだ後は市村と一緒に帰る。市村はバレー部の人と鉢合わせるのが嫌で、18時半までには帰りたいと言っていたので、僕は最長でもそれまでに作業を終えるようにした。作業をしながら、同時に市村の進捗をうかがいペースを調整するのは、楽しいものだった。
 ……しかし、そんな楽しい日々にも終わりが来る。夏休みがやってきた。夏休みといえば普通なら楽しい時期であろうが、僕にとっては日常から太陽がなくなったような衝撃であったことに、始まってから気が付いた。僕と市村の現在の関係は、同じ部活で一緒に帰る仲であり、浩一と先輩のような関係ではない。なので、部活が無ければ僕らが一緒にいることはない。連絡先は知っているので、何かしらのイベントに誘おうとも思ったが、学校関係の用事でもないのに連絡をするのも変だと思ってしまった。……全ては僕の幻覚かもしれないのだから、うぬぼれてはいけないと思った。
 太陽がなくなり日が暮れると、僕は1人で余計に考えこむようになる。自分はどうして市村のことが好きになったのか。その理由は何か。そんなことを考えている内に、そもそも自分がどうしてこんなに『理由』にこだわるのが気になった。少し前までは内面にこだわっていた、今は好意の理由にこだわっている。それについて考えてみたところ、僕は自分の感情が信じられないという結論に至る。中学時代に恋した人は何人かいたが、後に嫌な一面を知るなりその人を嫌悪し、同時にそんな人を好きになっていた自分に嫌悪した。見た目に惑わされた自分が嫌いになった。その経験から人は内面と信じるようになったのは以前にも確認したことだが、僕はその頃、同時に自分の恋愛感情も信用できなくなったのだと思う。人の嫌な一面は隠されていなかったのではなく、自分が見ようとしなかっただけなのだ。アバタもエクボの呪いにかかっていたのだ。しかし好意に理由を求めたところで、人の属性は常に変わるものであり、よって好意という感情も不安定だ。浩一も言っていたことだ。しかしその人の全てを好きになればその不安定さもある程度安定化すると浩一は仮説を立てていた。しかしそれは結果論であり、どうして人を好きになれるのか僕は未だによくわからない。
 市村への恋にも同じことはすでに起きている。大人びた外見に惚れた時、後に意外な内面を知って冷めた。その後、彼女の意志の強さに惚れたものの、高校生になってから僕が尊敬していた彼女の一面は僕の幻想でもあったことに気が付いた。内面を好きになることも無意味であると知った。まだ、彼女を嫌悪する段階にはいっていないものの、僕はやがて過去と同じことを繰り返すかもしれない。それが怖い。好きな人をある時嫌いになってしまう自分の感情が恐ろしい。そうならないように、僕は今の段階で市村が好きであることに確固たる理由を見つけたいのだ――



 インターホンが鳴り、僕は小走りで玄関に向かう。魚眼レンズを覗くと浩一がそこにいて、僕はドアを開けた。
「よ! 元気だったか?」
「うん、普通。浩一は?」
「まあ、例年よりは楽しんでいたかな」嬉しそうに答える。何があったかはなんとなく想像がつく。そしてその話を詳しく聞きたいと思った。
 浩一を部屋に案内してから、氷の入った麦茶を部屋まで運ぶ。部屋に入った時、浩一はお菓子の袋をいくつか取り出していた。
「宿題、どれくらい進んだ?」始めに浩一が尋ねたのはそのことだった。
「9割くらいかな? 古典のワークと、英作文が少し残っている」
「俺も同じくらい。夏休みは、楽しんでいる?」
「特に、家族で旅行とかしないし、ゲームやったり、あとは手芸の動画を見たりするくらい。浩一は、楽しそうだよね」
 浩一の口元が緩んだ。「うん……去年までは淡々としたつまらない怠惰な夏休みを過ごしていたけど、今年は平岩さんがいるから……」
 少し恥ずかしそうに答える浩一。相変わらず2人の関係は良好らしい。
「そろそろ1か月になると思うけど、何か最初と変わったことはある?」
「ああ、7月14日が1か月記念だった。変わったこと……まあ、平岩さんがどういう人かは最初よりもわかってきたよ。たまに電車に乗って映画を見に行くんだけど、絶対に恋愛ものを見たがるんだよね。俺は特にこだわりとかなくて、平岩さんが楽しんでいればそれでいいから付き合うんだけど。それでさ、平岩さん、絶対映画の原作読んでいるんだよね。恋愛小説とか漫画にすごく詳しくて、学校に行って手芸部に行って家で恋愛ものを読むのがここ1、2年のルーティンだったって言っていた。映画の後は原作と映画の違いとかを平岩さんが語りながら帰る」
「……つまり、先輩はオタク?」言ってよいかわからなかったが、率直に尋ねてみる。
「うん、相当の。平岩さん、現実の恋愛ごとで結構嫌な目に遭っていて、それで創作物に逃避していたって、本人が言っていた。あ、ちなみに……長野って男の先輩、健は知っている?」
「うん、たまに本だけ借りに来る2年生。そっか、浩一は知らないよね。一応作品は作っているらしいけど、手縫いでやっているから基本的に家でやっているみたい」
「そうか、そういえば1回見たかもしれないけど、ほとんど覚えていない。その長野って人、平岩さんの元カレ。1週間くらいで別れたらしいけど」
「え?」急な情報に、僕の頭がフリーズした。「……そうなの?」
「うん。そもそも長野さんが手芸部に入ったのも、平岩さんと近づくだめだったとか。去年は3年生は多かったけど、2年生はいなかったから、勧誘もほとんどしていなくて、入部したのは平岩さんと長野さんだけだったらしい。それで、入部したその日に長野さんが告白して、平岩さんも恋に恋していたから受け入れて。でも……平岩さん、ちょっと性格激しいところあるじゃん。手芸教えているときとか」
「うん、普通にわかる」ウエスを取りに来た浩一の時の平岩さんがぱっと僕の頭に浮かんだ。基本的に淡泊であるが時々激しくなる。質問に変な返答をした時も、『質問に答えろ』と言わんばかりに責めてくる時があった。
「で、平岩さん性格は激しいところがあるけど見た目は男受けするからさ。身長低くて胸が大きくて。そのギャップに長野さんは嫌になったって」
「ギャップって、長野先輩は小学生くらいの時点で気づいていなかったの? どっちか転校生とか?」浩一と白井、市村のようにこのあたりの高校生はみんな小学生からの幼馴染だ。平岩さんくらい性格に癖があれば、高校入学前に気が付きそうなものだが。
「いや、普通に2人は幼馴染だって。でも、平岩さんあまり他人と関わらないから。わかるだろ、あの淡々としていて自分の世界に籠っている感じ。ホームルームが終わったら、普通の女子みたいに友人とおしゃべりとかせずに手芸部室に来て作業をして、17時になったら家に帰って恋愛ものを読むって。だから長野さんも高校に入って部活で一緒になるまで、平岩さんが好きなことに対してはあそこまで激しくなるっていうのは知らなかったらしい。あと、笑い方が独特なのも」
「なるほど……まあ、なんとなく予想はつくよ」
 そういえば僕らが部室に行くとき、たいてい平岩さんが先に鍵を開けている。あれはそういうわけだったのかと僕は納得する。そして、長野先輩がほとんど部室に来ない理由も。きっと同じ空間にいるのが気まずいのだろう。今の話を聞いていると、長野先輩は、平岩先輩のように手芸が好きで手芸部にいるというわけでもないだろうし。
「……ん? あれ、それなら長野先輩はどうして今も手芸部にいるの? 作品も一応作っているし」
「彼女がハンドメイド好きで、それで手芸を勉強しているらしい」
「あー……なんかそんな話をしていた気がする」そういえば長野先輩はぬいぐるみを作っていると聞いたことがある。当時は気にしなかったが、ぬいぐるみを作っているという長野先輩を見て平岩先輩が楽しそうにしていた。今までの話でつじつまが合った。長野先輩は彼女のために手芸部に入り、平岩先輩は長野先輩の恋を見て楽しんでいたのだろう。
「ちなみに、長野先輩の彼女は菅原さん。手芸部部長の。俺は話したことないけど」
「あー……なんか色々つながっているんだね」安っぽい感想が漏れる。この10分程度の短時間の間に、僕は手芸部の先輩についてあらゆることを知り、頭がパンクしそうになっていた。
「菅原さんはハンドメイドが好きで手芸部には入っているけど、写真部と文芸部も兼部しているから忙しくて手芸部にはほとんど来られないって。ちなみに、長野さんも写真部を兼部している」
「部長、そうなんだ。一回も部室で見たことないけど。……てか、お前詳しいな」
「まあ、平岩さんが教えてくれるから、自然に……」
 浩一の顔がわずかに赤くなって、僕からさっと目を逸らす。少し前まで僕の方が手芸部に関しては詳しかったのに、1か月程度でここまで知識をつけるとは……
「……平岩先輩とは、結構頻繁に会っているの?」
 浩一が小さく驚いたのがわかる。図星らしい。
「まあ、週に1回くらい会っている。映画を見に行ったり、駅の喫茶店でしゃべったり。……メッセージでやりとりとかあまりしなくて、その分会うたびにずっと話している……」
 浩一の顔がみるみる赤くなっていく。もっと色々な事を聞いていじりたい気分になってきたが、僕は途端に空しくなってしまった。浩一の惚気はもうどうでもよい、それよりも僕は、浩一がどうしてそんなに平岩先輩を好きでいられるのかを聞きたい。
「……浩一は、先輩のこと好きだよね?」
「え? まあ、普通にそうだけど」
「先輩の色々な一面を知っても、まだ最初と同じように好きでいられる? 嫌いな一面とか見つからない?」
 その人の全てを知っていなくても、どうして人は人を好きになれるのか。僕は最初に聞きたいことだった。
「なんか前もそんなこと聞かれたな。……まあ、最初と同じかはわからないけど、とりあえず好きだよ。むしろ、最初の時よりも好きかもしれない。嫌いな面は……確かにある。感情が高ぶりすぎている時とか。でも、それは人間だから当たり前。……我慢できるくらいのものだし。程度の問題だよ。本当に馬が合わないところを見つけてしまったら冷めてしまうかもしれないけど、今は大丈夫」
「もしもの話だけど、浩一はすでに先輩の大嫌いな一面を知っていて、でも恋愛感情でそれを見ないようにしているという可能性はないの? 感情って、そんなに当てにできるもの?」
 浩一は頭を抱えた。僕が一番聞きたいことだった。理由がないとすぐに自分の恋愛感情を疑ってしまう自分にとって、浩一が先輩に夢中になれる理由がわからなかった。しかも、僕よりずっと理性的だった浩一がそうなれる理由が。
「……わからない。他の人から見たらそうかもしれないけど、少なくとも俺の視点からは判断できないことだよ。確かに自分は騙されているのかもしれない、痘痕も靨というし、あの人の欠点すら良く見えている可能性なら確かにあると思う」
 浩一は俯いて、こくこくと頷く。浩一が考え事をするときによくやるポーズだ。僕はその振動が収まるまでじっと待機する。ピタリと、浩一の動きが止まる。そしてゆっくり首を動かして僕の目を見つめた。
「でも……それでも俺はいい。騙されていてもいい。俺は、平岩さんが楽しそうにしているのを見ているのが好きなんだ。たとえあの人が俺以外の男と付き合って、心の底から嬉しそうにあの変な笑い方をしていても、俺はいい……いや、正直ちょっとショックかもしれない。でも、平岩さんの幸せが一番だから」
 浩一はそう言って、僕から目を逸らす。そしてさっきと同じようにこくこくと頷く。
「うん……そうだ。別に俺の錯覚でもいい。感情が当てにできるか、そりゃあできないと思うよ。でもだからといって感情抜きに恋愛ができるとは思わない。感情的なものである以上、恋愛とは常に人に騙されている可能性のある危険なものなのかもしれない。でも、それを理由に恋愛をしないのは、俺はとてももったいないと思う。リスクを承知でもやる価値があるものだと俺は思う」
 浩一の語ったことを、僕は頭の中で反芻させる。恋愛は感情的なもので、感情は信用できない。しかしそれでも恋愛はする価値がある。……僕が市村に抱いている感情は全て幻覚かもしれない。でも、市村を好きになることに価値はある。浩一の話ではそういうことになるらしい。つまり、仮に誤解だった時のリスクを考えて損得勘定をしながら恋愛をしている時点で僕は間違っていたらしい。
「……まあ、俺の話はこれくらいにして、健の話も聞かせてくれよ」
 さっきまでの真剣な表情が嘘であったかのように、浩一はにやにやと笑いながら僕に話しかける。なんのことかわからない。
「市村とは、どうなっているんだ?」不意に出てきた彼女の名前に僕は小さく驚き、同時に首を傾げる。「ん? 何のこと?」
「いや、普通に。市村との仲はどんな感じかって……て、もしかしてお前たちまだ付き合っていなかったのか?」
 僕はこくりと頷く。浩一に、自分が市村と付き合ったなんて嘘を言った覚えはない。平岩先輩が誤解していたのだろうか?
「部活の後、いつも一緒に帰っているだろ」
「まあそうだけど、別にそれだけだよ。部活が無い日は会うこともないし、メッセージも送らない」
 僕が言うと、浩一は呆れた表情をして大きくため息をつく。わざとらしい演技に、なんとなく苛立つ。
「そうか……うん、そういえば俺もそうだった。平岩さんと付き合うまでは、人を好きになることは不可能だなんて思っていた。ある一面に惹かれてもそれは変わりうるもので、さらに他の一面に地雷があるかもしれないなんて考えていた。でも、そんなことどうだっていいんだ。白井も言っていただろう、恋愛なんてテントウムシでもやることだから深く考える必要はない。そして、単純に楽しいからやるに過ぎないって」
 そして浩一は僕の肩にトンと両手を載せてにやりと笑った。
「とりあえず、付き合え。恋愛しろ。話はそれからだ、付き合ってからじゃないと何もわからない。嫌な一面を知ることもあるだろうが、同時に良い一面だってわかってきてさらに惹かれていく。もちろん、逆もあるかもしれないが。ともかく、まずは告白しろ」
 目の前で確信を持ってそう語る浩一に僕は思わず首を縦に振ってしまう。しかし早速疑問が出てくる。
「……でも僕は現状、市村が本当に好きかもわからない。自分の感情に自信がない。それなのに、告白はしていいのかな?」
「うん、いいと思う」浩一は力強く頷いた。「市村を性対象として意識していることは確かじゃないか。それは好きってことだと思うよ。お前は人を好きになることに理由を求めすぎている。主観は信用できるかとか、嫌な一面があったらどうするとか。そういうことは傍から観察していてもわからない。付き合ってからじゃないとわからないだろう。だからもう一度言う。とりあえず付き合え!」
 肩を掴み、笑顔で確信を持って語る浩一に言われると、僕はただコクコクと頷くことしかできなかった。とりあえず付き合え……確かにそうかもしれない。市村を理解しようと自分から積極的に声をかけるようにしてみた、市村のことは色々わかった。しかし付き合うことに比べたら、今のように部活仲間として一緒にいる時間なんてとても短い。まずは付き合わないと、市村を理解することもできない。気持ちもはっきりしていないのに交際することに抵抗を感じるものの、確かにそれしか、僕の悩みを解決する方法はないのかもしれない――

 短い夏休みが終わった。みんなの努力の甲斐があって、最初は無謀に思えていた服制作も終盤に差し掛かる。服が出来上がっていく様子を見るのは楽しく、日々それらしくなっていく服に僕はよく見とれていた。それは他の人も同じだった。サイズを確認するために一度安い布で大まかに作っているため、実質作るのは2回目だ。1回目の時も出来上がった時はそれなりに感動したものだが、実物ができると一段と感動する。本当に売り物みたいだ。ミシンでできる作業はほとんど終わり、ボタン付けなど手で行っていく作業に取り掛かる。ここまでくるとほとんど完成で、出来上がる時が楽しみで仕方がなくなる。
 最初は皆で行っていた作業も、最後には先輩1人の仕事になる。僕らは服が出来上がる瞬間を見届けるため、先輩の周りを囲む。僕と浩一は立って、市村は座って先輩の手元に注目していた。パチン――糸が切られ、先輩がため息をつく。
「……これで、予定していた工程は全て終わったと思います」
 パチパチパチと、僕らから自然と拍手が漏れ出る。目頭が若干熱くなり、この2か月のことが思い出される。始めはミシンもろくに使えず、それどころか部活にもあまり参加していなかった自分。途中入部した浩一と市村。そんなド素人が力を合わせてたった2か月で特注の服を作った。
 先輩はしかめっ面で、作品の細部をよくよく観察している。先輩は上級者だから、この衣服1つで喜ぶことはないのかもしれない。しかし僕にとっては涙が出てきそうなほどに嬉しかった。
「……とりあえず、市村さん、着てみてください。色々観察したいことがあるので、申し訳ありませんが、お二人は外に出てください」
 僕らは言われた通り廊下に出る。部室から少し離れたところまで歩き、外を眺めながら浩一と話す。
「浩一は、完成してどんな気分?」
「うん……まあ、達成感はあるよな」
「僕も同じ。あんな服を僕らが作ったんだって思うと、少し不思議な気持ちになる」
 市販品と言われても疑わない、『普通』の服。店に行けば普通に見られるものなのに、自分が関わったというだけでこんなにも誇らしい気持ちになるらしい。
「でも、平岩さんはあまり納得していない感じだったよな」
 浩一が遠くを見つめながら呟く。僕はさっきまでの先輩の様子を思い返してみるが、特に思い当たる節はなかった。でも、平岩先輩に関しては浩一の方が詳しいのだから、浩一がそう言うのならそうなのかもしれない。
「僕にはよくわからなかったけど……でも、大きな失敗はしていないと思う。まあ、実際に着た様子を確認しないとわからないけど」
 僕らは雑談をして過ごす。着替えと聞いていたが、思ったよりも時間がかかっており、段々と退屈になってきた。少なくとも着替えは終わっているのだろうから中を覗いてみようという邪な気持ちも一瞬湧いたが、市村に軽蔑され先輩に叱られる未来が見えてすぐにあきらめる。
 20分ほど経過し、部室のドアが開く。先輩の表情が青く見えて僕は嫌な予感がした。見落としていたほつれや、縫い忘れ、縫いミスなどがあったのかと胸がざわつく。
「どうぞ」
 先輩は無表情でそれだけ言って再び部室に引っ込む。僕は自然と小走りになって部室に入る。……そびえたつ緑色の衣装が視界にとびこんで、僕はどきりとする。顔を見上げると、市村は恥ずかしそうに僕から目を逸らして会釈をする。
「おお、きれいにできていますね!」
 浩一が嬉しそうに叫ぶ。先輩はその隣で、無表情で市村を観察しながら時々スマホを操作している。僕ら3人に観察されて、市村はそわそわと落ち着きなく体を動かす。そんなモデルの初々しい仕草すら、僕の目には神々しく見えた。
「健は、何かコメントないのか?」浩一に尋ねられ、僕は慌てて考える。「えーと……とてもきれいで、素敵だと思います。……こんなものが作れるなんて、手芸はすごいと思いました」
 言い切ってから恥ずかしくなった。小学生の作文のような僕のコメントに、浩一は苦笑いを浮かべている。……感動をうまく言葉で表せないほど僕は感動していた。自分が制作に携わったもので、市村が神々しく映えるその様子に……
「……一部ほつれそうなところがあるので、私が修正します。もう活動時間も終わりですから、皆さんは解散してください。修正作業は、私が1人でやります。市村さん、脱いでくれますか?」
「は、はい! あの、私は残った方がいいですよね?」
「いえ、大丈夫です。少し時間のかかる作業だと思いますから。また後日、修正が終わったら試着をお願いします。あ、でももう少し観察したいのと、聞きたいことがあるので、少し残っていただきたいです。お二人は、解散してください。あと、文化祭まであと3週間ほどありますが、できれば個人でも何かを作ってみてください。ぬいぐるみとか、刺繍とか、簡単な衣服とか。そうした方が、展示が華やかになると思います」
「平岩さん、俺も修正作業、雑用なりなんなり手伝います! 手足として使ってください!」
 興奮する浩一に対して、先輩は黙って首を振る。「いえ……1人でやります。1人でやりたいんです。ご協力をお願いします」
 深々と頭を下げる先輩。ちょうど17時のチャイムが鳴る。僕らは先輩に言われた通り、帰り仕度を始める。市村を待たずに僕は浩一と一緒に帰る。そういえば、部活の帰りに浩一と一緒になるのは初めてだ。
「……なんか先輩、思いつめていたね」僕が言うと、浩一が黙って頷く。
「多分、先輩なりに納得のいかないところがあるんだよ。俺にはよくわからないけど、何かあるんだよ。その道を走っている人にしかわからないことが」
 しんみりとした空気のまま、僕らは帰路につく。話をする気にもなれず、僕の家の前で別れるまで、ほとんど言葉を交わすことはなかった。

 翌朝、僕の後ろの席にすでに市村がいることに驚く。左手で頬杖をついてぼんやりと壁を見つめていた。
「おはよう、今日は早いね」
 市村はゆっくりと顔を上げる。
「うん……バレー部の人を意識するの、もういいやって。今は手芸部員なんだから。これからは来たい時間に来るの」
 ふふ、と小さく笑う。なんとなくその笑顔が悲し気で僕は心配になる。そして昨日のことを思い出す。先輩と2人で何をしていたのかが突然気になった。
「昨日は、あの後何していたの? 先輩との最終調整とか?」
「うん。まあ、そんな感じ。……先輩、凝り性だから。私はすごくかわいい服だと思うけど、先輩はずっと小声で『ダメだ、違う』ってぶつぶつ言っていて……少し怖かった。でも、嬉しかった。あんなに真剣に、私なんかのために作ってくれて……とりあえず、完成してよかったよね!」
 ぱっと明るくなる市村に、僕は笑顔を作って頷く。先輩としては納得できない出来だったのかもしれないけれど、僕らにとっては大作だ。それに、着る本人がこんなに喜んでいるのは先輩としても嬉しいはずだ。昨日の先輩は落ち込んでいたようだけれど、きっと時間が解決してくれると僕は信じたい。
「あ、そうだ……健くんあのさ……」
 気まずそうに、やや俯く市村。話すことに抵抗のある様子で僕に尋ねる彼女を見て、これから何を言われるのか、緊張して心臓がバクバクと動くのが自分でもわかる。
「あの……放課後、部活の前にちょっと付き合ってほしいの。昨日先輩に頼まれたんだけど、1人だとちょっと難しいことだから」
「うん、大丈夫だよ」ただの相談で、僕はほっとした。むしろ頼られて少し嬉しい。「ちなみに、何を手伝うの?」
「えーと……うん、ちょっと説明しにくいから、その時になったら話すね」
 そして、市村はにこっと笑う。何をするのか気になるが、きっと部活関係の何かだろう。それなら浩一も誘えばと思ったが、僕は口をつぐむ。せっかく市村に直接頼まれたのだから、その役目を独り占めしたいと思った。
 ……会話が終わる。僕は前を向く。部活帰りであれば別れるまで何かしらの話をするものだが、教室では何を話せば良いかわからなくなってしまう。僕らは所詮、同じ部活という共通点だけでつながっているにすぎないのだから。……そろそろ、こういうこともやめて次のステップに移るべきなのかもしれない。夏休みに浩一に言われたことを思い出す。とりあえず付き合わないとわからない。僕は市村を理解するために、積極的に話しかけたり一緒に帰ったりしていた。しかしそういう関係と恋仲は違うというのは、浩一を見ていて段々とわかってきた。
 告白。……そういえば、小学校の頃の告白の返事を僕は聞けなかった。今度は、返してくれるのだろうか。……やってみないとわからない。チャンスはたくさんあった、毎日のようにあった。しかし実行する勇気がでなかった。一緒に帰ってくれるくらいだから、少なくとも嫌われてはいないだろうと己惚れる時もあった。しかし……全てが幻想かもしれないのだ。僕はそれを自覚する未来を予想して臆病になった。告白して気まずくなるくらいなら、このままの関係の方がマシなんじゃないかと思った時もあった。……しかしそれでは卒業したら全ては終わりになってしまう。小学生の時のことを思い出して胸がチクリと痛む。引っ越しが決まった時、勢いのままに市村に告白しようと動いたのは、後悔したくなかったから。尊敬する人に尊敬していると伝えたかった。結果はどうだってよかった。ただ自分は思いを伝えたかった、伝えずにはいられなかった。あの時の僕はそんな激しい気持ちを抱えていたのだ。
 それなら今は……正直、未だによくわからない。しかしそれはきっと、付き合って初めてわかることなんだ。自分が彼女を好きなのか、どこが好きなのか、なぜ好きなのか。浩一いわく、そういうことは実際に付き合って、もっと距離を縮めて初めて気が付けるものらしい。部活仲間としてではなく、恋仲になって初めて……
「荒井くん、号令だよ」後ろから肩を叩かれて、僕はハッとする。周りはみんな起立していて、先生は僕を睨みつけている。僕は慌てて立ち上がり、代表が号令する。今日も退屈な授業が始まる。授業内容は頭に入ってこない、代わりに僕が考えていたのは、いつどうやって市村に告白しようかという具体的なプランだった。

 さて、待ちに待った放課後がやってきた! たいていの人も同じだと思うが、僕にとって学校の目的は部活だ。恋する人に会える瞬間ほど楽しいものはない。僕は教科書類を鞄にしまってそれを肩にかけた。部活が始まる……がその前に、今日は少し特別なことがあるのだ。僕は後ろを振り返り、市村に確認する。
「なんか、やることあるんだよね?」
「うん。ちょっとね」
 市村の微笑を見上げてから、僕らは教室を出ていく。市村と一緒に人でにぎわう廊下を歩くのは、そういえば初めてかもしれない。いつもは部活終わりの人があまりいないところを2人で歩いていたから。
 市村の後ろをついていく。人ごみの中にそびえ立つ市村はとても大きい。背の高い男子よりもさらに大きく、かつそれが女子であるという事実は彼女をさらに巨大に見せていた。時々誰かが、僕が抱いたような素朴な感想をわざわざ口に出す。僕はそれを聞く度に少し嫌な気持ちになる。……運が良ければ僕は彼女の隣を毎日歩くようになるのだ。それはつまり、こんな気持ちを抱きながら毎日を過ごすということでもある。……さっきまでの高揚した気持ちが急に大きな不安へと変化する。今日以降のいつか、市村に気持ちを伝えるのだという決心が揺らぎだす。……自分はいつもこうだ。こんな自分が情けなくなり、情けない自分が恋していることにおこがましさすら感じてしまった。
 段々と人通りが少ないところにやってくる。市村と僕は最初と変わらず、前後になって歩いている。時々僕がついてきているかを確認するために市村は後ろを向く。僕らはその度に小さく会釈を交わした。そして市村は保健室に入っていった。
「こんにちは」背中を曲げてドアをくぐり、先生に挨拶をする。続いて僕も中に入った。先生は机の上で作業をしており、僕らを見るなりわざとらしく笑顔を作る。
「あの、身長計使ってもいいですか?」
「はい、いいですよ」
 身長、という単語にどきりとした。市村は僕の方を振り返り、手のひらを合わせた。
「あの、モデルの身長は普通書くものだって先輩に言われて。それで、今の身長を測ってほしいの。1人じゃ測れないから」
 僕は黙って頷いた。市村は上履きを脱いで、身長計の押さえを思い切り上にあげてからその下に入る。……自分の身長ではメモリをうまく読めないことに今更気が付いて、僕は椅子の上に立ってメモリを読む。……心が抵抗している。今まで知ることを避けてきた情報だったから。椅子に乗った僕の方がまだ高いけれど、彼女の頭までゆっくりと押さえを下げていく。心が抵抗している、しかし受け入れないといけない。この人を好きになってしまった以上は。
「……203.3cm、です」
「え、うそ!」
 市村は慌てて身長計から降りてメモリを見上げて顔を青くした。僕は黙って椅子から降りて、上履きを履いて椅子を元の場所に戻した。市村はまだメモリを見上げて硬直している。……190半ばというのは知っていた。市村の身長は学校では有名だ。あの浩一ですらそれに多少の興味を示すのだから、他の人はより好奇心旺盛にそれを知りたがり、噂をする。人付き合いの乏しい僕でも、その情報を風のうわさで聞くことくらいはあった。浩一からだったり、バレー部の先輩からだったり、色々なところで。しかし、聞こえていないふりをしていた。
 そして、市村の反応を見るに、きっと春の身体測定ではもう少し低かったのだろう。しかしこの半年でさらに伸びたのだろう。僕も中学生の頃は年に10cm近く伸びた時期もあったが、春の測定では前年より1cmくらいのびて172cmだった。……逃げるのはもうやめよう、情報にしっかりと向き合おう。数字を比較すれば僕は市村よりも31cm低いらしい。……数字を聞くと、市村の大きさが良くわかってしまう。そしてその差は今後も開いていくのかもしれない。男女逆でも、ここまで差のあるカップルは珍しいと思う。ましてや僕らは……
「……部室、戻る?」
「……うん」市村は上履きを履く。今まで意識してこなかったが、あの靴も僕の25.5cmの靴よりもかなり大きい。足がそうならきっと、手も大きいと思う。
 保健室を後にして、市村の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。前で手を組んで猫背になって一歩一歩ゆっくりと踏み出す彼女の後ろを、僕は黙ってついていく。職員玄関を横切って、それから階段をゆっくりと上がっていく。このまま4階まで上がれば手芸部室に到着する。いつもは嫌になる4階までの階段が、この時ばかりはありがたく思えた。目の前の彼女を励ます言葉を考える時間がたっぷりあるから。
「……市村、大丈夫?」勇気を出して声をかける。市村は歩みを止めて、歩みと同じくらいゆっくりと僕の方を振り返って、大きく見下ろした。30cmの身長差が階段によってさらに広まって、僕は首が痛くなるほど上を見上げる。
「……健くんは、どう思った? 2メートルの女って、嫌?」
 市村は階段をゆっくりと降りてきて、僕より2段下に立って、軽く僕を見上げた。表情が無く、相変わらず顔が青い。僕は、何か励ましになることを言おうと思ったが、取り繕った甘い文句は何も浮かばなかった。代わりに浮かんだのは、半年前まで僕が思っていたことそれ自体。
「人の価値は、見た目では決まらないと思う。だから、嫌なんてことはない」
 前半部分が僕の本心かと言われたら、そうとも言えない。実際僕は市村の身長を知って未だに少し驚いている。驚いているというのは、僕は現在彼女に何かしらの抵抗を抱いているということでもある。本当に人は見た目と思っていたら、僕は今も平然としているだろうから。
 しかし後半は本心だ。数字を知って嫌になったなんてことはない。別にあと10cm高かったとしても、僕は今よりももっと驚いただろうが、それで嫌になるということはなかったと思う。市村は僕の顔をしばらく見つめた。恥ずかしくなって、僕の方が先に目を逸らしてしまう。その後市村も同じようにしたと思う。
「……よかった」市村はそれだけ言うと、階段に腰掛けて、大きくため息をつく。身長に対応した長い脚が廊下の方へと伸びる。僕は彼女が座っている段の隣に立った。
「あの、ちなみに春はもう少し小さかったんだよ。198cmくらい、それでもデカすぎるけど。でも、部長に熱心に勧誘されて、バレーを始めて。そしたらオスグッドになって……ごめん、関係ないね。中学に上がった時からぐんぐん伸びていって、とうとう2m。ドアに頭ぶつけたり、お風呂場が狭かったり、歩くだけで人に変な目で見られたり、大変。唯一役に立ったのがバレー。私、手を伸ばすだけでネットの上に届くから、それだけは自慢できるかも」
 地面に座った状態で両手を伸ばす市村。長い指が僕の目の前に来て、僕は驚く。この構図は、保育士がしゃがんで子供の頭を撫でるのに似ているかもしれない。それを高校生になって体験する日が来るとは思わなかった。
 上を見上げる市村と目が合う。市村は小さく笑って、手を下ろしてからまた俯いた。
「だから、バレーは少し楽しかった。背が高くて良かったって思えたから。……でも、やっぱり運動は得意じゃないから、入部した時は先輩に期待の新人扱いされたけど、1週間くらいで完全にお邪魔扱いされた。それでも部長だけは熱心に励ましてくれたんだけど、部長は多分、自分よりも背の高い女子といると安心するとか、そういうのだと思う。私もわかるから。中学生の時、よくネットで高身長の悩みとか検索していて、それで自分より背の高い人を見ると安心した……まあ、もうそういう人はほとんどいないけど」
 ……沈黙が流れる。励ましたい気持ちになる一方で、より傷つけてしまうことを恐れて、僕は何も言えなくなる。市村のような女性の気持ちは、僕のような男には決してわからない。そう思えてならなかった。
「ねえ健くん……荒井健くん」体育座りをするように脚を抱え、市村は僕を見上げる。その表情に僕はどきりとした。
「……今に比べたら小さかったけど、小学生の時の私もデカ女だった。男子にはたまにからかわれた。悪気はなかったのかもしれないけど、私はすごく嫌だった。少女漫画みたいな恋に憧れていたお年頃だったから、ヒロインみたいになれない自分が嫌だった。でも、……健くんは私をヒロインにしてくれました。あの時はすごく浮かれて、なんか変なことして逃げちゃったけど、返事はしていなかったよね。荒井くん、いま返事をさせてください。私も荒井くんが好きです」
 まっすぐ僕の目を見据え、顔を赤らめながら市村が発した言葉は、弾丸のように僕の心臓を打ち抜く。自分もだ、その一言を言えばいいだけだ、この場で今、そのたった一言を言えばいいだけだ、思えば高校に入学した時からの目標だった。
 それなのに、僕はその一言すら言えなかった。オーバーヒートした頭が代わりに別の言葉を吐き出していく。
「……ごめん。いや、ありがとう。そんなことを言われてすごく嬉しい。でも……なんか急で頭が整理できていなくて。……ほら、文化祭もあるから、たぶんそれで。だから、返事は文化祭が終わってからでも大丈夫かな?」
 顔が熱くなり、声が震える。恥ずかしさで涙が出てきて、それが恥ずかしくて僕は目を閉じた。心臓が激しく鼓動して今にも爆発しそうだ。……言い切った後で、自分のたった今の返事を後悔する。どうして自分はいつもこうやって後回しにしてしまうのか。市村の気が変わってしまう前に一刻も早く行動すべきだろうに、僕はいつも、余計なことばかりを考えて、言い訳をして行動を後回しにしてしまう。行動してから考えるのが得策の時でも、僕はいつも先に考えてしまう。
 ……気分が落ち着いて、僕は目を開ける。市村は育座りをして僕を見上げてじっとしていた。どんな感情を抱いているのかよくわからない表情、平岩先輩のような無表情で僕をじっと見つめていた。僕らはしばらく見つめあい、その後市村はにこりと見慣れた笑顔を浮かべる。
「ありがとう……でも、私は別に付き合ってほしいとか、そこまでは望まない。だって、こんな大女といつも一緒にいるなんて、嫌でしょ。……目立つし、何より健くんがかわいそう。……私はただ、ちゃんとお返事をしたかっただけだから。……そうだ! 部活行かないと、ごめんね忙しい時に、時間取らせちゃって。あ! もう5時になっちゃう。急がないと」
「待って!」
 すっと立ち上がり、小走りで階段を上ろうとする市村の背中を見上げた時、僕の口から声が飛び出した。
「あの、市村と一緒にいること、嫌なんて思ったことないから。確かに市村は僕よりもずっと背が高くて、並んでいると色々変な目で見られることはあるかもしれない。それは……もしかしたら、嫌かもしれない。でも、それ以上に楽しいこともあると思う。だから……」
 キンコーン、とチャイムが廊下に響く。急に頭が真っ白になって、高揚していた精神が落ち着いてくる。次に何を言おうとしたんだ、そもそも自分は何の話をしているんだ。
 市村を見上げる。顔を赤くして涙目になって、僕を大きく見下ろしていた。
「だから……ごめん、今はうまく言えない。ちゃんと考えてから返事をしたいから、文化祭まで待ってくれないかな? もう一度言うけど、僕は市村のことを、特にその身長を嫌だなんて思ったことはないから」
「……うん、ありがとう」
 言い切った途端に汗がどっと出てきて、胸が激しく動悸する。話しているだけなのに体力を消耗して、息切れまでしてきた。
「……部活行く?」
「うん、文化祭に向けてやること残っているし。私、市販のTシャツに刺繍をしているの。簡単だけど、今からできるのってそれくらいしかないから。刺繍って面白そうだし」
 数分前の状況から一転して、僕らは普段通りの会話をする。しかし雰囲気はいつもより和やかに感じられた。ほのぼのとした雰囲気のまま僕らは階段を上り部活に向かう。部活が終わる時間、わずかに遠くから人の声が聞こえてくる。上の方からトットットっという軽い足音が聞こえてきて、僕は上の階から誰かが下りてくるのだろうと予想した。
「あ、市村さん!」聞きなれた女性の声が降ってくる。「あと、荒井君……」
 何を思ったのか、平岩先輩は気まずそうに横を向く。そういえば先輩は職員玄関をよく使っているらしかった。部活が終わり、モデルもいない今、この時間にここで出会うのは必然だったのかもしれない。
「えーと……市村さん、いま大丈夫ですか? 直しが終わったので、良ければ一度着てもらいたくて」
「はい、大丈夫です! 私も、勝手に休んでごめんなさい」
「いえいえ、本来は活動日じゃありませんし、私も連絡していなかったのですから。じゃあ、お願いします」
 僕らはそろって部室に向かう。17時過ぎ、これから短い部活が始まる。先ほどまでの空気は打って変わって、文化祭に向けて準備を進める活気ある手芸部の雰囲気が僕らの間に漂っていた。

 文化祭まで1週間を切った。ここ最近僕はテディベアに装飾を施す作業をして時間をつぶしている。服の方はすでに先輩と市村の担当と化しており、男2人は個人の作品作りに取り組んでいる。浩一はコンピュータミシンを使ってクッションに本格的な刺繍を施している。ミシンが自動で刺繍をしていく様子は見ていて面白く、僕は使い方を覚えるためにもたまに観察していた。
 先輩と市村は写真集のポーズや構成を決めているらしい。写真集と聞いたときは変なものをイメージしてしまったが、型紙の縮小版と、その読み方。および完成したものを市村が着た時の写真を収録した小冊子とのことだ。自分たちは制作に携わらないからよくわからない。最近の先輩はよく部活中に1人で部室から出ていくが、きっとパソコン室に行って冊子を作っているのだろう。
 コンコンと部屋がノックされる。ノックして誰かが入ってくるのは珍しい。僕は思わずドアの方を向いた。
「こんにちはー、菅原です。あ、一応手芸部の部長です」
 笑いながらそんなことを言って部室に入ってくる女性、部長の菅原先輩。とても久しぶりにこの人を見た、というかこれで会うのはたったの2回目だ。入部した時に少し話したのを思い出す。菅原先輩の手には高そうなカメラがある。そういえば、写真部を兼部していると聞いたことがあった。
「菅原さん、ありがとうございます。ポーズは決まっているので、10枚くらい撮ってもらいたいです」
「うん、何枚でもいいよ。ちょっと、設定させてね」平岩先輩とは違い、フランクに話す。カメラの設定をして目の前の市村を撮影する。それを何度か繰り返した。市村は緊張した様子で、前に手を組んで棒立ちしている。
「あなた、市村さんでしょ。私、知ってる」
「あ、えーと、ありがとうございます」愛想笑いを浮かべてペコペコと背中と首を曲げる。カメラの設定をしながら、菅原先輩はそんな市村を横目で見ていた。
「バレー部は、もう辞めたんだよね?」
「はい。膝を痛めてしまったので」
「うん、長澤が悲しんでいたよ。……でも市村さん、話した感じ性格は全然体育会系じゃないから、辞めて正解だと思う。……よし、これでいいかな。この部屋明るいね、写真部暗いから、色々設定変えた。これでどうかな?」
 平岩先輩が画面を見る。「写真のことはよくわからないですけど、きれいだと思います。これでお願いします。市村さん、さっき話したポーズ、全部撮りましょう。いらないのは載せなければいいだけですから。じゃあ、よろしくお願いします」
「は、はい!」市村はポーズを決める。僕はなんとなく見てはいけない気分になって、自分の作業に集中する。ぬいぐるみの鼻や手足を刺繍でそれらしくする作業もそろそろ終わる。せっかくなので、ぬいぐるみの服でも作ってみようかという気分になった。Tシャツくらいなら、今からでも作れるだろう。
「……はい、オーケー。これで終わり?」
「はい、ありがとうございます。データっていつもらえますか?」
「ああ、部室に戻ったらすぐ送るよ」
「ありがとうございます。メールで送ってもらってもいいですか?」
「メールだと容量が足りない気がするから、ファイル共有サイトにアップするからそれを落として」
「了解です。ありがとうございました」丁寧にお辞儀をする平岩先輩。同級生にもこんな態度らしい。一方で菅原先輩はフランクに返す。「いいって、てか一応うち、ここの部長だし。それにー」
 菅原先輩が市村に近づいていく。密着するくらい2人の距離が近くなる。見てはいけないと思う一方で、市村を守らなくてはという思いも湧いてきて、2人から目が離せなくなった。
「……女バスでいじめられているって聞いて心配していたけど、元気そうで安心した。市村さん、身長めっちゃ高いけど普通にかわいいよ」菅原先輩は手を上げて、背伸びをして市村の頭上を軽く撫でる。市村は先輩の意図に気が付いて慌てて背中を曲げる。
「……うん、じゃあお邪魔しましたー。データすぐに送るから」
 菅原先輩が去る。市村はふうとため息をついて、脱力した。平岩先輩は菅原先輩を追うように部室を出ていった。きっと、パソコン室で作業をするのだろう。部室には1年生だけが残された。
「撮影、お疲れ様」僕は市村を労う。市村は笑顔を返してくれて、僕の心が癒された。
「うん、ありがとう。……あー、私も作業しないと。その前に、服を傷つけたくないので着替えてくるね」
 制服の入った手提げを持って市村が部室を出ていく。部室が静かになり、浩一のコンピュータミシンの激しい音が部屋に響く。文化祭まで1週間を切った。それはつまり、市村と約束した時間まで1週間を切ったことも意味していたが、僕の心はすでに準備万端だ。帰りに一言、『自分と付き合ってください』と言えば良いのだ。その日が来るのを待つだけだった。

 文化祭は2日にわたって行われる。1日目は生徒のためのもので、2日目は外部からくる人のためのものだ。盛り上がるのは当然2日目だ、校内の人口密度が2倍くらいになる。特に吹奏楽部や演劇部の催しが人気で毎年チケットが売り切れているらしい。そんな中で手芸部は地味だ。4階の端っこの部室にわざわざ来る人なんていない。漫画研究会や美術部のように部員が多いところは部室の他に空いた教室が与えられるらしいが、手芸部にそんな権力はない。
 しかし、部室はそれなりににぎわっていたらしい。もっとも、手芸部に来るのは大半が女性のため、僕と浩一がいると入りにくくなるか、あるいは女子の花園となったところに男がいるのは気まずかろうという先輩の配慮によって、僕らはほとんど部室にいることはなかったのだが。しかしたまに覗いてみたとき、学生や大人など色々な人でにぎわっていた。その賑わいの中心にいたのが市村で、僕らが作った洋服を見て人々は驚き、また一緒に写真を撮る人もいた。「こんなに大きい女の子と写真を撮れるなんて、この先ないわ!」なんて声も聞こえてきたことがあった。珍獣のように扱われる市村を見て、見た目に食いつく浅ましさを嘲笑しながら、市村とあんなに近づける女性というものが羨ましくなったのも事実だ。
 16時に文化祭が終わる。文化祭終了を知らせるチャイムが鳴り、外部の人は玄関に向かい、生徒は帰るか持ち場に向かう。僕と浩一は部室で、お客さんが出ていくのをゆっくりと待機していた。最後くらいはいいだろうと、お客さんに「ありがとうございました」と言って笑顔で見送ることもした。
 部室が部員だけになる。長野先輩と菅原先輩もさっき来たが、長野先輩作のアザラシのぬいぐるみを回収してすぐに出て行ってしまった。2人とも他に部活があるから仕方ない。全員がこの部屋で揃うのは、さっきの一瞬が最初で最後だったかもしれない。
「皆さん、お疲れさまでした。特に市村さんは、今日はずっと立ちっぱなしで」
「いえ、大丈夫です。楽しかったですし」市村が微笑み、顔を赤らめる。市村はすでに制服姿で、さっきまでの衣装は机の上に丁寧に畳んで置かれていた。
「では、最後に片付けをしましょう。基本的に、作った本人が持ち帰ってください。部室に寄付するのも大丈夫です、来年以降の文化祭に展示するかもしれません。それで、問題は合作であるこちらの洋服なんですが……」
 先輩は真剣な表情で、畳まれた緑の衣装を見つめる。口元に手を添えて、首をやや傾けて、それを見つめた。部屋が静寂に包まれて、外からの賑やかな生徒の叫び声が部屋に響く。それから先輩は写真集を鞄から取り出して、眉をしかめた状態で目を閉じる。さっきまでの和やかな空気が一転し、僕らは困惑して何も言うことができなかった。
「……私は、切れ端にしてしまおうと思うのですが、どうでしょうか」
「え?」市村が目を丸くする。先輩は大きく息を吸って、息を吐きながら俯いた。僕と浩一も、先輩の発言に驚愕していた。時間をかけて皆で作り、文化祭で多くの人に見てもらった洋服。僕はほんの少ししか部室にいなかったが、誰もが市村の服を作ったと聞いて驚いていた。僕はそれを聞いてとても誇らしくなったのを思い出す。
「ど、どうしてですか? せっかく作ったのに」市村が先輩に尋ねる。先輩はゆっくりと顔を上げて、市村に向かってこくりと頷いた。
「……市村さん、ごめんなさい。これは、失敗作です。決して皆さんの責任ではありません。皆さんはとても頑張ってくれました、本当にありがとうございます。でも……大元のデザインがダメでした。市村さんを映えさせることは、全くできていませんでした。……本当は、前からわかっていたことでした。でも、私のデザインに関する知識があまりに足りませんでした。文化祭の間も、市村さんを褒める人はたくさんいましたが、服で映えた市村さんを褒めることはありませんでした。私はモデルの素質を生かすことができませんでした。むしろ、殺してしまったかもしれません。市村さん、ごめんなさい」
「いえ……でもだからって、捨てちゃうなんて」
 市村の制止に、先輩はゆっくりと首を振った。
「このことは忘れましょう。貴女にはもっと合う服がありますから、それを探してください。……これは失敗作です。私に才能はありません。そんな人が貴女の服をデザインした、これが失敗の始まりです。ごめんなさい。私みたいのに、服飾デザインなんて、できないんです。」
「でも……それでも……」
 市村は何かを言おうとして、やがて黙り込む。先輩はじっと俯いている。……空気が重く、誰も指一本動かさなくなる。僕は頭の中で、何か励ましの言葉をかけようと頭を動かしていたが、安っぽいものしかでてこない。
 そんな中で、僕の隣の男が立ち上がり、椅子の脚が床を擦る音が静寂を破る。
「平岩さん、才能がないなんて言わないでください。また、作ればいいじゃないですか」
「青木君」浩一を見上げる先輩の目は赤く、涙が濡れて輝いている。「いえ、ダメです。これ以上駄作を作るわけにはいきません。……布に失礼です。自分のためならまだしも、人のために作るなんてもっとダメです。モデルに失礼ですから」
「いえ、違うと思います」浩一の強い口調に、先輩の目が大きくなる。「これは僕の勝手な持論ですけど、良い作品は数多の駄作あってこそ生まれると思うんです。例えば……僕はデザインは良く知らないので、科学の例で。1つのタンパク質の構造を調べるのに10年かけるのは普通と聞いたことがあります。10年です、良い成果を残すにはそれくらいかかるのが普通で、その10年の間に全く見当違いの実験をしている時もあると思います。でも、そんな見当違いの実験も、研究の役には立たなかったけれどきっと無意味ではないんです。平岩さん、平岩さんがデザインしたその服も同じだと思います。将来平岩さんが素晴らしい服をデザインするために必要な失敗作だと思います。失敗は成功の母と言いますが、それと同じだと思います」
 先輩は黙って浩一の話を聞いていた。両者しばらく見つめあい、硬直する。やがて先輩は目じりに残った涙をぬぐい、ポケットからティッシュと取り出して鼻をかみ、頷いた。
「確かにその通りですね。この失敗を糧にして、私は続けなくてはなりません。良いものを作るにはとても時間がかかる……私は科学にはあまり詳しくないですが、トルストイは戦争と平和を書き上げるのに7回ほど書き直したそうです。またブラームスは交響曲第一番の作曲に20年かけています。傑作と言われるものを作るのに、あの天才ですらそれくらいの時間がかかるんです。……そうです、考えてみれば、私は人のために服を作ったのはこれが初めてです。それが上手くいかなかったからもうダメだなんて、手芸を馬鹿にしています。手芸はきっと、そんなに軽いものじゃないはずです。この失敗をバネに、私はもっと良いものを作れるよう励むべきです。……青木君、ありがとう」
「いえ、参考になったようで嬉しいです」
 微笑みあう2人。先輩の表情が柔らかくなって僕は安堵する。殺伐とした空気で文化祭の片づけをするなんて嫌だ。せっかくなら良い雰囲気でこの文化祭を終えたい。
「そうです、私はこの失敗作を過去のものとして、先に進まなくてはなりません。そこで……よくドラマで、陶芸家が作品を壊すシーンがあるじゃないですか。今なら、私にもその気持ちがわかります。大切に作った作品、でも納得できない。そんなときは、執着は捨てて先に進むために壊してしまうのが一番なのかもしれません。そこで、今から裁ちばさみで服を裁断するというのは――」
「だめです!」先輩が話している途中で、市村が服をさっと奪う。市村の声が部室に響いた。先輩はぽかんとしている。一方で市村は服をぎゅっと抱きしめてまっすぐ先輩を見つめていた。
「あの、先輩にとっては失敗作かもしれませんし、私にはこんな服は似合っていなかったかもしれません。でも……私はこんなにかわいい服を作ってもらえて、着ることができてまるで夢のようでした。だから……あの、失敗作だからって捨てないでください! 切らないでください! 捨てるくらいなら私にください!」
 再び市村の声が部室に響く。先輩はしばらく黙って市村を見つめてから、机を迂回して市村の目の前に立つ。座った市村を先輩は軽く見下ろし、市村は服を一層強く抱きしめた。警戒しているようだ。しかし先輩は市村に向かって深々と頭を下げた。
「……市村さん、ありがとうございます。そしてごめんなさい。服に一番近かった貴女のことを考えていませんでした。どうぞ、拙いデザインではありますが、それでも良ければもらってください。きっと、服も喜んでいると思います」
「あ……ありがとうございます」
 市村が安堵するのが目に見えてわかる。それから先輩は僕らを見渡す。穏やかな小さい笑みを浮かべて、先輩は言った。
「では、片づけをしましょう。過去の先輩方の作品は、埃が付かないよう袋に入れて、あそこの一番下の棚にしまってください。装飾をはがして、紙類は黄色いゴミ袋に、それ以外はこちらの書類に従って分別をして捨ててください」
 先輩の指示で、僕らは一斉に動き出す。いつも以上に活気に満ちて、僕らは片づけをする。ここ数か月間、この文化祭のために準備してきたのだ。そんな達成感に浸りながら僕は片づけに集中した。

 文化祭の片づけが終わったら打ち上げをするのが普通の部であろうが、手芸部はそんなことはしない。いつも通り終わり、いつも通り解散する。僕はいつも通り市村と一緒に帰った。文化祭の後ということもあって、かなりの生徒が玄関を出入りしている。その横を僕らはそそくさと通る。学校を出るまでは人ごみに多少苦労するが、学校を出てしまえばいつもの静かな放課後となった。僕は文化祭が終わった達成感でとても爽やかな気分になっていた。
「文化祭、終わったね」
「うん。市村、お疲れ様。今日って、ずっと立ちっぱなしだったの?」
「まあ、そんな感じだったかも。色々な人と写真撮ったし」
「ああ、ちょっと覗いた。結構人来ていたよね」
「うん。合唱部とか美術部の催しを見に来たついでに来る人が結構いたよ。意外と忙しかった」
「大変だったね。本当、お疲れ様」
「ありがとう。でも……ふふっ」
 市村は手に提げていた紙袋を持ち上げて、大切そうに抱える。中身は例の衣装。
「先輩が捨てるなんて言った時、驚いちゃった」
「僕も驚いたよ……納得していないらしいっていうのは知っていたけど、まさか捨てるなんて。そもそも、僕らも一緒に作ったやつなのに」
「ねー。でも、よかった。私、この服好き。そもそも、おしゃれとか普段できないし。……あ、ちなみに、今日お化粧しているのって気が付いた? 薄くだけど」
 市村の顔がぐっと目の前に迫ってくる。薄暗くてよくわからないけれど、言われてみれば、肌がやや白く、頬が薄いピンク色になっている。
「……ごめん、いま気が付いた。化粧もしたんだ」
「うん。一応モデルだから」ふふ、と小さく笑って胸を張る。僕はそんな市村を見上げて微笑んだ。
 いつも通りの放課後。僕らは他愛もない話をして楽しむ。分かれ道に差しかかり、僕はいつも通り市村と別れた。明日は日曜日、明後日は振替休日。次に会うのは2日後と考えると少し寂しい。
「じゃあ、またね」
「うん、バイバーイ!」
 手を振って別れる。僕はほのぼのとした気持ちで暗くなり始めた道を歩き、家を目指す。
 市村との約束を思い出したのは、家の玄関を開けようとするその時だった――



 日曜日の午前に、僕は自分の部屋で浩一と向かい合っていた。昨晩に約束し、平岩さんとデートする時間まで僕の相談に乗ってくれる友人に心から感謝する。
「お前考えすぎだよ」
 一通り自分の今の状況を説明した後で、浩一が最初に発した一言に僕は安心する。昨晩、市村に約束を守らなかったことを謝罪し、月曜日に会う約束をした。できるだけ早い方が良いかとも思ったが、急に翌日に約束するのは失礼だと思って月曜日にした。その後、浩一に日曜日に会って話がしたいと言った。浩一なら、多少の無理があっても合わせてくれるだろうと信じた。実際、平岩先輩とのデートがあるにも関わらず、浩一はこうして僕と会ってくれた。
「友達としても、約束を忘れたくらいでパッと別れるような仲じゃないだろ。それに健は文化祭まで待ってほしいと言っただけで具体的にいつとは決めていなかったんだろ。別に、約束を破ったってわけでもないだろ」
「まあ、そうかもしれないけど……でも、文化祭まで返事を待ってもらって、それでさらに伸ばすって。なんか、不誠実な印象与えないかな? その程度の気持ちだって思われていないかな?」
「うーん、まあ本人にしかわからないけど。てか、そもそもどうしてその場で返事をしなかったんだ?」
 浩一の指摘に胸が痛む。いつ告白しようかと悩んでいた時に、逆に向こうから言われて頭が興奮して、うまく話せなかったというのも1つの理由だ。これは市村にも話した。しかし今になって考えると……当時の僕には、市村と同じくらいはっきりと『好き』と伝える自信がなかったのだと思う。
「……はっ」自分の愚かさに思わず笑いが漏れた。自分の感情に自信がないのは最初からだった。僕はそれについて色々と考えて、その結果付き合う前に考えることはそもそも無意味で、まずは告白をしようと思うに至ったのだった。確かにあの時、市村の高すぎる身長を正面から受け止めて、それが思いのほか自分の感情を動かしていたことを知ったばかりだった。しかし、だからといって市村への好意は変わっていなかった。
「浩一、前に言ったよね。とりあえず付き合ってそれから考えろ、って。僕は好意に理由を求めすぎているって。確かにその通り、僕は難しく考えすぎていた。そして考えるのをやめていつ告白しようかとタイミングを見計らっていたら、また考え始めて……勢いって大事だね、明日は何も考えずに会ってすぐに告白する。浩一が平岩先輩に告白した時も、あれ勢いでしょ」
「もちろん! いま思うと、すごいよな。一目ぼれした先輩の部室に押しかけて告白するなんて……そういえば、あの時って健が仲介してくれたんだよな。ありがとう」
 急に頭を下げる浩一に僕は驚く。仲介、言われてみればそうなるのかもしれないが、僕はただ事実を言っただけだ。「いや、特に何もしていないよ。僕がいなくても、たぶん浩一だったらうまくいっていたと思う」
「いや、健が前もって平岩さんに伝えていなかったら、きっとあの時平岩さんはテンパって、それから疑心暗鬼になって誤解して、勢いのまま断っていたと思う。本人がそう言っていた。平岩さんもお前と似たタイプで、外見で告白されて性格で別れることを何度か経験しているから、好意に理由を欲しがるんだよ。自分のどこが好きかって、今でもよく聞かれる」
 浩一の語る先輩の様子が容易に想像できる。そして、市村に告白された時の自分を思い出して古傷が痛む。僕もあの時、勢いのままに保留にしてしまった。返事は決まっていたのに。
「……先輩の気持ち、わかるよ。僕だって市村に似たことをしてしまったし」
「ん? ああ、告白された時に勢いのままに変なこと言って保留したってやつか。……まあ、勢いも大事だけど、最低限の冷静さも必要ってわけか。一見矛盾するけれど、そういうものだと思う。気持ちは衝動的に、でも頭と口は冷静に、って感じかな? ……明日、頑張れよ」
「うん!」浩一の励ましに笑顔で答える。明日が待ち遠しくなる。この気持ちのまま、明日を迎えたい。
「ところで、先輩とは今どんな感じ?」デートは1時からと聞いているので、まだ大丈夫だろう。浩一が先輩と付き合って3か月ほど経ったはずだ。……僕も明日からそういう関係を始められるかもしれない。これは慢心だが、楽しい妄想は始めると止まらないものだ。浩一は若干顔を赤らめる。僕の意地悪な心が姿を現す。
「……まあ、普通? 普通って別にマンネリって意味じゃなくて、順調に進んでいる気がする。……というか、まあ平岩さんに手を引っ張られているんだけど」
 首の後ろに右手を添えて、恥ずかしそうに、情けなさそうに笑う。告白をしたのは浩一の方なのに、先輩がリードしているというのは少し意外に思えたが、考えてみれば浩一は自分から先輩を振り回すようには思えない。先輩に手を引っ張られる浩一の様子がすぐに想像できた。
「ある時、一回デートするたびに一歩前進しようって先輩が言い出して。最初は手を繋ぐとかで、まあ何回かやっているうちに俺も慣れてきた。まあ、人前でやるのは少し恥ずかしいけれど。その後は……まあ色々あって、今はお互いを下の名前で呼ぼうって。だから本当は、菜月さんって呼ばなきゃいけないけど……まだ恥ずかしいよ」
 浩一の顔が赤くなる。浩一が遠く感じられて、僕は少し寂しい気持ちになった。自分は一歩踏み出すのにこんなに時間をかけているのに、浩一は僕が知らないうちにどんどん大人になっていく、そんな感じがして。
「……キスとか、もうした?」思い切って尋ねてみる。浩一とはこういう類の話は全くしたことがないので、自分の方が恥ずかしくなってしまう。しかし浩一の方がもっと恥ずかしいらしく、顔がぱっと赤くなる。
「いや、していない……正確には、平岩さんから誘われたことはある。でも……俺には無理だった。あの時の平岩さんの申し訳なさそうな顔を今でも思い出す。向こうは勇気を出して誘ってくれたと思うのに……俺って、こういうのダメなのかな。でも、憧れる気持ちはあるから、時間が足りていないだけだと思うんだけど……」
 目の前で一人で悩み始める浩一を僕はじっと見る。自分が好意の理由とか、告白の仕方とかで悩んでいる間に、浩一はそういうことで悩んでいる。その様子は悩んでいるようでとても楽しそうに僕からは見えた。浩一の姿が、将来の自分の姿であることを僕は願いたかった。
「……てか、今気が付いたんだけど、市村って健のこと、下の名前で呼ぶよな?」
「え? ……ああ、そうだね」市村の僕を呼ぶ声が頭の中で響いた。
「俺のことは普通に名字で呼ぶし……小学生の時は男子も女子も名前で呼んでいた気はする。でも中学に上がったらしなくなっていたと思う」
「……そうなんだ」
 小学生時代、確かに自分は市村に『健くん』と呼ばれていた。しかしそれは半分あだ名のようなもので、他の女子にも言われていたし、先生にもそう呼ばれていた。高校生になった今、僕のことをそう呼ぶのは市村しかいない。浩一のように男子からは、下の名前で呼ばれることも多いが。
「……あ、そろそろ帰るな。まあ、緊張しすぎず冷静に、かつ衝動的に。明日、頑張れよ」
「うん、ありがとう」
 帰っていく浩一を玄関まで見送る。1人になった途端、色々なことが頭の中に湧いてくるが、僕はそれらを全て払った。考えてはいけない、この高ぶった気持ちのまま明日を迎えよう。そうだ、部屋にいても余計なことを考えてしまうから、今から明日の待ち合わせ場所までジョギングで下見に行こう。普通は自転車で行く距離だし、明日はそうする。しかし今日は嫌いなジョギングでそこまで行って、頭をフレッシュにしたいと思った。そういえば、道を覚えているかもわからない。僕が明日の待ち合わせに指定した場所、衝動的に指定した場所は、実に3、4年ぶりに訪れる思い出の場所だった。僕は一度部屋に戻って準備を整えてから、公園に向かって小走りを開始した。

 遠足前の小学生のように、僕は昨晩寝付くのに時間がかかり、いつもよりも遅い時間に目を覚ます。余計なことを考えず、変に気張らず、気楽に構えよう。僕がどんな形で告白したところで向こうの答えはすでに決まっているのだ。なるようになる、冷静に返事をして悪い印象を与えないように努めよう。
 『自分も好きです付き合ってください』その一言で十分なのだ。その一言を市村にはっきりと告げることが今日の僕のミッションである。
 家にいるとソワソワして落ち着かない、市村を待たせているのではと心配になり、今すぐにでも公園に行きたくなる。しかし、早く着いたところできっと向こうでも同じことだし、変に気張るのは良くない。冷静に、いつも通りに振舞おう。僕は向こうに15分前に到着するくらいの時間に家を出た。
 自転車で走っている間、周囲の畑や水田を眺めて平然を保とうと心がける。これから告白すると思うと胸がどきどきする。あの時を思い出す。小学校卒業前に市村に告白した時の興奮を。いま向かっている公園も、その告白の場所であった。あの時も、今と同じ風景を僕は見ていたのだろうか。
 公園に到着した。小さな公園で、平日の昼ということもあって周りに人はほとんどいない。ベンチに緑色の服を着た人が見える。そのシルエットと服装から、その人が市村であると僕はすぐに気が付いた。……ついに始まる。僕は公園の外に静かに自転車を止めてからベンチを目指した。途中、市村が僕に気が付いて手を振ってきたので僕も手を振り返した。『自分も好きです付き合ってください』、その一言を言うだけ。僕はその台詞を何度も頭の中で繰り返す。
「こんにちは」まずは挨拶をする。ベンチに座った市村が顔を赤くして僕を見上げている。僕は台詞を言おうとする、心臓の鼓動が僕の全身を震わせているような気がした。市村が会釈をする。台詞を言おうと構える。しかし、僕より先に市村が口を開いた。
「えーと、あの……ここってさ、小学生の時に健くんが私に告白してくれたところだよね」
 僕は黙って頷く。市村の指摘に僕は急に自分の選択が恥ずかしくなる。高校生にもなって公園に呼び出すとは、あまりに幼稚だったかもしれない。しかし、もうどうしようもないことだ。僕は台詞を忘れないよう、頭の中で繰り返し唱える。しかし、市村の口がまた開いた。
「あの時から、私は健くんが好きでした。今も好きです。健くんは私のこと、小学生の時みたいに、好きでいてくれますか?」
 ……頭がフリーズした。僕はさっき、何を言おうとしていたのか。さっきまで頭の中で唱えていた台詞がぱっと消失してしまった。……いや、もうそんなことはどうでもいい。好きでいてくれるのか? 市村はそう質問した。そんなの、イエスに決まっているだろう。僕は思い切り首を縦に振った。そして言葉が喉の奥からするすると出てきた。
「はい! 自分も市村さんのことが好きです。だから……僕と付き合ってください」
 ……気が付けば僕は下を向いていた。あの時と同じだ、僕は小学生の時から結局何も変わっていないらしい。告白した途端に、目を閉じて下を向いてしまう。それでも、市村にもう一度気持ちを伝えることができて僕はとても嬉しい。そして現在、信じられないくらいに胸がどきどきして、体中の血管が脈を打つ様子が僕の耳に届く。
「は、はい!」
 しばらく怖くて目を開けることができなかった。やがて僕はゆっくりと目を開けると、そこには市村の満面の笑みがあって僕の胸を突き刺した。その瞬間に全ての不安が、恐怖が氷解していった。さっきまで心の奥底にあった、自分の恋愛感情への不安が、市村の本心に対する疑心がすうっと消えていった。そして大きな安堵が僕の胸を包み込み全身が幸福に満ちていく――
 僕らはその後、ベンチで並んで腰かけて2人で公園の景色を眺めていた。しばらく何も話せなかった。一緒にいられるだけで幸せだった。僕の頭の中には市村しかいなかった。自分の感情は信頼できるかとか、自分の見ている市村は虚像ではないかとか、そんな疑問は一切湧いてこない。今はどうでも良いことである。そういうのは今後知っていけばいい、今の僕に大事なのはこれからどう彼女と過ごしていくかである。
「……ねえ、市村」
「うん?」
「僕たち、恋人ってことでいいんだよね?」市村の顔を見上げる。彼女はぽっと赤面してから恥ずかしそうに微笑み、頷く。そんな彼女の反応に僕は嬉しくなる。変な疑いは、今は全く浮かんでこない。
「恋人って、何するんだろう」
「うーん、とりあえず、デートとか、かな?」
「……どこか、行きたいところある? 僕はあまり、そういうの詳しくないから。駅の方も、本屋くらいしか行かないし」
「うん。あ、じゃあ本屋さんに行こうよ! 私、手芸の本が欲しくて。もっと手芸を勉強して、こういう服を自由に作れたらいいなって思っているの」
 袖口を指でつまむ。市村の来ている服は文化祭で僕らが作ったものだ。鮮やかな緑色が市村を美しくしている。
 行き先が決まり、僕らは自転車に乗って駅を目指した。市村は自転車のサドルを一番高くして、それでも少し小さそうに自転車に乗っていた。部活の帰り道はよく話したけれど、今はほとんど何も話さない。恋人になれたという事実が僕を幸福にさせていて、何もしていなくても幸せな気分に浸っている。
 本屋に到着し、僕らは自転車を止める。平日の昼であるが、駅の近くはそれなりに人が多くて、市村を見て驚く人もちらほら見えた。その度に僕は市村の顔色を窺ったが、彼女はあまり気にしていないように見える。駅に来るたびにこんな風であれば、慣れてしまうものなのだろうか。
 本屋に入り、手芸のコーナーに向かう。僕は手芸の本を見に来たことがあるため、まっすぐそこまで向かうことができた。3階建ての、それなりに大きい本屋。手芸コーナーもまあまあ充実している。そこには見慣れた人影があった。
「平岩先輩」
 本から顔を上げて、先輩は僕らの顔を交互に見る。そしてにこりと微笑んだ。先輩の反応に僕はなんとなく恥ずかしくなる。
「こんにちは、お揃いで。あ、市村さんその服、普段着にしているんですね」
 本を閉じて市村の服を観察する。市村は恥ずかしそうに手を前で組んだ。
「洗濯しても、ほつれなどは特にないですか?」
「はい、大丈夫です。こんなかわいい服を着られて、私は本当に嬉しいんです。あ、健くんも、ありがとう!」
「健くん……あ、荒井健君。みんなで作ったものですものね」
 先輩は市村の周りをぐるりと一周しながら、袖や襟などを念入りに見て回った。その間僕らは、ただ先輩の観察が終わるのを待っていることしかできない。
「……袖が少し短かったかもしれませんね。ごめんなさい、デザインのミスです」
 市村が驚き、丸くした目を泳がせている。採寸は7月上旬だった。それから背が伸びたと考えれば、その反応も納得できる。……あとで慰めるべきか、それとも触れない方が良いのか、迷う。
「い、いえ。あの、先輩は何の本を買いに来たんですか?」
「私は服飾デザイン論の本を、デザインをちゃんと勉強しようと思って。でも、ここはあまり専門的なものは置いていないので、これから街のもっと大きい本屋さんに行こうと思っています。市村さんは?」
「私は手芸の本を。借りて読むのもいいですけど、手元に置いておきたいので」
「それならこの辺りが……あっ」
 先輩が硬直して僕を見る。なにかしてしてしまったかと僕は身構えたが、先輩はにこりと笑い、口元に手を添えてこう言った。「ごめんなさい、お邪魔ですよね。じゃあ、私はこれで失礼します」
 僕は赤面してそそくさと去っていく先輩の後ろ姿を追った。途中、先輩が本を落とし、市村がそれを拾う。
「これって」
「あ、もしかして知っていますか! 新作が出たので買いました。……まあ、また今度、お話ししましょう」
「はい、ぜひ!」
 会計を済ませて本屋から出ていく先輩に、僕らは会釈をする。店内が静かになって、僕らは顔を見合わせた。なんとなく恥ずかしい気持ちになる。今の僕らは、少なくとも先輩の目にはカップルに見えているらしくて僕は嬉しくなる。一方で市村は少し悲しい表情を浮かべている。
「市村、大丈夫?」
「え? あー、うん。なんか、私服の先輩、かわいかったなーって思って。やっぱり小さい方が……」
 先輩の服装を思い出す。ひざ丈のスカートにカーディガンを羽織っていた、普通の格好だったと思う。たしかに、背の低い人が似あう服装なのかもしれない。でも、それは市村を否定するものではないはずだ。しゅんとする市村を、僕は精一杯励ます。
「……前に菅原先輩も言っていたけど、市村は背が高くても普通にかわいいと思うよ」
「ありがとう。でも、やっぱり身長デカいと、かわいい系っていうのはちょっとって思っちゃう……」
「いや、関係ないよ。背が高くても、かわいい人はかわいいから。とりあえず、僕は気にしない」
「ふふ……ありがとう」
 微笑む市村を見て、たぶん励ませただろうと、僕は思う。というより、そう信じるしかなかった。
 その後手芸の本を買って、僕らは帰ることにした。電車に乗ってどこかに行こうとも思ったが、せっかく行くのであればきちんと予定を立ててから行った方がお金を無駄にすることもなくて良いだろうと、お互いに思ったためだ。帰りは来た時よりも色々なことを話した。それはいつもの部活終わりの雑談のように他愛もないことばかりだったが、恋人同士であるという事実がこんな日常を一層楽しくさせていた。

 火曜日、僕は珍しく早く家を出る。いつもよりも早く学校に行きたいと思い、気が付けば体が勝手に動いていた。市村と待ち合わせることも考えたが、市村とは住んでいるところがかなり違うため、一緒に学校に行くというのはできない。10分程度であれば、いつも部活帰りに分かれるところで待ち合わせをして一緒に行くこともできるけれど、わざわざそこまでして一緒に登校するというのも、意味があるのかよくわからなかった。そんなことにこだわるよりも、土日に2人でいる時間を増やすことの方が大事に思えた。
「荒井くん、おはよー」
 珍しい人が僕の隣に現れる。白井に挨拶を返し、なんとなく一緒に学校に向かう。市村に見られたら誤解されるのではと一瞬不安に思ったが、白井だから大丈夫だろう。
「ねえ、真奈と付き合ったんだって?」
 顔が熱くなるのがわかる。昨日の今日ですでに情報が広がっていることに、女子の情報網に驚く。僕は黙って頷いた。
「……ありがとうね」
「え?」想定外の返答。白井を見ると、真剣な表情で僕をまっすぐ見ていて、また驚いた。普段の白井のイメージとは違う、その真剣な表情に。
「荒井くん、小学生の時も告白したんでしょ。でも、真奈からは返事もらえなかったでしょ。……真奈、あの時すごく喜んでいたよ。でも初めてのことで慌てちゃって、当時読んでいた少女漫画に影響を受けて、おでこにキスされたの、覚えてる?」
 僕は首を横に振る。額に何かが触れたのは覚えているが、まさかあれがキスだったなんて……その事実を知って急に恥ずかしくなってきた。
「それで、中学生になったらちゃんと返事するって思っていたら荒井くんいなくなっちゃって。青木から3年で戻るらしいって話は聞いていたけど、中1くらいの頃の3年ってすごく長く感じるじゃん。入学したばかりなのに、3年後なんて卒業だし。それに真奈も、身長のこともあるけど、性格のこともあってクラスで浮いていたし……まあ何が言いたいって言うとね、真奈のこと好きでいてくれてよかった。てか、もっと早く告白してよ! これでやっと私も、真奈から相談受けなくてよくなるなー」
「……相談って?」
「んー?」白井が小さく微笑んだ。「荒井くんとどうやって近づこうっていう相談。真奈、すっごくセンシティブだから丁寧に扱いなさいね。面倒くさいとかで振ったら、許さないから!」
 最後にそう言って、突然走り出す白井。10メートルほど前の方を歩いていた女子の肩を叩き、一緒に歩き始めた。丁寧に扱え、という白井の命令が頭に残る。言われなくてもそうするつもりだ。好きな人を傷つけることなんて僕にはできない。
 ……なんとなく、自分の額を触る。あの時の感触を思い出すととても恥ずかしくなった。動機はともかく、あの時にそういうことをしてくれたのが嬉しく思える。……いつか、市村とそういうことをする日が来るのだろうか。……来るかもしれない、だって僕らは恋人なのだから。そう考えると僕はまた顔が赤くなるのだった。



 初恋の気持ちを覚えている人がどれくらいいるのだろう。普通は覚えていないと思う、人の感情は時間と共に変わっていくのが普通だから、変えていかなくてはならないのだから。
 市村と付き合って、僕は彼女について色々なことを知った。まず、市村が少女趣味であったということ。これはなんとなく知っていたことではあったが、少女漫画や乙女ゲームに結構詳しい。たまに平岩さんとそういった話で白熱しているのを見かける。平岩さんがそうであるというのは以前に浩一から聞いたことがあった。確か、長続きしない恋愛に嫌気が差して逃避していた、とかだったと思う。市村も、もしかしたらそうなのかもしれない。中学の頃から男子が苦手だと本人が言っていた。……今は交際相手がいるのだから、別に創作物にハマる必要はないだろうと僕は稀に嫉妬してしまう。しかし……正直なところ僕だって、24時間市村1人のことを考えているわけではない。たまに外見で別の女子に目がいってしまうことはあるので、お互い様だろう。そもそも、恋愛とはきっと、そんなに窮屈なものじゃないと思う。むしろお互いを信頼しているからこそ、他のものに目を奪われることができるのだと思う。恋人同士だからお互いしか見てはいけないなんて、歪んだ関係に思えるし、そういう関係はきっと長続きしない。
 また、かなりの心配性でマイナス思考であるということも知った。僕はよく市村に、自分のことが好きかどうかと聞かれる。その度に僕は好きと答えるが、市村はあまり満足してくれないから、僕はなんとかして理解してもらおうと努力をする。また、当然のことかもしれないが、身長にそれなりのコンプレックスがあるようだった。僕なりに励まそうとするものの、上手くいっている自信があまりない。しかし、僕はベストを尽くすしかない。市村がそんなことで自信を喪失しないようにするのが彼氏である僕の役目であろうから。
 交際して、僕は市村の色々なところがわかった。かわいいところ、尊敬できるところなど、色々。たまに面倒くさいと思ってしまう時もある。しかしだからといって、市村を嫌いになるわけではない。かつて僕はこんなことを考えていた。人間は多面的であって、僕が見ているその人の一面が全てというわけでは決してない。ではなぜ人は人を好きになるのだろうかと……
 このような問いに意味はなかった。結局、その人の本性がどういうものなのかなんてわからない。付き合っても結局、自分の見ている市村の姿がどこまで虚飾かどうかなんてわからない。それでも、僕は市村を好きだ。自分の見ている彼女の姿が本物か偽物かなんて考えられないほど、僕は今、市村との恋愛に浮かれている。そして幸せを感じている。今後何十年も好きでい続けるかどうかなんてわからないけれど、今はただ、この人の隣にいられることが嬉しい。
 最初は小学生ながら大人びた外見に惚れた。その後は彼女の意志の強さ、つまり内面に惚れた。今の僕は、彼女の全てを好きになった。欠点も含めた、ありのままの市村が好きになった。そこに理由なんてない。理由のある恋はきっと、ある時に壊れてしまうとても脆いものだ。僕の2度目までの初恋のように。しかし今は違う。僕の初恋は3度目にしてようやく本当の恋となった、そんな気がする。……本当はこんなことを考えることにも意味なんてなくて、僕はただ、市村のそばにいられることを、ただただ幸せを感じている。
-FIN

あとがき

集英社に応募した作品、公募用小説の2作目です。前作のテーマは『不幸と生命力』でしたが、今作は『恋愛感情』です。私にとって小説は物を考える道具の一つであり、執筆を通して登場人物に一応の答えを出してもらえて良かったと思います。エンタメ小説にはなりませんでしたが。公募用として書くのなら、この後の展開をラブコメとして描くべきだったかもしれませんが、やっぱり私はそういう風に中編を書くことはできないようです。
執筆中に心身症になってしまい、何度か見送ることを考えましたが無事10/25の〆切に間に合わせることができました。校正は数えられるくらいしかしていません。校正しているとき、これは駄作だと思いましたが、駄作がないと傑作も生まれてこないと思うので、これからも年に1本くらいこういった真面目な小説を書いていきたいです。2021/10/24